なぜ首都圏の中学受験は過熱しているのか。文筆家の御田寺圭さんは「社会の人手不足とホワイト化による影響を受けている“インフラ”の一つが教育だ。
これまで当たり前に期待していた水準が、これからの時代には当たり前ではなくなる」という――。
■「高学歴の称号」が陳腐化しうる時代
AIの加速的進化によって人間の「頭の良さ」の価値は急激に落ちていき、学力の序列化構造もその価値をいままでのように維持することはできなくなる可能性が高い。事務系労働者の飽和と現場系・製造系労働者の枯渇という需給バランスを見ても、そのシナリオはますます現実味を帯びている。一般事務職を希望する大卒があぶれる一方、ブルーカラーの労働需要は高まり、高卒はおろか中卒にもそのニーズが拡大している。
このような激動の時代において、自分の幼い子どもに教育投資を手厚く施して「お受験」対策の塾などに重課金して高学歴の称号を獲得させることの費用対効果は(とりわけ十数年後に世に出ることになる子どもたちにとって)必ずしも高くならず、むしろその頃には学歴というシグナリングが陳腐化して「意味のない代物」に時間と労力をつぎ込んでしまった、なんて笑えないオチが待っているかもしれない。
――という話を、以前プレジデントオンラインに寄稿した。
■それでも中学受験をさせたい親たちの気持ち
だが私の読者のなかには、そのような時代の流れに「逆張り」というわけではないが、この時代“だからこそ”あえて自分の子どもに中学受験をさせたいという考えを持っている人が少なからずいて、かれらは私にこのような意見を届けてくれていた。概ね以下のような意見である。
・たとえAIが人間の知性を超え、知的労働を代替していくとしても、自分は子どもを中学受験させて、難関大学に合格させたい
・そう考えるのは、自分たちの暮らす地域の公立学校の質が低すぎると思うからだ
・いまは教員も人手不足の時代で、教員の負担をなるべく軽くするため、学校でのトラブルはあまり表沙汰にならなくなってきていると感じる
・AIが学歴の価値を失わせるとしても、子どもたちがどういう環境の学校で過ごして成長したのか、そういう「経験」の差は大きくなるように思うから、自分は教育投資をやめない

こうした意見にはたしかに一理ある。
地域差はあるとはいえ全体傾向を見ると近ごろの公立学校(の教員)の質は、お世辞にも高いとはいえない。国立大の出身者は、たとえ教員免許を取得できるカリキュラムであっても教員を必ずしも目指そうとはしなくなり、その空席を私立大学とくに地元の小規模文系大学が埋めるという構図が多くの地域で生まれつつある。そのような大学のなかには、いわゆる「Fランク大学」と呼ばれる低偏差値の大学が含まれている。

■1990年代~2000年代前半とは状況が大きく変わった
念のために付言しておくと「偏差値上位の公立校なら大丈夫」というわけではない。公立高校のうち伝統あるいわゆるナンバースクールでも同じようなことが起きている。伝統的な公立進学校の進路成績がそれでもなお良好なのは、教員が凄いのではなく生徒の質が高いからだ。ようするに私的な時間を勉学に割いてくれる勤勉で優秀な生徒がいるから名門校の「看板」が保てているというだけだ。
教員の質がもっとも高かったのはおそらく就職氷河期世代が20歳台だった1990年代~2000年代前半で、この頃は名だたる国立大学や公立大学を出た優秀な若者たちが(民間の労働市場が門戸を閉ざしていたので)学校教員になろうと殺到し、教員採用試験はすさまじい高倍率を記録していた。現在は信じがたいことに倍率1.1倍とか1.2倍とかほとんど競争がないに等しい自治体も続出し、それでも辞退者が続出している。
ほとんど競争率がないに等しい採用試験をそれでも辞退するのは、教員の「働く環境の悪さ」が知れ渡っているからで、各地の教育委員会はこれを改善して少しでも若年労働力の確保に努めたいと考えている。業務時間を大幅にオーバーする可能性が高かったり、あるいは本来の業務にはないクレーム処理や困難生徒の自宅訪問などが発生しそうな業務を最初から「除去」してしまうのである。
■「ホワイト企業化」ゆえの問題
ここでいう「除去」とは、「トラブルを学校側・教員側が“認知”しなければ最初から問題など存在しない」という形で、時間的にも精神的にも負荷が強いタスクの芽を摘んでしまうことだ。若い教員の労働環境の快適性をなによりも優先させる「ホワイト企業化」が全盛であるがゆえに、昨今のいじめ問題などで批判されがちな学校組織や教育委員会の「隠蔽体質」に拍車がかかっている側面もある。物事は表裏一体なのだ。
また先日、教職課程の一般教養科目廃止を中央教育審議会が検討しているというニュースが大きな波紋を呼んでいた。
SNS上では教養科目に含まれている「憲法」が廃止されることに多くの批判の声が挙がっていたのだが、こればかりはもう仕方ないようにも思える。要件は今後も緩和していく方向に寄せていかなければ、加速していく人手不足の時代に対応できなくなるからだ。
■いまの公立学校の荒れ方は「昔の荒み方」とは違う
冒頭で述べたように教育投資を分厚くして「お勉強エリートを目指す」という方向性の努力にはあまり意味がなくなってくる可能性が高い。テストの点を取るような頭の良さではAIには勝てなくなるし、学問的研究もAIのほうが人間をリードするようになるだろうし、大卒人材が就きたがるタイプの事務系の仕事はどんどんAIに代替されてきているからだ。アメリカでは22~27歳の大卒者の失業率が5.8%となり、全米の平均を大きく上回る事態となってしまった。
だが、単純な偏差値や成績ではなく“どの中間共同体に身を置いて子どもの心身を成長させるか”というテーマに重きをおくのであれば、いまの時代に“あえて”お受験コースを辿らせることにはメリットはある。
いまの公立学校の荒れ方は、それこそひと昔前の公立学校の“荒み方”とは少し方向が違っている。生徒はどんなワルでも昔に比べればその馬力はずいぶんと減っているが、それ以上に学校側の「統制/保護/介入/矯正etc……」にかけられる人的リソースの動員力が絶対的に弱くなっているのだ。問題行動をする生徒には強く出られないし、いじめは認知されず放置してしまうし、生徒に親身になるよりも自分のワークライフバランスを重視して「ご自愛」する教員がずっと多くなっているためだ。
■学力の価値がなくなっても「難関校」は消えない
繰り返し強調するが、これはもう「ホワイト企業化」と「人手不足」が相互的に共鳴する時代には避けては通れない。人気が高い私立の難関校は幸い(といってよいのかわからないが)たしかにこういった世の中のホワイト企業化の流れからはいくらか距離を取っていて、また生徒やその親の社会階層も一定以上に揃えられているので、公立校のような「クラス崩壊」が起きることはめったにない。
学力そのものの価値はどんどんなくなるとしても、それでいわゆる「難関私立中学・高校」が次々に淘汰されるかというと、私は必ずしもそうではないだろうと考えている。
たしかに少子化のせいでそもそも人が集まらず閉鎖する学校は出てくるだろうが、それでも「世の中や他者なにより自分自身に強い関心を持つ多感な時期だからこそ、できるだけよい環境でその大切な時間を過ごさせてあげたい」という親心は残り続ける。
■根本的な問題はガバナンス不全になるレベルの「人手不足」
公立校も窓ガラスが壊されたり原付で校舎内を走り回ったりひったくりで鑑別所に入れられたりといった、典型的な悪童はほぼいなくなったし、そういう意味では平和ではあるのだが、それでも公立校における学校体験のクオリティが低下しているのは教員側の質の低下によるところが大きい。
名前を聞いたこともないような私立文系大学出身者が「先生」になるのはいまに始まったことではないし、そもそもそういう先生がいようとも生徒は(とくに学校名に歴史的ブランドがある伝統的な公立進学校の生徒は)自分で勝手にメキメキ勉学に励んでいたからそこまで問題ではない。
やはり根本的な問題は「ガバナンスが効かなくなる/生徒へのサービスが著しく低下する」水準まで教員の業務的・精神的負担を軽くしなければまともに人が集まらなくなっている苛烈な人手不足である。
私はあえて普通科の進学校を目指すくらいなら高専をお勧めしたいが、「地元の公立学校が思春期のほとんどの時間を過ごす中間共同体としての資質を失ってしまっているからやむを得ず私立を目指す」という親の意見については一理あると思っている。私立に行ったから絶対に安泰というわけではもちろんないが、公立学校の質の低下は今後ますます苛烈になっていくことは必至であるため、選択肢としてそれを否定するつもりはないし、無駄なことをしていると笑うつもりも一切ない。
■教育という「インフラ」が危機を迎えている
社会の人手不足とホワイト化は、私たちの街にあるさまざまな社会的インフラに大きく影響を及ぼす。
それは水道やガスや電気だけではない。教育もそうなのだ。
これまで「当たり前」に期待していた水準が、これからの時代には当たり前ではなくなる。学校もその例外ではない。若い人材がそれこそ中卒でも破格の好待遇で迎えられようとしている空前の人手不足とインフレの時代に「あえて」教員になるというのは――よほど強い使命感や意欲を持っている人はもちろん別だが――語弊をおそれず言ってしまえば「この空前の売り手市場でも箸にも棒にも掛からず、やむをえず学校教育の世界にやってきている人」が少なからず含まれている。

この国の「インフラ」がどんな場所でも一定以上の水準が保てていたことはまさに世界に誇れる日本のすばらしさではあったが、皮肉にもそれはデフレと人手不足のコインの表裏だった。世界有数レベルの教育の質の高さもそうだ。いまの時代なら大企業が必死の形相で奪い合う優秀な人が市場にダブついて安い賃金で買いたたかれていたからこそ成立していたものだ。私たちはそれを「当たり前に、これからもずっと続いていくもの」と勝手に勘違いしていたにすぎない。

----------

御田寺 圭(みたてら・けい)

文筆家・ラジオパーソナリティー

会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら

----------

(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)
編集部おすすめ