日中戦争中に中国で細菌兵器を開発していた「七三一部隊」。彼らが戦場で実際に使用した細菌兵器は、どのような結果を引き起こしたのか。
愛知学院大学文学部歴史学科の広中一成准教授が書いた『七三一部隊の日中戦争』(PHP新書)から一部を再編集してお届けする――。(第3回/全3回)
■初めての細菌戦は結果を出せなかったが…
ソ連との戦いに備えて細菌兵器の開発を進めていた七三一部隊にとって、中国戦線の作戦を指揮する支那派遣軍とともに中国で細菌戦を行なうことは、本来の目的と異なる。それにもかかわらず、彼らはなぜ支那派遣軍に協力したのか。
1939年8月下旬、七三一部隊はノモンハン事件で戦場となった満蒙国境線沿いのハルハ河支流ホルステン河にチフス菌を流した。彼らにとってこれが初めての細菌戦だった。
しかし、この地はすでに戦闘が収まっており、兵器として期待した結果を出せなかった。より大規模に細菌の感染を拡大させて敵にダメージを与えるにはどうすればよいか。その手段として彼らが検討していたのが、「雨下(うか)」と称した上空からの細菌散布だった。
石井はすでに38年秋より、部下の金子順一(かねこじゅんいち)軍医大尉に空からの「雨下」の研究を命じている。金子がのちにまとめた論文(「金子順一論文集(昭和十九年)」)によると、彼は細菌の混ざった溶液を仮に投下した場合の落下速度や重力、空気抵抗などを計算し、39年3月25日から4月8日の間に30回近くにわたって、高度100メートルという低空で落下実験を行なった(具体的な実験場所は不明)。
実験を終えた金子は、30回の「雨下」実験のうち、比較的成果のあった3回分だけを実験結果として採用する。実験は彼にとってほとんど満足いくものでなかったが、データをよく見せることで成功としたのだ。

だが、失敗はできるだけ最小限にしたい。そこで金子が新たに取り組んだのがPX実験だった。
■細菌爆弾の中身は「ネズミとノミ」
731部隊全史』によると、石井四郎も関東軍軍医部長の梶塚隆二(かじつかりゅうじ)軍医中将にPX攻撃が有望であると語っていた。
PXとは何か。
松村高夫「旧日本軍による細菌兵器攻撃の事実」(『月刊保団連』第一一〇二号)によると、Pはペスト菌、Xはケオプスネズミノミのことをいう。ケオプスネズミノミとは、体長1.5ミリから2.0ミリ。全体的に赤褐色で頭部や目が丸く、額や胸部に棘櫛(きょくし)がない。クマネズミやドブネズミのほか、人間をはじめ数十種の哺乳類に付着して吸血する(「ノミの種類」、東京都ペストコントロール協会)。
つまり、PXとはペスト菌に感染したケオプスネズミノミのことだ。このノミを使った攻撃について、梶塚は戦後戦犯として捕らえられたソ連で、石井との関係を問われた際に、こう証言している。
「石井の言葉に依れば、部隊に於ける研究の結果、細菌爆弾の投下が効果の少いものであることが判明しました。其の理由は、空気の強度の抵抗力や過度の高温のため、赤痢菌、チブス、パラチブス、コレラ、ペストの如き抵抗力の弱い細菌が殆ど100%死滅するからであります。

(中略)石井は更に次のように語りました。細菌を『裸』で投下するより、細菌に感染した其の媒介虫、例えば蚤を投下する方が遥かに効果的である。最も生活力の強い昆虫たる蚤をペストに感染せしめて飛行機から投下すれば、ペスト菌は蚤の体内に生息した儘(まま)蚤と共に無事に地上に落下する」(『公判書類』)

■PX攻撃で3000人の命が奪われた
石井は、溶液に混ぜてそのまま投下すると空中で死滅してしまう細菌を確実に地上に到達させるために、ノミを媒介にすることを思いつく。これがPX攻撃なのだ。
PXがどれほど感染力を持っているか試すため、七三一部隊は40年6月4日から7日にかけて、吉林(きつりん)省農安(のうあん)と大賚(だいらい)で15グラムのPXを散布した。その結果、一次感染で20人が死亡し、二次感染で約3000人が命を落としたのだ。
PXの感染力を確認した七三一部隊は、その増産を始める。七三一部隊の第四部長として細菌製造の責任者だった川島清(かわしまきよし)軍医大佐は、梶塚と同じく戦犯としてソ連で尋問を受けた際、ノミの大量繁殖について証言し、四つの特別室で摂氏30度に室温が保たれたなかで、2─3カ月の周期で45キログラムのノミを生産することができたと述べた(『公判書類』)。
PXの生産に関わった篠塚良雄も、戦後戦犯として供述したなかで、細菌兵器の製造について語っている。
「1940年5月上旬から6月上旬のあいだ、関東軍防疫給水部本部(加茂(かも)部隊)の田中、篠田班がノミの培養をおこなったさい、部隊の命令により私は18名の少年隊員とともに傭人の身分でこの活動に参加した。田中、篠田班の田中技手の直接指導のもと、石油缶を拭いて少量の小麦粉を入れ、そこに籠に入ったネズミを入れた。その後約1カ月間、毎朝ネズミに人参を与え、ネズミが死ぬと生きたものと取りかえた。
私は毎日10個の石油缶を管理し、70ccのノミを繁殖させ、これらのノミは動物班に引きとられ、2000匹のネズミとともに航空班によって運ばれ、南京行きの飛行機に積みこまれた」(『証言 細菌作戦』)
■中国なら遠慮なく細菌兵器を使えた
田中(田中技手とは異なる)は京都帝大で感染症を引き起こしたり、その媒介をしたりする動物について研究する医動物学を教えていた田中英雄(たなかひでお)、篠田は同じく京都帝大で昆虫学の講師を務めていた篠田統(しのだおさむ)であり、どちらもその才能が認められて七三一部隊に採用される。
南京に空輸された大量のノミとネズミは、前述の篠塚の証言にあるように、ペストに侵されホ号作戦で使用する細菌兵器となった。七三一部隊にとって中国戦線でのPX攻撃は今回が初めてだ。
今後細菌兵器として精度を高めるには、PXを繰り返し実験として使用して、結果をデータにまとめて集積する必要があった。七三一部隊が本部を置く満洲は日本人も多く住む日本の植民地であり、大きな被害が予想される実験はできない。一方、中国は敵の領域であるため、どんな実験でも遠慮なくできる。
さらに、細菌戦部隊に命じて現地に出動させれば、彼らは表に立たなくて済む。つまり、七三一部隊にとって中国の戦場は巨大な細菌兵器の実験場であり、中国での細菌戦は対ソ戦のための細菌兵器を作りあげる実験の機会だったのだ。ここに彼らが支那派遣軍の細菌戦に協力する意味があったのである。
■南方まで活動領域を広げる想定だった
40年5月末、支那派遣軍総司令部の井本熊男参謀は、中国戦線における細菌戦を「ホ号」作戦と名づけて検討を開始した。そのホ号作戦が決定する直前の3月30日、石井が陸軍軍医学校陸軍軍陣医薬学会での講演のなかで語った防疫に関する「将来ノ方針」によると、彼の視野は参謀本部の方針と軌を一にして、すでに満洲だけに留まらず、中国から遠く南方にまで拡大していたことがわかる。
「1、防疫すべき作戦地区は内地の数倍に拡大せられ、将来更に北進南下を想像致されますこと。
2、過去戦役に於ける伝染病の種類は少数でありましたが、本事変に於きましては急に数十種に激増致しまして、将来、尚増加の見込みありますこと。3、作戦地域が南北4000Km(ママ)に拡大し、熱地伝染病と寒地伝染病とが同時に発生致して居りますこと。4、自然感染の外敵の細菌毒物の企図が明瞭となりましたこと。5、将来敵の細菌毒物の企図目標は単に野戦の皇軍に限らず、国民は固より家畜、鳥魚、穀類等一切の給養資源に迄及ぶ虞れありますこと。之等(これら)の理由に依りまして、従来の狭義防疫より蟬脱(せんだつ)(古い考えから脱け出すこと──引用者注)して内戦両地を包含する一切の伝染病原体に依る個人感染及集団爆発性流行を予防すべき確固たる広義防疫方針を確立し、防疫の撤底を期せねばなりません」(「支那事変ニ新設セラレタル陸軍防疫機関運用ノ効果ト将来戦ニ対スル方針並ニ予防接種ノ効果ニ就テ」、「陸軍軍医学校防疫研究報告 第二部 第九九号」、『十五年戦争極秘資料集』補巻二三所収)
ここで石井は防疫のことのみ述べているが、当然ながらそれと相矛盾する細菌戦のことも想定していただろう。石井が満洲から南方へ活動の領域を広げられるかどうか、この浙贛両省をまたにかけたホ号作戦の結果が試金石となったのである。
■“大量の麦”が降り注ぎ、相次いで人が亡くなった
浙江省寧波(当時は鄞(ぎん)県。寧波は通称として併用される)市内開明街(かいめいがい)の元泰酒店(げんたいしゅてん)(酒店はホテルのこと)で見習いとして働いていた銭貴法(せんきほう)によると、40年10月27日朝、日本軍機一機が上空に現れ、地上に向かって急降下して日中親善をうたったビラをまいた。
しばらくすると次のことが起きる(以下、断りない限り、寧波での細菌戦の被害証言は、『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』より引用、または参考としている)。
「当日午後2時頃、日本機が再度寧波に侵入して、今度は大量の麦粒、粟、小麦粉等を撒いたが、見ると一面淡黄色の雲霧のよう、サラサラという音が聞こえたので皆は不思議に思った。
2日後に病人が出た。開明街滋泉(じせん)豆腐店でまず2名が亡くなった。
それ以後、東大路(とうだいろ)、東後街(とうごがい)、太平巷(たいへいこう)で相次いで人が死んだ。
私は11月1日に発病した。発病後は意識不明になり、感染区内同順提庄(どうじゅんていしょう)の甲部隔離施設に送り込まれて治療を受けた。ここはちょうど陰惨極まりないこの世の地獄で、周りは皆ペストにやられ瀕死の人間ばかりであった」
■感染した住民が避難し、避難先で感染が拡大
日本軍機によって地上にばらまかれたPXは、近くの人間に次々と附着して吸血し、ペスト菌を移す。また、一緒に落下した穀物に群がった野ネズミにもPXがたかり、ペストに侵していく。そのペストネズミは町中を走って人間に接触し、感染を拡大させていった。
元泰酒店を経営する何(か)福欽(ふくきん)の弟で店の会計を担当していた何(か)福林(ふくりん)は、上空から落ちてきた麦粒を口に含み、それが大麦であることを確認する。その夜、彼は強い頭痛に襲われ、翌日には高熱を出して重症化し、4日目に亡くなった。
麦粒を手にしたことでペストノミに襲われたのだろう。市内で起きた細菌騒動を受け、華美病院(現寧波市第二医院)で検査技師をしていた許国芳(きょこくほう)は、院長の丁立成(ていりつせい)の指示ですぐに感染者の血液とリンパ液を分析。その結果、住民を襲った細菌がペストであると断定する。
ペストの汚染区に指定された開明街ははじめ縄で囲まれ、その後出入りができないように隔離壁が築かれた。
その中では防毒マスクをつけた作業員が石灰をまいて緊急の消毒に当たる。
隔離壁の建設に携わった戚信栄(せきしんえい)は、汚染区でノミを見たかという問いに、「見た。壁工事のとき、白色の防蚤服を着ると、体の小さい、赤い色のノミが見えた」と答えた。「赤い色のノミ」とは赤褐色のケオプスネズミノミのことだ。
開明街とその付近の住民は隔離されるのを怖れて四方八方に散らばっていく。だが、彼らもすでにペストに侵されており、数日後には避難先で命を落とす。住民がペスト発生の騒動でパニックに陥っていたことがわかる。
また、感染者が四散したことにより、ペストが発生地の開明街から外部へと拡大していった。

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広中 一成(ひろなか・いっせい)

愛知学院大学文学部歴史学科 准教授

1978年生まれ、愛知県出身。2012年、愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。博士(中国研究)。専門は中国近現代史、日中戦争史、中国傀儡政権史。著書に『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線』、『後期日中戦争 華北戦線 太平洋戦争下の中国戦線II』、『傀儡政権 日中戦争、対日協力政権史』(いずれも角川新書)、『冀東政権と日中関係』(汲古書院)、『増補新版 通州事件』(志学社選書)などがある。

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(愛知学院大学文学部歴史学科 准教授 広中 一成)
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