※本稿は金井真紀『テヘランのすてきな女』(晶文社)の一部を再編集したものです。
■テヘランの繁華街で「風紀警察」に遭遇
イランの領土内では、女性であればずっとスカーフをしていなければいけない。日本の外務省の渡航情報にも「イランでは、満9歳以上の女性は外国人・異教徒であっても例外なく、公共の場所ではヘジャブとよばれる頭髪を隠すためのスカーフと身体の線を隠すためのコートの着用が法律上義務付けられています」と明記されている。(連載第1回より)
テヘランの地下鉄タジュリーシュ駅の周辺はいつもにぎわっている。伝統的なバザール、青果市場、ショッピングモール、モスクなどがかたまっているエリアだ。この日わたしはメフディーさん(男性)とザフラーさん(女性)、ふたりの通訳者と一緒にそこを歩いていた。平日の午後、路地は人と車とバイクとリヤカーが入り乱れてカオス。ぼんやりしていたら迷子になりそう。
「あ、あそこに警察がいます」
最初に見つけたのはザフラーさんだった。彼女の視線を追うと、地下鉄の入り口に白いワンボックスカーがとまっていた。その脇の歩道にモスグリーンの制服制帽の男がふたり、黒いチャドルの女がひとり。
おぉ、あれが噂の風紀警察か。
わたしは目を凝らした。女性が髪を出していないか、未婚の男女が一緒に歩いていないか、など市民を監視する風紀警察は2006年に設立された。彼らの仕事は「風紀を乱している」人を見つけたらワンボックスカーに連れ込んで注意を与えたり、署に連行したりすること。違反者の多くはすぐに釈放されるらしいけど、逮捕、勾留、鞭打ち……と恐ろしい展開が待っている場合もある。
2022年秋、地方からテヘランに遊びに来ていたマフサー・アミーニーさんを警察署に連行したのも、この風紀警察だった。アミーニーさんの死をきっかけに大規模な抗議運動が起きて「風紀警察の廃止」が報じられたけど、どっこい、今でも存在しているんだなぁ。
■女性が髪を出していないかチェックしている
風紀警察3人組が立っている場所はわたしたちから50メートル以上離れているし、あたりには大勢の人が行き交っている。ここから写真を撮っても気づかれまい。わたしはポケットのなかのスマホをにぎりしめて、小さな声でザフラーさんに訊(き)いた。
「あの人たちを写真に撮ってもいいですかね?」
ザフラーさんも声をひそめて言った。
「危ないですよ」
彼らとは目を合わせずに通り過ぎるのが吉だという。
「あれ! ちょっとメフディーさん……」
なんとメフディーさん、すいすいと風紀警察たちに近づいていくではないか。そして女性警官の前に立つと、満面の笑みで「サラーム(こんにちは)」と話しかけた!
■風紀警察に突撃インタビュー
「お勤めごくろうさまです。日本から来たお客さんがあなたたちに興味をもっているんで、ちょっと質問してもいいですか?」
しれっと言う。やるなぁ。状況を察したわたしも必要以上にニコニコしながら素早く近寄り、女性警官にお辞儀をした。至近距離で見たら彼女はとても若かった――20代だろう。きちんとメイクをしていたが、もちろん華美ではない。全身を覆う黒いチャドルは厚めの生地で袖付き。
「なにが知りたいのですか?」
女性警官は無表情のまま問い返してきた。ふたりの男性警官もこちらに寄ってきた。けっしてフレンドリーではないが、いきなり高圧的なわけでもなかった。わたしは無邪気な観光客の口調で尋ねた。
「女性がちゃんとスカーフで髪を隠しているかどうかを、見ていらっしゃるんですか?」
メフディーさんはおだやかな表情を崩さず自然体で通訳する。女性警官はちょっと口ごもってから答えた。
「それだけではありません。人混みにスリがいないかどうか、ここから見ています」
「あぁ、人が多いからたいへんですね。何時間くらいここに立っているんですか?」
「朝7時から夜7時までです」
「交代で?」
「いいえ」
「立ちっぱなし?」
「はい」
■朝7時から夜7時まで街に立つ重労働
なんと彼女は朝7時から夜7時まで、この場所に立って見張っているのだという。昼食やトイレ休憩は交互にとっているらしい。
もっとあれこれ質問したかったけど、男性警官が「われわれは勤務中なので……」と口を挟んできたので切り上げることにした。
「話を聞かせてくれてありがとうございました」
と言うと、女性警官の目元がわずかにゆるんだ。
警官らの目が届かないところまで歩いてから、わたしたちは顔を見合わせた。
「12時間も立っているなんて知らなかった!」
「驚いたねぇ」
「寒い日も暑い日もたいへんですね」
メフディーさんもザフラーさんも彼ら彼女らの勤務時間を初めて知ったらしい。
自由を求める市民からは唾棄きされる仕事を、どんなモチベーションでやっているのだろう。お給料でなにを買うのだろう。休みの日の私服も地味なのだろうか。これまでニュース映像で知るだけだった風紀警察の日常が急に気になった。
■抵抗する市民は注意を「聞こえないふり」
それから何度か、女性の風紀警察を見かけた。目印は白いワンボックスカーだ。それがとまっている道の脇には必ず彼女たちが立っている。
テヘラン市民の雑談によれば、反スカーフデモのあと風紀警察の基本姿勢は「ただ注意するだけ」に変化した。一方、抵抗する市民の側は「聞こえないふり」に徹するのだという。警官の注意が聞こえてしまえば、まじめにスカーフをするか、なおも反抗するかを選ばなければいけない。聞こえないふりならば波風は立たない。そのほうがお互いのためなのさ、なんて笑う人もいた。
ある晩、ホテル周辺の繁華街をひとりでぶらぶらしていたわたしは風紀警察の仕事ぶりを観察する機会を得た。このときはチャドルに身を包んだ女性警官5人が2メートル間隔で並ぶ布陣。みなさん40歳前後だろうか、闇夜に修道院の厳しい先生たちが並んでいるような雰囲気だった。
■注意された若い女性たちはどうしたか?
わたしは物陰で「風紀が乱れている」人がやってくるのを待った。折よく通りかかったのが若い女性のふたり組。ひとりはスカーフではなくキャップをかぶっている。もうひとりはスカーフの下から長い三つ編みをこれみよがしに垂らしている。
「ちゃんとスカーフをしなさい」
と注意しているらしかった。雑踏のなかで警官の声はあまり通らない。もしかしたら、わざと声量を抑えているのかも。注意された女性たちは足を止めることなく、かといってスピードをあげることもなく、楽しげに会話を続けながら歩き去った。見事なスルー力(りょく)だった。
若いふたりは髪を丸出しにしているわけじゃなかった。ひとりはキャップをかぶり、ひとりは毛の根元は隠していたのだから、ギリギリのレジスタンスだ。それでも勇気がいるだろう。わたしは彼女たちの後ろ姿に向かって、「すごいね」とつぶやいた。
そして女性警官たち。あと何時間あそこに立っていなければいけないのだろう。夜は冷えるだろうに。あったかい下着とかモモヒキとか、ちゃんと着ているんだろうか。
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金井 真紀(かない・まき)
文筆家・イラストレーター
1974年、千葉県生まれ。テレビ番組の構成作家、酒場のママ見習いなどを経て、2015年より現職。著書に『はたらく動物と』(ころから)、『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『マル農のひと』(左右社)、『世界のおすもうさん』(和田靜香との共著、岩波書店)、『戦争とバスタオル』(安田浩一との共著、亜紀書房)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし』(カンゼン)など。
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(文筆家・イラストレーター 金井 真紀)