1784年3月、田沼意次の息子、意知は江戸城内で佐野政言に刺殺された。歴史評論家の香原斗志さんは「佐野が、ひとり公憤を募らせ、死罪になる覚悟で斬りつけたとは考えづらい。
この事件のウラには遠大な謀略があった可能性がある」という――。
■なぜ田沼意知は罵倒され加害者は讃えられたのか
衝撃的なラストシーンだった。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第27回「願わくば花の下にて春死なん」(7月13日放送)。政務が終わり、江戸城本丸御殿表の御用部屋から退出した田沼意知(宮沢氷魚)だったが、桔梗の間に通りかかると、新番士の佐野善左衛門政言(矢本悠馬)が立ち上がり、意知に「山城守様」と声をかけて突然斬りかかり、続きは次回となった。
第28回「佐野世直大明神」(7月27日放送)では、深手を負った意知は治療の甲斐なく死に、佐野は牢屋敷で切腹する。ところが、世間の人たちは、意知の葬列に「天罰だ」といって石を投げ、サブタイトルにあるように佐野を「世直大明神」として讃えた。
なぜ被害者が罵倒され、加害者が讃えられるようなことになったのか。そもそも、なぜ佐野は殿中で意知に斬りかかったのか。
それをひもときたいが、第27回では怪しい武士が描かれていたので、その男の言動を振り返っておきたい。その男はドラマを超えて、歴史の真相を示唆しているかもしれない、と思うからである。
■佐野を焚きつける怪しい武士
佐野は以前、田沼意次(渡辺謙)のもとに佐野家の系図を持参し(佐野家は元来、田沼家の主家筋だった)、それを好きに書き換えていいので、自分を引き立ててほしいと頼んでいた。その案件が放置されていたため、意知は佐野に将軍家治(眞島秀和)の鷹狩の供をする機会をあたえた。

だが、鷹狩の現場では、佐野は雁を射たと主張したが林の中を探しても見つからず、将軍の目に留まるどころか恥をかいた。すると、佐野の屋敷を「事情により名は控え」るという武士が訪れ、佐野の矢で射られた雁を持参し、こう伝えたのだ。「そこで見てしまったのでございます。田沼(意知)様がこれを見つけられ、隠されるところを」。
その後、佐野家の家宝の桜が咲かないと、佐野が父から叱責されているところに、同じ男が訪れた。そして、かつて佐野が渡した系図を田沼が「無きものにした」うえ、佐野が田沼に贈呈した桜を、田沼は勝手に神社に寄進し、それが「田沼の桜」として愛でられている、と伝えた。
加えて佐野は周囲から、意知が米の値を上げて私腹を肥やし、吉原で散財している、という噂を耳にするようになった。
このように佐野を焚きつけたのは、いったいだれか。次回予告では、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)の「この一連、裏で糸を引いている者がおると考えられませぬか」というセリフが流れたが、どうなのだろうか。
■「佐野の動機」を信じていいのか
佐野の動機については、当時からさまざまに語られてきた。天明4年(1784)3月24日、事件を起こした際に佐野は、懐に七箇条の口上書を入れていたとも、十七箇条の口上書を残していたともいわれるが、史料的には裏づけられていない。
七箇条のうちには、たとえば次のようなものがあったとされる。
佐野家の系図を田沼親子にだまし取られた。佐野領の佐野大明神を意知が田沼大明神に変えた。金を渡して昇進を頼んだが昇進できなかった。将軍の鷹狩の場で佐野は鴨を射落としたが、意知に別の者の矢だと主張され恩賞を得られなかった――。
それぞれ「べらぼう」の筋のなかに落とし込まれているが、いずれも私憤と呼ぶべきものだろう。一方、十七箇条には、田沼父子の悪行について列挙されていたとされるが、ひとり公憤を募らせ、死罪になる覚悟で斬りつけたりするものだろうか。
この斬殺事件のことは、3度にわたって長崎出島のオランダ商館長を務め、通算3年8カ月ほど日本に滞在したイサーク・ティチングが書き遺し、死後に編集された『日本風俗図誌』に収められている。秦新二氏・竹之下誠一著『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』(清水書院)に引用されたその記述の訳文を、要約を交えて紹介する。
■オランダ商人の文書に残る「真相」
「この殺人事件に伴ういろいろの事情から推測するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名が事件にあずかっており、また、この事件を使嗾[そそのかすこと]しているように思われる」。続けて、田沼父子が恨まれていたことに言及し、高齢の意次は「間もなく死ぬ」が、息子は「まだ若い盛り」で「改革を十分実行するだけの時間がある」。そんな息子を奪えば「それ以上に父親にとって痛烈な打撃はあり得ないはず」なので、「息子を殺すことが決定したのである」。
続いて、事件の現場についてだが、若年寄たちは閣議後、立ち止まって話を交えることが多いが、「その日はばらばらに分かれていた」と記され、こう続く。

「三人の若年寄の一人は出羽の大名で二万五〇〇〇石、一人は武蔵の大名で一万二〇〇〇石、いま一人は遠江の大名で五万三七〇石、この三人も田沼山城守と同時に江戸城を下ったが、しかし三人は急いで歩き去ったので、山城守はかなり離れた後ろに取り残された。佐野善左衛門はそのとき芙蓉の間という広間で勤務中であったが、この機会を捉えて駆け寄ると、刀を抜いて激しい一撃を腕に浴びせた。山城守は防御の姿勢をとって刀を抜く暇がなかった」
「(中略)善左衛門といっしょに勤務していた番士たちや、中の間及び桔梗の間の番士たちが物音を聞きつけてやって来たが、しかし、それはどうも相当ゆっくりしたことであったらしく、善左衛門に逃げる余裕を与えてやろうという意図があったと信ずべき十分な理由があった」
■得をしたのは一橋治済
田沼意知が死んで意次の権勢に陰りが生じ、2年あまりのち、将軍家治の死去と同時に意次が失脚したことで、だれが得したか。もっとも恩恵が得られたのは、やはり新将軍家斉の父として、それから権勢をほしいままにした一橋治済だろう。『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』の著者は、ティチングの記述を受けて、「意知の暗殺も一橋治済の手の者によって実行されたのではないかと思われてくる」と書いている。
ティチングは日本の機密事項についての情報を、薩摩藩主の島津重豪から得ていたという。重豪は家斉の正室、近衛寔子(婚姻前に近衛家の養女になった)の父。すなわち一橋治済の息子である家斉の岳父で、治済とは濃密な親戚関係にあった。
ティチングの記述については、日本側の史料で裏づけることができないので、鵜呑みにはできない。しかし、ティチングは「真相」を知りうるポジションにおり、それを自分のために記録するにあたって、日本の為政者に忖度する必要がない立場にいたことは、無視できないように思われる。
また、こうした流れで考えると、この暗殺事件について世間が意知に冷たく、佐野を讃えたことも、ポスト田沼の権力者にとっては都合がいいことであった。
■佐野の墓所に押し寄せた江戸の庶民
「べらぼう」でも描かれたように、当時、江戸の米価が高騰し、意知が惨殺される1カ月ほど前にも、武蔵多摩郡村山(東京都東村山市)に農民が集結し、米を買い占めている商人の家宅への打ちこわしを行っていた。
江戸市中には不穏な空気が流れ、それが権勢をふるう田沼父子への不満に結びついていった。
意知の死はそんなタイミングだったから、「べらぼう」で描かれるように葬列に投石したり、野次を浴びせたりする者も現れた。別の人物の葬列までが意知のものと間違われ、石を投げつけられるほどだったという。
一方、佐野が徳本寺(台東区西浅草)に葬られるやいなや、墓所に参詣者が文字どおり押し寄せた。「徳本寺本堂の賽銭箱には十四~十五貫文(一貫文=銭貨一〇〇〇枚)もの銭が日々入れられたというから、いかに参詣者が多かったかがわかる。その人手に目を付け、門前には善左衛門の墓に供える花や線香を売る露店が出た。墓にかける水を売る者まで現れた」〔安藤優一郎著『田沼意次 汚名を着せられた改革者』(日経ビジネス人文庫)〕。
しかも、佐野が切腹した翌日から米価は下落しはじめたから、佐野はますます讃えられ、しまいには神格化されて「佐野大明神」「世直し大明神」と崇められるまでになった。
■いつの時代にもある情報操作
だが、このとき米価が下った理由は、大坂商人の買持米6万5000石を徴収して江戸に廻送したからだと考えられている。これは「べらぼう」の第27回で意知が進言した策である。
この策が意知の考案かどうかは史料で裏づけられないが、田沼政権の政策であったのは間違いない。それなのに、むしろ世間は田沼への反感をいっそう募らせていった。

その背後に情報操作はあったのだろうか。「べらぼう」では明らかに、一橋治済を黒幕として、情報操作が行われたように描かれている。昨今、SNSのデマに踊らされ、誤ったムーブメントが起きることが社会問題になっているが、昔から誤解に基づくムーブメントの背後では、だれかが扇動していることが多かった。
このケースに関しては、背後にいるだれかの存在を史料で裏づけるのは難しいが、田沼が罵倒され佐野が讃えられることで、治済らが得したことは疑いない。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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