世界で最も長く拘置された死刑囚として、事件発生から58年たって無罪が確定した袴田巌さん。日本では過去に4例しかなかった死刑確定後の再審無罪を、いかにして勝ち取ったのか。
■支援者たちは、どうやって社会を動かしたのか
2024年9月19日午後6時、私は日比谷野音のごった返す雑踏の中にいた。
「今こそ変えよう! 再審法~カウントダウン袴田判決」と題された集会には約2400人が集まり、袴田巌さんの姉・ひで子さんをはじめ、国会議員、弁護士、ジャーナリスト、著名人たちが次々とマイクを握り、声をあげていた。
袴田事件は、1966年に静岡県で一家4人が殺害された強盗殺人放火事件。味噌工場の従業員で元プロボクサーの袴田巌さんが同年8月18日に逮捕され、味噌タンクから見つかった血痕の付着した「5点の衣類」などを根拠に死刑判決を受けたが、その証拠の信頼性に疑問が呈され、再審の審議が続いていた。
再審判決を翌週に控え、無罪判決を勝ち取るための最後の後押しをという雰囲気で、会場は烈しい熱を帯びていた。マスコミも連日、袴田事件を大きく取り上げ、事件の検証や再審無罪を支持する根拠を報じていた。そして結果的に、袴田さんが逮捕から58年を経て死刑囚の立場から解放されたことは、今や誰もが知るところだろう。
もちろん私も、袴田さんの無罪判決を願い、その行方を見守る思いで日比谷野音にいたのだが、それだけが理由ではなかった。
その前月、私が制作したドキュメンタリー映画『マミー』が公開されていた。1998年に起きた和歌山カレー事件の冤罪の可能性を、弁護士やジャーナリスト、科学鑑定の専門家に取材し、検証を試みた作品だ。
私は一連の取材を通じて、カレー事件は冤罪の可能性が高いと考えるようになった。
その一歩として私は現在、林眞須美さんの長男と一緒に、和歌山カレー事件に関する情報共有の場をWeb上に作るためのクラウドファンディングを立ち上げている。冤罪の可能性を検証し、情報発信を続けるためだ。
私が袴田事件に強く惹かれたのは、どうやったら和歌山カレー事件でも、袴田事件のように再審無罪を求める大きなうねりが作れるのか。ここで起きていることは、和歌山カレー事件にとってもヒントになるに違いないと考えたからだ。
私は、袴田事件の支援者たちがどんな方法で社会を動かしていったのかを、知りたいと思った。
■何十回と繰り返した事件現場案内
袴田事件の記事を読むとたびたび目にする支援者の名前があった。
山崎俊樹さん(71歳)。
20年以上前に「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」を立ち上げ、事務局長として支援活動の舵を取ってきた。山崎さんが弁護団とともに行った「衣類の味噌漬け実験」は、2008年の第2次再審請求、そして再審公判における無罪立証で決定的な役割を果たしたと言われている。
連絡を取ると、清水駅で待ち合わせをすることになった。事件に関係する場所を車で案内してくれるという。
「現場を見たほうがいいでしょう。事件現場はそのまま残っていますから」
事件現場に到着すると、当時の現場検証の写真が収められたA4ファイルを手際よくめくりながら説明を始めてくれた。被害者となった味噌製造工場の専務の自宅は殺害後に放火され全焼しているが、土蔵が一棟残っている。
「竹藪に覆われているところが土蔵です。昔はきれいに見えたんですよ。今は木がこんなに生い茂っているからなかなか実感できないんですけれども。検察が主張するように袴田さんが事件を起こして逃げたとすると、どうやって塀を越えたのかなと疑問に思いますよ」
事件現場からJR東海道線を挟んだ先に、袴田さんが従業員として働いていた味噌製造工場があった。
「いま新しい家が建っているけど、このあたり一帯が工場だった場所です。もう一気に家が増えちゃって。だからかなり大きな工場ですよ。重要な証拠となった衣類が発見された(味噌の)1号タンクがあったのが、そのあたりです」
山崎さんにとって、事件現場の案内は特別なことではない。これまで幾度となく繰り返してきた支援活動の一部だ。
「事件に関心を持ってくれた人には、まず現場を見てもらわないと。現場を見れば、事件のどこがおかしいか、だいたいわかりますから」
■パンフレット作りから始まった支援
山崎さんが冤罪事件に関心を持ったのは大学時代。たまたま同じアパートの知人から借りた狭山事件を描いた漫画『差別が奪った青春』を読んだことがきっかけだった。
狭山事件は、1963年に埼玉県狭山市で発生した女子高校生強盗殺人事件。被差別部落出身の石川一雄さんが犯人として逮捕、有罪判決を受けたが、証拠の不自然さや自白の強要が指摘され、現在も冤罪を訴える活動が続いている。
山崎さんは最初、「警察がこんなことするわけない」と思っていたが、実際に埼玉県狭山市を訪れ、事件関係者に話を聞くなどするなかで考えが変わっていった。
その後、1954年に起きた島田事件の支援にも関わるようになり、袴田事件を知った。船舶の入港手続きなどをする代理店に会社員として勤めながら、支援集会などに参加し、1989年に島田事件が再審無罪になると、本格的に袴田さんの支援活動に携わるようになる。
山崎さんが袴田支援に関わり始めた頃、すでに第1次再審請求が進んでいた。しかし、最初から弁護団と支援者が、こんなに近い関係だったわけではないと、山崎さんは振り返る。当時、弁護団と直接話ができる支援者は限られていたという。
転機は1994年8月、第1次再審請求が静岡地裁で棄却されたあとだった。東京高裁への即時抗告を控えた時期、弁護団の一人から「手伝ってほしい」と声をかけられ、裁判資料を見せてもらうようになった。
「秋山賢三弁護士が弁護団会議で、『冤罪事件は弁護団と支援者が協力しなければダメだ』と言ってくれたんです。そこから関わりが大きくなりました」
もっとも、当初はあくまで支援者としての立場だった。
「まず、袴田事件を説明するパンフレットを作ろうという話になったんです。1997、98年だったかな。ちょうど一般にもパソコンが普及し始めた頃で、私も初めて自宅にパソコンを購入したんです」
パンフレット作りの一方で、弁護団からもう一つ提案があった。裁判記録のデジタル化だ。
「一審公判から控訴審、最高裁までの記録を、みんなで手分けして文字に起こし、テキストファイルにしました。写真も含め、全部データ化したんです。知り合いの学生たちにも手伝ってもらってね。紙のコピーは大変ですからね。
■再審開始への突破口「味噌漬け実験」
袴田事件の再審開始の決め手となったのは、山崎さんら支援者が中心となって行った「味噌漬け実験」。その発端は、山崎さんの素朴な疑問だった。
2004年8月、第1次再審請求の即時抗告が棄却された際、その理由として、味噌漬けの衣類がそう簡単に作れるものではない、という内容の記述があった。
「え? そんなことはないだろう、と思ったのが最初」
死刑判決を支える証拠は、事件発生から1年2カ月後に袴田さんが勤めていた味噌製造工場の味噌タンクの底から見つかった「5点の衣類」だ。味噌漬けにされ、血痕が付着したシャツやステテコが「犯行着衣」とされた。しかし、山崎さんはカラー写真で見た犯行着衣の色に違和感を覚えた。
「長期間にわたって味噌に漬かっていたはずなのに、シャツの色が白すぎる、というのが第一印象。血痕の赤みも残っているし、おかしいなと思った。過去に関わった冤罪事件の経験から、これは『捏造(ねつぞう)』されたんじゃないかと。それで自分で実験してみようと思いました」
市販の味噌を購入してプラスチック製コンテナに入れ、ニワトリの血をつけたシャツなどの衣類を味噌に漬け込んだ。
「疑問に思ったことは、自分で確かめなきゃいけない。『捏造だ』と主張するなら、捏造がこんなに簡単にできると証明しないといけないと思いました」
1年間、味噌漬けにした実験の結果は明白だった。
「シャツに付いた血痕は真っ黒になり、白い部分なんてなくなったんです。『味噌に長期間漬かっていなかった』ということが裏付けられたと思いました」
しかし当初、弁護団はこの実験に積極的ではなかったという。
「最初は『そんなことやってるんだ』ぐらいの反応で、真剣に聞いてもらえませんでした」
状況が変わったのは2008年。第1次再審請求の特別抗告が棄却されたことで、弁護団が山崎さんたちの実験をもとに作成した「味噌漬け実験報告書」を新証拠として、第2次再審請求を申し立てることになったからだ。
「第2次再審で一番大きかったのは、われわれ支援者が証拠を作ったことです。だから、弁護団も支援者の意見を尊重してくれるようになったんです」
2008年以降も山崎さんたちは弁護団とともに、さまざまな条件で実験を続けた。
そして2014年、静岡地裁は「捜査機関による証拠捏造の疑い」に言及し、再審開始を決定。山崎さんの素朴な疑問に端を発した支援者たちの粘り強い取り組みが、半世紀に及ぶ冤罪を晴らす決定的な証拠を導き出した。
■メディアの姿勢が一気に変わった元裁判官の告白
2007年1月、袴田事件を大きく動かす一通の手紙が届いた。差出人は、1968年の一審で死刑判決を言い渡した3人の裁判官のうちの一人、熊本典道さんだった。
「熊本さんからのコンタクトは、われわれ支援者に来たんです。東京の支援者に手紙が届いて、1月末に、私とひで子さん、弁護士など4人で博多まで会いに行きました」
熊本さんは、当時29歳という若さで下した死刑判決の苦悩を、あけすけに語ったという。
「まず驚いたのは、決定的な証拠とされた味噌漬けの衣類について『あんなの後で出てきた証拠じゃないか。証拠価値はない』とはっきり言っていました。『自分は最初から無罪を主張し、石見勝四裁判長は、私の無罪意見に同調してくれるものだと思っていたのだが、高井吉夫(もう一人の裁判官)と一緒に有罪の判断をした』。さらに熊本さんは石見裁判長に、『無罪にするしかないと思っているのに有罪の判決なんて書けるか』と言ったが、『それが決まり(左陪席の最も経験の浅い判事補が起案すること)なんだから書いてくれって言うんだよ』 とも言っていました」
衝撃的な熊本さんの告白を、どう世に出すか。差配を任されたのは山崎さんだった。
「新聞は朝日新聞、テレビは静岡朝日テレビに決めていたんです。朝日新聞には事件を継続的に取材していた小石勝朗さんという記者がいました。静岡朝日テレビは、当時一番熱心に取材に来てくれていたんです。私が初めて袴田さんに面会したときに似顔絵を描いたんですが、その絵に色を着けて放送してくれた。あのとき、死刑判決を受けて以来初めて、袴田さんの顔が外部に出たんです」
大きなインパクトを与えるため希望も伝えた。
「朝日新聞は必ず朝刊、テレビ朝日は全国放送でお願いしたい、と。当時、古舘伊知郎さんがメインキャスターだった報道ステーションに出してほしいと伝えました」
だが放送当日、静岡朝日テレビが朝から大々的に番組宣伝を打ったため、他のマスコミ各社が一斉に問い合わせてくる事態となった。
「結局、朝日新聞は前日の夕刊に載せてしまった。私は静岡朝日テレビに怒りましたよ。でも、熊本さんの登場で一気に流れが変わったのは事実です」
熊本元裁判官の告白を機に、マスメディアは一斉に「袴田冤罪」を報じ始めたという。
■「世論を動かすには、情報をオープンに」
「世論を巻き込むうえで大事なのは、情報をオープンにすることです」
山崎さんはそう言い切る。裁判所とのやり取りに関わる情報は厳密に扱う一方で、確定記録については基本的に公開してきたという。ただし、その線引きは慎重だ。
「確定記録は誰でも見られるものですからね。再審請求の中で新たに出された証拠については、弁護団が公にしない限り、私たちは出さない。特に微妙な段階での情報発信は、必ず弁護団に相談しました。弁護団がオープンにすれば、私たちも自分たちの見解を示す。それが支援者としての役割だと思っています」
一方、踏み越えてはいけない一線があると山崎さんは言う。
「被害者遺族には一切接触していません。それは、傷口に塩を塗りつけるようなものだと思うんです。強い刷り込みがあるでしょうし、被害者感情を逆なでするようなことは絶対にしてはいけない」
袴田さんを支援する活動は、あくまでも冤罪の疑いを晴らすためのもの。それが山崎さんの一貫した考え方だった。
山崎さんが袴田事件に関わり続けた30年以上の歩みは、最初は「素朴な疑問」から始まり、やがて弁護団を動かし、世論を揺るがし、最後は判決を覆す原動力となった。その軌跡は、和歌山カレー事件に関わり始めた私自身に深い示唆を与えてくれる。
袴田事件がそうであったように、再審を実現するには、多くの支援者が声を上げ、世論を動かすことが不可欠だ。そのためには「情報をオープンにし、できることを積み重ねる」しか道はない。
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二村 真弘(にむら・まさひろ)
ドキュメンタリー制作者
1978年生まれ。ドキュメンタリー制作者。日本映画学校(現・日本映画大学)を卒業し、2001年よりテレビ番組の制作に携わる。2024年、和歌山カレー事件の冤罪の可能性を追求したドキュメンタリー映画『マミー』で社会とメディアに問題提起。
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(ドキュメンタリー制作者 二村 真弘)
戦後最大の冤罪(えんざい)事件とされる袴田事件を支援し続けてきた「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹・事務局長が、無罪判決までの30年におよぶ道のりを明かす。
■支援者たちは、どうやって社会を動かしたのか
2024年9月19日午後6時、私は日比谷野音のごった返す雑踏の中にいた。
「今こそ変えよう! 再審法~カウントダウン袴田判決」と題された集会には約2400人が集まり、袴田巌さんの姉・ひで子さんをはじめ、国会議員、弁護士、ジャーナリスト、著名人たちが次々とマイクを握り、声をあげていた。
袴田事件は、1966年に静岡県で一家4人が殺害された強盗殺人放火事件。味噌工場の従業員で元プロボクサーの袴田巌さんが同年8月18日に逮捕され、味噌タンクから見つかった血痕の付着した「5点の衣類」などを根拠に死刑判決を受けたが、その証拠の信頼性に疑問が呈され、再審の審議が続いていた。
再審判決を翌週に控え、無罪判決を勝ち取るための最後の後押しをという雰囲気で、会場は烈しい熱を帯びていた。マスコミも連日、袴田事件を大きく取り上げ、事件の検証や再審無罪を支持する根拠を報じていた。そして結果的に、袴田さんが逮捕から58年を経て死刑囚の立場から解放されたことは、今や誰もが知るところだろう。
もちろん私も、袴田さんの無罪判決を願い、その行方を見守る思いで日比谷野音にいたのだが、それだけが理由ではなかった。
その前月、私が制作したドキュメンタリー映画『マミー』が公開されていた。1998年に起きた和歌山カレー事件の冤罪の可能性を、弁護士やジャーナリスト、科学鑑定の専門家に取材し、検証を試みた作品だ。
私は一連の取材を通じて、カレー事件は冤罪の可能性が高いと考えるようになった。
無実だと断言できる材料はないものの、林眞須美さんを死刑とした判決には多くの疑問点があり、少なくとも再審によって事実を明らかにする必要があると強く感じている。
その一歩として私は現在、林眞須美さんの長男と一緒に、和歌山カレー事件に関する情報共有の場をWeb上に作るためのクラウドファンディングを立ち上げている。冤罪の可能性を検証し、情報発信を続けるためだ。
私が袴田事件に強く惹かれたのは、どうやったら和歌山カレー事件でも、袴田事件のように再審無罪を求める大きなうねりが作れるのか。ここで起きていることは、和歌山カレー事件にとってもヒントになるに違いないと考えたからだ。
私は、袴田事件の支援者たちがどんな方法で社会を動かしていったのかを、知りたいと思った。
■何十回と繰り返した事件現場案内
袴田事件の記事を読むとたびたび目にする支援者の名前があった。
山崎俊樹さん(71歳)。
20年以上前に「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」を立ち上げ、事務局長として支援活動の舵を取ってきた。山崎さんが弁護団とともに行った「衣類の味噌漬け実験」は、2008年の第2次再審請求、そして再審公判における無罪立証で決定的な役割を果たしたと言われている。
連絡を取ると、清水駅で待ち合わせをすることになった。事件に関係する場所を車で案内してくれるという。
「現場を見たほうがいいでしょう。事件現場はそのまま残っていますから」
事件現場に到着すると、当時の現場検証の写真が収められたA4ファイルを手際よくめくりながら説明を始めてくれた。被害者となった味噌製造工場の専務の自宅は殺害後に放火され全焼しているが、土蔵が一棟残っている。
「竹藪に覆われているところが土蔵です。昔はきれいに見えたんですよ。今は木がこんなに生い茂っているからなかなか実感できないんですけれども。検察が主張するように袴田さんが事件を起こして逃げたとすると、どうやって塀を越えたのかなと疑問に思いますよ」
事件現場からJR東海道線を挟んだ先に、袴田さんが従業員として働いていた味噌製造工場があった。
「いま新しい家が建っているけど、このあたり一帯が工場だった場所です。もう一気に家が増えちゃって。だからかなり大きな工場ですよ。重要な証拠となった衣類が発見された(味噌の)1号タンクがあったのが、そのあたりです」
山崎さんにとって、事件現場の案内は特別なことではない。これまで幾度となく繰り返してきた支援活動の一部だ。
記者、海外メディア、新たに弁護団に加わる弁護士など、多くの人が山崎さんの案内を受けてきたという。
「事件に関心を持ってくれた人には、まず現場を見てもらわないと。現場を見れば、事件のどこがおかしいか、だいたいわかりますから」
■パンフレット作りから始まった支援
山崎さんが冤罪事件に関心を持ったのは大学時代。たまたま同じアパートの知人から借りた狭山事件を描いた漫画『差別が奪った青春』を読んだことがきっかけだった。
狭山事件は、1963年に埼玉県狭山市で発生した女子高校生強盗殺人事件。被差別部落出身の石川一雄さんが犯人として逮捕、有罪判決を受けたが、証拠の不自然さや自白の強要が指摘され、現在も冤罪を訴える活動が続いている。
山崎さんは最初、「警察がこんなことするわけない」と思っていたが、実際に埼玉県狭山市を訪れ、事件関係者に話を聞くなどするなかで考えが変わっていった。
その後、1954年に起きた島田事件の支援にも関わるようになり、袴田事件を知った。船舶の入港手続きなどをする代理店に会社員として勤めながら、支援集会などに参加し、1989年に島田事件が再審無罪になると、本格的に袴田さんの支援活動に携わるようになる。
山崎さんが袴田支援に関わり始めた頃、すでに第1次再審請求が進んでいた。しかし、最初から弁護団と支援者が、こんなに近い関係だったわけではないと、山崎さんは振り返る。当時、弁護団と直接話ができる支援者は限られていたという。
転機は1994年8月、第1次再審請求が静岡地裁で棄却されたあとだった。東京高裁への即時抗告を控えた時期、弁護団の一人から「手伝ってほしい」と声をかけられ、裁判資料を見せてもらうようになった。
「秋山賢三弁護士が弁護団会議で、『冤罪事件は弁護団と支援者が協力しなければダメだ』と言ってくれたんです。そこから関わりが大きくなりました」
もっとも、当初はあくまで支援者としての立場だった。
「まず、袴田事件を説明するパンフレットを作ろうという話になったんです。1997、98年だったかな。ちょうど一般にもパソコンが普及し始めた頃で、私も初めて自宅にパソコンを購入したんです」
パンフレット作りの一方で、弁護団からもう一つ提案があった。裁判記録のデジタル化だ。
「一審公判から控訴審、最高裁までの記録を、みんなで手分けして文字に起こし、テキストファイルにしました。写真も含め、全部データ化したんです。知り合いの学生たちにも手伝ってもらってね。紙のコピーは大変ですからね。
キーワードで検索すれば関連する記録がすぐに探せる。そこでまた記録を読み込んで、『ここはこう指摘できるんじゃないか』と弁護士にも言えるし、僕らも意見を出せるようになった。弁護団も、支援者の意見がプラスになることを理解してくれるようになりました」
■再審開始への突破口「味噌漬け実験」
袴田事件の再審開始の決め手となったのは、山崎さんら支援者が中心となって行った「味噌漬け実験」。その発端は、山崎さんの素朴な疑問だった。
2004年8月、第1次再審請求の即時抗告が棄却された際、その理由として、味噌漬けの衣類がそう簡単に作れるものではない、という内容の記述があった。
「え? そんなことはないだろう、と思ったのが最初」
死刑判決を支える証拠は、事件発生から1年2カ月後に袴田さんが勤めていた味噌製造工場の味噌タンクの底から見つかった「5点の衣類」だ。味噌漬けにされ、血痕が付着したシャツやステテコが「犯行着衣」とされた。しかし、山崎さんはカラー写真で見た犯行着衣の色に違和感を覚えた。
「長期間にわたって味噌に漬かっていたはずなのに、シャツの色が白すぎる、というのが第一印象。血痕の赤みも残っているし、おかしいなと思った。過去に関わった冤罪事件の経験から、これは『捏造(ねつぞう)』されたんじゃないかと。それで自分で実験してみようと思いました」
市販の味噌を購入してプラスチック製コンテナに入れ、ニワトリの血をつけたシャツなどの衣類を味噌に漬け込んだ。
実験はすべて自腹。事件が起きた現場に近いみかん農家に頼み込んで、納屋に置かせてもらった。できるだけ現場に近い環境での変化を見るためだ。
「疑問に思ったことは、自分で確かめなきゃいけない。『捏造だ』と主張するなら、捏造がこんなに簡単にできると証明しないといけないと思いました」
1年間、味噌漬けにした実験の結果は明白だった。
「シャツに付いた血痕は真っ黒になり、白い部分なんてなくなったんです。『味噌に長期間漬かっていなかった』ということが裏付けられたと思いました」
しかし当初、弁護団はこの実験に積極的ではなかったという。
「最初は『そんなことやってるんだ』ぐらいの反応で、真剣に聞いてもらえませんでした」
状況が変わったのは2008年。第1次再審請求の特別抗告が棄却されたことで、弁護団が山崎さんたちの実験をもとに作成した「味噌漬け実験報告書」を新証拠として、第2次再審請求を申し立てることになったからだ。
「第2次再審で一番大きかったのは、われわれ支援者が証拠を作ったことです。だから、弁護団も支援者の意見を尊重してくれるようになったんです」
2008年以降も山崎さんたちは弁護団とともに、さまざまな条件で実験を続けた。
そして2014年、静岡地裁は「捜査機関による証拠捏造の疑い」に言及し、再審開始を決定。山崎さんの素朴な疑問に端を発した支援者たちの粘り強い取り組みが、半世紀に及ぶ冤罪を晴らす決定的な証拠を導き出した。
■メディアの姿勢が一気に変わった元裁判官の告白
2007年1月、袴田事件を大きく動かす一通の手紙が届いた。差出人は、1968年の一審で死刑判決を言い渡した3人の裁判官のうちの一人、熊本典道さんだった。
「熊本さんからのコンタクトは、われわれ支援者に来たんです。東京の支援者に手紙が届いて、1月末に、私とひで子さん、弁護士など4人で博多まで会いに行きました」
熊本さんは、当時29歳という若さで下した死刑判決の苦悩を、あけすけに語ったという。
「まず驚いたのは、決定的な証拠とされた味噌漬けの衣類について『あんなの後で出てきた証拠じゃないか。証拠価値はない』とはっきり言っていました。『自分は最初から無罪を主張し、石見勝四裁判長は、私の無罪意見に同調してくれるものだと思っていたのだが、高井吉夫(もう一人の裁判官)と一緒に有罪の判断をした』。さらに熊本さんは石見裁判長に、『無罪にするしかないと思っているのに有罪の判決なんて書けるか』と言ったが、『それが決まり(左陪席の最も経験の浅い判事補が起案すること)なんだから書いてくれって言うんだよ』 とも言っていました」
衝撃的な熊本さんの告白を、どう世に出すか。差配を任されたのは山崎さんだった。
「新聞は朝日新聞、テレビは静岡朝日テレビに決めていたんです。朝日新聞には事件を継続的に取材していた小石勝朗さんという記者がいました。静岡朝日テレビは、当時一番熱心に取材に来てくれていたんです。私が初めて袴田さんに面会したときに似顔絵を描いたんですが、その絵に色を着けて放送してくれた。あのとき、死刑判決を受けて以来初めて、袴田さんの顔が外部に出たんです」
大きなインパクトを与えるため希望も伝えた。
「朝日新聞は必ず朝刊、テレビ朝日は全国放送でお願いしたい、と。当時、古舘伊知郎さんがメインキャスターだった報道ステーションに出してほしいと伝えました」
だが放送当日、静岡朝日テレビが朝から大々的に番組宣伝を打ったため、他のマスコミ各社が一斉に問い合わせてくる事態となった。
「結局、朝日新聞は前日の夕刊に載せてしまった。私は静岡朝日テレビに怒りましたよ。でも、熊本さんの登場で一気に流れが変わったのは事実です」
熊本元裁判官の告白を機に、マスメディアは一斉に「袴田冤罪」を報じ始めたという。
■「世論を動かすには、情報をオープンに」
「世論を巻き込むうえで大事なのは、情報をオープンにすることです」
山崎さんはそう言い切る。裁判所とのやり取りに関わる情報は厳密に扱う一方で、確定記録については基本的に公開してきたという。ただし、その線引きは慎重だ。
「確定記録は誰でも見られるものですからね。再審請求の中で新たに出された証拠については、弁護団が公にしない限り、私たちは出さない。特に微妙な段階での情報発信は、必ず弁護団に相談しました。弁護団がオープンにすれば、私たちも自分たちの見解を示す。それが支援者としての役割だと思っています」
一方、踏み越えてはいけない一線があると山崎さんは言う。
「被害者遺族には一切接触していません。それは、傷口に塩を塗りつけるようなものだと思うんです。強い刷り込みがあるでしょうし、被害者感情を逆なでするようなことは絶対にしてはいけない」
袴田さんを支援する活動は、あくまでも冤罪の疑いを晴らすためのもの。それが山崎さんの一貫した考え方だった。
山崎さんが袴田事件に関わり続けた30年以上の歩みは、最初は「素朴な疑問」から始まり、やがて弁護団を動かし、世論を揺るがし、最後は判決を覆す原動力となった。その軌跡は、和歌山カレー事件に関わり始めた私自身に深い示唆を与えてくれる。
袴田事件がそうであったように、再審を実現するには、多くの支援者が声を上げ、世論を動かすことが不可欠だ。そのためには「情報をオープンにし、できることを積み重ねる」しか道はない。
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二村 真弘(にむら・まさひろ)
ドキュメンタリー制作者
1978年生まれ。ドキュメンタリー制作者。日本映画学校(現・日本映画大学)を卒業し、2001年よりテレビ番組の制作に携わる。2024年、和歌山カレー事件の冤罪の可能性を追求したドキュメンタリー映画『マミー』で社会とメディアに問題提起。
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(ドキュメンタリー制作者 二村 真弘)
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