「寝ても疲れがとれない」「常にだるい」「やる気が出ない」。そんな“慢性的な疲れ”に悩まされる人は多い。
■日本人の2人に1人は「病的疲労」の疑いあり
「過労死」という単語が英語でも“Karoshi”のまま通用するぐらい、日本は世界屈指の疲労大国だ。ところで、その「疲労」は2種類に大別されることをご存知だろうか。
一つは「生理的疲労」、もう一つは「病的疲労」だ。生理的疲労は、仕事や運動などで発生し、1日休めば回復するような短期的な疲労で、「健康な疲労」ともいう。かたや病的疲労は、強い疲労感が何カ月も続き、少々休んだくらいでは回復しない、いわゆる「寝てもとれない疲れ」を指す。
ちなみに病的疲労のなかで、最も発生頻度が高いのが「うつ病」による疲労で、ほか「慢性疲労症候群」という未だに原因不明の慢性的な疲労も有名だ。
日本リカバリー協会がこの5月に発表した「日本の疲労状況2025」によると、日本人男女全体(20~79歳)に占める「元気な人」の割合は21.4%。一方、高い頻度で「疲れている人」は41.5%、低い頻度で疲れている人の37.0%と合わせると、実に約8割(78.5%)もの人が何らかの疲労を感じている。さらに、高い頻度で疲れている人の割合は、2025年には46.3%にまで上昇する見通しだという。
つまり、うつ病や慢性疲労症候群までは行かないとしても、日本人のおよそ2人に1人は、高い頻度で疲れている“病的疲労疑いあり”ということになる。
そんな病的疲労について最近、疲労医学の第一人者と言われる近藤一博氏(東京慈恵会医科大学「疲労医学講座」特任教授)が画期的な発見をした。正体を解明し、短時間ですっきりと解消してくれる薬までも突き止めた。
これまでも、生理的疲労のメカニズムや回復法は近藤氏によって解明済みだった。しかし病的疲労については依然、不明のまま。寝てもとれない疲れに苦しみ、睡眠の質改善、ストレス軽減、疲労感回復等をうたうドリンクやサプリメントを常用する疲労困憊(こんぱい)の日本人にとって、今回の発見は素晴らしい朗報なのだが、どういうわけかあまり盛り上がっていない。
■そもそも「疲労感」とは何か
病的疲労の発見について言及する前に、疲労感についてもう少し詳しく説明しよう。
【従来の疲労は「疲労感」である】
近藤氏が「生理的疲労」の正体を明らかにするまで、世界は「疲労」と「疲労感」を混同し、どちらかと言えば疲労感の方を疲労だと思い込んでいた。
疲労感とは「休みたい」気持ち。運動や仕事のやり過ぎによって体が「もう無理」と悲鳴を上げている時、「そろそろ危ないよ」と脳に知らせ、無意識に活動を低下させて体が壊れてしまうのを防ぐ。生物にとっては、「痛み」と並んで重要な「生体アラーム」だ。
疲労感を発生させるのは「炎症性サイトカイン」という物質だ。
【「疲労回復」ではなく「疲労感減少」】
人口の約8割もの人が、疲れを感じながらも頑張って働いたり運動したりしている日本は、「疲労対策大国」でもある。「疲れているのに頑張って働く人」は、「自己管理のできないだらしない人」と解釈される欧米と異なり、昔から「疲労に効く」食品や栄養ドリンク等が重宝されてきた。
■栄養ドリンクで「疲労回復」はできるのか
だが、疲労の正体や原因物質が解明された今、「疲労に効く」と宣伝されてきた成分のほとんどは「疲労感を抑制する」ものだったと判明。「疲労回復」と宣伝している商品にも「疲労感を減少させる」だけの商品があるので注意が必要だ。
【疲れを感じるのは“やる気がない”から?】
令和の時代になってもなお、根性論が幅を利かせている日本では、「疲れた」とか「休みたい」と感じる場合、「やる気がない」ことにされがちだ。
実際、自分の好きなことや、得意で褒められながら取り組む事柄については、どんなに大変でも疲れを感じないことがある。これは「疲労感がマスクされる」現象で、少し前には「ベンチャー社長型過労死」と呼ばれる悲劇をもたらすと言われていた。
ベンチャー企業の経営者は、高収入でやりがいいっぱいで働いているため、心身が疲労でボロボロになっていることに気付かず無理をして、心筋梗塞や脳卒中などで急死するケースが多いことからその名がついた。
人間誰しも、寝食を忘れて頑張りたい時があり、疲労感を減少させてくれるドリンク類は心強い味方だが、生理的疲労であれば、疲労感に素直に従って休めば回復する。疲れを感じたら、まずは休養が肝心というわけだが、日本人にはそれが難しい。
■最新研究でわかった「疲労」と「うつ病」の関係
いよいよ本題の病的疲労について説明しよう。
倦怠感(持続的な疲労感)や「ブレインフォグ(思考力や集中力が低下する症状の総称。頭痛や睡眠障害も含める場合がある)」はコロナ後遺症の中でも非常に頻度が高く、日本だけでなく外国でも問題になっているが、これらの症状には、脳の炎症が関わっていることが分かっている。ウイルス感染症によって脳に炎症が起きたのであれば当然、ウイルスが脳で増えた結果だろうと考えるのが普通だろう。
「ところが、新型コロナ患者の脳では、炎症が起きているにもかかわらずウイルスはまったく増えていませんでした。この現象は、『脳内の炎症は脳でウイルスが増殖するから生じる』という従来のウイルス学の常識を覆すものでした」(近藤氏 以下同)
■2つのタンパク質の類似点
ならば新型コロナウイルスはどのようにして脳内で炎症を引き起こし、脳神経に障害をもたらすのか? その答えを探すことが「病的疲労とは何か」の解明へとつながっていく。
「我々は、新型コロナウイルスのS1(エスワン)というタンパク質が、鼻腔内で産生されると、脳でウイルス増殖が見られなくても脳内炎症を生じさせることを発見しました。
さらに新型コロナ後遺症の患者と、新型コロナには感染したが後遺症にはならなかった人を比較したところ、前者は後者に比べて『抗SITH-1(シスワン)抗体価』が有意に高いことが分かりました。
『SITH-1』は、我々が以前発見したうつ病の原因遺伝子で、日本人がほぼ100%感染しているヘルペスウイルス(HHV-6)が発現させるタンパク質です。新型コロナウイルスのS1とSITH-1には、脳に入らなくても鼻の中の嗅球のアポトーシス(自死)を誘導し、脳内炎症、倦怠感、うつ症状を引き起こすという共通点があります。新型コロナ後遺症は、S1とSITH-1の両方が悪さをして生じると考えられました」
■認知症治療薬「ドネペジル」の有効性を突き止めたが…
病的疲労のなかで、最も発生頻度が高いのが「うつ病」による疲労だ。
「患者の脳ではアセチルコリンという神経伝達物質を産生する細胞が減っており、脳全体のアセチルコリンの量も減少していました。アセチルコリンには、炎症を止める消火器のような作用があります。つまり脳の炎症は、SITH-1もしくはS1タンパク質が脳内アセチルコリンの産生を低下させ、脳の消火機能が故障しているところに火がついて起きていたのです。火種はウイルス感染や疲労によって末梢の臓器で生じた炎症性サイトカインです」
近藤氏は次に、脳内のアセチルコリン濃度を上昇させる働きを持つ認知症治療薬「ドネペジル」をマウスに投与する実験を行った。コロナ後遺症で起きる倦怠感やうつ症状は、脳内のアセチルコリン不足による脳内炎症が原因であるという仮説を証明し、仮説に基づく治療法を開発するためだ。
「結果、ドネペジルの投与によって脳内のアセチルコリン濃度が正常値に戻ったマウスは、脳内の炎症性サイトカイン濃度も正常に戻り、倦怠感もうつ症状も正常なマウスよりもむしろ良好な数値にまで回復しました」
ドネペジルは長年にわたり、認知症治療薬として使用されてきた薬で人体への安全性は確立されている。後は動物実験の結果がヒトでも成り立つことを臨床試験で証明できれば、通常の新薬開発とは比べ物にならないスピードで治療薬として使えるようになるだろうと近藤氏は期待した。
だが、2年以上経過した2025年7月現在も、治療薬の開発は進んでいない。
■なぜ特効薬の開発は進んでいないのか
近藤氏は、新型コロナ後遺症の研究に取り組んだ結果、倦怠感やうつ症状といった主訴のメカニズムを解明し、特効薬候補も見つけた。その上、日本人の2人に1人が困っている「休んでも取れない病的疲労」についても原因と治療薬の発見に成功したのである。
こうなったからには一日も早く、ドネペジルを使えるようになりたい。
理由は2つある。
一つは、日本政府的には「コロナはもう終わった」ことにしたがっていること。
感染法上の分類が季節性インフルエンザと同じ「5類」に下がり、経済活動やインバウンドが回復した今、日本政府としては「コロナは終わったことにしたい」というのが本音だろう。実際は2024年にも3万5千人以上が新型コロナで亡くなっており、1日あたり約100人もの命が失われている。当然、後遺症に苦しむ人も増えているはずだが、選挙中も一切話題にすら上らなかった。
二つ目は、ドネペジルの特許がだいぶ前に切れていること。
ドネペジルはもともと、世界初のアルツハイマー型認知症治療薬として開発され、1997年に発売された薬だが、2013年に特許期間が終了している。患者にとっては、特許切れによって後発医薬品(ジェネリック)が参入し、薬価が下がったことはありがたいが、今回のように、ドネペジルに新しい効能を付け加えることは難しくなってしまった。
■「認知症治療薬」であることの高い壁
新薬などの特許権が満了し、後発医薬品が参入することで、先発医薬品の売り上げが激減する現象は「パテントクリフ(特許の壁)」と呼ばれている。これは、製薬会社にとって宿命ともいえる過酷な課題であり、世界中の製薬会社が、その影響を少しでも軽減するために苦労している。
「現在の効能のままだと、ドネペジルを処方する場合、『認知症』という診断が必ず必要となるという点が特に問題です。
ドネペジルはコロナ後遺症に対しても病的疲労に対しても、ほんの少量でも効果を発揮する優れた薬だという。
「医薬品がダメならサプリメントとしてでもいいので、認知症の診断なしに患者さんが手に入れられるようになんとかできればと思っています」
本当に、なんとかならないものかと思う。
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木原 洋美(きはら・ひろみ)
医療ジャーナリスト/コピーライター
コピーライターとして、ファッション、流通、環境保全から医療まで、幅広い分野のPRに関わった後、医療に軸足を移す。ダイヤモンド社、講談社、プレジデント社などの雑誌やWEBサイトに記事を執筆。近年は医療系のホームページ、動画の企画・制作も手掛けている。著書に『「がん」が生活習慣病になる日 遺伝子から線虫まで 早期発見時代はもう始まっている』(ダイヤモンド社)などがある。
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(医療ジャーナリスト/コピーライター 木原 洋美 監修=近藤一博(東京慈恵会医科大学 疲労医学講座特任教授))
最新研究で、その原因は単なる体の使いすぎやストレスではないことが明らかになった。“寝ても取れない疲れ”の正体とは何なのか。疲労研究の第一人者・近藤一博さん(東京慈恵会医科大学 疲労医学講座特任教授)に、医療ジャーナリストの木原洋美さんが取材した――。
■日本人の2人に1人は「病的疲労」の疑いあり
「過労死」という単語が英語でも“Karoshi”のまま通用するぐらい、日本は世界屈指の疲労大国だ。ところで、その「疲労」は2種類に大別されることをご存知だろうか。
一つは「生理的疲労」、もう一つは「病的疲労」だ。生理的疲労は、仕事や運動などで発生し、1日休めば回復するような短期的な疲労で、「健康な疲労」ともいう。かたや病的疲労は、強い疲労感が何カ月も続き、少々休んだくらいでは回復しない、いわゆる「寝てもとれない疲れ」を指す。
ちなみに病的疲労のなかで、最も発生頻度が高いのが「うつ病」による疲労で、ほか「慢性疲労症候群」という未だに原因不明の慢性的な疲労も有名だ。
日本リカバリー協会がこの5月に発表した「日本の疲労状況2025」によると、日本人男女全体(20~79歳)に占める「元気な人」の割合は21.4%。一方、高い頻度で「疲れている人」は41.5%、低い頻度で疲れている人の37.0%と合わせると、実に約8割(78.5%)もの人が何らかの疲労を感じている。さらに、高い頻度で疲れている人の割合は、2025年には46.3%にまで上昇する見通しだという。
つまり、うつ病や慢性疲労症候群までは行かないとしても、日本人のおよそ2人に1人は、高い頻度で疲れている“病的疲労疑いあり”ということになる。
そんな病的疲労について最近、疲労医学の第一人者と言われる近藤一博氏(東京慈恵会医科大学「疲労医学講座」特任教授)が画期的な発見をした。正体を解明し、短時間ですっきりと解消してくれる薬までも突き止めた。
これまでも、生理的疲労のメカニズムや回復法は近藤氏によって解明済みだった。しかし病的疲労については依然、不明のまま。寝てもとれない疲れに苦しみ、睡眠の質改善、ストレス軽減、疲労感回復等をうたうドリンクやサプリメントを常用する疲労困憊(こんぱい)の日本人にとって、今回の発見は素晴らしい朗報なのだが、どういうわけかあまり盛り上がっていない。
■そもそも「疲労感」とは何か
病的疲労の発見について言及する前に、疲労感についてもう少し詳しく説明しよう。
【従来の疲労は「疲労感」である】
近藤氏が「生理的疲労」の正体を明らかにするまで、世界は「疲労」と「疲労感」を混同し、どちらかと言えば疲労感の方を疲労だと思い込んでいた。
疲労感とは「休みたい」気持ち。運動や仕事のやり過ぎによって体が「もう無理」と悲鳴を上げている時、「そろそろ危ないよ」と脳に知らせ、無意識に活動を低下させて体が壊れてしまうのを防ぐ。生物にとっては、「痛み」と並んで重要な「生体アラーム」だ。
疲労感を発生させるのは「炎症性サイトカイン」という物質だ。
炎症性サイトカインは、私たちの体が、がん細胞や病原体などの異物を察知した際、自ら炎症を起こして異物を排除しようとする免疫反応が作り出す。
【「疲労回復」ではなく「疲労感減少」】
人口の約8割もの人が、疲れを感じながらも頑張って働いたり運動したりしている日本は、「疲労対策大国」でもある。「疲れているのに頑張って働く人」は、「自己管理のできないだらしない人」と解釈される欧米と異なり、昔から「疲労に効く」食品や栄養ドリンク等が重宝されてきた。
■栄養ドリンクで「疲労回復」はできるのか
だが、疲労の正体や原因物質が解明された今、「疲労に効く」と宣伝されてきた成分のほとんどは「疲労感を抑制する」ものだったと判明。「疲労回復」と宣伝している商品にも「疲労感を減少させる」だけの商品があるので注意が必要だ。
【疲れを感じるのは“やる気がない”から?】
令和の時代になってもなお、根性論が幅を利かせている日本では、「疲れた」とか「休みたい」と感じる場合、「やる気がない」ことにされがちだ。
実際、自分の好きなことや、得意で褒められながら取り組む事柄については、どんなに大変でも疲れを感じないことがある。これは「疲労感がマスクされる」現象で、少し前には「ベンチャー社長型過労死」と呼ばれる悲劇をもたらすと言われていた。
ベンチャー企業の経営者は、高収入でやりがいいっぱいで働いているため、心身が疲労でボロボロになっていることに気付かず無理をして、心筋梗塞や脳卒中などで急死するケースが多いことからその名がついた。
人間誰しも、寝食を忘れて頑張りたい時があり、疲労感を減少させてくれるドリンク類は心強い味方だが、生理的疲労であれば、疲労感に素直に従って休めば回復する。疲れを感じたら、まずは休養が肝心というわけだが、日本人にはそれが難しい。
■最新研究でわかった「疲労」と「うつ病」の関係
いよいよ本題の病的疲労について説明しよう。
近藤氏が病的疲労の正体を突き止めるに至ったきっかけは、「新型コロナ後遺症」特に「疲労」に関する研究に取り組んだことだった。この研究は、「疲労」と「うつ病」という二大問題のメカニズムを世界で初めて解明した2020年の成果を評価した日本医療研究開発機構(AMED)の支援を受けて進められた。
倦怠感(持続的な疲労感)や「ブレインフォグ(思考力や集中力が低下する症状の総称。頭痛や睡眠障害も含める場合がある)」はコロナ後遺症の中でも非常に頻度が高く、日本だけでなく外国でも問題になっているが、これらの症状には、脳の炎症が関わっていることが分かっている。ウイルス感染症によって脳に炎症が起きたのであれば当然、ウイルスが脳で増えた結果だろうと考えるのが普通だろう。
「ところが、新型コロナ患者の脳では、炎症が起きているにもかかわらずウイルスはまったく増えていませんでした。この現象は、『脳内の炎症は脳でウイルスが増殖するから生じる』という従来のウイルス学の常識を覆すものでした」(近藤氏 以下同)
■2つのタンパク質の類似点
ならば新型コロナウイルスはどのようにして脳内で炎症を引き起こし、脳神経に障害をもたらすのか? その答えを探すことが「病的疲労とは何か」の解明へとつながっていく。
「我々は、新型コロナウイルスのS1(エスワン)というタンパク質が、鼻腔内で産生されると、脳でウイルス増殖が見られなくても脳内炎症を生じさせることを発見しました。
さらに新型コロナ後遺症の患者と、新型コロナには感染したが後遺症にはならなかった人を比較したところ、前者は後者に比べて『抗SITH-1(シスワン)抗体価』が有意に高いことが分かりました。
『SITH-1』は、我々が以前発見したうつ病の原因遺伝子で、日本人がほぼ100%感染しているヘルペスウイルス(HHV-6)が発現させるタンパク質です。新型コロナウイルスのS1とSITH-1には、脳に入らなくても鼻の中の嗅球のアポトーシス(自死)を誘導し、脳内炎症、倦怠感、うつ症状を引き起こすという共通点があります。新型コロナ後遺症は、S1とSITH-1の両方が悪さをして生じると考えられました」
■認知症治療薬「ドネペジル」の有効性を突き止めたが…
病的疲労のなかで、最も発生頻度が高いのが「うつ病」による疲労だ。
新型コロナ後遺症と病的疲労には共通するメカニズムがあるとの確証を得た近藤氏はさらに研究を進める。
「患者の脳ではアセチルコリンという神経伝達物質を産生する細胞が減っており、脳全体のアセチルコリンの量も減少していました。アセチルコリンには、炎症を止める消火器のような作用があります。つまり脳の炎症は、SITH-1もしくはS1タンパク質が脳内アセチルコリンの産生を低下させ、脳の消火機能が故障しているところに火がついて起きていたのです。火種はウイルス感染や疲労によって末梢の臓器で生じた炎症性サイトカインです」
近藤氏は次に、脳内のアセチルコリン濃度を上昇させる働きを持つ認知症治療薬「ドネペジル」をマウスに投与する実験を行った。コロナ後遺症で起きる倦怠感やうつ症状は、脳内のアセチルコリン不足による脳内炎症が原因であるという仮説を証明し、仮説に基づく治療法を開発するためだ。
「結果、ドネペジルの投与によって脳内のアセチルコリン濃度が正常値に戻ったマウスは、脳内の炎症性サイトカイン濃度も正常に戻り、倦怠感もうつ症状も正常なマウスよりもむしろ良好な数値にまで回復しました」
ドネペジルは長年にわたり、認知症治療薬として使用されてきた薬で人体への安全性は確立されている。後は動物実験の結果がヒトでも成り立つことを臨床試験で証明できれば、通常の新薬開発とは比べ物にならないスピードで治療薬として使えるようになるだろうと近藤氏は期待した。
だが、2年以上経過した2025年7月現在も、治療薬の開発は進んでいない。
■なぜ特効薬の開発は進んでいないのか
近藤氏は、新型コロナ後遺症の研究に取り組んだ結果、倦怠感やうつ症状といった主訴のメカニズムを解明し、特効薬候補も見つけた。その上、日本人の2人に1人が困っている「休んでも取れない病的疲労」についても原因と治療薬の発見に成功したのである。
こうなったからには一日も早く、ドネペジルを使えるようになりたい。
期待がふくらむが、その日は永遠に来ないかもしれない。
理由は2つある。
一つは、日本政府的には「コロナはもう終わった」ことにしたがっていること。
感染法上の分類が季節性インフルエンザと同じ「5類」に下がり、経済活動やインバウンドが回復した今、日本政府としては「コロナは終わったことにしたい」というのが本音だろう。実際は2024年にも3万5千人以上が新型コロナで亡くなっており、1日あたり約100人もの命が失われている。当然、後遺症に苦しむ人も増えているはずだが、選挙中も一切話題にすら上らなかった。
二つ目は、ドネペジルの特許がだいぶ前に切れていること。
ドネペジルはもともと、世界初のアルツハイマー型認知症治療薬として開発され、1997年に発売された薬だが、2013年に特許期間が終了している。患者にとっては、特許切れによって後発医薬品(ジェネリック)が参入し、薬価が下がったことはありがたいが、今回のように、ドネペジルに新しい効能を付け加えることは難しくなってしまった。
■「認知症治療薬」であることの高い壁
新薬などの特許権が満了し、後発医薬品が参入することで、先発医薬品の売り上げが激減する現象は「パテントクリフ(特許の壁)」と呼ばれている。これは、製薬会社にとって宿命ともいえる過酷な課題であり、世界中の製薬会社が、その影響を少しでも軽減するために苦労している。
「現在の効能のままだと、ドネペジルを処方する場合、『認知症』という診断が必ず必要となるという点が特に問題です。
ドネペジル以外の薬の場合は、本当にその病気であるかどうかはっきりしない場合でも『○○病』の疑いということで処方箋を出してもらうことが事実上可能でした(本当はいけないのですが……)。しかし、ドネペジルの場合は、たとえ疑いでも『認知症』という病名がついてしまうので、就職にも住宅ローンを組むのにも支障が出てしまいます。遺言状の効力がなくなってしまうかもしれません。このことは、医師のサイドとしても注意が必要なポイントで、『ブレインフォグがあるから認知症の診断でドネペジルを処方してあげよう』などと親切心で思わない方が懸命です」
ドネペジルはコロナ後遺症に対しても病的疲労に対しても、ほんの少量でも効果を発揮する優れた薬だという。
「医薬品がダメならサプリメントとしてでもいいので、認知症の診断なしに患者さんが手に入れられるようになんとかできればと思っています」
本当に、なんとかならないものかと思う。
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木原 洋美(きはら・ひろみ)
医療ジャーナリスト/コピーライター
コピーライターとして、ファッション、流通、環境保全から医療まで、幅広い分野のPRに関わった後、医療に軸足を移す。ダイヤモンド社、講談社、プレジデント社などの雑誌やWEBサイトに記事を執筆。近年は医療系のホームページ、動画の企画・制作も手掛けている。著書に『「がん」が生活習慣病になる日 遺伝子から線虫まで 早期発見時代はもう始まっている』(ダイヤモンド社)などがある。
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(医療ジャーナリスト/コピーライター 木原 洋美 監修=近藤一博(東京慈恵会医科大学 疲労医学講座特任教授))
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