なぜうつ病の人はちょっとしたことで落ち込みやすいのか。早稲田大学名誉教授の加藤諦三さんは「不安な人は思い込みが強く、その裏にはすさまじい敵意が存在している。
一方で不安というのは『いまの自分の生き方が、どこかおかしいですよ』というメッセージでもある。ただちにそれに気づいて、治さなくてはいけない」という――。
※本稿は、加藤諦三『不安をしずめる心理学』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■嘆いている人にアドバイスは厳禁
よかれと思って、嘆いている人に、「こうしたら解決しますよ」と、具体的な解決方法を示すと、ものすごく不愉快な顔をされることがあります。
なぜ不愉快な顔をするかというと、それはすでに申し上げたように、悩んでいること、嘆いているということが、無意識の退行欲求を満たしているからです。
カレン・ホルナイは「悩んでいる人の最大の救いは、悩みである」と述べています。これは、自分の退行欲求を満たしているという意味で、悩んでいることは本人にとって最大の救いだということです。
「うつ病ほど、他人の理解を必要とする病気はない」と言われます。
一方で、「うつ病ほど他人が理解するのが難しい病気はない」とも言われます。
だから、うつ病は、なかなか治りません。
うつ病の人が「死にたい」と言うのは、それによって退行欲求が満たされるからで、悩むことが最大の救いだからです。
うつ病の人は何かちょっとしたことで、すぐに落ち込んでしまいます。
心理的に健康な人が、「なんでそんなことで落ち込むのだろう。そんなことで落ち込まれたら、自分なんて朝から晩まで落ち込んでいなくてはいけない」と思うようなことでも落ち込むのです。
心理的に健康な人がそう思うことは当然なのですが、うつ病の人は落ち込むことで自分の退行欲求を満たし、さらに周りの人を批難しています。
■不安な人の想像を絶する思い込み
ここが大切なポイントです。このポイントが理解できないから、うつ病は、理解が難しいと言われます。うつ病ほど理解を必要とされる病気はないにもかかわらず、うつ病ほど理解されない病気はないというのは、これが所以です。
つまり「私はこんなに苦しいのだ」と言うのは、批難を表現する手段なのです。「私は、こんなに苦しい」と言って、人を批難しているのです。もちろん、これは無意識です。無意識で人を批難しています。
なぜ批難が苦しみの表現に姿を変えるのかといえば、こうした人は面と向かって人を批難できないからです。だから、あくまで隠された批難として、苦しみという形で批難を表現し、「苦しい、苦しい」と言い続けているのです。

人はコミュニケーション能力がないと生きていけませんが、これは英語ができない、パソコンができないというのとはレベルが違います。それらができなくても、人間は生きていくことができます。
しかし、コミュニケーション能力がなければ、生きてはいけません。だから、引きこもります。土台が不安定な上に、根本のパーソナリティーも不安なので、引きこもってしまうのです。
恐怖に怯える必要のないことでも怯える。
気にする必要のない些細なことでも、気になって仕方がない。
こうした心理をすべて理解するには、彼らの悩みは、攻撃性が変容したものだという点を理解しておかなくてはなりません。
要するに、敵意のような感情を抑圧することで、それが姿を変えて現われてくるのです。この点を理解しておかないと、世の中に数多くある「なぜこんなむごいことが起きるのだろう?」と思う出来事は理解できません。
不安な人は思い込みが強く、そして、その思い込みの裏には、すさまじい敵意が存在しています。「私は不公平に扱われている」「あいつはひどいやつだ」など、周囲の人からすると、想像を絶するような思い込みがあるのです。

■適性に合わないことを強制されて生きてきた人たち
できれば不安を避けたいというのが人間の常ですが、一方で不安というのは「いまの自分の生き方が、どこかおかしいですよ」というメッセージでもあります。
無意識の問題なので自分では気づいていませんが、不安は生き方の変調を知らせる赤信号なのです。ただちにそれに気づいて、治さなくてはいけません。
ところが、不安という赤信号から逃げてしまうことがあります。
不安には思い込みが伴います。
例えば、あの職業は立派な職業、こちらの職業はそうではないという、とんでもない思い込みをしている人がたくさんいます。就職の時にも、こちらは良い会社、こちらはダメな会社といった思い込みもあるでしょう。
不安というのは、言ってしまえば、自分ではない生き方をしている人が陥る心理状態です。つまり、不安な人は自分らしくない生き方をしていて、長い間、適性に合わないことを強制されて生きてきたのです。
両親の仲が良い家に生まれて、愛に包まれて生きている人もいれば、虐待されて生きる人もいる。
この職業は良くて、この職業はそうではないというような徹底した権威主義の家で育つ人もいます。すると、そこで言われたことを正しいと思い込んでしまいます。

■不安とは「生き方を変えよ」というサイン
権威への服従とそれに従う子どもの心に生じた矛盾は解決しません。子どもは親に服従することで、自分自身の強さと統一性の放棄という代価を支払うことになる。そしてその事実に気づかないまま、大人になる。
服従によって意識的には安定しますが、無意識においては権威への敵意が生じる。意識と無意識の乖離が生じることによって、心は常に不安にさらされます。
そのため、自分で自分の価値観を見直す人格の再構成が大切なのです。
不安というのは赤信号ですから、不安を感じたら「あ、赤信号だ」と注意しましょう。「なんだろう?」「何を思い違いしているのだろう?」と考えるのです。
「いま、何を思い違いしているか考えなさい」というのが不安で、それは自分の生き方を変えるためのサインでもあります。ここで自分の生き方を変えれば、人生は大きく拓けるのだと気がつける。
そういう意味では、大変素晴らしい機会でもあるのです。
■成功者のうつ病
権威主義の家庭で育てば、人はそのような価値観を刷り込まれて育つ。
権威主義の考え方に染まってしまったのは、本人のせいではありません。生まれた時から、そのように教え込まれて、小さい頃からずっとそうした価値観を学習して成人したからなのです。
「Success in business, failure in relationship.(ビジネスの成功者、でも関係に失敗した)」
この言葉も英語の論文にはよく出てきます。
そういう権威主義の家に育ち、偏見の塊のような人でも、ビジネスにおいては成功することもあります。自分の不得意なこと、自分の適性に合っていないことを一生懸命やって、成功する場合もあります。
ただし、これは本人にとってつらいことです。だから、成功者のうつ病が出てきます。
人間にとって大切な生き方は、いくらだってあります。そのいくらでもある生き方の中で、自分に一番適したものを選べばいいのですが、我々は往々にして「これしかない」と思い込んでしまいます。
■漠然とした不満
「どうやらいまの仕事に向いていない」「何となく不安」。
そう感じている人は、自分では意識していないところで問題を抱えています。
心の中にさまざまなことを溜め込んだ人は心理的に自立ができず、漠然とした不安を抱えています。
自分の能力でできることを、自分のできる範囲でやっていれば、漠然とした不安に苦しめられることはないにもかかわらずです。
自分の能力の限界を超えてまで、人生を意のままにしようとすると、心に葛藤が生じ、それが自立を妨げます。そして、自立できないことから不安が生じます。
しかし、自分の能力の限界を知り、協調して社会生活を営みながら困難に立ち向かい、目標よりも過程を重視して生きていければ、何とか最後まで生き抜けるものです。
漠然とした敵意を世の中や人々に持っている人がいます。
漠然とした不満を持っている人もいます。
漠然とした不安も同じです。
敵意のような感情を抑圧しながら、漠然とした不安に苦しめられている人が「修行」という名のもとに自分を鍛えようとして座禅を組んでも、性格が歪むだけです。
それよりも、なぜ自分は不安を感じているのか、その原因を見極めることが第一です。とかく生真面目な人は、自分の弱さを克服するという発想になって、修行に走りがちです。
修行も大切ですが、もっと大切なのは、自分の能力を社会のために精いっぱい使って生きる姿勢です。
自分を鍛えるという考え方は一歩間違えると、自分を鍛えているのではなく、実は逃げていることになりかねません。大切なことは、自分は何が得意で、何が不得意かを判断し、困難に立ち向かう姿勢です。
不安な人ほど、合格祈願でお札をかき集めるといいます。これは、心の葛藤がお札をかき集めることとなって表われるのでしょう。

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加藤 諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授

ハーバード大学ライシャワー研究所客員研究員。『人生を後悔することになる人・ならない人』など著書多数。

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(早稲田大学名誉教授 加藤 諦三)
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