40年以上にわたって経営手腕を振るい、スズキを世界的な企業に育て上げた鈴木修元相談役。だが1970年代半ば、同社には倒産の危機が訪れていた。
進まない技術開発、迫る排ガス規制に、鈴木修が取った行動とは――。
※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■エピック・エンジンは未完成のまま
鈴木修が国会で答弁した再燃焼方式のエンジンは、社内でエピック・エンジンと呼ばれていた。3代目社長の鈴木寛治郎が並々ならぬ執念を持って開発を急がせていた。排ガスを再燃焼させる仕組みだが、再加熱したときにマフラーが異常発熱してしまう問題を、どうしても乗り越えられないでいた。また、周辺温度が下がるとエンジンがかかりにくくなった。
それでも、東京モーターショーに出品した上、「開発に成功しました」と発表してしまう。広報担当だった鈴木修がである。なのに、問題解決はできないままで、その後の1974年12月に開発チームは解散してしまう。
鈴木修はエピック・エンジンに、一抹の危機感を最初から抱いていた。それ以前に、2サイクルエンジンそのものに対して懐疑的だった。スズキUSAに駐在していたとき、自動車の本場であるアメリカで2サイクルの四輪車などは見たこともなかった。
二輪車にしてもほとんどなかった。
このため、72年11月の段階で、鈴木修はR&D(研究開発)部門に再燃焼方式を担う2チームを編成したほかに、触媒を研究する1チームを別に設置させていた。
触媒は、酸化還元反応を利用して排ガスを無害化させる部品である。COとHCは酸化させて、COは二酸化炭素に、HCは水と二酸化炭素にする。NOxは逆に還元させて窒素と酸素にする。触媒の貴金属には白金やロジウムのほか、ピアスや歯のつめものに使われるパラジウムが使われる。HC対策では、酸化機能が求められた。
■世は4サイクルエンジンの時代
エピック・エンジン開発が頓挫し、開発チームは解散と同時に全員が触媒チームに編入された。
この時点で、スズキは追い詰められた。触媒チームは6人から40人を超える大所帯となった。だが、燃焼技術を専門とするエンジン技術者たちが数多く加わったわけで、彼らが材料技術である触媒を短期間に作れるのかは、未知数だった。
鈴木修の脳裏には、「倒産」の二文字がチラつく。

前述したが、スズキ以外の自動車会社はみな4サイクルエンジン。利害が一致し、国が示したNOxの削減目標は、なし崩し的に緩和されていった(昭和51〈76〉年規制の実施は2年延長された)。
ところが、スズキは孤立無援だ。自力でロビー活動を展開して、実施時期を延期してもらい、それまでに新型触媒の開発を成し遂げ、規制に適合していくしかない。
あるいは、他社から4サイクルエンジンを供与してもらうか……。
ちなみに、本家アメリカのマスキー法は、ビッグスリーがロビー活動を展開し、74年実質的に“廃案”にされていった。
■ZEV規制は“骨抜き”に
1990年秋に、カリフォルニア州が定めたZEV(ゼロ・エミッション・ヴィークル=排ガスゼロ車)規制も、同様の圧力によって“骨抜き”にされていく。ZEV規制は大手メーカーに対し、販売量の一定以上をEV(電気自動車)など排ガスを一切出さないクルマにせよ、という規制。当局と業界との綱引きが演じられ一度は無力化していくが、90年のZEV規制により世界の大手自動車が、電動化へと動くきっかけとなった。
もっとも、現在EVのキャスティングボートを握るのは、90年当時に動き始めた日産やフォルクスワーゲンといった内燃機関を持つ大手ではなく、テスラや中国BYDといった内燃機関を持たない新興企業である。新興企業は、内燃機関を守る必要がない。
■霞が関への陳情
地下鉄の赤坂見附駅の改札を出て、地上に上がってすぐのパチンコ店。
鈴木修は2人の部下を従えて、店に入っていく。軍艦マーチがけたたましく響くなか、2人に500円ずつ軍資金を渡し、やがて台を決めて電動式ハンドルを握る。蟄居していた頃、歌舞伎町などでよく打ったが、当時はまだ手動で球を弾いていた。しかし、手動でも電動でも、大切なのは釘である。その向きや間隔の見極めが、ポイントだ。
鈴木修は、そう時間をかけずに千両箱を玉で溢れさせていく。軍資金を使い果たした部下の一人がやってくると、「好きなだけ持っていけ」と玉を与える。
どれくらい遊んだだろうか。もう一人の部下がやってきて、耳元で囁く。
「専務、時間です」
玉をタバコに換え、3人で分けて、店を出る。外堀通りでタクシーを拾い、この日は霞が関に向かう。パチンコをするのは緊張を一度ほぐし、深く集中するためだった。

「何とか延期してください」
鈴木修は、深々と頭を下げる。二人の部下も、後方からそれに続く。
環境庁(現・環境省)、通産省(現・経済産業省)、運輸省(現・国土交通省)と、日参を繰り返す。もっとも、日頃から忙しい官僚が、簡単に会ってくれるものではない。そんなときには受付で、「鈴木自動車工業の鈴木修が来たと、お伝えください」と係員に頭を下げ、名刺を置いていく。無駄なようにも思えるが、あながちそうでもなかった。溜まった名刺を捨てないで、とってくれていた高級官僚もいたからだ。
現場に赴いて、「なぁんだ」と帰ってしまえば終わってしまう。だが、小さくともアクションを起こせば、伝わることはある。
■“闇将軍”田中角栄の下へ
パチンコ店から、日比谷高校脇の坂道を歩いてのぼり、永田町の議員会館を訪れることも多かった。もちろん、周辺に点在する国会議員たちの個人事務所に足を運ぶこともあった。静岡県選出の国会議員から紹介してもらうなどの手を打った。
やがて、この時代に最大の権力を持った男の下を訪ねる。
「田中先生、中小企業をお助けください」
「君が鈴木修君か」
屋敷中に響く、どでかい声だった。
「はい、田中先生。お願いでございます、どうか、中小企業をお助けください。排ガス規制で苦しんでいます」
「うーん、で、君んところの会社は、従業員は何人おる」
「ハッ、9500人ほど勤めております」
「なに、そんなにいるのか。中小企業なんかじゃないだろ。大企業だ」
「田中先生、自動車会社の中では一番小さな、田舎の会社でございます。力はありません」
「そうなのか……。新潟県には、君、1000人の会社しかない。9500人の会社を潰したら、そりゃ社会問題だ。浜松は大変なことになる」
「ハイ」
「ヨッシャ、わかった! できる限りのことはしよう」
「ありがとうございます」
田中角栄は1974年12月に首相の座を降り、鈴木修の訪問を受けた後の76年7月にはロッキード事件に絡んだ受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕され、自民党を離党し8月に保釈される。それでも、政界、官界に隠然たる力を持ち続けていく。
“闇将軍”と呼ばれ、むしろその力を増していったといえよう。
■スズキのための別枠を確保
霞が関と永田町へのロビー活動により、2サイクル軽自動車に対する規制の実施は延期されていく。
当初の75年規制は、78年からの施行となる。その間、1976年4月1日より77年9月30日までに製造される2サイクル軽自動車には、暫定措置として緩い規制値が適用された(HC排出規制値が本規制の0.25g/kmに対して4.5g/kmに大幅緩和された)。75年暫定規制として、76年規制内に別枠で設けられる。これはスズキのためだけの別枠だった。
ところが、緩和された規制値をスズキはなかなかクリアーできず、湖西工場は76年4月と5月に軽乗用車の生産を停止する。
ようやく開発された新型触媒を装着した新型車「フロンテ7-S」が暫定規制値対応車として認定されたのは5月29日。6月に同工場の生産は再開されるが、新型車を販売できるのは77年9月まで。本規制値をクリアーできる触媒の性能アップは必須となる。
一方で75年9月、当時の運輸省は道路運送車両法を改正し、翌76年1月から軽自動車の排気量を360㏄から550㏄に、サイズも一回り大きくすると公布する。排ガス対策による出力ダウンへの対応、浄化装置取り付けスペースの確保が、規格改定の目的だった。つまりは、環境対応からこのとき以降軽自動車は大型化していった。

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永井 隆(ながい・たかし)

ジャーナリスト

1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)
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