新聞の部数も広告収入も人手も年々減少している。社会学者の西田亮介さんは「日本の報道事業者、とくに新聞社の体力は明らかに毀損されている。
エピソードをベースとしたエモい記事を書いている余力はあるのか」という――。
※本稿は、西田亮介『エモさと報道』(ゲンロン)の一部を再編集したものです。
■信頼性の高いメディア群「トラストな情報基盤」
「トラストな情報基盤」とは、正確な情報を収集し、信頼できるコンテンツの制作と流通を具体的に保障する制度、仕組み、機能を有する報道事業者等の総体のことである。
言葉を足すなら、人材育成、拠点(支局)形成、自己批判、訂正、透明性や説明責任など社会と対話する意欲を外形的に確認できるメディアによって構成される、ソフトとハード、そして有形無形の基盤のことである。
つまりそれは「誤報を起こさないメディア」「間違わないメディア」のことではない。間違えたら訂正を行う、信頼できる蓋然性の高いメディア群と考えてほしい。
人を育て、支局など取材拠点を維持し、記者を配置し、デスクなど精査のための体制を構築するには、莫大な初期投資とランニングコストが必要となる。情報を報道事業者が独占し、そのことが利益に繫がった時代が終わり、こうした体制の構築が直接売上や利益には繫がらなくなったにもかかわらず、である。
新興のコンテンツ事業者はそれらに対するコストを限りなくゼロに近づけているか、ほとんど必要としない。しかしアテンションを巡る競争において、動画をはじめとするネット全般の事業領域で、報道事業者とコンテンツ事業者は競合関係にあるといってよいだろう。
■民業としての報道機関の歴史は意外と浅い
報道事業者は極めて厳しい競争条件に立たされるとともに、そもそも日本語圏という「小さな」市場で、将来において民業として報道機関が成立するのかということすら問われる時代になってしまった。ここでは深入りしないが、民業としての報道機関が成立した期間は歴史上短く、日本では新聞で150年、戦後から数えれば80年、テレビにいたっては1950年代から60年超程度の期間に過ぎないのである。

むしろそのような時代のほうが僥倖だったのかもしれないとさえ思えてこないだろうか。
インターネット、SNS、動画という新しい事業形態が全面化した環境のもとで、なぜ「民業としての報道」の成立、存続を自明視できるのだろうか。放送、新聞業界がここから盛り返すことは並大抵ではないはずだ。
■ネットメディアが存続する難しさ
振り返ってみても、日本のインターネットの30年あまりの歴史において、安定的かつ持続的な「ネット発の報道事業者」はほとんどといってよいほど見当たらない。「インターネット」が1995年に新語・流行語大賞にノミネートされてから、多くのネットメディアが登場した。だが、その多くはあくまでオピニオンを流しているにすぎず、今も残るネット報道事業者は存在しない。
もちろんネットにも「ABEMA」などのメディアはある。しかしそれらの多くは伝統的なマスメディアとの合弁企業や、そのネット事業、もしくはコンテンツ事業「も」営む別種の事業者なのである。
別にそれが悪いわけではない。いやそれどころかこの30年で、そうした合弁事業者、オピニオン・メディア、あるいは世界的なネットメディアですら存続が難しいことが明らかになった。「BLOGOS」のように多くのブログなどからコンテンツを無償で集めてくるような業態ですら成立しないということは多少の驚きをもって受け止められたはずだ。
■「報道」は民業として成り立つのか
そのような環境において、「根拠に基づく正確な情報を収集し、裏取りをし、信頼できる記事として制作し、流通させ、苦情に対応し、必要に応じて訂正し、自由民主主義に貢献する」ための投資を必要とする報道事業は、日本のネット空間のなかで民業として成立するのだろうか。

1億人という日本語圏のマーケットが小さすぎるのかもしれないし、そうではなく、まだ探索されていないかたちがあるのかもしれない。だが、このあとも日本社会は100年単位で人口減少が続く見通しだ。メディア事業にとっては競争条件がますます厳しくなることを意味している。
JX通信社のようなAIや機械的手法の活用は小さな希望にも思える。ただし、今のところ新聞社や放送事業者が提供してきた記事を代替するまでには程遠い。
かくして「報道が民業として成立しないかもしれない」という仮説は棄却されないまま残り続けている。
■「エモい記事」を作る余力はどこに?
日本の報道事業者の体力は明らかに毀損されている。
報道事業者、特に新聞社の本業が報道だとして、「エモい記事」に資源を割くだけの「余力」はあるのだろうか。
放送事業者の総売上は4兆円弱。民放はコロナ禍を経て落ち込みが目立つが、全体ではなんとか維持しているものの、キー局、準キー局などに偏っていることが知られている[図表1]。
新聞社の売上は右肩下がり。総売上高は約1.3兆円。
単純比較はできないが、10年前と比べておよそ3割売上が減少している。収入の売上を見ても、新聞紙の販売収入と広告収入の落ち込みが目立つ。販売収入は10年で4割近く減少し、広告収入も4割に迫る[図表2]。新聞紙が売れなくなり、広告価値も低下しているのであろう。
不動産やネット等を含むと思われる「その他収入」は増加しているが、伸びは弱く前二者の落ち込みを補うには到底至らないままである。
人手も減少している[図表3]。新聞社の従業員合計と記者数はそれぞれ過去10年で25%程度減少した(それに対して女性記者数は増加し、年々女性記者比率が高まっている点は目を引く)。
他方で出稿頻度や量は増加し、従業員の負担は高まっているものと考えられる。現代の新聞記者は朝夕刊だけではなく、重要ニュースはネット版にも出稿しなければならないのだ。ネットに掲載された記事が夕刊や翌日以後の朝刊などに掲載される、見方によっては「使い回し」もあまりに普通になった。
■過去のものになりつつある「夜討ち朝駆け」
従業員の味方のはずの働き方改革もメディア事業には追い打ちをかける。一昔前まではメディアといえばブラックな働き方が不文律だった。
それには良し悪しある。対象に昼夜張り付き、信頼関係を構築し(「食い込んで」)、情報を取るのが日本の新聞記者の十八番とされ、現在でもそれに代わる手法ははっきりしないままと言われている。
そんな「夜討ち朝駆け」は過去のものになりつつある。メディアにおいても労働管理が厳しく問われる時代になり、超長時間勤務はさせられなくなった。政治家が新聞記者を特別扱いしなくなりつつあることも関係するだろう。現代の政治家はオートロックのマンションに住んでいて、記者を自宅にあげたりしなくなりつつあると聞く。若い記者も地方転勤や現場主義的な職場に馴染めず、離職が相次ぐとも聞く。各社苦労が絶えないようだ。
■支局常駐記者の人員削減は想像以上
国内外の支局の数や支局に常駐する記者の数も減少している。『日本新聞年鑑2025』によれば、毎日新聞社の北アメリカ(アメリカ全土)の記者数は6名である[★11]。あの広いアメリカ大陸を6人でカバーするというのである(なお朝日新聞は10名、読売新聞は13名、NHKは23名)。全米を取材しなければならないはずの大統領選挙を満足に取材できる数字なのだろうか。

欧州はもっとひどい。毎日新聞の場合、イギリス、ドイツがそれぞれ1名、フランスに至っては0名である(朝日新聞はイギリスが同じく1名、ドイツ2名、フランス1名。読売新聞はイギリス3名、ドイツ1名、フランス2名、NHKはイギリス3名、ドイツ1名、フランス7名)。
国内の支局も減少している。『神戸法學雜誌』という神戸大学法学部の紀要に、2023年に「神戸大学プラットフォーム科研」が主催したシンポジウム「プラットフォームとジャーナリズム:ニュースメディアの危機に競争政策は何をすべきか」の記録が掲載されている[★12]。
このシンポジウムに朝日新聞社メディア戦略室専任部長の福山崇が登壇している。福山の資料に「日本新聞協会にまとめていただいた」という新聞社の支局データが掲載されている(45頁)。同資料によれば、新聞・通信社の国内総支局数は1991年には3,491あったものが2001年3,020、2011年2,697、2021年2,130と急速に減少していることが示されている(ただし、会員社数も減少していることに留意が必要)。新聞・通信社の海外総支局数は同じく1991年には290、2001年には254、2011年には247、2021年には233とやはり減少している。
支局は平常時の地域取材の拠点であり、災害時などにはさらに重要な拠点となるが、そのインフラが損われている様子がうかがえる。
■「トラストな情報基盤」は機能しているのか
人が減り、稼働させられる時間が減り、支局も減少している。
このとき、総体として本邦社会の「トラストな情報基盤」は大きく毀損されているといえるのではないか。

それでも平時と有事とを問わず、いまでも人が情報を求めるということにそう大きく変わりはないはずだ。とくに災害時などの有事や選挙の際には偽情報や第三国による影響工作が蔓延(はびこ)る余地は増えるし、そもそも信頼できる災害情報や被災地情報を収集しにくくなると考えられる。
能登半島地震ではしばしば偽情報が政策課題として注目を浴びたが、むしろ情報不足こそ深刻だったのではないか。
能登半島地域にもかつては全国紙支局があったものだが、近年は読売新聞等を除くと金沢に集約されていた。言うまでもないが、同じ石川県内とはいえ、金沢と能登半島は地理的に離れており、相当の時間距離がある。支局という滞在できる拠点がなければ、継続的な取材を行うことは難しい。発災当初は各社ピストン輸送状態だったようだ。
被災地においても、非被災地においても、災害時にはデジタル、アナログを問わず、「信頼できる情報」が求められることは今も昔も同じである。「信頼できる情報」はその土台となる「トラストな情報基盤」があって初めて提供される。しかしそのような土台の維持、発展はメディア環境の変化によってハード、ソフトともに毀損されているのではないか。それが筆者の問題意識であり、認識である。
ここまでにおいて、日本のメディアを取り巻く状況を概観してきた。「エモい記事」はトラストな情報基盤を巡る問題のなかで、どのように位置づけられるのだろうか。
★11 以下、海外記者数については以下を参照。『日本新聞年鑑2025』、日本新聞協会、2024年、396-397頁。

★12 以下のURLから全文を閲覧できる。

▼URL=https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100488540

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西田 亮介(にしだ・りょうすけ)

日本大学危機管理学部教授/東京科学大学特任教授

1983年京都生まれ。博士(政策・メディア)。専門は社会学。著書に『メディアと自民党』(角川新書、2016年度社会情報学会優秀文献賞)、『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)、『ぶっちゃけ、誰が国を動かしているのか教えてください 17歳からの民主主義とメディアの授業』(日本実業出版社)ほか多数。

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(日本大学危機管理学部教授/東京科学大学特任教授 西田 亮介)
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