太平洋戦争後、東南アジアなどの戦地に残された旧日本軍兵士らは、戦勝国軍によって数年間抑留された。二松学舎大学の林英一准教授は「シンガポールで埠頭・都市清掃作業に従事した兵士たちはイギリス兵からひどい扱いを受け、無人島に送られた者は空腹を抱えていた」という――。
(第1回)
※本稿は、林英一『南方抑留』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
■シンガポールに残された日本軍のその後
1941年12月10日の戦艦プリンス・オブ・ウェールズの撃沈と、翌年2月15日のシンガポール陥落は、大英帝国の威信を失墜させた衝撃的出来事であり、イギリス人に敗戦のトラウマを植え付けた。
あのウィンストン・チャーチルをして大英帝国史上「最悪の軍事的失敗」と言わしめたシンガポール陥落後に待っていたのは、日本軍の掃討作戦による華僑の粛清と強制献金であり、泰緬鉄道建設のための捕虜の強制労働であり、連合国側市民の抑留であった。
しかし、それから3年余り、マリアナ諸島、フィリピン、沖縄を攻略した米軍の前に防戦一方となった日本軍は、無条件降伏に追い込まれる。
終戦時、シンガポールでは玉音放送だけでなく、東京から閑院宮春仁王殿下(陸士三六期、陸大四四期)が派遣され、8月20日に第七方面軍(岡集団)司令部官邸にて将校たちに「聖旨伝達」がなされた。
■「南方軍は独立して戦争継続できる」
第二九軍がマラヤ北部に移転した後、昭南特別市内、ジョホール、マラッカの防衛指揮権を与えられた昭南防衛司令官の田坂専一陸軍中将(陸士二七期、陸大三八期)は当時の雰囲気を、
「南方軍将兵の気持としては南方軍は決して戦には敗れて居らない。日本軍が全般的に不利なる状況にあつたが『シンガポール』の如き空中戦こそやつて居るがまだ陸戦は交へて居らぬ。まけたといふ感じがない。従つて内地が例(ママ)へ敗れても南方軍は独立して戦争継続は出来る。また其覚悟で今迄やつて来た。
殊に予の部下の如き第五師団〔引用者注:鯉兵団〕の兵は2年前には山下兵団〔引用者注:山下奉文陸軍中将(陸士一八期、陸大二八期首席)率いる第二五軍(富集団)〕に属し、破竹の勢で敵を撃破し此地を占領した軍隊である。これがオメオメ反対に降服することになつた今、降服といふものが如何に惨めなものであるかは身に渗みて知つて居る。
これらの逸る心を抑へるのは容易ではな」かったと振り返っている。
■降伏後にイギリス軍から受けた仕打ち
終戦後にシンガポールでは一時3万数千人の陸海軍部隊が散在して作業隊を編成した。そのうち、イギリス陸軍と空軍に管理されたチャンギ、ウッドランズ、リババレー、アイルラジャ、ブキテマ、テンガ、セレター各作業隊の責任者は、元第七方面軍参謀長の綾部橘樹陸軍中将(陸士二七期、陸大三六期)であった。
一方、イギリス海軍管理下の本部、軍港、センバワン、ブラカンマチの各作業隊ははじめ元第一〇方面艦隊参謀長の朝倉豊次海軍少将(海兵四四期、海大二八期)が統制し、後に参謀副長の小野田捨次郎海軍大佐(海兵四八期、海大三一期)が引き継いだ。
この作業隊編成の経緯について先の田坂中将は、降伏式翌日にイギリス進駐軍司令部に呼び出された軍参謀の佐藤直大佐が、「明日八時迄に労役隊として一千人編成の二隊を昭南防衛隊で編成して埠頭に差出し、英軍の指揮を受けしめよ」と言われたと聞いて、「此時程強い衝撃を受けた事はない。今降服はしたものの、こんなことはあらうとは夢想もしなかつた」と回顧している。田坂は「労役隊」という呼び方に反発して、イギリス軍と折衝して「作業隊」という呼称に変更させたという。
■これは日本軍に対する報復である
しかし呼び方はどうあれ、作業隊への風当たりは厳しかった。田坂は、作業隊長からの報告で、愛する部下たちが埠頭で「黒人兵」から銃の台尻で殴る蹴るの暴行を受け、市街のどぶ掃除では水の中で立ったまま食事をさせられ、通行人から唾を吐かれ、投石され、日射病患者は水兵に詐病と疑われて罵られ、蹴飛ばされていると知り、南方軍総参謀長の沼田多稼蔵中将に、「英軍の我が作業隊に対する取扱は余りに残酷であるから何とか緩和して呉れ」と意見具申した。
しかし沼田に対してイギリス軍参謀長のブラウニング中将は、「英軍の日本軍に対する取扱の状態は自分もよく承知して居る。しかし、あの程度は前に日本軍が吾々英軍に対して取った扱ひ方よりひどいとは思はぬ。仍(よ)つて之を改める意志はない」と突き返された。

これを知った田坂は、予は初めて今の英軍の行動は全く我日本軍に対する報復であることを知る事が出来た」と述懐している。
■「恋飯島」の悲しい由来
また、シンガポールと密接不可分かつ大同小異の状況にあったマラヤでは、タイピンの北馬来(マライ)司令部、クアラルンプールの中馬来司令部、レンガムの南馬来司令部、バトゥパハの馬来海軍司令部の下に計61の作業隊が編成されたが、その後41に再編され、1947年6月初頭の段階で、北部マラヤで約2500人、中部マラヤで約2500人、南部マラヤで陸軍約3700人と海軍約800人が作業に従事していた。
その後、シンガポールとマレー半島東海岸のエンダウでの抑留は1947年末まで続いた。
これらとは別にマラヤ・シンガポールで降伏した約8万人は、1945年10月以降、各地の収容所を経由して中継地である旧オランダ領リアウ諸島のレンパン(レンバン)島に送られた。彼らは最初こそ連合軍の作業から解放されると喜んだものの、やがてレンパン島を「恋飯(れんぱん)島」と呼ぶほど、飢餓に苦しめられたが、1946年7月末までに帰還している。
南方抑留体験記で最も多いのはこのレンパン島に関するものであり、南方徴用作家たちによって、無人島、流刑地のイメージで戦後語られた。その意味で同島は南方抑留の記憶を象徴する場所であるといえる。
■忘れられないタピオカの味
1945年9月7日にシンガポールの第七方面軍司令官・板垣征四郎陸軍大将(陸士一六期、陸大二八期)がサイゴンの南方軍総司令官・寺内寿一(ひさいち)陸軍元帥(陸士一一期、陸大二一期)に送った書簡からは、イギリス軍からタピオカ採取の許可を受けてレンパン島での食糧不足を補おうとしていたことが窺い知れる。
タピオカはキャッサバという植物の根茎からとれる澱粉で、それを他の食料と混ぜて主食の足しにしていたようである。1945年10月に第一梯団(約1000人)の一員として入島した陸軍の会計監督官・日比野清次が、自分たちで作ったタピオカを初めて口にしたのは、翌年4月に本格的な復員がはじまり、復員日が決まった頃だったというように、タピオカ栽培には一定の時間がかかった。
日比野によれば、「レムパンで生れた最初のタピオカは、甘くやわらかく、みずみずしく、われわれは、すぎし日の苦労の成果を、なみだぐみながら味わった」という。

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林 英一(はやし・えいいち)

二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授

1984年、三重県生まれ。
慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。一橋大学博士(社会学)。インドネシア残留日本兵の研究で日本学術振興会育志賞受賞。著書に『残留日本兵の真実』『東部ジャワの日本人部隊』(ともに作品社)、『皇軍兵士とインドネシア独立戦争』(吉川弘文館)、『残留日本兵』(中公新書)、『戦犯の孫』(新潮新書)、『残留兵士の群像』(新曜社)など。

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(二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授 林 英一)
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