太平洋戦争後、東南アジアなどの戦地に残された旧日本軍兵士らは、戦勝国軍によって数年間抑留された。二松学舎大学の林英一准教授は「イギリス軍は日本人に惨めな生活を送らせるとともに過酷な労役作業を課すことで、戦時下の復讐を果たしていた」という――。
(第2回)
※本稿は、林英一『南方抑留』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
■東京帝国大学哲学科を出た青年がみた戦場
1920年、富山県生まれの林禮二は、1941年に東京帝国大学文学部西洋哲学科を繰り上げ卒業した後、出版文化協会に職を得た。しかしわずか1カ月で兵役につくことになり、1942年2月に金沢の砲兵連隊に入営し、見習士官となり、翌年5月に南方に派遣される。
林が内地から持参したノートには、箱根丸に乗船して門司を出たときの心境が、「愈愈(いよいよ)祖国を後にする。懐旧の念と俱(とも)に未だ見ぬ南の国に思ひは馳せる」(1943年5月1日)と綴られている。2日後、船が澎湖諸島に入り、「もう常夏の国に来たのだ、暑さも厳しい」(同年5月3日)と南国の洗礼を浴びたが、「初めて見る南の国、青い青い海」(同年5月4日)に目を輝かせた。
しかし生来「引込み思案」(1946年12月20日)で現実逃避しがちであった林は、「肉親から遠く離れて初めて最も身近にその存在を感じ」(1943年5月26日)、シンガポールを経てビルマの戦地までともにした見習士官仲間7人と別れることになると、
「長く一緒に生活すると、相互に好意や尊敬の念を有(も)たないにしても、別離の淋しさは感じ合ふ。長く生活を俱にして来てその存在が知らず知らずの中(うち)に私達の身内に食ひ入ってゐるのだ」(同年7月10日)と、孤独を深めた。
■休憩なしで12時間働く
日記のなかで、「何処に於ても同じであらうが益益孤独の淋しさを味はねばならない。しかし常に理性的人間に終始しやう」(1943年6月29日)、「如何なる環境に於いても自己を見失はず、個人意識、個人の権威を守って行くこと、同時に他人を対等の人間として遇すること」(同年8月20日)と自らを律したかと思えば、「私は夜が一番好きである――夜私は全く孤独であるから。南の夕は良い。草原に椅子を持出して暮行く空に次次と現れて来る星を見乍(なが)ら淋しさに身を浸す時、私は全く自分一人の世界を感ずる」(同年7月11日)、「孤独は楽しむべし」(同年7月30日)とも述べており、彼の自己の揺らぎを垣間見ることが出来る。

「戦争といふ学問とは縁遠い環境に身を置き、虚無主義と享楽主義とが根強く心に拡がってゐる。それが酒を飲んでは外に出て精神を鈍くする」(1944年3月30日)と、戦地で虚無と享楽の間を行き来していたが、1944年4月にラングーンの緬甸(ビルマ)方面軍(森集団)司令部参謀部第一課に配属されると生活が一変し、「実に忙しいところで、朝の九時から晩の九時迄ブッ通しで、それに夜中に起きて、電報を整理しなければならない。全く自分の存在等、何処かに失くなって了(しま)ふ」(1944年4月21日)という有様だった。
■エリートが見た参謀のリアルな実像
それまでも戦争の見通しや日本軍に対して悲観的で、日記に死を意識した言葉をたびたび吐き出していた林は、「参謀とは人柄を知らない時には、全く素晴らしく偉い人に思はれるのだが、近附けば近附くだけ嫌になるやうな人柄の人が多い。軍が国民と全く遊離してゐるといふ時の軍人の典型は参謀である。全くの利己主義、独善主義、そして傲慢、而も立身に対する極端なる希求。早く、こんな型の軍人の消去るべき日の来らんことを」(1945年7月6日)、「軍人の視界は前方にだけ向いてゐる。その癖何でも知ってゐると自信満満。危いことはこの上もない」(同年6月14日)と言って憚らない。
当時、彼もまた参謀部第一課の情報将校であったのだが、日記のなかでは、「考へる葦としての個人」(1944年5月27日)であり、「個人の真実を求める心を晦〔引用者注:晦(くら)ま〕さうとする何(ど)んな力にも負けてはならない。常に彼等を批判して自己の道を何処迄も守らねばならない、思索は唯一の武器」(1943年5月18日)と思い定めていたのであった。
■終戦の詔書に対して思ったこと
このように外見は軍人であっても、内面はあくまで理性的個人であろうとし、常に第三者の視点から物事を批判的に捉えようとしていたところが林の日記のユニークさであり、あるときはビルマ中部のマンダレーが焼け野原となっているのを見て、「他国の戦争の為に美しい市を失った人達程戦争を最も悲惨に感ずる者はないであらう。
何としても戦争は野蛮なものである」(同年7月22日)と慨嘆し、またあるときは、肺病で没した駄馬「南洋」が、同じ病気に斃れた軍馬の墓と隣り合わせに葬られたのを見た誰かが、「同じ病気で死んだ二人が寝てゐる」と馬を人に喩えたのを聞いて、「可笑しい気持にはならなかった。暖かい気持は人と人の間だけではない」(同年9月12日)と述べるなど、ビルマ人や動物の立場にまで思いを巡らせているのも、そうした姿勢の現われであるといえよう。
1943年6月に林はラングーン河口で機雷に遭遇し、海中を1時間漂い救助されたのを皮切りに、戦場で射撃戦を体験したり、戦友の肩に担がれて陣地に収容される戦死者を見たりして、敗戦を予感するようになった。
したがって、モールメンで終戦の詔書が出たのを知っても「来るべきものが来たに過ぎ」(1945年8月17日)なかった。1945年9月にラングーン入りしてからは、「収容所でビルマの将軍連と単調なる日日」(1945年10月29日)を過ごしていたが、その一方で内心ではどう処遇されるか穏やかではなく、ある日一列に並ばされて首実検をされたときの恐怖は言葉では言い表せなかったと、後に回想している。
■偉大なイギリスと粗末な日本
1945年12月にラングーン、ウインドミア・パークからインセン収容所に移った林は、イギリス軍の衛兵の規律正しさと人柄の良さに感心している。
いわく、「収容所の衛兵は東アフリカ兵である。今迄無智蒙昧な民と想像してゐた彼等が、立派に訓練を受けて規律も正しい。友情にも厚い。今日も柵の中から見てゐると、お茶の時には席にゐないで、洗濯してゐる者の処へもお茶を運んでやって居た。物が豊富にある故かも知れないが、日本人だったら恐らくは其様なことはしなかったであらう。我我は、長い歴史の進展に於て何よりも教育に希望を置かなければならない」(1946年1月11日)。

また、世界で初めて産業革命を成功させたイギリスに対しても、「今日の大英帝国の背後には、夫々の領域に於て人類の進歩の為に献身した幾多の無名の人人があることを忘れてはならない。このやうな秀れた個人の力が、英帝国の柱石となってゐる」と褒める一方で、「日本には高い理想の為にのみ生きた人人に乏しい。日本が造った大東亜共栄圏が内面的にも甚だ不安で脆いものであったのも、こんな所にあるのではなからうか」(1946年10月9日)と自省している。
■本性を現したイギリス人
しかし、1946年4月12日に約3000人の日本兵がいるコカイン収容所に移り、さらに6月に同収容所から約2000人の兵士が復員した後も、残留作業隊の一員として抑留生活を送るなかで、彼のイギリスへの好感は揺らいでいく。
初めてコカイン収容所をみたとき、「三千人足らずの人間が殆ど草木の無い赤土の原の上に数列に並べられたテントやニッパ小屋に集って生活してゐる。真黒に陽に焼けて働いてゐる人人の群は、何か圧迫感を与へる。働いてゐる部隊の人人を見ると、大した仕事もしないで文句ばかり言ってゐる司令部の生活を恥ぢざるを得ない。同じ一劃(いっかく)に住み、同じ粗末な小屋に生活するだけでも良心の償ひになる」(1946年4月7日)と思ったという。
1946年夏にアーロン収容所からコカイン収容所に移った会田雄次(編集註:京都帝国大学卒。1943年に応召し、ビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍)は、イラワジ河岸のアーロン収容所は塵埃集積所と道一つ隔てたところにあり、悪臭と蠅がひどく、ヴィクトリア湖畔のコカイン収容所も家畜放牧場に接していて放尿所の悪臭が漂っていたと回想している。
会田はたくさん空き地があるなかで、あえてこのような場所を選んだイギリス軍当局の復讐心を嗅ぎ取っていた。
■「帰還」が唯一の拠り所
また、同じ頃にやはりアーロン収容所からコカイン収容所に移った病院付軍医の渡辺吉央(よしひろ)陸軍少尉によれば、「ここの労役作業はアーロンよりもかなりきびしく、警備状況は無論のこと、作業の監督も格段ときびしいもので、収容者は改めて“俘虜”の悲哀を身にしみて感じさせられることになった」、「一般収容者の労役作業は広範囲にわたった。
貨物廠関係物資の荷役。材料廠関係のいろいろな建設資材の運搬、整理。道路修理。建設作業。英人宿舎の雑役、便所掃除など、など。いまや将校、兵隊の区別もなく、みな歯を食いしばって働いた。中でも、英軍女子部隊の使役に当てられた者は、まるで召使いのようにアゴでこき使われ、下着の洗濯までさせられたといって、泣かんばかりに悲憤慷慨していたが、それでも、そうやって過ごしている一日一日が、刻々と帰還の日に近づいているという思いが、辛うじて皆の心の支えとなっていた」という。
コカイン収容所に入った林は、そこで新たに支給されたJSP(降伏日本軍人)の作業服にショックを受けたと、1946年10月23日の日記に記している。
■英人は立派な洋館でもビルマ人は…
上着には背に菱形に切抜いた後に黒い布が当ててある。ス(ママ)ボンには縦に太い黒筋が縫込んである。遠くからでも一目で分る訳である。之を着ると、囚人であるといふ気持が今更乍らしみじみと胸に耐(こた)へる。

私達の住まってゐる五つのニッパ小屋は、一雨期を越して竹の柱は傾き、扉はちぎれ、屋根には雨漏を防ぐ為のボロ布が醜く被せてある。散歩から帰って来る度につくづく乞食小屋だなと思ひ、うら淋しい気持になる。英人は立派な洋館に入ってゐるのに、ビルマ人は粗末なニッパ小屋に住まってゐる。世界中の人人が生活を保証され、正しく生き、学問と芸術を愛することが出来るやうになり、同胞として温かい心持を以て一つに繋がるやうにならねば嘘である。

「囚人服」と「乞食小屋」に身を落とした自己と「粗末なニッパ小屋」に暮らすビルマ人の境遇を重ね合わせる一方で、「洋館」にいる支配者であるイギリス人に懐疑的なまなざしを送っていた。
■淫売のズロースを洗濯させられて
さらにキャンプ北西の道路から離れたところにある有刺鉄線の柵の中の市場では、柵の向こう側のビルマ人やインド人相手に缶詰、被服、毛布などと煙草、酒、金の物々交換が行われていたが、「嘗ては『マスター』と呼掛けられた者が『マスター』と臆面もなく呼ばはってゐる。悲しかった、耐らなかった」(1946年11月15日)と、日本人と現地人の立場がすっかり逆転したことにショックを受けている。
ビルマ側に逃亡した兵士が、「ビルマ人とはどうしてもシックリ行かない、彼等の生活の低さには耐へられないところがある」(1946年12月24日)といって帰隊したということもあったが、もしかしたら彼我の立場がすっかり逆転していたことも影響していたのかもしれない。
1946年11月17日の日記には、ラングーン北方20キロメートルの日本軍の飛行場跡にある、鉄条網で囲まれたミンガラドン収容所からの帰り道での出来事が次のように綴られている。
追越した自動車から顔を出して一英市民が、Bastard!〔引用者注:ろくでなし!〕と憎しみの情を籠めて、而も驚く程の大声で怒鳴った。腹立たしいと共に紳士として尊敬して来た英国人から予期に反して裏切られた気持で余計に鉛を飲込むやうな気持だった。又キャンプで英人の将校以下の行状を見聞きするにつれ、紳士らしくない英国民が甚だ多いのではないかと思ふやうになった。
キャンプでは英人の兵に到る迄日本人を当番に使ひ、中には連込んだ淫売のズロースを洗濯させてゐる者もあるといふことである。
■まるで犬のような扱い
こうした記述からは日本兵たちが収容所の内外で敗者の辛酸を舐めていたことが窺い知れる。
会田雄次の『アーロン収容所』でも、イギリス軍の女性兵舎で洗濯していたら、裸同然の女性兵士がやってきて、ズロースをポイと放られた建具屋出身の兵長が、下着を洗わされたことにではなく、女性兵士の態度がまるで犬にでも渡すようだったことに激怒していたとのエピソードが出てくる。
こうして「尊敬を以て目してゐた英国からひどい仕打を受けやうとは。正しさや美しさは何処にあるのだらうか」(1946年11月8日)と、林のイギリスへの憧れは脆くも崩れ去り、「二〇世紀の奴隷とは私達のことである」(1947年2月14日)との心境に至るのである。

----------

林 英一(はやし・えいいち)

二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授

1984年、三重県生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。一橋大学博士(社会学)。インドネシア残留日本兵の研究で日本学術振興会育志賞受賞。著書に『残留日本兵の真実』『東部ジャワの日本人部隊』(ともに作品社)、『皇軍兵士とインドネシア独立戦争』(吉川弘文館)、『残留日本兵』(中公新書)、『戦犯の孫』(新潮新書)、『残留兵士の群像』(新曜社)など。

----------

(二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授 林 英一)
編集部おすすめ