テレビ宮崎の新社長に、30年以上「局の顔」として活躍してきた榎木田朱美さんが就任した。女性アナウンサー出身者が民放テレビ局の社長になるのは初めてという。
■地元宮崎で彼女を知らない人はいない
「榎木田アナ、UMKの社長にまでなって。なかなかのやり手だって前から思ってたよ」
榎木田さんに会いにUMKテレビ宮崎本社に向かう途中、タクシーの運転手とそんな会話があった。まさに時の人を語る口ぶりだ。6月20日の社長就任からわずか10日ほどのタイミングだったが、地元では当たり前のように知れ渡っている話のようだった。
それもそのはず。榎木田さんは1992年にテレビ宮崎にアナウンサーとして入社してから、局の顔として親しまれている存在だからだ。
平日の夕方、毎日生放送されるローカル報道・情報番組で1996年から18年間にわたってキャスターを勤め上げるなど、花形のキャリアを築いてきた。2006年にはFNS系列のアナウンスコンテストで「FNSアナウンス大賞」を受賞した実力の持ち主でもある。
■編成業務局長や報道制作局長などを歴任
三十数年のアナウンサー歴を持ち、華があり、いわゆる“テレビに出る人”だが、親しみやすさこそ彼女の持ち味。当たり前のように本人自ら受付から社長室まで案内する気さくな人柄だ。
社内のキャリアも華々しい。アナウンサーという専門性に加えて、企画プロデュース能力が買われ、出世街道まっしぐらだ。管理職として編成業務局長や報道制作局長などを歴任した後、2023年6月から取締役として経営に参画。それからわずか2年で平の取締役から飛び級昇進するかたちで社長の座を射止めた。
■役員になると「女性だしね」「時代だしね」
だが、本人の中では社長というポジションそのものにこだわっていたわけではなかった。その理由を問うと、即答だった。
「この会社を離れることを一度も考えたことはなくて。UMKが開局した年に生まれて、55周年の今年、社長になったというUMKの節目女なんです。我こそUMKぐらいに思っています。そもそも私、榎木田朱美の人生こそ『チェンジ&チャレンジ』なんです。
「チェンジ&チャレンジ」とは、テレビ宮崎が掲げている企業理念のこと。失敗を恐れず自ら進んで挑戦し続けてきた榎木田さん自身と重なるモットーでもあるのだ。
偏見を払拭する。それは榎木田さんにとって「チェンジ&チャレンジ」の1つと言っていい。
「女性社長という四文字で見られるんじゃないかと思うことは当然あります、役員になった時から“まあ女性だしね”“時代だしね”と言われていますからね」と、さらりと言いのける。そのくらい、キャスター時代から変革を求め、変化をもたらしてきた。
■トップニュースを読むのは必ず男性キャスター
「当時はキャスターといっても、女性キャスターは常にセカンドポジションでした。選挙番組だったら、票を読むだけの役割。トップニュースを読むのは必ず男性キャスターでした。座る位置に至っても上座に男性が座って、下座が女性という。どうやったら自分がトップニュースを読めようになるのか、とにかく考えました」
行き着いた答えはトップニュースを自分が書くということ。
「取材現場で走り回って、トップを抜くことだけを目指しました。
それからの彼女は水を得た魚のようだった。特集を担当するようにもなり、2時間の生放送特番を自ら手掛けるまで突き進んでいった。お飾りの女性キャスターはもういなかった。
土地柄、台風中継も多い。局の中で台風中継をリポートした初めての女性アナウンサーでもある。ヘルメットを被り、吹き荒れる暴風雨のなか、なりふり構わず何度もカメラの前に立った。
「女性が台風中継をするのは危ないという理由だけだったので、私行きます!っと言ってやり始めました。それをテレビで見た祖父から『やめなさい』と言われたりもしましたが、やるべきことを続けたまでです」
■女性が男性より1時間先に出社した理由
このエピソードを聞いてふと思い浮かぶのが、「さすが九州」を略して「さす九」という九州地方の男性の男尊女卑を揶揄した言葉だ。生まれも育ちも九州、そもそも宮崎から一歩も出たことがない榎木田さんは「さす九」を実感することがあるのか尋ねると、眉をひそめた。
「九州をそんな風にカテゴライズするっていうのは、ちょっと違うかなと思っています。
一方、事実として存在する組織上の男性社会に対しては思うところがある。
「いまだに九州の経済界はほとんどが男性です。他の地域よりも遅れている感覚があるのかもしれません。今はさすがに変わりましたが、入社当時は女性だけが男性より1時間先に出社し、お茶と灰皿を交換して机を拭く作業が存在していました」
■男性スタッフから受けたセクハラ
そんな昭和的働き方が蔓延っていた時代に、セクシュアルハラスメント行為に対して声を上げたことがあった。今から二十数年前、榎木田さんが20代後半だった頃、取材中に起こったことだった。
後ろにいた男性の番組スタッフに「早く行け」と機材でお尻を押されたのだという。
その場では受け流さざるを得なかったが、すぐに会社に申し出る。「ただね、忘れもしない」と告白は続く。
「社内でいろいろな反応がありました。でも納得できずにいたところ、最終的には『あり得えない』と問題化してもらうことができて。
■寿退社ルールを変え、産休育休制度を作った
昨今のフジテレビ問題を受けてセクハラに対する事の大きさがようやく取り沙汰されているが、当時は泣き寝入りがある意味、当たり前だった。取材現場にいる女性の数自体も少なかった。相当な勇気が必要だったことが想像できる。
榎木田さんの「チェンジ&チャレンジ」はこれだけに終わらない。働くひとりの女性として生きることも妥協しない。家庭と両立しやすい働き方に変えたのだ。自身が結婚を考えたタイミングに上司に伝えたのがこの言葉。
「結婚しようと思っているんですけど、キャスターを辞めないといけないなら、結婚を辞めようと思っているんです。どうしましょうか?」
交渉文句として考えた末、口に出したものだった。ノーを言わせない自信があっただけじゃない。社内にあった寿退社という暗黙のルールを打ち破りたかったのだ。
産休・育休制度を利用した第1号にもなった。
「出産前は、実を言うと利用することは考えていなかったんです。すぐに復帰するつもりでした。でも、実際に産んだら、そう簡単ではないことを知りました。子どもの心臓に疾患が見つかり、数カ月間だけでも子どもに専念しようと、制度作りを社内に働きかけたんです」
復帰後も子育てはもちろん続く。キャスターと母親業を両立させるのはそう簡単なことではなかった。
■娘を「キャンプだよ」とだまして子連れ出社
「通常、保育園で預かってもらえるのは夕方6時まで。でも、ニュース番組は7時まで続き、放送後の反省会を含めると早くても7時半までかかります。どこで子どもを預かってもらえるのか探していたら、家族で経営されている保育所が見つかって。その時、言っていただいた言葉は今でも忘れられません。『榎木田朱美の子育てを全力で、みんなで応援する』って。本当に有難いことです」
地元宮崎でお茶の間の顔である榎木田さんならではの幸運かもしれない。ただし、運に任せるだけで母親業は務まらない。
子どもが小学生になった時だ。大きな仕事を受け、会社に泊まり込みせざるを得なかったものの預け先が見つからない。子どもは「ママといたい」とせがむ。結局、子連れ出社することを決めた。
「娘には“キャンプだよ”と言ってだまして、くまのプーさん柄の寝袋に入ってもらって。翌朝、学校に送り出しました」
■局長職に昇進した後、番組を降ろされた
仕事も第一線、子育てにも全力を注ぐ。「38歳で母親になってからは、子どもファーストです」とまで言い切る。
「周りに助けられ、周りも巻き込み、働き方への意識が変わりました。子育てしてなかったら、今の私はない。おごり高ぶっていたと思います」
自身の子育て経験を活かした番組「ママテレ」では、統括兼MCをつとめる。社長になった今も出演を続けていく考えだ。
常に先頭を走り続けてきた印象が強いが、立ち止まった時が実はあった。2021年に局長職に昇進した後のことだ。
「その時、誰がどう決めたわけでもなく、誰かに降りなさいと言われたわけではなかったのですが、長年看板をやらせてもらっていた番組を降りることになって。自分の存在意義がわからなくなってしまったんです。女性社員の皆には見せたくない姿でした。女性が昇格していくと、あんな目に遭うのかって思ってもらいたくなかったから。けど結局、休んでしまって。自分をごまかそうとしてもワケもわからず涙が出てくるし、夜も眠れなくて」
3カ月ほど会社を休み、病院でうつ病の診断を受け、治療を続けた。
■「大変だったら大変って言えばいい」
復帰できたきっかけに、とあるテレビ局の女性役員の支えもあった。
「毎日、LINEでメッセージをくれたんです。同じような経験をされていて、『責任感と正義感が強く、頑張るタイプの人は通る道。女性役員として近い存在で話ができるのは私しかいないし、本当に何でも言って欲しい。ずっとそばにいるから』って毎日のように言ってくださって。この言葉がなかったら、立ち上がれなかったかもしれない」
当時の気持ちを思い出し、時折、涙ぐむ姿を見せながらも、「闇の3カ月間だった」と今は冷静に振り返ることができる。この経験もテレビ宮崎の社長、榎木田朱美を作り上げているのだろう。
「確かに今の自分を支えてくれています。大変だったら大変って言えばいいし、できないことはできないって言えばいい。助けてもらいたい時は助けてほしいって。そう、はじめて思えたんです」
「でもね」と、改まった面持ちで言葉を続けた。
「人の痛みがわかる人間になれたと勝手に思っていたのですが、戦闘車のようにわーっとついまた動き出してしまう自分もいる。社長という立場になった今、周りを見渡し、考えて温めて動けるよう変えていかなきゃいけないと思っているところです」
これが彼女の新たな「チェンジ&チャレンジ」だ。社内には彼女を信じて共に走ろうとする仲間がいる。だからこそ気づいたことでもある。酸いも甘いもこれまでの経験すべてを糧に、“女子アナ”から駆け上ってきた”最強の社長”が誕生していた。
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長谷川 朋子(はせがわ・ともこ)
テレビ業界ジャーナリスト
コラムニスト、放送ジャーナル社取締役、Tokyo Docs理事。1975年生まれ。ドラマ、バラエティー、ドキュメンタリー番組制作事情をテーマに、国内外の映像コンテンツビジネスの仕組みなどの分野で記事を執筆。東洋経済オンラインやForbesなどで連載をもつ。仏カンヌの番組見本市MIP取材を約10年続け、番組審査員や業界セミナー講師、行政支援プロジェクトのファシリテーターも務める。著書に『NETFLIX 戦略と流儀』(中公新書ラクレ)などがある。
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(テレビ業界ジャーナリスト 長谷川 朋子)
昨今のフジテレビ問題で“引き立て役”の実態が明らかになった“女子アナ”から、どうやってトップに上り詰めたのか。メディアジャーナリスト長谷川朋子さんが取材した――。(第1回/全2回)
■地元宮崎で彼女を知らない人はいない
「榎木田アナ、UMKの社長にまでなって。なかなかのやり手だって前から思ってたよ」
榎木田さんに会いにUMKテレビ宮崎本社に向かう途中、タクシーの運転手とそんな会話があった。まさに時の人を語る口ぶりだ。6月20日の社長就任からわずか10日ほどのタイミングだったが、地元では当たり前のように知れ渡っている話のようだった。
それもそのはず。榎木田さんは1992年にテレビ宮崎にアナウンサーとして入社してから、局の顔として親しまれている存在だからだ。
平日の夕方、毎日生放送されるローカル報道・情報番組で1996年から18年間にわたってキャスターを勤め上げるなど、花形のキャリアを築いてきた。2006年にはFNS系列のアナウンスコンテストで「FNSアナウンス大賞」を受賞した実力の持ち主でもある。
■編成業務局長や報道制作局長などを歴任
三十数年のアナウンサー歴を持ち、華があり、いわゆる“テレビに出る人”だが、親しみやすさこそ彼女の持ち味。当たり前のように本人自ら受付から社長室まで案内する気さくな人柄だ。
カメラが向けられていようがいまいが、はじける笑顔を見せる。周りから「姐さん」と言われる存在であることに納得もする。
社内のキャリアも華々しい。アナウンサーという専門性に加えて、企画プロデュース能力が買われ、出世街道まっしぐらだ。管理職として編成業務局長や報道制作局長などを歴任した後、2023年6月から取締役として経営に参画。それからわずか2年で平の取締役から飛び級昇進するかたちで社長の座を射止めた。
■役員になると「女性だしね」「時代だしね」
だが、本人の中では社長というポジションそのものにこだわっていたわけではなかった。その理由を問うと、即答だった。
「この会社を離れることを一度も考えたことはなくて。UMKが開局した年に生まれて、55周年の今年、社長になったというUMKの節目女なんです。我こそUMKぐらいに思っています。そもそも私、榎木田朱美の人生こそ『チェンジ&チャレンジ』なんです。
これまでずっと」
「チェンジ&チャレンジ」とは、テレビ宮崎が掲げている企業理念のこと。失敗を恐れず自ら進んで挑戦し続けてきた榎木田さん自身と重なるモットーでもあるのだ。
偏見を払拭する。それは榎木田さんにとって「チェンジ&チャレンジ」の1つと言っていい。
「女性社長という四文字で見られるんじゃないかと思うことは当然あります、役員になった時から“まあ女性だしね”“時代だしね”と言われていますからね」と、さらりと言いのける。そのくらい、キャスター時代から変革を求め、変化をもたらしてきた。
■トップニュースを読むのは必ず男性キャスター
「当時はキャスターといっても、女性キャスターは常にセカンドポジションでした。選挙番組だったら、票を読むだけの役割。トップニュースを読むのは必ず男性キャスターでした。座る位置に至っても上座に男性が座って、下座が女性という。どうやったら自分がトップニュースを読めようになるのか、とにかく考えました」
行き着いた答えはトップニュースを自分が書くということ。
「取材現場で走り回って、トップを抜くことだけを目指しました。
はじめはネタを出しても採用されなかったことはしょっちゅう。書き上げた紙の原稿用紙がボツになることもありました。それでも続けていくうちにようやく特ダネを抜くことができたんです」
それからの彼女は水を得た魚のようだった。特集を担当するようにもなり、2時間の生放送特番を自ら手掛けるまで突き進んでいった。お飾りの女性キャスターはもういなかった。
土地柄、台風中継も多い。局の中で台風中継をリポートした初めての女性アナウンサーでもある。ヘルメットを被り、吹き荒れる暴風雨のなか、なりふり構わず何度もカメラの前に立った。
「女性が台風中継をするのは危ないという理由だけだったので、私行きます!っと言ってやり始めました。それをテレビで見た祖父から『やめなさい』と言われたりもしましたが、やるべきことを続けたまでです」
■女性が男性より1時間先に出社した理由
このエピソードを聞いてふと思い浮かぶのが、「さすが九州」を略して「さす九」という九州地方の男性の男尊女卑を揶揄した言葉だ。生まれも育ちも九州、そもそも宮崎から一歩も出たことがない榎木田さんは「さす九」を実感することがあるのか尋ねると、眉をひそめた。
「九州をそんな風にカテゴライズするっていうのは、ちょっと違うかなと思っています。
実家は両親2人で呉服屋を営んでいて、母がいないと商売が回っていなかったほど。母からは『絶対大学に行きなさい。女性も自分で自分の食い扶持を稼げるようになりなさい』と言われていました」
一方、事実として存在する組織上の男性社会に対しては思うところがある。
「いまだに九州の経済界はほとんどが男性です。他の地域よりも遅れている感覚があるのかもしれません。今はさすがに変わりましたが、入社当時は女性だけが男性より1時間先に出社し、お茶と灰皿を交換して机を拭く作業が存在していました」
■男性スタッフから受けたセクハラ
そんな昭和的働き方が蔓延っていた時代に、セクシュアルハラスメント行為に対して声を上げたことがあった。今から二十数年前、榎木田さんが20代後半だった頃、取材中に起こったことだった。
後ろにいた男性の番組スタッフに「早く行け」と機材でお尻を押されたのだという。
その場では受け流さざるを得なかったが、すぐに会社に申し出る。「ただね、忘れもしない」と告白は続く。
「社内でいろいろな反応がありました。でも納得できずにいたところ、最終的には『あり得えない』と問題化してもらうことができて。
空気を読んだまま我慢することは決して会社にとって正しいことじゃないって思ったんです」
■寿退社ルールを変え、産休育休制度を作った
昨今のフジテレビ問題を受けてセクハラに対する事の大きさがようやく取り沙汰されているが、当時は泣き寝入りがある意味、当たり前だった。取材現場にいる女性の数自体も少なかった。相当な勇気が必要だったことが想像できる。
榎木田さんの「チェンジ&チャレンジ」はこれだけに終わらない。働くひとりの女性として生きることも妥協しない。家庭と両立しやすい働き方に変えたのだ。自身が結婚を考えたタイミングに上司に伝えたのがこの言葉。
「結婚しようと思っているんですけど、キャスターを辞めないといけないなら、結婚を辞めようと思っているんです。どうしましょうか?」
交渉文句として考えた末、口に出したものだった。ノーを言わせない自信があっただけじゃない。社内にあった寿退社という暗黙のルールを打ち破りたかったのだ。
産休・育休制度を利用した第1号にもなった。
「出産前は、実を言うと利用することは考えていなかったんです。すぐに復帰するつもりでした。でも、実際に産んだら、そう簡単ではないことを知りました。子どもの心臓に疾患が見つかり、数カ月間だけでも子どもに専念しようと、制度作りを社内に働きかけたんです」
復帰後も子育てはもちろん続く。キャスターと母親業を両立させるのはそう簡単なことではなかった。
■娘を「キャンプだよ」とだまして子連れ出社
「通常、保育園で預かってもらえるのは夕方6時まで。でも、ニュース番組は7時まで続き、放送後の反省会を含めると早くても7時半までかかります。どこで子どもを預かってもらえるのか探していたら、家族で経営されている保育所が見つかって。その時、言っていただいた言葉は今でも忘れられません。『榎木田朱美の子育てを全力で、みんなで応援する』って。本当に有難いことです」
地元宮崎でお茶の間の顔である榎木田さんならではの幸運かもしれない。ただし、運に任せるだけで母親業は務まらない。
子どもが小学生になった時だ。大きな仕事を受け、会社に泊まり込みせざるを得なかったものの預け先が見つからない。子どもは「ママといたい」とせがむ。結局、子連れ出社することを決めた。
「娘には“キャンプだよ”と言ってだまして、くまのプーさん柄の寝袋に入ってもらって。翌朝、学校に送り出しました」
■局長職に昇進した後、番組を降ろされた
仕事も第一線、子育てにも全力を注ぐ。「38歳で母親になってからは、子どもファーストです」とまで言い切る。
「周りに助けられ、周りも巻き込み、働き方への意識が変わりました。子育てしてなかったら、今の私はない。おごり高ぶっていたと思います」
自身の子育て経験を活かした番組「ママテレ」では、統括兼MCをつとめる。社長になった今も出演を続けていく考えだ。
常に先頭を走り続けてきた印象が強いが、立ち止まった時が実はあった。2021年に局長職に昇進した後のことだ。
「その時、誰がどう決めたわけでもなく、誰かに降りなさいと言われたわけではなかったのですが、長年看板をやらせてもらっていた番組を降りることになって。自分の存在意義がわからなくなってしまったんです。女性社員の皆には見せたくない姿でした。女性が昇格していくと、あんな目に遭うのかって思ってもらいたくなかったから。けど結局、休んでしまって。自分をごまかそうとしてもワケもわからず涙が出てくるし、夜も眠れなくて」
3カ月ほど会社を休み、病院でうつ病の診断を受け、治療を続けた。
■「大変だったら大変って言えばいい」
復帰できたきっかけに、とあるテレビ局の女性役員の支えもあった。
「毎日、LINEでメッセージをくれたんです。同じような経験をされていて、『責任感と正義感が強く、頑張るタイプの人は通る道。女性役員として近い存在で話ができるのは私しかいないし、本当に何でも言って欲しい。ずっとそばにいるから』って毎日のように言ってくださって。この言葉がなかったら、立ち上がれなかったかもしれない」
当時の気持ちを思い出し、時折、涙ぐむ姿を見せながらも、「闇の3カ月間だった」と今は冷静に振り返ることができる。この経験もテレビ宮崎の社長、榎木田朱美を作り上げているのだろう。
「確かに今の自分を支えてくれています。大変だったら大変って言えばいいし、できないことはできないって言えばいい。助けてもらいたい時は助けてほしいって。そう、はじめて思えたんです」
「でもね」と、改まった面持ちで言葉を続けた。
「人の痛みがわかる人間になれたと勝手に思っていたのですが、戦闘車のようにわーっとついまた動き出してしまう自分もいる。社長という立場になった今、周りを見渡し、考えて温めて動けるよう変えていかなきゃいけないと思っているところです」
これが彼女の新たな「チェンジ&チャレンジ」だ。社内には彼女を信じて共に走ろうとする仲間がいる。だからこそ気づいたことでもある。酸いも甘いもこれまでの経験すべてを糧に、“女子アナ”から駆け上ってきた”最強の社長”が誕生していた。
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長谷川 朋子(はせがわ・ともこ)
テレビ業界ジャーナリスト
コラムニスト、放送ジャーナル社取締役、Tokyo Docs理事。1975年生まれ。ドラマ、バラエティー、ドキュメンタリー番組制作事情をテーマに、国内外の映像コンテンツビジネスの仕組みなどの分野で記事を執筆。東洋経済オンラインやForbesなどで連載をもつ。仏カンヌの番組見本市MIP取材を約10年続け、番組審査員や業界セミナー講師、行政支援プロジェクトのファシリテーターも務める。著書に『NETFLIX 戦略と流儀』(中公新書ラクレ)などがある。
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(テレビ業界ジャーナリスト 長谷川 朋子)
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