江戸で唯一公認された遊里、吉原では頻繁に火事が発生した。歴史評論家の香原斗志さんは「特に江戸後期になって放火による火災が頻発する。
■コメの値段が高騰するたびに娘が女郎屋に売られた
いまも物価高に米価高騰で、庶民の暮らしが圧迫されているが、江戸時代に災害や飢饉が発生すれば、庶民が受けるダメージは、今日とはまるで比較にならないほど大きなものだった。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、現在、天明2年(1782)から8年(1788)に発生した天明の大飢饉の時代が描かれており、田沼意次(渡辺謙)と意知(宮沢氷魚)父子の政治が批判されたのも、もとはといえば飢饉が原因だった。
第28回「佐野世直大明神」(7月26日放送)でも、飢饉のためにもたらされた状況は、いくつも描写された。小田新之助(井之脇海)と吉原から足抜けしたうつせみこと「ふく」(小野花梨)のカップルは、浅間山の麓で百姓をしていたが、噴火とその後の飢饉を受けて村を追い出され、江戸に戻ってきた。
また、江戸の町のあちこちを物乞いが歩く情景が映され、町を歩く女性の「それにしても物乞いも多いねえ」というセリフも流された。
飢饉に見舞われた農村では、当たり前のように口減らし(家計の負担を軽くするために、養う人数を減らすこと)が行われた。新之助と「ふく」のように地域から追い出されるのも、広い意味での口減らしといえる。同時に、家族単位でも人減らしは行われ、飢饉で食糧が不足したり、米価が高騰したりするたびに、農村では娘を妓楼(女郎屋)に売るケースが増えたのだった。
■大人が子供を殺して食べた
まず、天明の大飢饉がどんな惨状をもたらしたかを知るために、農村の様子を記したい。江戸時代後期の旅行家で本草学者の菅江真澄が著した『楚堵賀浜風』には、津軽地方(青森県西部)のある村の状況が、概ね以下のように書かれている。天明5年(1785)に、田沼意知が惨殺された前年、および前々年が回想されたものだ。
この村には80軒ほどあるが、(農耕や運搬用の)馬の肉を食べなかったのは、我が家を入れて7~8軒もない。大雪の上に死んだ馬を置いておくと、女が大勢集まって菜包丁や魚包丁で肉のいい部分を争って切り取り、血が流れる腕にかかえて帰っていく。
路上に転がる遺体を犬が顔を突っ込んで食い歩き、血に染まった顔で吠えるのが恐ろしい。今年もこの凶作を上回るようなことになれば、蕨や葛の根も堀り尽くしたので、あざみの葉や女郎花を食べるしかない――。
また、同時期の仙台藩の様子を記した仙台藩士の源意成の『飢饉禄』には、次のように記されている。天明3年(1783)10月から餓死者がだんだん出るようになり、翌4年閏正月までに多く死亡し、4月、5月には5~6歳から12~13歳くらいの子供が倒れて死ぬ事例も目立つようになり、領内で14万~15万人が死んだ。また、天明4年3月中旬からは疫病が流行し、餓死者と合わせると、領内で30万人が死んだ――。
杉田玄白の『後見草』には、腹が減って半狂乱になった大人が子供を殺して食べた、という記述さえある。
■喜多川歌麿も「無宿」だった
飢饉によって農村が疲弊したときほど女衒、すなわち農漁村を歩き回って女児を買い漁り、必要とする場所に売る仲介者が暗躍したといわれる。生活に窮して口減らしをしたい親から幼い娘を預かって、吉原などの妓楼に売り飛ばしたのである。
女衒を介さない事例もあった。その際、「無宿」という言葉がカギになる。
江戸時代、公家、武家、その従者、15歳以下は人別帳の対象外だったので、人別帳とはつまり成人した平民の戸籍簿だった。幕府はこれを当初、キリシタン取り締まりのために利用し、のちには人口調査のために使った。
そして飢饉が起きると、生活に窮した貧農らが、少しでも食べられる場所に移動しようとして「無宿」になる例が激増した。そうして江戸などの都市部に流れ着き、底辺の娼婦である夜鷹を含め、私娼になるケースは少なくなかった。
■田沼時代の終焉とともに起きたこと
吉原はいうまでもなく、江戸で唯一公認された遊里だったが、現実には、遊女は江戸の各所にいた。吉原以外の非公認の遊里は岡場所と呼ばれ、有名なのは江戸四宿と呼ばれた品川、内藤新宿、板橋、千住の宿場だった。そこには飯盛女と呼ばれた私娼がいて、とくに飯盛女に関しては、宿場を活性化する観点から、幕府は事実上黙認していた。
とくに風紀の取り締まりが厳しくなかった田沼意次の施政下では、飯盛女にせよ、夜鷹にせよ、私娼の存在は放任状態になっていた。そこに天明の大飢饉が発生したので、田沼時代に私娼の数はかなり増えたようだ。
ところが、田沼意知が佐野政言に斬殺されたのち、とりわけ意次の失脚後、老中になった松平定信による寛政の改革がはじまると、江戸に80カ所余りあったとされる岡場所のうち、55カ所が取り潰しになった。
1987年に雑誌『朝日ジャーナル』に掲載された記事「吉原の仮宅」(宮本由紀子)によれば、天明7年(1787)に2597人だった吉原の女郎の数は、享和3年(1803)には5473人に増えている。16年で2倍以上に膨れ上がったのである。
■女郎の質がかなり低下
しかも、天明7年には2597人のうち、下層の女郎は991人にすぎなかったのが、享和3年には4005人にまで増えている。その理由は以下のように説明できる。
天明の大飢饉で疲弊した農村から江戸にやってきて、遊女になる女性が増えた。女衒を介して吉原や岡場所に売られたケースもあれば、無宿となって江戸に流れ着き、食べるために私娼になったケースもあった。だが、公認の遊里である吉原以外の岡場所の多くが、寛政の改革の取り締まりで取り潰されたため、私娼の多くは吉原に流れ込むことになった。
「べらぼう」では蔦重が、吉原を改善したいという決意をたびたび表明してきた。だが、実際には、吉原では蔦重の時代以降、上に記した理由で女郎の質がかなり低下し、高級な遊里であったはずの吉原が、岡場所のような存在になっていったといえる。
こうして下層の女郎が急増したことは、吉原の火災の増加とも関係があると思われる。
■吉原で放火事件が急増したワケ
吉原が日本橋人形町のあたりにあった元吉原から、浅草の新吉原に移ったのは、明暦3年(1657)のこと。
なかでも、文化文政時代(1804~30)から慶応2年までの10回の火事は、主犯についての記録が残されており、いずれも遊女の付け火とされている。この時期は吉原の女郎の数が、それも下層の女郎の数が激増した時期とピタリと重なる。
たとえば――。文化2年(1805)6月9日には吉原京町二丁目で、花乃井という女郎が事件を起こした。新参の女郎で奉公に苦労し、仕事も休みがちになっていた花乃井は、若松という女郎に放火してくれと頼んだ。若松は引き受けたものの、花乃井が火をつける木を持参したとき、うっかり寝入ってしまっていた。結果、放火には至らず、若松が百日押込の処分を受けた。
しかし、同年、同じ妓楼でまた事件が起きた。いち乃という若い女郎は体が痛いのに働かされ、放火におよんだ。ゴミ箱のなかの木綿に火をつけたもので、普通なら死罪になるところが、15歳以下だったので遠島になった。
こんな事件が無数に発生する場所に、吉原はなっていった。その直接の契機は天明の大飢饉だったといえる。蔦重の夢は叶わなかったのである。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
それは吉原で働く女郎が急増したことが深く関係している」という――。
■コメの値段が高騰するたびに娘が女郎屋に売られた
いまも物価高に米価高騰で、庶民の暮らしが圧迫されているが、江戸時代に災害や飢饉が発生すれば、庶民が受けるダメージは、今日とはまるで比較にならないほど大きなものだった。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、現在、天明2年(1782)から8年(1788)に発生した天明の大飢饉の時代が描かれており、田沼意次(渡辺謙)と意知(宮沢氷魚)父子の政治が批判されたのも、もとはといえば飢饉が原因だった。
第28回「佐野世直大明神」(7月26日放送)でも、飢饉のためにもたらされた状況は、いくつも描写された。小田新之助(井之脇海)と吉原から足抜けしたうつせみこと「ふく」(小野花梨)のカップルは、浅間山の麓で百姓をしていたが、噴火とその後の飢饉を受けて村を追い出され、江戸に戻ってきた。
また、江戸の町のあちこちを物乞いが歩く情景が映され、町を歩く女性の「それにしても物乞いも多いねえ」というセリフも流された。
飢饉に見舞われた農村では、当たり前のように口減らし(家計の負担を軽くするために、養う人数を減らすこと)が行われた。新之助と「ふく」のように地域から追い出されるのも、広い意味での口減らしといえる。同時に、家族単位でも人減らしは行われ、飢饉で食糧が不足したり、米価が高騰したりするたびに、農村では娘を妓楼(女郎屋)に売るケースが増えたのだった。
■大人が子供を殺して食べた
まず、天明の大飢饉がどんな惨状をもたらしたかを知るために、農村の様子を記したい。江戸時代後期の旅行家で本草学者の菅江真澄が著した『楚堵賀浜風』には、津軽地方(青森県西部)のある村の状況が、概ね以下のように書かれている。天明5年(1785)に、田沼意知が惨殺された前年、および前々年が回想されたものだ。
この村には80軒ほどあるが、(農耕や運搬用の)馬の肉を食べなかったのは、我が家を入れて7~8軒もない。大雪の上に死んだ馬を置いておくと、女が大勢集まって菜包丁や魚包丁で肉のいい部分を争って切り取り、血が流れる腕にかかえて帰っていく。
路上に転がる遺体を犬が顔を突っ込んで食い歩き、血に染まった顔で吠えるのが恐ろしい。今年もこの凶作を上回るようなことになれば、蕨や葛の根も堀り尽くしたので、あざみの葉や女郎花を食べるしかない――。
また、同時期の仙台藩の様子を記した仙台藩士の源意成の『飢饉禄』には、次のように記されている。天明3年(1783)10月から餓死者がだんだん出るようになり、翌4年閏正月までに多く死亡し、4月、5月には5~6歳から12~13歳くらいの子供が倒れて死ぬ事例も目立つようになり、領内で14万~15万人が死んだ。また、天明4年3月中旬からは疫病が流行し、餓死者と合わせると、領内で30万人が死んだ――。
杉田玄白の『後見草』には、腹が減って半狂乱になった大人が子供を殺して食べた、という記述さえある。
■喜多川歌麿も「無宿」だった
飢饉によって農村が疲弊したときほど女衒、すなわち農漁村を歩き回って女児を買い漁り、必要とする場所に売る仲介者が暗躍したといわれる。生活に窮して口減らしをしたい親から幼い娘を預かって、吉原などの妓楼に売り飛ばしたのである。
女衒を介さない事例もあった。その際、「無宿」という言葉がカギになる。
「べらぼう」でいえば、染谷将太が演じる喜多川歌麿が当初、無宿として描かれていた。無宿とは、江戸時代の戸籍簿である人別帳に記載がない者で、「べらぼう」では蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が、逃亡した別の人物の人別を歌麿にあたえ、彼を人別帳に登録することに成功していた。
江戸時代、公家、武家、その従者、15歳以下は人別帳の対象外だったので、人別帳とはつまり成人した平民の戸籍簿だった。幕府はこれを当初、キリシタン取り締まりのために利用し、のちには人口調査のために使った。
そして飢饉が起きると、生活に窮した貧農らが、少しでも食べられる場所に移動しようとして「無宿」になる例が激増した。そうして江戸などの都市部に流れ着き、底辺の娼婦である夜鷹を含め、私娼になるケースは少なくなかった。
■田沼時代の終焉とともに起きたこと
吉原はいうまでもなく、江戸で唯一公認された遊里だったが、現実には、遊女は江戸の各所にいた。吉原以外の非公認の遊里は岡場所と呼ばれ、有名なのは江戸四宿と呼ばれた品川、内藤新宿、板橋、千住の宿場だった。そこには飯盛女と呼ばれた私娼がいて、とくに飯盛女に関しては、宿場を活性化する観点から、幕府は事実上黙認していた。
とくに風紀の取り締まりが厳しくなかった田沼意次の施政下では、飯盛女にせよ、夜鷹にせよ、私娼の存在は放任状態になっていた。そこに天明の大飢饉が発生したので、田沼時代に私娼の数はかなり増えたようだ。
ところが、田沼意知が佐野政言に斬殺されたのち、とりわけ意次の失脚後、老中になった松平定信による寛政の改革がはじまると、江戸に80カ所余りあったとされる岡場所のうち、55カ所が取り潰しになった。
仕事を失った女郎たちは吉原に流れるケースが多く、その後、吉原の女郎の数は激増していく。
1987年に雑誌『朝日ジャーナル』に掲載された記事「吉原の仮宅」(宮本由紀子)によれば、天明7年(1787)に2597人だった吉原の女郎の数は、享和3年(1803)には5473人に増えている。16年で2倍以上に膨れ上がったのである。
■女郎の質がかなり低下
しかも、天明7年には2597人のうち、下層の女郎は991人にすぎなかったのが、享和3年には4005人にまで増えている。その理由は以下のように説明できる。
天明の大飢饉で疲弊した農村から江戸にやってきて、遊女になる女性が増えた。女衒を介して吉原や岡場所に売られたケースもあれば、無宿となって江戸に流れ着き、食べるために私娼になったケースもあった。だが、公認の遊里である吉原以外の岡場所の多くが、寛政の改革の取り締まりで取り潰されたため、私娼の多くは吉原に流れ込むことになった。
「べらぼう」では蔦重が、吉原を改善したいという決意をたびたび表明してきた。だが、実際には、吉原では蔦重の時代以降、上に記した理由で女郎の質がかなり低下し、高級な遊里であったはずの吉原が、岡場所のような存在になっていったといえる。
こうして下層の女郎が急増したことは、吉原の火災の増加とも関係があると思われる。
■吉原で放火事件が急増したワケ
吉原が日本橋人形町のあたりにあった元吉原から、浅草の新吉原に移ったのは、明暦3年(1657)のこと。
以後、延宝4年(1676)から慶応2年(1866)までの190年間に、22回も全焼している。注目すべきは、そのうち18回は明和5年(1768)から慶応2年までの100年足らずの間に発生した、という史実である。
なかでも、文化文政時代(1804~30)から慶応2年までの10回の火事は、主犯についての記録が残されており、いずれも遊女の付け火とされている。この時期は吉原の女郎の数が、それも下層の女郎の数が激増した時期とピタリと重なる。
たとえば――。文化2年(1805)6月9日には吉原京町二丁目で、花乃井という女郎が事件を起こした。新参の女郎で奉公に苦労し、仕事も休みがちになっていた花乃井は、若松という女郎に放火してくれと頼んだ。若松は引き受けたものの、花乃井が火をつける木を持参したとき、うっかり寝入ってしまっていた。結果、放火には至らず、若松が百日押込の処分を受けた。
しかし、同年、同じ妓楼でまた事件が起きた。いち乃という若い女郎は体が痛いのに働かされ、放火におよんだ。ゴミ箱のなかの木綿に火をつけたもので、普通なら死罪になるところが、15歳以下だったので遠島になった。
この事件にも花乃井がからんでいたらしい。
こんな事件が無数に発生する場所に、吉原はなっていった。その直接の契機は天明の大飢饉だったといえる。蔦重の夢は叶わなかったのである。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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