1年半の長く厳しい交渉を経て、2025年6月、日本製鉄がUSスチールの買収を完了した。大統領選当初から買収に反対していたトランプ大統領が、承認した。
■6月に起こった、大どんでん返し
20世紀初頭に米鉄鋼業の輝かしい栄光の時代を築いたものの、今や凋落して自力では再生できなくなった名門の大手USスチール。わが国最大の鉄鋼メーカーである日本製鉄が6月に、先行きの暗い同社を買収し、完全子会社化した。
長くもめ続けたディールを承認したのは、2024年2月に米大統領候補として、「日本製鉄によるUSスチールの買収阻止」を公約に掲げた、現大統領のドナルド・トランプ氏その人である。
製造業の米国回帰による国家再興を目指すトランプ氏にとって、およそすべての重工業の基礎である鉄鋼は国家安全保障の要だ。2025年1月の大統領就任後も外国企業の日本製鉄にUSスチールの経営権を握らせないとの立場であった。
風向きが変わったのは、4月。トランプ大統領が対米投資案件の安全保障上のリスクの適否を決定する対米外国投資委員会(CFIUS)に対し、当該案件の再審査を命じたのだ。買収計画については、1月、バイデン前大統領が中止を命じていた。
それを受けてCFIUSは5月に、「安全保障上のリスクは軽減策をとることで対処が可能」と答申。そして6月、「経営上の重要事項について米政府が強い拒否権を握る黄金株を1株保有する」ことを条件に、トランプ大統領が「USスチールの完全子会社化」を承認するという、どんでん返しが起こったのだ。
いったんは破談になった買収話が、なぜ復活したのか。
その裏には、トランプ大統領に対する粘り強い陳情を続けたUSスチールの現場労働者たちの存在があった。
■大統領を動かした“一本の記事”
トランプ大統領がCFIUSに日本製鉄のUSスチール買収案件を再審査するよう命じた4月7日、ワシントン・ポストに、「ペンシルベニア州の製鉄所で『米国第一』について私が学んだこと」と題する1本の長文記事が掲載された。
ワシントン・ポストといえば、普段はトランプ氏に対し非友好的な論調を張る米高級紙だ。リベラルな同紙がトランプ大統領に対し肯定的な内容の記事を掲載するだけでもよくよく異例なことなのだが、さらに異例だったのは、その記事を執筆したのが同紙生え抜きの記者ではなく、保守派の『ワシントン・エグザミナー』誌のセリーナ・ジート記者であったことだ。
特集記事の中でジート記者は、USスチール経営陣や労働組合のエリート幹部、大物政治家や識者の見解ではなく、苦境にある現場の工場従業員の声を丹念に拾い上げた。
2024年の大統領選挙の激戦州ペンシルベニアで「トランプ勝利」に決定的な役割を果たした工場労働者たちの多くが、破談となった日本製鉄による買収をなお強く希望していることを伝えたのだ。
記事で紹介された労働者の声は、トランプ大統領やCFIUSの委員たちをはじめとする関係者を動かし、ボトムアップの形で取引を成立に導いたことは確かだ。
なぜなら、ディールが成立する見込みとなった5月30日に、トランプ大統領がピッツバーグ近郊にあるアービン製鉄所を大統領専用機で訪問してUSスチールの従業員たちに報告を行った際に、同機にジート記者を搭乗させて事前に意見交換をしただけでなく、演説の中で彼女の名前を呼び、取引成立の功労者として紹介したからだ。
■一体、何が書かれていたのか
組合員数85万人の全米鉄鋼労働組合(USW)は、民主党の伝統的な大票田だ。USスチール買収を狙っていた米鉄鋼大手クリーブランド・クリフス出身のデービッド・マッコール会長が支配している。
多国籍企業のCEOよろしくピッツバーグの高層ビル上層階で執務するマッコール氏は、日本製鉄の買収に「安全保障上の理由」という錦の御旗を掲げて強硬に反対。
一方、地元USW支部は「雇用と生活」を守るべくトランプ大統領に買収実現を直訴し続けていた。
現場労働者たちが共和党のトランプ大統領を後ろ盾に「造反」し、USWのエリート執行部とクリーブランド・クリフスに反撃するという、「ねじれ構造」が起こったのだ。
実際に、トランプ大統領がアービン製鉄所で行った演説で、「USWの全国組織(のマッコール会長)は何をやっているのか、自分で理解できていないようだが、あなたたち地元の支部は信じられないほど素晴らしい」と述べると、笑いとどよめきと拍手が労働者から起こった。
ジート記者の記事でUSW現地支部のジャック・マスキル支部長は、「俺たち(USW支部の幹部)は、ここで働いている仲間のために選挙で選ばれたんだ。そして、仲間たちは日本製鉄がUSスチールを買収してほしいと考えている。俺たち指導部だけが望んだことではなく、現場のみんながそれを欲してるのさ」と語っている。
このように買収成立前から、日本製鉄が現場労働者の信頼を勝ち取っていたことは特筆に値する。
■「雇用を守る」以上の意味がある
トランプ大統領が演説で、「ニーパン(Nippon)は、この先140億ドル(約2兆530億円)の投資を行うと約束した」「USスチール従業員の雇用は守られ、製鉄所は操業を継続し、繁栄する」と告げた際の労働者からの満場の歓声と拍手は、盛大なものであった。
それは、得意絶頂のトランプ氏が、「私はあなたがた鉄鋼労働者のことをいつも気にかけていたから、このディールが実を結んだ」と自身の手柄を自慢げに語った部分に対する反応よりも大きかった。
USスチールの経営悪化で、勤務先の閉鎖と失業が目前に迫っていた労働者たちにとって、ディールの成立は、「雇用が維持される」以上の意味がある。
トランプ大統領が、「あなたたちの鉄がこの国を造った」と称賛した誇りの仕事を、子や孫の代にまで引き継げるという高揚感が会場にみなぎっていたのだ。それは、ヤラセなしに喜びと熱意にあふれたものであり、「俺たちの情熱が政治を動かした」という自信の表れに見えた。
この「末端従業員からの強い支持」「高いやる気」は、USスチール再建のプロセスにおいて、極めて重要なカギとなろう。
■「日本は悪だ!」発言の背景
日本製鉄といえば、USスチール買収のライバルであったクリフスのローレンソ・ゴンカルベス最高経営責任者(CEO)から1月に、猛批判を受けたことが記憶に新しい。
ゴンカルベス氏は日本製鉄を念頭に、「日本は悪だ。日本は中国に鉄の作り方を含む多くを教えた。日本は中国に、いかに不当に投げ売りするか、いかに過剰生産能力を持つか、いかに過剰生産するかを教えた」とこき下ろした。
世界鉄鋼メーカー生産量ランキング(2024年)によれば、トップ10のうち6社が中国企業である。つまりゴンカルベスCEOは、「日本製鉄は中国を助けることにより、米国の鉄鋼労働者にも間接的に害を及ぼした」と言いたかったわけだ。
実のところ、現場も、最初から買収に前向きだったわけではない。
前述のジート記者の記事によれば、ペンシルベニア州の多くの製鉄所が、1970年代の日本からの安価な鉄鋼の「ダンピング」により閉鎖に追い込まれた経緯がある。
全米鉄鋼労働組合(USW)現地支部のジャック・マスキル支部長も、当初の状況についてこのように振り返る。
「最初は、他のすべての仲間たちと同じく、俺もこの買収話には懐疑的だったんだ。末端の95%も反対だったね。」
■「米鉄鋼業の衰退は日本のせい」なのか
だが、USスチールの現場労働者たちは、日本製鉄を「敵」ではなく、「味方」として見ている。
この逆説については、少々歴史的な解説が必要だろう。
駐日中国大使館の元商務参事官を務めた林連徳氏が、中国共産党の日本向け宣伝誌『人民中国』に対して回想したところによると、日本の対中鉄鋼協力の基礎を築くことになる「鉄鋼界の天皇」こと八幡製鐵(日本製鉄の前身のひとつ)の稲山嘉寛常務が1958年早春に訪中、中国の周恩来総理と会談した。
これは、米国の承諾をあらかじめ得て行われたものであった。
周総理は稲山氏に対し、「鉄鋼生産は国民経済の基礎です。それは平和のための貢献もできれば、戦争への荷担もできる。中国は米国を含む世界各国との友好関係の構築を望んでいます」と語ったとされる。
鉄鋼業の発展で中国が世界に軍事覇権を唱える大国となった。その過剰生産で米国の鉄鋼業は衰退、日本製鉄によるUSスチール買収阻止の遠因となったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。
■だから日鉄は中国から手を引いた
いずれにせよ、稲山氏は1972年の日中国交正常化後に日中経済協会会長に就任したばかりでなく、新日本製鐵の社長、さらに経済団体連合会(経団連)会長として、積極的に中国鉄鋼業界を援助。
新日本製鐵と、その後身である日本製鉄は技術供与と設備輸出、人材育成と技術指導、合弁事業と資本参加を通して中国が世界2位の経済大国、さらには軍事大国になる重要な手助けをした。
ゴンカルベス氏による日本製鉄批判は、同社による中国支援が、「米国の事前承認を得て進められた」という重要な要素を都合よく省略している。とはいえ、「日本製鉄の中国支援が現在の中国鉄鋼業の過剰生産能力を可能たらしめた」との指摘は、的確である。
しかし、日本製鉄はトランプ大統領とのディールのために、中国宝山鋼鉄と2004年に合弁で設立した自動車用鋼板製造の合弁会社「宝鋼日鉄自動車鋼板」から撤退し、上海宝山製鉄所への技術支援からも手を引いた。
かつての「敵」である日本製鉄を使って、米鉄鋼業をジリ貧に追いやった中国に対する「復讐」を成し遂げ、自分たちの手でUSスチールを復活させる――。
ピッツバーグの鉄鋼労働者は、日本製鉄の巨大設備投資の約束によって、このような心情に至ったわけだ。
■「ぜんぜん話を聞いてくれへん」米国人労働者たち
日本製鉄によると、米国の鋼材需要は年間8900万トンで、最終製品や部品輸入分も含めれば実質的に1億5000万トンに上る。人口の増加や軍事、造船業、自動車、インフラなどの分野における製造業回帰を受けて、需要の増加が見込まれる。
一方で、総需要に対する自給率は55%にとどまり、地産地消ニーズ獲得の余地は大きいという。
同社の橋本英二会長兼CEO(最高経営責任者)は、この有望市場でUSスチールの生産効率を改善し、高性能な電磁鋼板などの最新の技術も供与することで商品メニューを増やして、米国での粗鋼生産量を3~5年で倍増させる計画を明らかにした。
これを実現すべく、すでに第1陣として技術者40人が米国に派遣されており、さらに100人以上を送り込む考えだ。
ここで懸念されるのが、USスチールを買収した日本製鉄のエンジニアたちと、現場の米国人労働者たちの間に文化的な摩擦が起こる可能性だ。
印象的な事例がある。ノンフィクション作家の広野真嗣氏が日鉄OBの技術者に聞いた話だ。
氏の記事によれば、1980年代、日本製鉄の前身である新日本製鐵が米国のインランドスチールという中堅鉄鋼企業と合弁会社を始めた。
ところが、学びに来ているにもかかわらず、彼らは「日本に製鉄を教えたんはアメリカや」「しかも日本は元はといえば戦争の敵国やないか」という態度で、「ぜんぜん話を聞いてくれへんかった」というのである。
ラチがあかないため、「腕相撲で勝負しよう」ということになり、「両方の腕の後ろに焼いた鉄なべを置いての真剣勝負」を日米の技術者が行った。
結果は、この日本人技術者が4~5人の米国人に勝利。しかし、今度は負けた米国人側がテキーラの飲み合い勝負を挑み、これには日本人側が敗北したという。「それでようやく操業指導に入ることができた」と、技術者は約40年前を回顧する。
■なぜ敗戦国の人間に指示されるのか
奇しくも、同時期の1986年に、ハリウッドの巨匠ロン・ハワード監督が『ガン・ホー』というコメディ映画を製作している。
タイトルのガン・ホー(Gung-Ho)とは、「ともに働け」という意味の中国語の掛け声「工合(gōng hé)」が、訛って米海兵隊に取り入れられたものだ。
舞台は、ペンシルベニア州の架空の街ハドレービルで不況のために閉鎖された自動車工場。「再建に来てくれたら、われわれ米国人は数倍一生懸命働きます」と約束して誘致されたのが、日本の大手メーカー「アッサン」(漢字表記は「圧惨自動車」)だ。
B級作品ながら、『ガン・ホー』は2025年の日本製鉄によるUSスチール買収を彷彿とさせる予言的なテーマがテンコ盛りであり、現在もなお「問題作」である。
たとえば、こんなシーンがある。
日本から派遣された工場長の高原が、米国人労働者との連絡役として頼りにする職長のハントに対し、バーで酒を飲みかわしながら、「これこそが正しいやりかたなんだよ!」と言い放つ。
すると、日本人管理者たちによる日本的価値観の押し付けに反感を募らせる米国人労働者を代表するハントは、「ほう、そうなんだ。そんなに日本人が偉いってんなら、何でお前さんたちはあの大きな勝負(the big one、太平洋戦争を指す)に負けたんだ!」と返す。
ここで酔っ払った高原が思わずハントに飛びかかって取っ組み合いの大ゲンカになるのだが、これは日本の敗戦後80年を経てなお、不変のテーマだ。
■米国人が抱えるジレンマ
世界一の超大国である米国は、トランプ大統領が「偉大な国だ」と主張するにもかかわらず、自力で鉄鋼業を再建する技術も資金力もない。だからこそ、USスチール再生で日本製鉄を頼らなければならないのである。
同じくロン・ハワード監督によりネットフリックスで2020年に映画化された、バンス副大統領原作の『ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌』で登場する物語に通じるものがある。
中西部オハイオ州ミドルタウンの製鉄所「アームコ」もまた、日本(旧川崎製鉄、現JFEスチール)が50%資本参加することによって存続できた一例だ。
バンス氏は原作の著書で、「合併が発表されたときは、東條英機がオハイオ南西部にまで来て店を開く、という受け止め方だった。(中略)カワサキとの合併は、不都合な真実を示した。米製造業は、グローバル化が進んだ後の世界では競争力を失っていたのだ。アームコのような米製鉄企業が生き残ろうと思えば、再編が必要になる。カワサキはアームコに、そのチャンスを与えた。ミドルタウンを代表するこの企業は、合併がなければおそらく生き残れなかっただろう」と述べている。
米国が先の大戦で完膚なきまで打ち負かしたはずの日本の企業の力を借りなければ、自力で更生できないジレンマ。米国人にとっては、悔しいことだ。日本人もまた、敗戦による米国への従属から抜け出せていない。
繰り返し現れるこのテーマは、先述の日鉄OBの語る1980年代の日米文化衝突の実話とも符合するものがある。
■買収後の成否、市場は悲観的だが…
翻って『ガン・ホー』では、米国人労働者が日本人技術者たちと文化的な衝突を繰り返しながら、最後には日米両国人がひとつの会社家族として結びつき、突貫精神で協力して生産目標を達成する姿を描く。
日本製鉄のUSスチール買収では、「中国鉄鋼業という共通の敵」に打ち勝つべく、米国人労働者が日本人技術者たちと協力するだろう。実際に、USスチールでは末端の労働者までもがやる気を出し、職場の再生・復活を支持している。
そして、激戦州のペンシルベニアにおいて、民主党支持者が多いUSスチール労組員や、民主党所属の首長たちが党派を超え、共和党の大統領と手を組んで、労働者の利益実現のために日本製鉄による買収を成功させたところに、米国政治の一筋の光明が見える。
日本製鉄のUSスチール買収に関しては、買収資金借り入れによる有利子負債が膨らむことから、投資を早期に回収できないとの懸念がある。
事実、米格付け大手のS&Pグローバル・レーティングは7月に、日本製鉄を格下げした上で見通しを「ネガティブ」とした。
しかし、日本製鉄の最先端技術を使ったUSスチールの製品は、中国などからの安価な輸入品にかかる50%の「トランプ鉄鋼関税」で(少なくとも当面は)守られる。
また、現場労働者の日本製鉄への信頼や自発的な改善意欲に支えられた、国内競争力の高いものとなる。
そのため、悲観的なS&Pの評価よりも、別の格付け大手ムーディーズが6月に示した、「米市場での事業拡大の戦略的恩恵により、信用力低下は相殺される」との見解の方が妥当であると筆者には思われる。
ピッツバーグの鉄鋼労働者たちが達成した「ボトムアップの買収」は、日本にも少なからず政治的・経済的な恩恵をもたらす、日米経済協力の新たなモデルケースになるだろう。
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岩田 太郎(いわた・たろう)
在米ジャーナリスト
米NBCニュースの東京総局、読売新聞の英字新聞部、日経国際ニュースセンターなどで金融・経済報道の基礎を学ぶ。米国の経済を広く深く分析した記事を『現代ビジネス』『新潮社フォーサイト』『JBpress』『ビジネス+IT』『週刊エコノミスト』『ダイヤモンド・チェーンストア』などさまざまなメディアに寄稿している。noteでも記事を執筆中。
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(在米ジャーナリスト 岩田 太郎)
在米ジャーナリストの岩田太郎さんは「どんでん返しの裏には、日鉄との未来を信じ、大統領に粘り強く陳情を続けた、USスチールの現場労働者の存在があった」という――。
■6月に起こった、大どんでん返し
20世紀初頭に米鉄鋼業の輝かしい栄光の時代を築いたものの、今や凋落して自力では再生できなくなった名門の大手USスチール。わが国最大の鉄鋼メーカーである日本製鉄が6月に、先行きの暗い同社を買収し、完全子会社化した。
長くもめ続けたディールを承認したのは、2024年2月に米大統領候補として、「日本製鉄によるUSスチールの買収阻止」を公約に掲げた、現大統領のドナルド・トランプ氏その人である。
製造業の米国回帰による国家再興を目指すトランプ氏にとって、およそすべての重工業の基礎である鉄鋼は国家安全保障の要だ。2025年1月の大統領就任後も外国企業の日本製鉄にUSスチールの経営権を握らせないとの立場であった。
風向きが変わったのは、4月。トランプ大統領が対米投資案件の安全保障上のリスクの適否を決定する対米外国投資委員会(CFIUS)に対し、当該案件の再審査を命じたのだ。買収計画については、1月、バイデン前大統領が中止を命じていた。
それを受けてCFIUSは5月に、「安全保障上のリスクは軽減策をとることで対処が可能」と答申。そして6月、「経営上の重要事項について米政府が強い拒否権を握る黄金株を1株保有する」ことを条件に、トランプ大統領が「USスチールの完全子会社化」を承認するという、どんでん返しが起こったのだ。
いったんは破談になった買収話が、なぜ復活したのか。
その裏には、トランプ大統領に対する粘り強い陳情を続けたUSスチールの現場労働者たちの存在があった。
■大統領を動かした“一本の記事”
トランプ大統領がCFIUSに日本製鉄のUSスチール買収案件を再審査するよう命じた4月7日、ワシントン・ポストに、「ペンシルベニア州の製鉄所で『米国第一』について私が学んだこと」と題する1本の長文記事が掲載された。
ワシントン・ポストといえば、普段はトランプ氏に対し非友好的な論調を張る米高級紙だ。リベラルな同紙がトランプ大統領に対し肯定的な内容の記事を掲載するだけでもよくよく異例なことなのだが、さらに異例だったのは、その記事を執筆したのが同紙生え抜きの記者ではなく、保守派の『ワシントン・エグザミナー』誌のセリーナ・ジート記者であったことだ。
特集記事の中でジート記者は、USスチール経営陣や労働組合のエリート幹部、大物政治家や識者の見解ではなく、苦境にある現場の工場従業員の声を丹念に拾い上げた。
2024年の大統領選挙の激戦州ペンシルベニアで「トランプ勝利」に決定的な役割を果たした工場労働者たちの多くが、破談となった日本製鉄による買収をなお強く希望していることを伝えたのだ。
記事で紹介された労働者の声は、トランプ大統領やCFIUSの委員たちをはじめとする関係者を動かし、ボトムアップの形で取引を成立に導いたことは確かだ。
なぜなら、ディールが成立する見込みとなった5月30日に、トランプ大統領がピッツバーグ近郊にあるアービン製鉄所を大統領専用機で訪問してUSスチールの従業員たちに報告を行った際に、同機にジート記者を搭乗させて事前に意見交換をしただけでなく、演説の中で彼女の名前を呼び、取引成立の功労者として紹介したからだ。
■一体、何が書かれていたのか
組合員数85万人の全米鉄鋼労働組合(USW)は、民主党の伝統的な大票田だ。USスチール買収を狙っていた米鉄鋼大手クリーブランド・クリフス出身のデービッド・マッコール会長が支配している。
多国籍企業のCEOよろしくピッツバーグの高層ビル上層階で執務するマッコール氏は、日本製鉄の買収に「安全保障上の理由」という錦の御旗を掲げて強硬に反対。
一方、地元USW支部は「雇用と生活」を守るべくトランプ大統領に買収実現を直訴し続けていた。
現場労働者たちが共和党のトランプ大統領を後ろ盾に「造反」し、USWのエリート執行部とクリーブランド・クリフスに反撃するという、「ねじれ構造」が起こったのだ。
実際に、トランプ大統領がアービン製鉄所で行った演説で、「USWの全国組織(のマッコール会長)は何をやっているのか、自分で理解できていないようだが、あなたたち地元の支部は信じられないほど素晴らしい」と述べると、笑いとどよめきと拍手が労働者から起こった。
ジート記者の記事でUSW現地支部のジャック・マスキル支部長は、「俺たち(USW支部の幹部)は、ここで働いている仲間のために選挙で選ばれたんだ。そして、仲間たちは日本製鉄がUSスチールを買収してほしいと考えている。俺たち指導部だけが望んだことではなく、現場のみんながそれを欲してるのさ」と語っている。
このように買収成立前から、日本製鉄が現場労働者の信頼を勝ち取っていたことは特筆に値する。
■「雇用を守る」以上の意味がある
トランプ大統領が演説で、「ニーパン(Nippon)は、この先140億ドル(約2兆530億円)の投資を行うと約束した」「USスチール従業員の雇用は守られ、製鉄所は操業を継続し、繁栄する」と告げた際の労働者からの満場の歓声と拍手は、盛大なものであった。
それは、得意絶頂のトランプ氏が、「私はあなたがた鉄鋼労働者のことをいつも気にかけていたから、このディールが実を結んだ」と自身の手柄を自慢げに語った部分に対する反応よりも大きかった。
USスチールの経営悪化で、勤務先の閉鎖と失業が目前に迫っていた労働者たちにとって、ディールの成立は、「雇用が維持される」以上の意味がある。
トランプ大統領が、「あなたたちの鉄がこの国を造った」と称賛した誇りの仕事を、子や孫の代にまで引き継げるという高揚感が会場にみなぎっていたのだ。それは、ヤラセなしに喜びと熱意にあふれたものであり、「俺たちの情熱が政治を動かした」という自信の表れに見えた。
この「末端従業員からの強い支持」「高いやる気」は、USスチール再建のプロセスにおいて、極めて重要なカギとなろう。
なぜなら、肝心の現場の協力がなければ、日本製鉄がどれだけ素晴らしい最先端技術を持ち込んでも、事業の成功はおぼつかないからだ。
■「日本は悪だ!」発言の背景
日本製鉄といえば、USスチール買収のライバルであったクリフスのローレンソ・ゴンカルベス最高経営責任者(CEO)から1月に、猛批判を受けたことが記憶に新しい。
ゴンカルベス氏は日本製鉄を念頭に、「日本は悪だ。日本は中国に鉄の作り方を含む多くを教えた。日本は中国に、いかに不当に投げ売りするか、いかに過剰生産能力を持つか、いかに過剰生産するかを教えた」とこき下ろした。
世界鉄鋼メーカー生産量ランキング(2024年)によれば、トップ10のうち6社が中国企業である。つまりゴンカルベスCEOは、「日本製鉄は中国を助けることにより、米国の鉄鋼労働者にも間接的に害を及ぼした」と言いたかったわけだ。
実のところ、現場も、最初から買収に前向きだったわけではない。
前述のジート記者の記事によれば、ペンシルベニア州の多くの製鉄所が、1970年代の日本からの安価な鉄鋼の「ダンピング」により閉鎖に追い込まれた経緯がある。
全米鉄鋼労働組合(USW)現地支部のジャック・マスキル支部長も、当初の状況についてこのように振り返る。
「最初は、他のすべての仲間たちと同じく、俺もこの買収話には懐疑的だったんだ。末端の95%も反対だったね。」
■「米鉄鋼業の衰退は日本のせい」なのか
だが、USスチールの現場労働者たちは、日本製鉄を「敵」ではなく、「味方」として見ている。
この逆説については、少々歴史的な解説が必要だろう。
駐日中国大使館の元商務参事官を務めた林連徳氏が、中国共産党の日本向け宣伝誌『人民中国』に対して回想したところによると、日本の対中鉄鋼協力の基礎を築くことになる「鉄鋼界の天皇」こと八幡製鐵(日本製鉄の前身のひとつ)の稲山嘉寛常務が1958年早春に訪中、中国の周恩来総理と会談した。
これは、米国の承諾をあらかじめ得て行われたものであった。
周総理は稲山氏に対し、「鉄鋼生産は国民経済の基礎です。それは平和のための貢献もできれば、戦争への荷担もできる。中国は米国を含む世界各国との友好関係の構築を望んでいます」と語ったとされる。
鉄鋼業の発展で中国が世界に軍事覇権を唱える大国となった。その過剰生産で米国の鉄鋼業は衰退、日本製鉄によるUSスチール買収阻止の遠因となったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。
■だから日鉄は中国から手を引いた
いずれにせよ、稲山氏は1972年の日中国交正常化後に日中経済協会会長に就任したばかりでなく、新日本製鐵の社長、さらに経済団体連合会(経団連)会長として、積極的に中国鉄鋼業界を援助。
新日本製鐵と、その後身である日本製鉄は技術供与と設備輸出、人材育成と技術指導、合弁事業と資本参加を通して中国が世界2位の経済大国、さらには軍事大国になる重要な手助けをした。
ゴンカルベス氏による日本製鉄批判は、同社による中国支援が、「米国の事前承認を得て進められた」という重要な要素を都合よく省略している。とはいえ、「日本製鉄の中国支援が現在の中国鉄鋼業の過剰生産能力を可能たらしめた」との指摘は、的確である。
しかし、日本製鉄はトランプ大統領とのディールのために、中国宝山鋼鉄と2004年に合弁で設立した自動車用鋼板製造の合弁会社「宝鋼日鉄自動車鋼板」から撤退し、上海宝山製鉄所への技術支援からも手を引いた。
かつての「敵」である日本製鉄を使って、米鉄鋼業をジリ貧に追いやった中国に対する「復讐」を成し遂げ、自分たちの手でUSスチールを復活させる――。
ピッツバーグの鉄鋼労働者は、日本製鉄の巨大設備投資の約束によって、このような心情に至ったわけだ。
■「ぜんぜん話を聞いてくれへん」米国人労働者たち
日本製鉄によると、米国の鋼材需要は年間8900万トンで、最終製品や部品輸入分も含めれば実質的に1億5000万トンに上る。人口の増加や軍事、造船業、自動車、インフラなどの分野における製造業回帰を受けて、需要の増加が見込まれる。
一方で、総需要に対する自給率は55%にとどまり、地産地消ニーズ獲得の余地は大きいという。
同社の橋本英二会長兼CEO(最高経営責任者)は、この有望市場でUSスチールの生産効率を改善し、高性能な電磁鋼板などの最新の技術も供与することで商品メニューを増やして、米国での粗鋼生産量を3~5年で倍増させる計画を明らかにした。
これを実現すべく、すでに第1陣として技術者40人が米国に派遣されており、さらに100人以上を送り込む考えだ。
ここで懸念されるのが、USスチールを買収した日本製鉄のエンジニアたちと、現場の米国人労働者たちの間に文化的な摩擦が起こる可能性だ。
印象的な事例がある。ノンフィクション作家の広野真嗣氏が日鉄OBの技術者に聞いた話だ。
氏の記事によれば、1980年代、日本製鉄の前身である新日本製鐵が米国のインランドスチールという中堅鉄鋼企業と合弁会社を始めた。
この際、技能を学ぶために30人ぐらいの米国人労働者が日本に派遣された。
ところが、学びに来ているにもかかわらず、彼らは「日本に製鉄を教えたんはアメリカや」「しかも日本は元はといえば戦争の敵国やないか」という態度で、「ぜんぜん話を聞いてくれへんかった」というのである。
ラチがあかないため、「腕相撲で勝負しよう」ということになり、「両方の腕の後ろに焼いた鉄なべを置いての真剣勝負」を日米の技術者が行った。
結果は、この日本人技術者が4~5人の米国人に勝利。しかし、今度は負けた米国人側がテキーラの飲み合い勝負を挑み、これには日本人側が敗北したという。「それでようやく操業指導に入ることができた」と、技術者は約40年前を回顧する。
■なぜ敗戦国の人間に指示されるのか
奇しくも、同時期の1986年に、ハリウッドの巨匠ロン・ハワード監督が『ガン・ホー』というコメディ映画を製作している。
タイトルのガン・ホー(Gung-Ho)とは、「ともに働け」という意味の中国語の掛け声「工合(gōng hé)」が、訛って米海兵隊に取り入れられたものだ。
舞台は、ペンシルベニア州の架空の街ハドレービルで不況のために閉鎖された自動車工場。「再建に来てくれたら、われわれ米国人は数倍一生懸命働きます」と約束して誘致されたのが、日本の大手メーカー「アッサン」(漢字表記は「圧惨自動車」)だ。
B級作品ながら、『ガン・ホー』は2025年の日本製鉄によるUSスチール買収を彷彿とさせる予言的なテーマがテンコ盛りであり、現在もなお「問題作」である。
たとえば、こんなシーンがある。
日本から派遣された工場長の高原が、米国人労働者との連絡役として頼りにする職長のハントに対し、バーで酒を飲みかわしながら、「これこそが正しいやりかたなんだよ!」と言い放つ。
すると、日本人管理者たちによる日本的価値観の押し付けに反感を募らせる米国人労働者を代表するハントは、「ほう、そうなんだ。そんなに日本人が偉いってんなら、何でお前さんたちはあの大きな勝負(the big one、太平洋戦争を指す)に負けたんだ!」と返す。
ここで酔っ払った高原が思わずハントに飛びかかって取っ組み合いの大ゲンカになるのだが、これは日本の敗戦後80年を経てなお、不変のテーマだ。
■米国人が抱えるジレンマ
世界一の超大国である米国は、トランプ大統領が「偉大な国だ」と主張するにもかかわらず、自力で鉄鋼業を再建する技術も資金力もない。だからこそ、USスチール再生で日本製鉄を頼らなければならないのである。
同じくロン・ハワード監督によりネットフリックスで2020年に映画化された、バンス副大統領原作の『ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌』で登場する物語に通じるものがある。
中西部オハイオ州ミドルタウンの製鉄所「アームコ」もまた、日本(旧川崎製鉄、現JFEスチール)が50%資本参加することによって存続できた一例だ。
バンス氏は原作の著書で、「合併が発表されたときは、東條英機がオハイオ南西部にまで来て店を開く、という受け止め方だった。(中略)カワサキとの合併は、不都合な真実を示した。米製造業は、グローバル化が進んだ後の世界では競争力を失っていたのだ。アームコのような米製鉄企業が生き残ろうと思えば、再編が必要になる。カワサキはアームコに、そのチャンスを与えた。ミドルタウンを代表するこの企業は、合併がなければおそらく生き残れなかっただろう」と述べている。
米国が先の大戦で完膚なきまで打ち負かしたはずの日本の企業の力を借りなければ、自力で更生できないジレンマ。米国人にとっては、悔しいことだ。日本人もまた、敗戦による米国への従属から抜け出せていない。
繰り返し現れるこのテーマは、先述の日鉄OBの語る1980年代の日米文化衝突の実話とも符合するものがある。
■買収後の成否、市場は悲観的だが…
翻って『ガン・ホー』では、米国人労働者が日本人技術者たちと文化的な衝突を繰り返しながら、最後には日米両国人がひとつの会社家族として結びつき、突貫精神で協力して生産目標を達成する姿を描く。
日本製鉄のUSスチール買収では、「中国鉄鋼業という共通の敵」に打ち勝つべく、米国人労働者が日本人技術者たちと協力するだろう。実際に、USスチールでは末端の労働者までもがやる気を出し、職場の再生・復活を支持している。
そして、激戦州のペンシルベニアにおいて、民主党支持者が多いUSスチール労組員や、民主党所属の首長たちが党派を超え、共和党の大統領と手を組んで、労働者の利益実現のために日本製鉄による買収を成功させたところに、米国政治の一筋の光明が見える。
日本製鉄のUSスチール買収に関しては、買収資金借り入れによる有利子負債が膨らむことから、投資を早期に回収できないとの懸念がある。
事実、米格付け大手のS&Pグローバル・レーティングは7月に、日本製鉄を格下げした上で見通しを「ネガティブ」とした。
しかし、日本製鉄の最先端技術を使ったUSスチールの製品は、中国などからの安価な輸入品にかかる50%の「トランプ鉄鋼関税」で(少なくとも当面は)守られる。
また、現場労働者の日本製鉄への信頼や自発的な改善意欲に支えられた、国内競争力の高いものとなる。
そのため、悲観的なS&Pの評価よりも、別の格付け大手ムーディーズが6月に示した、「米市場での事業拡大の戦略的恩恵により、信用力低下は相殺される」との見解の方が妥当であると筆者には思われる。
ピッツバーグの鉄鋼労働者たちが達成した「ボトムアップの買収」は、日本にも少なからず政治的・経済的な恩恵をもたらす、日米経済協力の新たなモデルケースになるだろう。
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岩田 太郎(いわた・たろう)
在米ジャーナリスト
米NBCニュースの東京総局、読売新聞の英字新聞部、日経国際ニュースセンターなどで金融・経済報道の基礎を学ぶ。米国の経済を広く深く分析した記事を『現代ビジネス』『新潮社フォーサイト』『JBpress』『ビジネス+IT』『週刊エコノミスト』『ダイヤモンド・チェーンストア』などさまざまなメディアに寄稿している。noteでも記事を執筆中。
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(在米ジャーナリスト 岩田 太郎)
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