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神奈川県足柄上郡開成町。
人口わずか2万人に満たないこの町に、日本が世界に誇る酒蔵がある。
株式会社 瀬戸酒造店。
東京国税局酒類鑑評会はもとより、インターナショナルワインチャレンジ、Kura Master、ミラノ酒チャレンジ、Oriental Sake Awardsといった海外の品評会でも多くの受賞作を世に送り出し、2024年の世界酒蔵ランキングでは8位に位置する酒蔵だ。
日本国内に1600以上あると言われている酒蔵だが、1999年から2019年の20年間で、その数は2007社から1235社に激減したというデータもある。法人としては存在しても、醸造を止めている蔵も少なくない。何を隠そう、瀬戸酒造店もまた、長らく醸造を停止していたが2017年に復活を果たしたという経緯がある。
日本酒は日本を代表する「國酒」であり、その製造は伝統産業でもありながら、その消費量は年々減少。業界は逆風にさらされており、取り巻く環境はなおも厳しい。
一度は停止した日本酒作りを再開し、蔵として世界8位にまで上り詰め、さらなる未来に向けて歩みを止めない瀬戸酒造店とはいったいどんな酒蔵で、何を目指しているのか。
現社長で復活の立役者、森 隆信代表取締役に話を聞いた。
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酒蔵の仕事に、どんなイメージを抱くだろうか。日本の伝統の守り手、古くから続く名門一家の家業・生業ーーそんなイメージの一方で、お酒を嗜む人であれば誰もが名前を知っているような有名銘柄を手がける酒蔵以外は、小さなファミリービジネス、実子が後を継がなければ廃業もやむなし……そんな側面を持つのも酒蔵のリアルな姿だ。
何を隠そう森社長もまた、他所からやってきた外様の社長だ。
「なんなら、お酒は飲めませんからね」
そんな森さんが瀬戸酒造店と関わることになったのは2015年、10年前の暑い夏の日だった。
瀬戸酒造店との出会い
仕掛け人は元町長
1998年から2011年まで開成町の町長を務めた露木順一さんは、現役時代から、町北部の再興に心を砕いていたという。緑豊かな田園風景が広がり、江戸時代に旧金井島の名主を代々つとめた瀬戸家が家屋を構えてきた瀬戸屋敷も残る地区……といえば聞こえはいいが、将来が危ぶまれるエリアでもあった。
「江戸時代の名主・瀬戸家の屋敷『瀬戸屋敷』と『瀬戸酒造店』という再興のフックになりそうな場所はありましたが、肝心の酒蔵は休止中。町長としては北部だけに注力するのも違いますし、歯がゆい思いをされていたみたいですね」
露木氏は町長退任後も、まちづくりに関する各種セミナーや講習会などに参加し、故郷の発展に寄与することをライフワークに据えていたようだ。そのなかには町長時代から気にかけていた瀬戸酒造店の復活計画もあった。
「そこで酒蔵復活を託すべく声をかけられたのが株式会社オリエンタルコンサルタンツでした」
オリエンタルコンサルタンツは社会インフラの整備を手がける建設コンサルタント会社((株)オリエンタルコンサルタンツ/本社:東京都渋谷区)。森さんはそこで橋梁の設計や道の駅の計画などの仕事に携わっていた。「声をかけられた2015年当時、私は総合マネジメント事業部という、地方創生や官民連携をメインテーマに扱う部署にいました。いうなれば新規事業を開発するような仕事ですね」
露木さんから連絡を受けた森社長は、当時の上司と共に開成町を訪れた。とはいえ、この事業に大きな期待を抱いていたわけでもなかった。
「露木さんは酒蔵復活を第一義に掲げていましたが、まあ無理だろうと。
座組には露木さんに加えて、地元の経済団体に属する議員や商工会の役職者などが名を連ねた。前社長の瀬戸浩雅さんはいなかったが「補助金を申請するには十分なメンバーでした。『瀬戸さんを応援してやる気にさせてほしい』と依頼されたわけです」
半年ほどのやり取りを経て大枠が固まり、いよいよ瀬戸前社長に対してのプレゼンを行う日が来た。
親会社「オリエンタルコンサルタンツ」で新事業を開拓していたころの森社長
「まあ“ムカついた”んですね」
森社長、意地の2年間
「正直、迷惑です」
瀬戸前社長の反応に耳を疑った。
「こちらとしても『え?』という感じですよね。よくよく聞いてみると、話は露木さんが独断で進めていた。加えて瀬戸さん自身、『補助金が出たとて、別途お金を借りる必要はある』というところが引っかかっていたようですね」
大前提として、露木さんと瀬戸前社長は旧知の仲ではある。露木さんの行動も純粋に瀬戸酒造店と、開成町の未来を憂えてこそのものだった。
「とはいえ結局、その日は喧嘩別れのようなものでした」
乗りかかった船は、あっさりと暗礁に乗り上げた。
「当人に断られているのですから、普通であれば終わりですよね。でも、瀬戸さんとはその時初めてお会いしたわけで、膝を突き合わせて話したわけではないし、補助金のことはさておき、一度お会いしておきたいなと思ったんです」
後日、森さんは瀬戸前社長の元へ出向いた。
「『先日はどうも。
このままではダメなことは十分に理解していた。
そもそもこれまでにも瀬戸酒造店復活計画は話としてあったそうだ。
「商工会として支援するとか、地元の米農家さんがやるとか、そういう話ですね。地元の力でなんとか復活できないか、という気持ちを持っていた人は多かった。ただ、結局誰にも実現はできなかったわけです」
そこで森社長は「露木さんの話はいったん置いておいて、ウチ(オリエンタルコンサルタンツ)がやります(子会社化する)。という話ならどうです?」と投げかけた。
すると「『それならば大歓迎ですよ』となったわけです」
名前を遺すことや、土地を借地とするなどいくつか条件はあったが、船は再び前に進むチャンスを得た。
とはいえ、補助金を取るのと企業を買い上げるのでは話がまるで違うことはいうまでもない。
建物も設備も放置されて長い年月が経っており、酒造りの再開には大幅な刷新が必要だった。なにより慈善事業ではない。投資した分、回収はできるのか。
これまでも各種メディアに取り上げられたこのストーリーでは、森社長は「もうこのときにはのめり込んでいた」と語ってきた。
ところが「まあホントに言葉を選ばずいえば“ムカついて”ですかね」と笑う。
当時、森社長はサラリーマンとして脂の乗った40歳。「天狗だったということでしょうね。社内で実績も上げていましたし、ひとしきりのことはできますから」森社長が手掛けていた橋梁や道の駅の計画は、“正論”が通じる世界でもあった。ところが、民間同士の話はそうもいかない。
加えて、社内の目も温かくはなかった。
「僕はお酒がダメなので『オメー、酒も飲めないのに何言ってんの?』っていう。加えて、その計画は“誰かの話の又聞き”だと痛いところをつかれたわけです」
計画に森社長自身から出てきたものは何もなかった。それでも「やってできないことはない、根拠のない自信だけはありました」と振り返る。
それからはギアをさらに上げた。
「そもそも日本酒は水が大事だというので水を調べるところから。東京農業大学で醸造を研究していた穂坂 賢教授(当時)の元に押しかけて相談に乗ってもらったり、やんわりと止めておくよう忠告されたり、それでもしつこく話を聞きにいったり……」
実は穂坂教授との話が再生のキーになっていくが、それは別の機会に譲ろう。
毎月の会議に企画書を出し続けることおよそ20回。計画は洗練されていった。初めて開成町の土を踏んだ日から2年の月日が流れていた。
操業停止中の蔵。よく自転車に例えられるが、一度止まったものを再び動かすのは大変な労力を必要とする
この事業は当然自分が行く
“森新社長”の覚悟
企画を出し続け、気が付けば取締役会の議題にあがるようにもなった。
「そんなある時、『これ以上はやってみなきゃわからないね』というところまできたわけです」
議論は十分に煮詰まった。だが、建設コンサルタントが突然畑違いの日本酒を手がけるというのはいささか道理が通らない。そこで、地域活性化・地方創生という建付けに結びつけようということになった。
「蔵のほど近くにあった瀬戸屋敷の指定管理事業も一緒にやることにしたんです。これもまた一筋縄ではいかなかったですが、なんとかオリエンタルコンサルタンツの社長と当時の開成町長が握手するところまでは漕ぎ着けました」
母体であるオリエンタルコンサルタンツとしても、その決断は未知への挑戦だった。
「関連事業などを手がける企業を子会社化したことはありました。ただ、全く関係ない業種を取得したのは初めてでした」と振り返る。
そもそも企業価値があるから買われるわけで、こと瀬戸酒造店においては、事業の柱である日本酒造りをしていなかったのだから、普通に考えれば“買い”なわけがない。
「正直なところ、ほとんどの役員は私に諦めさせようとしていたとは思います。ただ社長だけは違った。本当にメチャクチャ、無茶苦茶、難しいことを言うのですが、そのハードルを超えてほしかったのかなと。社長として、全力で潰しにきていたけれどそれを乗り越えたと。本当のところはわかりませんが、今でもそう思っています」
さてこの瀬戸酒造店と瀬戸屋敷、いざ話がまとまったら誰かが出向する必要がある。
「特に瀬戸屋敷は半公共事業みたいなものですから。オリエンタルコンサルタンツとしても簡単に辞めるわけにはいかない。それには一番この計画を熟知している人間、つまり僕が会議室にいてはいけない。社長にも『お前、行く覚悟はあるのか?』と言われました。当然、自ら行くつもりでした」
開成で新たな挑戦をする肚はとうにくくっていた。
2017年4月、瀬戸酒造店はオリエンタルコンサルタンツの完全子会社になった。
7代目社長は森隆信。
時代の流れで一度は止まった瀬戸酒造店の時計は、創業から150年を超えて、再び時を刻み始めた。
再生した蔵の前で。それぞれ胸に希望を抱いての再出発に、列席者の表情は晴れやかそのもの
神奈川県足柄上郡開成町。
人口わずか2万人に満たないこの町に、日本が世界に誇る酒蔵がある。
株式会社 瀬戸酒造店。
東京国税局酒類鑑評会はもとより、インターナショナルワインチャレンジ、Kura Master、ミラノ酒チャレンジ、Oriental Sake Awardsといった海外の品評会でも多くの受賞作を世に送り出し、2024年の世界酒蔵ランキングでは8位に位置する酒蔵だ。
日本国内に1600以上あると言われている酒蔵だが、1999年から2019年の20年間で、その数は2007社から1235社に激減したというデータもある。法人としては存在しても、醸造を止めている蔵も少なくない。何を隠そう、瀬戸酒造店もまた、長らく醸造を停止していたが2017年に復活を果たしたという経緯がある。
日本酒は日本を代表する「國酒」であり、その製造は伝統産業でもありながら、その消費量は年々減少。業界は逆風にさらされており、取り巻く環境はなおも厳しい。
一度は停止した日本酒作りを再開し、蔵として世界8位にまで上り詰め、さらなる未来に向けて歩みを止めない瀬戸酒造店とはいったいどんな酒蔵で、何を目指しているのか。
現社長で復活の立役者、森 隆信代表取締役に話を聞いた。
==========================
酒蔵の仕事に、どんなイメージを抱くだろうか。日本の伝統の守り手、古くから続く名門一家の家業・生業ーーそんなイメージの一方で、お酒を嗜む人であれば誰もが名前を知っているような有名銘柄を手がける酒蔵以外は、小さなファミリービジネス、実子が後を継がなければ廃業もやむなし……そんな側面を持つのも酒蔵のリアルな姿だ。
何を隠そう森社長もまた、他所からやってきた外様の社長だ。
「なんなら、お酒は飲めませんからね」
そんな森さんが瀬戸酒造店と関わることになったのは2015年、10年前の暑い夏の日だった。
瀬戸酒造店との出会い
仕掛け人は元町長
1998年から2011年まで開成町の町長を務めた露木順一さんは、現役時代から、町北部の再興に心を砕いていたという。緑豊かな田園風景が広がり、江戸時代に旧金井島の名主を代々つとめた瀬戸家が家屋を構えてきた瀬戸屋敷も残る地区……といえば聞こえはいいが、将来が危ぶまれるエリアでもあった。
「江戸時代の名主・瀬戸家の屋敷『瀬戸屋敷』と『瀬戸酒造店』という再興のフックになりそうな場所はありましたが、肝心の酒蔵は休止中。町長としては北部だけに注力するのも違いますし、歯がゆい思いをされていたみたいですね」
露木氏は町長退任後も、まちづくりに関する各種セミナーや講習会などに参加し、故郷の発展に寄与することをライフワークに据えていたようだ。そのなかには町長時代から気にかけていた瀬戸酒造店の復活計画もあった。
「そこで酒蔵復活を託すべく声をかけられたのが株式会社オリエンタルコンサルタンツでした」
オリエンタルコンサルタンツは社会インフラの整備を手がける建設コンサルタント会社((株)オリエンタルコンサルタンツ/本社:東京都渋谷区)。森さんはそこで橋梁の設計や道の駅の計画などの仕事に携わっていた。「声をかけられた2015年当時、私は総合マネジメント事業部という、地方創生や官民連携をメインテーマに扱う部署にいました。いうなれば新規事業を開発するような仕事ですね」
露木さんから連絡を受けた森社長は、当時の上司と共に開成町を訪れた。とはいえ、この事業に大きな期待を抱いていたわけでもなかった。
「露木さんは酒蔵復活を第一義に掲げていましたが、まあ無理だろうと。
補助金をアレンジして、そこから手間賃をいただければ……正直なところ、その程度の考えでした」
座組には露木さんに加えて、地元の経済団体に属する議員や商工会の役職者などが名を連ねた。前社長の瀬戸浩雅さんはいなかったが「補助金を申請するには十分なメンバーでした。『瀬戸さんを応援してやる気にさせてほしい』と依頼されたわけです」
半年ほどのやり取りを経て大枠が固まり、いよいよ瀬戸前社長に対してのプレゼンを行う日が来た。
親会社「オリエンタルコンサルタンツ」で新事業を開拓していたころの森社長
「まあ“ムカついた”んですね」
森社長、意地の2年間
「正直、迷惑です」
瀬戸前社長の反応に耳を疑った。
「こちらとしても『え?』という感じですよね。よくよく聞いてみると、話は露木さんが独断で進めていた。加えて瀬戸さん自身、『補助金が出たとて、別途お金を借りる必要はある』というところが引っかかっていたようですね」
大前提として、露木さんと瀬戸前社長は旧知の仲ではある。露木さんの行動も純粋に瀬戸酒造店と、開成町の未来を憂えてこそのものだった。
「とはいえ結局、その日は喧嘩別れのようなものでした」
乗りかかった船は、あっさりと暗礁に乗り上げた。
「当人に断られているのですから、普通であれば終わりですよね。でも、瀬戸さんとはその時初めてお会いしたわけで、膝を突き合わせて話したわけではないし、補助金のことはさておき、一度お会いしておきたいなと思ったんです」
後日、森さんは瀬戸前社長の元へ出向いた。
「『先日はどうも。
で、実際のところどうなんです?』という話をすると、正直なところ夜逃げ寸前だと。跡継ぎである息子さんも公務員志望で酒蔵を継ぐ気はない……」
このままではダメなことは十分に理解していた。
そもそもこれまでにも瀬戸酒造店復活計画は話としてあったそうだ。
「商工会として支援するとか、地元の米農家さんがやるとか、そういう話ですね。地元の力でなんとか復活できないか、という気持ちを持っていた人は多かった。ただ、結局誰にも実現はできなかったわけです」
そこで森社長は「露木さんの話はいったん置いておいて、ウチ(オリエンタルコンサルタンツ)がやります(子会社化する)。という話ならどうです?」と投げかけた。
すると「『それならば大歓迎ですよ』となったわけです」
名前を遺すことや、土地を借地とするなどいくつか条件はあったが、船は再び前に進むチャンスを得た。
とはいえ、補助金を取るのと企業を買い上げるのでは話がまるで違うことはいうまでもない。
建物も設備も放置されて長い年月が経っており、酒造りの再開には大幅な刷新が必要だった。なにより慈善事業ではない。投資した分、回収はできるのか。
「専門家にお金を払って調査して、どうにかこうにか計画を形にしました。ようやく社内の会議にかけるわけですが、それはもう上司にボコボコにやられるわけです」
これまでも各種メディアに取り上げられたこのストーリーでは、森社長は「もうこのときにはのめり込んでいた」と語ってきた。
ところが「まあホントに言葉を選ばずいえば“ムカついて”ですかね」と笑う。
当時、森社長はサラリーマンとして脂の乗った40歳。「天狗だったということでしょうね。社内で実績も上げていましたし、ひとしきりのことはできますから」森社長が手掛けていた橋梁や道の駅の計画は、“正論”が通じる世界でもあった。ところが、民間同士の話はそうもいかない。
加えて、社内の目も温かくはなかった。
「僕はお酒がダメなので『オメー、酒も飲めないのに何言ってんの?』っていう。加えて、その計画は“誰かの話の又聞き”だと痛いところをつかれたわけです」
計画に森社長自身から出てきたものは何もなかった。それでも「やってできないことはない、根拠のない自信だけはありました」と振り返る。
それからはギアをさらに上げた。
「そもそも日本酒は水が大事だというので水を調べるところから。東京農業大学で醸造を研究していた穂坂 賢教授(当時)の元に押しかけて相談に乗ってもらったり、やんわりと止めておくよう忠告されたり、それでもしつこく話を聞きにいったり……」
実は穂坂教授との話が再生のキーになっていくが、それは別の機会に譲ろう。
毎月の会議に企画書を出し続けることおよそ20回。計画は洗練されていった。初めて開成町の土を踏んだ日から2年の月日が流れていた。

操業停止中の蔵。よく自転車に例えられるが、一度止まったものを再び動かすのは大変な労力を必要とする
この事業は当然自分が行く
“森新社長”の覚悟
企画を出し続け、気が付けば取締役会の議題にあがるようにもなった。
「そんなある時、『これ以上はやってみなきゃわからないね』というところまできたわけです」
議論は十分に煮詰まった。だが、建設コンサルタントが突然畑違いの日本酒を手がけるというのはいささか道理が通らない。そこで、地域活性化・地方創生という建付けに結びつけようということになった。
「蔵のほど近くにあった瀬戸屋敷の指定管理事業も一緒にやることにしたんです。これもまた一筋縄ではいかなかったですが、なんとかオリエンタルコンサルタンツの社長と当時の開成町長が握手するところまでは漕ぎ着けました」
母体であるオリエンタルコンサルタンツとしても、その決断は未知への挑戦だった。
「関連事業などを手がける企業を子会社化したことはありました。ただ、全く関係ない業種を取得したのは初めてでした」と振り返る。
そもそも企業価値があるから買われるわけで、こと瀬戸酒造店においては、事業の柱である日本酒造りをしていなかったのだから、普通に考えれば“買い”なわけがない。
「正直なところ、ほとんどの役員は私に諦めさせようとしていたとは思います。ただ社長だけは違った。本当にメチャクチャ、無茶苦茶、難しいことを言うのですが、そのハードルを超えてほしかったのかなと。社長として、全力で潰しにきていたけれどそれを乗り越えたと。本当のところはわかりませんが、今でもそう思っています」
さてこの瀬戸酒造店と瀬戸屋敷、いざ話がまとまったら誰かが出向する必要がある。
「特に瀬戸屋敷は半公共事業みたいなものですから。オリエンタルコンサルタンツとしても簡単に辞めるわけにはいかない。それには一番この計画を熟知している人間、つまり僕が会議室にいてはいけない。社長にも『お前、行く覚悟はあるのか?』と言われました。当然、自ら行くつもりでした」
開成で新たな挑戦をする肚はとうにくくっていた。
2017年4月、瀬戸酒造店はオリエンタルコンサルタンツの完全子会社になった。
7代目社長は森隆信。
時代の流れで一度は止まった瀬戸酒造店の時計は、創業から150年を超えて、再び時を刻み始めた。

再生した蔵の前で。それぞれ胸に希望を抱いての再出発に、列席者の表情は晴れやかそのもの
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