【インタビュー】タビナス・ジェファーソンが語る争奪戦となった高校時代、刺激を受けた同期、水戸での経験
【インタビュー】タビナス・ジェファーソンが語る争奪戦となった高校時代、刺激を受けた同期、水戸での経験

今年1月7日、J2水戸ホーリーホックで守備の要として活躍してきたフィリピン代表DFタビナス・ジェファーソンがタイ1部2連覇中のブリーラム・ユナイテッドに完全移籍した。

東南アジア屈指の強豪への電撃移籍に多くのJリーグファンが驚いた。

これまでJ2で優れた身体能力を生かした力強い守備と相手を弾き飛ばすフィジカルの強さは一級品の輝きを見せた。

東南アジア屈指の強豪へステップアップ移籍したタビナスに、Qolyが単独インタビューを敢行。

サッカーを始めた経緯、中学高校時代のキャリア、川崎フロンターレでの挫折と刺激、FC岐阜ガンバ大阪、水戸での成長などを独白した。

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争奪戦となった高校時代

――サッカーを始めた経緯を教えてください。

正直なところあまり覚えていないです。きっかけがあったというよりは、近所の友だちがサッカースクールに行っていたので、そこから始めました。小学校に上がる前くらいからFC WASEDAというクラブでプレーしていました。

――FC WASEDAでは山口瑠伊(町田ゼルビアFC)選手とも一緒にプレーされていました。思い出はありますか。

彼は元々ゴールキーパーをやっていて、瑠伊がキーパーをやっていたら大体のゲームは負けないんですよ。でも瑠伊は「キーパーをやりたくない」と毎回言うんですよね(苦笑)。みんなでなだめて「キーパーをやってくれよ」と言うんですけど、「俺はFWで出る」と言って好き勝手やるというのがFC WASEDAの思い出ですね(笑)。

――中学入学と同時にFCトリプレッタに入りましたが、Jリーグクラブの下部組織を選ぶことは考えませんでしたか。

当時の僕はサッカーをプレーできれば「どの場所でもいい」と考えていて、より高いレベルでと思っていました。だけどJクラブのジュニアユースのセレクションがあることをまったく知りませんでした。僕の両親は日本語の読み書きができないので、進路は僕に任せていました。

それで僕がチームを探していたんですけど、トレセンに行ったときにトリプレッタのコーチから「ウチでサッカーをやらないか?」と声をかけて頂きました。最初はそのまま中学の部活に入ろうとしていたので、1次セレクションの日に僕は行かなかったんですよ。

トリプレッタの代表である米原(隆幸氏。

チーム代表・総監督)さんから「1次セレクションはとりあえずいいから、2次セレクションにどうしても来てほしい」と言われました。いま思ったら形だけのセレクションだったんですけど、それでトリプレッタに行くことになりましたね。

――高校は桐光学園サッカー部に入られましたけど、高体連を選んだ経緯を教えてください。

そのときはJクラブのユースとですごく迷ったんですけど、きびしい環境に身を置いて自分をレベルアップさせたいと思ったことが1番大きかったです。あまり裕福な家庭ではないので、少しでも両親をサポートする意味で学費や寮費が掛からないところを選びました。

(関東のとある)下部組織がすごく面白いサッカーをしていたんですけど、トリプレッタの米原さんには「どっちに行ってもいいと思う。

絶対良くなる」と言われました。そっちも全部免除してもらったんですけど、(通学する高校の)学費がちょっと掛かってしまうことや、受験するためにサッカーを休まなきゃいけない時期があったので、それも含めて桐光学園を選びました。

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桐光学園時代のタビナス

――在学中に複数クラブからオファーを受ける報道も見かけました。実際に何クラブからオファーがありましたか。

実際に貰ったのは6クラブですね。そのときは何でもできる気がしました(笑)。

――高校時代は主にサイドバックでプレーされていました。元々はセンターバックでしたが、どういった経緯でポジションをコンバートされましたか。

高校1年のときに「ルーキーリーグ」というリーグがありました。そこで高校1年だけの試合はセンターバックで出ていたんですけど、(高1で)高校3年のプリンス(リーグ)の試合では左サイドバックで出ました。

鈴木(勝大)監督から「おまえ左サイドバックもやってみ」と言われました。元々前の選手だったこともあって攻撃もできるので、左サイドバックもやるようになりましたね。

オーケストラのようだった川崎

高校時代は並外れた身体能力とフィジカルで複数のJ1クラブからラブコールを受けたタビナスは、2017年に当時のJ1を席巻していた川崎に鳴り物入りで加入した。優れたポテンシャルを秘めたルーキーであったが、黄金時代の幕が開けた川崎では実力の差を痛感した。それでも受けた刺激は現在でもプロとして生きる糧となっている。

――川崎加入の経緯を教えてください。

川崎が「Jで1番強いチーム」というのもありましたし、そこでどれだけ自分がやれるかを見せたかった。その当時の自分は自信も過剰だったというか、いま考えたらオーバーに持ち上げられていました。

高校サッカーを通った人なら分かると思うんですけど、メディアがすごく持ち上げるんです。客観的に自分が見れていなかった。そのとき1年目から試合に出て、1番強いチームで試合に出られればと。そのときは日本代表に入りたいと思っていました。『試合に出て活躍したらどこがベストか』と考えて、もっと自分を良くするために川崎を選びました。

――高校選手権に出ると大勢の記者に囲まれるから勘違いしちゃう人もいるみたいですよね(苦笑)。

あれはやりすぎですよね(苦笑)。

――当時の川崎は中村憲剛さん、家長昭博選手と錚々(そうそう)たるメンバーが集まっていました。チームの中に入って率直に感じたことを教えてください。

衝撃でしたね。川崎のサッカーは良くも悪くも独特じゃないですか。俺がいたときはもっと風間(八宏)さんのテイストがあってすごく独特でした。密集地でもボールをつなげちゃう感じがすごく俺にとって衝撃だった。高校サッカーなんて子供たちのお遊戯会なんだと思い知らされましたね。

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中村憲剛さん

――お遊戯会。想像を絶しますね。

本当に下手な人がいなくて、基本的にみんな上手いんですよ。今回で5つ目のクラブになるんですけど、その中で「下手な人がいない」と思ったクラブは川崎だけなんですよね。(川崎の選手は)みんなそれに加えて速い、強いとか能力を兼ね備えている。

大体は「この人は速いけど、あんまり上手くないな」とか「この人すげえ体強いし、空中戦強いけど、あんまり上手くないな」という人がいるんですけど、川崎は(技術の)アベレージがみんな高い。そこに強いとか、速いとかプラスアルファがあったから、そのときの僕からしたら衝撃でした。

――中村憲剛さんのようなバンディエラと同じ練習場で練習して刺激を受けましたか。

毎日が学びですね。怒られるとかそういうのはなくて、淡々と技術で示していくスタイルでしたね。緊張感は練習の雰囲気で作り上げるというよりも、「うわ、ここで俺がミスしたらこのボールタッチの流れが」とか「このビルドアップの流れが止まってしまう」みたいなそういう緊張感がすげえいいなと思いました。

ミスして「おい、何しているんだよ!」みたいな感じで怒られるんじゃないんです。もう怒られるとか怒られないとかじゃなくて、「このテンポを崩したら最悪だな」と。表現が難しいけど、みんな上手いし、基本ミスをしません。

――例えばオーケストラで少しでも音がズレたときの空気が凍るという感じですか。

あ、まさにそんな感じです!基本みんな外さないから、一人がピーッみたいな変な音を出したら、もうそんなときには。それも別に怒られないんですよ。「なんだあれは」みたいなという感じです(苦笑)。

衝撃を受けた先輩と同期

――川崎のセンターバックで衝撃を受けた選手はいましたか。

川崎ならめっちゃいますね。当時のセンターバックは奈良(竜樹)くん、マイケル・ジェームズ、谷口彰悟さん、エドゥ、(車屋)紳太郎さんは左サイドバックだったので4人いました。みんな上手いし、強いし、速い。

俺が一番衝撃を受けたのは奈良くんですね。いまでもよく(奈良の)プレー映像を見ているんですけど、メンタリティー、守備はすげえなと思います。その「すげえな」と思ったきっかけが何の試合か忘れたんですけど、FWがボールを落としてドフリーでMFの選手が思いっ切り振りかぶっている状況で、奈良くんがペナルティーエリアの中にいました。その状況で急所を前面に押し出してシュートブロックしようとしていたんですよ!

それを見たときはサポーターの感覚ですけど、本当この人すげえなと。1試合にマジで命を懸けているなと思いました。

――急所はみぞおちなどですか。

みぞおち、下腹部、全部ですね。何も気にせずにシュートブロックで、腕を後ろに組んで避けないんですよ。ボールをずっと見て、シュートブロックしにいって、ピンチを防ぐ。「カッケーな」と。男が惚れる男だと思います。

――川崎では公式戦出場ゼロに終わりました。

そうですね。試合が来ないことは苦しかったですね。試合が来ない、試合に出られないので、自分の存在価値が示せない。しかも高校サッカーでそれなりにやってきた自信もあって、それが全部へし折られた。2年目の最後のほうで同期の(田中)碧が試合に出て、本当にすごく悔しかったですね。自分も試合に出て価値を示したいとずっと思っていました。

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奈良竜樹(右)とマッチアップする田中碧

――同期の田中碧選手は刺激になりましたか。

そうですね。あいつの頑張りや努力を見たら『まったく俺は何もしてないんだな』と思ってしまうくらい積み重ねていた。それがスタンダードと思えるようになったお陰で、いまもまだ辛うじて現役でいられるのかなと思っています。

――彼の努力で1番刺激になった部分はどこですか。

俺と碧はよく一緒にいたんですけど、ちょっとでも時間があればサッカーを見ていますし、「碧がいねぇな」と思ったら筋トレに行っている。結果的にその筋トレで足もめっちゃ遅かったのに、いまは普通に速いし、数値上でも変わってきている。いまでも連絡を取るんですけど、「ドイツ楽しい?」と聞いたら「楽しくねーよ。修行だよ」と言っていました。相変わらずだなと(笑)。本当に人間として尊敬しています。

期限付き移籍で学んだ経験

川崎での公式戦出場が皆無だったタビナスは、出場機会を求めて2019年にFC岐阜、翌年はガンバ大阪へと期限付き移籍した。岐阜では挫折、G大阪で成長の手応えを得た。

――プロデビューしたFC岐阜時代を振り返っていかがでしたか。

FC岐阜は移籍したシーズンに降格していまもJ3なんですけど、俺が普通に活躍していたら多分降格していなかったです。苦しいときに誰かが引っ張れなかったというか、プレーで示せなかったからこその結果だったと思います。

そのときはなにも学んでいなかった。岐阜だったら「軽くやっても試合に出られるだろう」といった自分の甘さがありました。

その年は(リーグ戦で)8試合しか出られなくて、「なんで俺は出られないんだよ」と。ベクトルが自分じゃなくて監督やチームに向かってしまっていたことで、8試合しか出られなかったと思っています。

――ガンバ大阪に移籍した経緯を教えてください。

高校のときに松波(正信)さんからオファーをいただいていて、そのときの強化部(※アカデミーダイレクターとの兼任で強化アカデミー部長)が松波さんでした。詳しく分からないですけど、松波さんが「アイツどうしているんだ?燻っているならウチで」と話していたようです。

最初はトップの選手として獲っていただいたんですけど、「もしトップで出られなくてもウチはU-23があるから試合はコンスタントに出られるよ」という話でした。代理人からその話をいただいて、ガンバからオファーが来たとなったら断る理由はありません。

しかもガンバの始動が1月8日だったんですよ。当時は岐阜で延長する雰囲気だったんですけど、俺は環境を変えたいと思っていました。いま考えたら別に環境を変えても俺が変わらなきゃ意味がないと思うんですけどね。そのときは「この環境から逃げたい」という気持ちが強くて、ずっと岐阜の話を先延ばしにしていました。

ガンバの始動が1月8日で、1月5日にオファーが来ました。そのとき俺は東京の実家にいました。1月5日に代理人から「オファーが来たよ」と言われて「行きます」と返事して、翌日に岐阜に帰って引越し業者を呼んで、1月7日に全部荷物をまとめて引っ越し業者にとりあえず1週間預かってもらって、1月8日には朝3時くらいに家を出ました。

2時間くらいかけて吹田に向かって、1月8日に無事到着。朝に目が開かない状態で練習していました。「ここで俺は絶対キャリアをもっと良くするんだ」とうれしくなっていましたね。本当にトップで出るつもりでガンバに乗り込みました。

【インタビュー】タビナス・ジェファーソンが語る争奪戦となった高校時代、刺激を受けた同期、水戸での経験
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ガンバ大阪で経験を積んだタビナス

――2020シーズンにU-23(J3)でリーグ戦30試合に出場しました。自信になりましたか。

自信を付けたというより疑いようのない積み重ねがありました。それが自信になったのか分からないですけど、自分の背中を後押ししてくれた。

1月8日に8対8のミニゲームをやったときに、森下仁志(※当時のガンバ大阪U-23監督)さんが終わった後に俺のところに来てくれて、「このポテンシャルでこのクオリティー持っていて、なんで岐阜で出られなかったのかまったく分からないけど、何か必ず理由があるはずだからこの1年でしっかり直してもっと上の舞台で活躍できるように」と言っていました。そのときに「この人について行こう」と思いましたね。仁志さんがずっと「大丈夫、お前ならできるから」と1年間言い続けてくれていまの俺があると思います。

水戸ではっきりしたこと

2021年に水戸ホーリーホックに完全移籍。水戸ではその実力を発揮し、空中戦、球際で圧倒的な強さを見せてJ2屈指のセンターバックへと成長を果たした。そして、ここで掴んだものはプロサッカー人生を生きる上で貴重な糧となっている。

――2021年に水戸ホーリーホックへ完全移籍しました。加入の経緯を教えてください。

シーズンが終わる2週間前くらいに水戸がオファーを出してくれました。もう1つ(別の)クラブから声をかけてくれていたんですけど、同じ時期に水戸が「オファーを出す」と言ってくれました。シーズンが終わる前にオファーをいただけるなんて選手として光栄ですし、そこで水戸に決めました。

【インタビュー】タビナス・ジェファーソンが語る争奪戦となった高校時代、刺激を受けた同期、水戸での経験
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――水戸所属時はSNSを見ていると角刈りヘアーが話題になった時期もありましたね。

俺は本当にやりたいことをやるというスタイルなので、それで楽しんでくれる人は一緒に楽しんでくれたらうれしい。俺は結構面白いこととかみんなが「ちょっとオモロイな」と思うことをやるのが好きなんです。みんなを楽しませるのが好きなのかな。みんながうれしい、楽しいと言ってくれるとすげえうれしいので。それがちょっとプチ広まりしたくらいですかね(笑)。

――また『note』での発信もそういった想いから書かれているのでしょうか。

『note』は自分の記録という感じですね。結構メモとか日記とか書いているんですけど、『自分を作る過程』で大事なことだなと思っています。文字にして自分の考えを吐き出すことによって人格が形成されていきます。究極ですけど、「何で生きているのかな」となってきたときにそれがいつか自分にヒントをもたらすんじゃないかと信じて毎回書いています。

その延長線上として、あまり奥深くは発信しづらいけど、表面の部分をみんなに楽しんでもらえたら。「サッカー選手の俺はこんなことを考えているんだよ」と。何かちょっとでも興味を持ってくれたらうれしいなと思って書いています。

【インタビュー】タビナス・ジェファーソンが語る争奪戦となった高校時代、刺激を受けた同期、水戸での経験
【インタビュー】タビナス・ジェファーソンが語る争奪戦となった高校時代、刺激を受けた同期、水戸での経験

――水戸で充実した期間を送られたと思います。3シーズンを振り返っていかがでしたか。

個人的には42試合全部フルで出て『1年でJ1に行く』という予定だったので、2、3年目となったときに自分の中で焦りがありました。それなりの違約金も設定していたので、「これでJ1のクラブに買い取ってもらって水戸にお金を残す」がそのときの目標でした。それが毎年オファー頂いていたんですけど、J1でめっちゃ大きなお金というわけじゃなくて。J2上位のチームでもお金も設定した金額分ぐらいだったので、「それじゃ行かないな」と思っていました。3年間、僕的にはもっとインパクト残したかった。すべてにおいてJ2で「この人圧倒的だな」と思われる存在になりたかったんですけど、そうなれなかったことがちょっと悔しい3年間でした。

その一方で、水戸では色んな価値観や『自分がなぜサッカーをしているのか』と自分がサッカーしている理由というのを改めて再確認できました。『誰のためにプレーするのか』と『何のためにプレーするのか』というのは水戸にいたからこそはっきりしたんじゃないかと思います。

西村GM(※西村卓朗。2019年9月から水戸GM)をはじめクラブが全面的に信頼してくれていることが1番良かったです。西村さんからの信頼がすごく自分の中では大きな原動力になりましたし、それがすごくうれしかったです。

【インタビュー】タビナス・ジェファーソンが語る争奪戦となった高校時代、刺激を受けた同期、水戸での経験
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次回はフィリピン代表選択の経緯、佐藤大介との出会い、ブリーラム・ユナイテッド移籍の背景、実弟ビスマルクへの思いなどのエピソードを掲載する。