パリ五輪で、1勝4敗という結果に終わったものの、12年ぶりに勝利を挙げたさくらジャパン(ホッケー女子日本代表)。チームの守備の要として奮闘した及川栞は、2度目のオリンピックでようやくつかんだ一勝に、ほっと胸を撫で下ろした。
(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=及川栞)
「感謝を伝える舞台に」。自分と向き合って挑んだ2度目の五輪
――及川選手は2021年の東京五輪に続き、2大会目のオリンピック出場となりました。今大会を、キャリアの中でどんな大会と位置付けていたのでしょうか。
及川:競技を続けていきたい気持ちがある中でも、4年後のロサンゼルス五輪までのイメージはまだ描けていないので、オリンピックという大舞台は最後になるかもしれないと思い、臨んだ大会でした。東京五輪は無観客で、両親やお世話になった方々にプレーを見せることができなかったので、有観客のオリンピックがようやく経験できる!と、本当に楽しみにしていました。いろんな人の前でパフォーマンスできてこそ、アスリートの価値は証明できると思いますし、そこで最高のパフォーマンスをすることで、少しでも恩返しや、感謝を伝えたいと臨んだ舞台でした。
――実際に、有観客の中でオリンピックを戦った実感はいかがでしたか?
及川:無観客とは全然違いましたね。応援してくださる人たちが目に入ることや、生の声援が本当に力になりました。
――他の国際大会とは違った注目度や雰囲気も感じましたか?
及川:それは感じましたね。ホッケーで一番レベルが高くて価値のある大会はオリンピックだと思うので、その場でプレーできたことに特別な思いがありました。パリのイヴ・デュ・マノワール・スタジアムというホッケー場は、100年前のパリ五輪で使用したスタジアムが改修された形だったので、歴史ある会場でオリンピックの舞台に立てているんだなと、いい意味で歴史も感じました。
――今大会に向けて、高地での低酸素トレーニングなど、体づくりにも力を入れてきたそうですね。
及川:東京五輪が終わって、もっと競技力を向上させたいけれど、何を変えればいいか悩んでいた時に、他競技のアスリートとのつながりがきっかけで、トレーニング方法を変えることにしたんです。どうしたらケガのリスクを減らして効率よく負荷の高いトレーニングができるのか、いろいろなご縁を通じて話を聞いた中で、低酸素のランニングルームでできるトレーニングを見つけて。ランニングトレーナーをつけ、ジムのトレーナーも変えるなど模索しながら、3年間でトータル的な競技力は向上させることができました。
一勝の壁を越え「やっと一歩前進できた」
――さくらジャパンとして、5敗で終えた東京五輪(11位)から、一つ壁を超えた実感はありますか?
及川:私はリオデジャネイロ五輪ではメンバーに選ばれませんでしたが、その時に出場したメンバーは一勝もできずに悔しい思いをして帰ってきて、私自身も、日の丸を背負って初めて出場した東京五輪では一勝もできませんでした。ロンドン五輪以降、さくらジャパンとしてオリンピックの舞台では「一勝の壁」がすごく厚かったんです。「世界で12チームしか出られない大会に出たことがすごいこと」と言ってくださる方もいますが、世間的には「敗退」「出場しただけ」という認識になってしまう。だからこそ、「まず一勝の壁を乗り越えたいね」と話していたんです。
――東京五輪の時と今大会で、世界との差は少し縮まったようには感じますか?
及川:そうですね。東京五輪と比べると、チームとして得点力が欠けていた部分もありますが、5試合で生まれた2つの得点シーンは、本当に世界トップレベルのつなぎから、得点できました。特にオランダ戦は、目指してきたパスホッケーを表現できたゴールだったので、その回数をもっと増やしていきたかったです。
――及川選手のプレーは指示を含めた統率力や1対1の強さ、パスの精度など、様々な強みがあると思いますが、今大会のパフォーマンスはいかがでしたか?
及川:私の最大の強みは、キーパーの前でプレーヤーを統率することです。苦しい状況でも、常にチームメイトに対しての指示やポジティブな声かけは5試合を通じてできたと思いますし、プレー以外のところでもチームを盛り上げようと心がけていました。もっと粘り強く、ボールをゴールの前から掃き出すことができたと思うので、改善点もありますが、1対1の守備や、いろんな種類のパスでチャンスを作り出せた点では、自分のスキルを発揮することができたと思います。
――統率するためのコーチングや声かけのスキルは、どんなふうに磨いてこられたんですか?
及川:ピッチ上のコミュニケーションを円滑にするためには、ピッチ外のコミュニケーションがすごく大切だと思います。切羽詰まった状況でも、普段からすごく話している人の声は、声がスッと入ってくるんですよね。だからこそいろんな年齢層の選手と、ホッケー以外の話題も含めてコミュニケーションを取り、どんな時でも私の声がスッと入ってくるようにしていました。それは、ピッチ上で自分がラクをすることにもつながります。
――毎日コツコツと、そういう時間を積み重ねていったんですか。
及川:そうですね。チームは1日、2日ではできないので、東京五輪が終わってからチームメートの入れ替わりがあった中で、そういうコミュニケーションの仕方は心がけてきました。
通訳を兼任して臨んだパリ五輪。チームと監督をつなぐ存在に
――及川選手は海外でのプレー経験が豊富で、さくらジャパンではジュードHCの通訳も兼任されていたそうですね。どのような経緯で、通訳を任されたのですか?
及川:私自身は、一選手の立場で通訳の責任まで負いたくはなかったんですが、「監督と選手のやりたいことがイコールにならない限りチームは一つにならない」と思い、監督のやりたい戦術を理解した上でチームと監督をつなぐ存在になろうと考えていました。
――必然の成り行きだったんですね。兼任だと、自分以外のことに意識を向ける時間が多くなって大変そうですが……。
及川:ミーティングの時はどれだけ疲れていても、眠気がこなかったです(笑)。周りを見て、眠くて目が閉じそうだな~っていうメンバーがいても、私は冴え渡っていました。それと、ハーフタイムに水分補給をするのですが、私はその前に監督が話すチーム戦術を伝えなければいけなくて、後々考えたら、私も喉乾いてたよな、って思ったり(笑)。
――プレーヤーとして経験があったからこそこなせた部分もありますよね。
及川:他の競技と比べて休みが短かったので、あまり休めた感じはないですね。所属している企業はお盆休みだったのですが、東京ヴェルディホッケーチームは国内の試合が2週間後には始まる状況だったので、実質1週間も休めませんでした。試合がない期間や土日は子どもたちにホッケーを広める普及活動をしているので、最初のほうは体の重さも感じていました。ただ、その中で合間を見つけて休息を取りながら、やっと自分の中でバランスが戻ってきたと思います。
「ユニフォームがかわいい」も切り口の一つ
――ハードな日々が続いているんですね。スピーディで攻守の切り替えが速く、頭脳も肉体的にもハードワークが要求されるスポーツだと思いますが、及川選手にとってホッケーの魅力はどんなことですか?
及川:ホッケーのボールは直径7.5cmで、それほど小さいボールを扱う球技は他にないと思います。そのボールが走るスピード感や、シュートを決めた時の気持ちよさは魅力だと思います。仲間とパスをつないでシュートを決めた時のよろこびは何倍にもなりますし、感情を共有できる仲間たちがいることもそうです。また、女子は「ユニフォームがかわいい」と言われることも。そういうことも含めて、いろんな切り口からホッケーの魅力を知ってもらえたらうれしいです。
――普及活動を通じて感じることや、国内の競技環境について感じていることがあれば教えてください。
及川:ホッケーは日本ではマイナー競技ですし、少子化が進んでいる中で、競技人口を増やすために、まずは子どもたちに知ってもらうことが一番大事だと思います。
【連載後編】「周りを笑顔にする」さくらジャパン・及川栞の笑顔と健康美の原点。キャリア最大の逆境乗り越えた“伝える”力
<了>
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[PROFILE]
及川栞(おいかわ・しほり)
1989年3月12日生まれ、岩手県出身。元日本代表の母の影響で3歳のときにホッケーを始め、不来方高校、天理大学を卒業後、ソニーHC BRAVIA Ladiesで7 シーズンプレー。2013年に代表入りすると、16年に世界ランキング1位のオランダ・HCオラニェ・ロートに期限付き移籍し、18年には正式加入。