東九州龍谷高校のエースとして、2009年に春の高校バレー、インターハイ、国体の3冠を達成した長岡望悠。無名の中学から強豪校へ。

「練習がすごく面白そうだったので、行きたいと思った」と語る彼女は、どのような思いで高校3年間を過ごしたのか? 過密日程や連戦によるケガのリスクについても触れながら、現在につながる充実した日々を振り返る。

(文=米虫紀子)

「うそ! 泣いてました? 欲張りかよ(笑)」

――東九州龍谷高校時代は、高校3冠(春の高校バレー、インターハイ、国体)を達成したチームのエースとして活躍されました。当時のチームの強さの理由はどこにあったのでしょうか?

長岡:あの時は、それぞれの役割がハッキリ、しっかりしていたし、お互いのことを本当によくわかっていましたね。言わなくてもわかることばかりだったので、だからこそのやりやすさはあったかもしれません。

――3年生の12月に行われた皇后杯ではVリーグのチームも破りました。

長岡:あの時は高校最後の大会だったんですよね。

――現在は春高バレーが1月に開催されていますが、当時は3月開催で3年生は出場できなかったので、年末の皇后杯が最後だったんですね。

長岡:はい。だから、このチームでできる最後の大会だ、というのがすごく大きくて。後悔がないように、もうこの瞬間をすごく大事にしたい、と思いながらやっていました。「全部出し切りたい!」って感じで、それが力になったんだと思います。

――長岡選手がバレーを始めたのは?

長岡:小学2年の時に、お姉ちゃんがやっていたので。もともとは母がやっていて、その影響でお姉ちゃんが始めて、私も、という感じですね。

――中学時代も強豪校でプレーしていたんですか?

長岡:いえ全然。県大会にも出られなかったです。

――そうなんですか? でも中学3年のJOCカップに福岡県代表として出場されていましたよね? 当時取材させていただきました。

長岡:えー! よく覚えてますね。

――準優勝の銀メダルを首にかけて「悔しい」と泣いていたのを覚えています。

長岡:うそ! 覚えてない。

泣いてました? 欲張りかよ(笑)。だって最初はそんなに勝つと思ってなくて、あれ?あれ?あれ?みたいな感じで決勝に行ったのに。そういえば私、あの時はサーブレシーブに入っていましたね。

――県大会に出られない無名校から、福岡代表に選ばれたんですね。

長岡:隣町の中学校はめちゃくちゃ強くて、そこの監督さんがJOCカップの福岡代表のコーチだったので、その人がよく見ていてくれたんじゃないですかね。

無名の中学から、強豪校へ。
「高校で見た練習はすごく新鮮で…」

――無名の中学校から、強豪の東九州龍谷高校へ。最初はレベルの高さに戸惑ったのでは?

長岡:はい。でも中学生の時に練習見学に行って、その時に見た練習がすごく面白そうだったので、行きたいと思ったんです。だから純粋に、毎日すごく充実していましたね。

――面白そうだと思った練習というのは?

長岡:技術に集中してやれる練習だったり、体の使い方を教えてもらったり。例えば、トランポリンで跳ねたり、ロイター板を使って、ジャンプの感覚、空中感覚を養う練習をしたりしていました。

中学まではただ一生懸命やっていただけだったから、高校で見た練習はすごく新鮮で、自分が成長していけるような感じがしました。

――高校生活はどんな感じでしたか?

長岡:基本的に平日は、午前中で授業が終わって、午後から練習していました。一般生は午後からも授業を受けているので、その間は声は出さないで、トレーニングをしたりしていましたね。土日も普通に練習です。でも急に「今日の午後は休み」となることも結構あって、そういう時は「ヤッホーイ! オフやー!」って感じでしたね(笑)

――充実はしていたけれど、オフになると喜んだんですね(笑)。練習したくない時もあった?

長岡:嫌な時もありましたね(苦笑)

――Vリーグでプレーしたいと思うようになったのはいつ頃ですか?

長岡:高校の時に、Vリーグのチームに合宿に行かせてもらうことが多くて、そういう中で「あー、こういう世界もあるんだ」と知って、「バレーで次を目指すなら、ここなんだなー」と思うようになりました。

ケガのリスクを伴う「過密日程」問題

――他の高校スポーツと同様に高校バレーも大会の過密日程や連戦が課題になっていますが、長岡選手が高校生だった頃の大会は、5連戦など今より過酷な日程だったように思います。特に長岡選手は一番多くトスが上がってくるポジションですが、高校時代にケガに苦しんだりはしませんでしたか?

長岡:少なからずありましたけど、たぶんガムシャラさがまさっていたと思います。今じゃ考えられないスケジュールでやっていたこともあります。中学でもそうでしたね。「ようやってたなー」って思います(苦笑)。1日2試合とかも全然普通でしたし。

 ケガはちょこちょこありましたね。膝のこんな大ケガ(左膝前十字靭帯断裂)まではなかったですけど、足を疲労骨折したことはありました。何を取るかですよね。でも、その時(高校時代)はわからないからな……。本人は(無理しても)やりたいって思っちゃうじゃないですか。だからスケジュール自体に、空き日を作ったりしたほうがいいかなとは思いますね。

 長い目で見たら、バレーを続ける続けないに関わらず、日常生活にも影響が出たらきついと思うので。私なんてもう正座できないし(苦笑)。膝を長い間曲げていられないのでずっと長く座っていられなくて、じっと立ってもいられないんです。

――(2017年と2018年に)前十字靭帯のケガをしたからですか?

長岡:それもありますし、いろいろと持っているので。足首とかもひねったりして。そういうの、残っている人はたくさんいそうですけどね。

 高校野球の投球数の問題がよく話題になっていますよね。バレーボールは長くても5セットだし、ずっと1人で投げ続けるとかじゃないですけど、でも過密日程はよくないですよね。高校生は言われるがままにやってしまいますからね。

――大人が配慮してあげなければいけないと。

長岡:そう思います。

高校時代に培った「ピュア」な思い

――長岡選手のバレー人生において高校時代はどんなベースになっていますか?

長岡:なんというか、個人の力ではなくて、見えない信頼関係ができあがったチームのチーム力のすごさ、強さや、バレーボールの力を感じさせてもらった時間だったなと思います。本当に全力でやりきったような3年間で、夢中になっていたと思います、バレーボールに。

 私は自分の中で、成長し続けたい、うまくなりたい、という思いを大事にしているんですが、それは高校で学んだことです。どんな結果であるかは関係なく、バレーボールでも、人としても、成長し続ける。

 みんなであれだけ頑張ったことが結果的に成績として残って、みんなで喜びあえたのは本当に財産ですけど、それよりもそれまでの取り組みですね。お互いのことを信頼して、高めあい、生かしあいながら、ピュアに成長し続けたいと思ってやっていた。それは自分のベースになっていて、今につながっていると思います。

――最後に、1月5日に開幕する春の高校バレーに出場する高校生の皆さんへメッセージをお願いできますか。

長岡:2020年は本当に皆さんにとって、いろんなことを受け入れることだったり、モチベーションの部分だったり、難しいことだらけだったと思うんですよね。私もそうだったので……。そんな中でもこういう(春高の)機会ができたので、どんな結果になっても、自分にとって、チームにとって、いい時間に、みんなの人生にとって貴重な時間になると思うので、シンプルにやりきってほしいなと思います。

<了>

PROFILE
長岡望悠(ながおか・みゆ)
1991年7月25日生まれ、福岡県出身。東九州龍谷高校時代には春の高校バレー、インターハイ、国体の3冠を達成。2010年、久光製薬スプリングス(現・久光スプリングス)に入団。2012-13シーズンのVリーグでMVPに輝く活躍でチームを6年ぶりの優勝に導くと、その後も数々のタイトル獲得に貢献。2017年3月に左膝前十字靱帯断裂のケガを負い、復帰後の2018年8月、イタリア・セリエAのイモコへ移籍。しかし、同年12月に再び同じ箇所を故障。2019年に久光に復帰してリハビリを続け、2020年10月18日、約2年ぶりに公式戦復帰を果たした。