2020年5月に立ち上がったオンラインサロン『蹴球ゴールデン街』では、「日本のサッカーやスポーツビジネスを盛り上げる」という目的のもと、その活動の一環として雑誌作成プロジェクトがスタートした。雑誌のコンセプトは「サッカー界で働く人たち」。

サロンメンバーの多くはライター未経験者だが、自らがインタビュアーとなって、サッカー界、スポーツ界を裏側で支える人々のストーリーを発信している。

今回、多様な側面からスポーツの魅力や価値を発信するメディア『REAL SPORTS』とのコラボレーション企画として、雑誌化に先駆けてインタビュー記事を公開する。

第10弾は、写真家・ノンフィクションライターとして、サッカー界で幅広く活躍している宇都宮徹壱さんに、自身のキャリアや今後の展望、サッカーメディア界の抱えている問題点について語ってもらった。

(インタビュー・構成=五十嵐メイ、トップ写真撮影=五十嵐メイ、本文写真=宇都宮徹壱)

「サッカーとの縁」の始まり

──宇都宮さんといえば、日本代表から地域リーグまで幅広いカテゴリーで、チームだけではなく、グルメからマスコット、クラブの名物スタッフさんまでさまざまな視点で記事を書かれていますが、最初からサッカーの仕事をしたいと考えていたのでしょうか?

宇都宮:実は、最初は全然サッカーのライターになろうとか、サッカーのフォトグラファーを目指そうということは考えていませんでした。気がついたら今に至っているという感じです。

 写真家になることを意識し始めたのは、大学院時代ですから、今から30年も前の話ですね。尊敬する写真家の一人に荒木経惟さんという方がいます。

最近は毀誉褒貶(きよほうへん)が激しいですが、1990年代には間違いなく写真界のスーパースターでした。荒木さんは電通のフォトグラファーでしたが、31歳の頃に独立して写真家になっています。私は荒木さんみたいな天才でもないのに、何の根拠もなく漠然と「自分も31歳までに写真家宣言をしなければならない」と思っていたんですね(笑)。それで、勤めていた会社も31歳になる前に辞めました。

──宇都宮さんが最初にサッカーと関わりを持ったのは何歳頃だったのですか?

宇都宮:私自身、小学校5年生からサッカーを始めました。その後大学2年生までプレーした後に、ブランクはありましたが社会人の草サッカーチームでプレーをしたりもしていました。

 最後に自身がプレーをしたのは、実はドイツだったんですよ。2005年のコンフェデ杯(FIFAコンフェデレーションズカップ)で、メディアチームとバイエルン・ミュンヘンのスタッフによる試合です。情けないことに、雨で濡れたピッチに足をすくわれ、豪快に転倒してそれっきりです(苦笑)。 

 実はその試合で、今のバイエルンの会長のカール=ハインツ・ルンメニゲも参加していました。最初は相手チームでしたが、あまりに私たちが弱いので後半から、こっち側に助っ人で入ってくれました。元西ドイツ代表でワールドカップも経験している選手ですが、みんなパスをもらう時になれなれしく「ヘイ! カール!」なんて呼んでいましたね(笑)。

今となっては、いい思い出です。

──お仕事でサッカーと関わりを持ち始めたのは、いつからですか?

宇都宮:サッカーの現場に初めて携わったのは1994年からです。最初で唯一の転職をした会社が、スポーツの番組やビデオを制作している会社で、テレビ東京の『ダイヤモンドサッカー』やNHKの『BSワールドサッカー』などのAD(アシスタントディレクター)をしていました。

 制作会社での最後の仕事は、1997年の天皇杯の記録ビデオを制作することでした。アマチュアも参加する大会なので、Jクラブ以外のチーム名もたくさん覚えましたね。先輩ディレクターからも「お前が一番詳しいんじゃないか」と言われるくらい、のちにJリーグを目指すアマチュアクラブに詳しくなりました。

今思うと不思議な縁だなと思います。

──そのようなご縁があったのですね。

宇都宮:その仕事が終わって2月に退社して、その月の下旬からカメラ機材をそろえました。当時はまだフィルムカメラの時代で、モノクロのフィルムをありったけ詰め込んで、向かった先がバルカン半島。ボスニア紛争が終わったのが1995年ですから、それからまだ2年も経っていないタイミングでしたね。

 訪れたのは、リュブリャナ(スロベニア)、リエカとスプリト(クロアチア)、サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)、そしてベオグラード(セルビア)。

スロベニア以外では、いずれも現地の国内リーグを撮影していました。最初は人々の写真を撮影しようという漠然と思っていたのですが、向こうではサッカーというスポーツは無視できない存在であることに気付いたんですね。

 タイミングもよかったですね。まだ日本人が珍しかったので、どこを訪れても歓迎されました。「日本から来たのか? ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)がいるところだろ」というような返答が、どこに行っても返ってくる。ピクシーが名古屋グランパス(エイト)にいたので、バルカンの人たちにとって、東京の次に有名な都市名は名古屋なんですよね。

あとは広島と長崎。原爆を2つ落とされても、見事に復興した日本を彼らはとてもリスペクトしている印象でした。

「サザエさんを見ているようなおばさんにもわかるように」先輩の言葉から得た学び

――帰国してから、それらの写真はどうされたのですか?

宇都宮:最初は写真展をしようかなと思っていたのですが、本にした方がたくさんの人に見てもらえるなと考えました。たまたまいい出会いが重なり、出版社の人とお会いした際に「ぜひ形にしましょう」と言っていただけたんです。

 勁草書房といって、サッカー本ではなく哲学や法律などに関する本を出版している会社だったんですよ。場違いも甚だしい(笑)。幸い、担当編集者はサッカーが大好きな方で、なおかつ新しい才能を発掘することに意欲的でした。今のような「数字ありき」ではなく、当時の出版界には「実績のない若手にもチャンスを与えて育てていく」という余裕がありましたよね。その意味では、時代的にも恵まれていたと思います。

──それまで、長い文章を書いた経験はあったんでしょうか?

宇都宮:それはありませんでしたが、テレビの仕事をしていた時に構成台本を書いていました。その時に先輩ディレクターから「サザエさんを見ているようなおばさんにもわかるように書け」と言われていました。要するに、サッカーをあまり知らない人にも、ちゃんと受け止めてもらえるような書き方を心がけるように、ということですね。

 サッカーの書籍を出す場合、新聞社や専門誌で経験を積んで取材の仕方や人脈をつくってから独立して、それから出版するというのが王道だと思います。私の場合、実績を積む前に本を出してしまったという特殊なパターンだったので、その分ライターとしても苦労しましたね。フリーになってから食べていけるようになったのは、だいぶ後ですね。

「あまり知られていない」ことが非常に好き

──宇都宮さんの記事は、本当に多岐にわたる視点からサッカー界に切り込んでいますが、多様な視点を持つために意識していることはありますか?

宇都宮:単純に、人と同じことがしたくないという気持ちがあります(笑)。例えば、有名選手を取材したいかと聞かれたら「人によります」と答えるようにしています。すでに有名なアスリートやクラブというものは、それほど取材したいという気分にならないんですよ、困ったことに(笑)。

 むしろ、あまり知られていないけれど、こんなすごい人がいるとか、こんな面白いクラブがあるとか。この「あまり知られていないけれど」というのは、非常に重要なんですよね。でもって、自分が誰よりも先に取材した人やクラブが、やがて有名になっていくというプロセスを見ながら悦に浸るわけです(笑)。実際、私のウェブマガジンでも、そういうケースはよくあります。

──例えばどんな方ですか?

宇都宮:ちょんまげ隊のツンさん(サッカー日本代表サポーター)に、初めてロングインタビューをしたのは、おそらく私が初めてです。えとみほさん(栃木SC 取締役マーケティング戦略部長・江藤美帆さん)のインタビューも、サッカーメディアではウチのウェブマガジンが初めて。クラブでいえば、福山シティFC。昨年の天皇杯で脚光を浴びる前に、1万字のレポートを出しています。

 どの世界でも同じだと思いますが、人がやったことをなぞっても、あまり意味がないと思っています。常にオリジナリティを追求したい。そこに有名/無名は関係ありません。むしろ無名であればあるほど、面白さがあると考えています。

──近年ではウェブメディアが主流になっています。宇都宮さんは紙媒体が主流の時代から、早い段階でウェブメディアを主戦場とされていますが、これは先を見越してのことだったのでしょうか?

宇都宮:まさか(笑)。私がフリーランスになった90年代後半は、まだまだ紙媒体が元気だった時代で、実績と名前がある人しかページはもらえなかったんですね。ただし、これも時代的に恵まれていたと思うんですが、ちょうどネットメディアの勃興期(ぼっこうき)だったので、とあるウェブメディアに連載をもたせていただくことになりました。

 今はなくなってしまいましたが『サッカークリック』というネットメディアで、大住良之さんや佐山一郎さんといった大御所にまじって、まったく実績のない私もサッカーのフォトエッセイを掲載させていただきました。それが1998年でしたね。

 それから2000年に立ち上がった『スポーツナビ』を創設した広瀬一郎さんとたまたま知り合う機会があって「新しいビジネスを立ち上げるからブレストに参加しない?」と声をかけてくれたことをきっかけに、スポナビにも関わらせていただくことになりました。本当に出会う人に恵まれていたと思います。

記者未経験で日韓ワールドカップの署名記事デビュー

──スポナビでの初めての署名記事を書くようになったのは、2002年のワールドカップが初めてだったということですが。

宇都宮:正確にいえば、その年の3月の強化試合からですね。ワールドカップで取材パスをもたせていただき、署名記事を書かせてもらうことができたのはスポナビのおかげです。今振り返ると本当に恐ろしい話ですが、私は記者の経験が全くないままにワールドカップに行ってしまったんですよね。

──経験がない状態でワールドカップというのは、大胆なチャレンジですね。

宇都宮:これもネットメディア勃興期ゆえでしょうね(苦笑)。加えて新聞社の場合「こういう文体で書かなければダメ」とか「見出しはこういうふうに書かなければダメ」というのがあると思いますが、当時のネットメディアというのはそういうルールが全くと言ってよいくらいありませんでした。だからこそ、私のような人間が入っていけたんだと思います。

 ただしスポナビ側としても、ワールドカップに送り出すのが誰でもよかったのかというと、決してそうではなかったと思います。2002年の時点で3冊の本を出版していたので、そこの部分は実績として評価していただけたのかなと思います。

──「徹マガ」というメルマガを2010年から配信されていましたよね。当時は個人メディアを持つライターさんというのは珍しかったのではないでしょうか。

宇都宮:これもたまたま「メルマガをやりませんか?」と、声をかけてもらったことがきっかけなんです。実績もないのに書籍を出せたのも、ネットメディアを足がかりにしてワールドカップを取材できたのも、個人メディアを立ち上げることができたのも、すべて人とのご縁に恵まれた結果。それと、たまたまそういう時代に立ち会えた、というのも大きかったですね。

 もちろん自分でアンテナを張ることは大切ですが、自分でアンテナを張って何か新しいことを始めるというのは、そんなに得意ではないと思っています。流行りに敏感な人、あるいは促してくれる人が周りにいたことが、すごく重要でした。そういう人がいなかったら、自分で個人メディアや動画やECサイトはやらなかったでしょうね。

 自分自身に取り柄があるとすれば、それは「年齢を言い訳にしない」ということだと思います。それと、新しいことを「とりあえずやってみる」ですかね。年齢を重ねると、自分の成功体験にとらわれてチャレンジをしなくなる人が圧倒的に多いんですよ。そうならないように、心のフットワークを軽くして、常に面白がれるようにスタンバイは取っておきたいなと思っています。

黎明期から携わり続けてきたからこそ感じる、現在のサッカーメディアの問題点

──長らくサッカーメディア界で活躍されている宇都宮さんだからこそ、感じている危機や問題点などはありますか?

宇都宮:最近、ライターが使い捨てになっているように感じていますね。効率性とスピードと数字を重視しすぎることによって、数字でしかライターを判断できない編集者が多いのも、原因の一つだと思っています。書かれたものはすべて、数値化できるでしょうが、それを書いているのは生身の人間であることは、忘れてほしくないですね。

 編集者の職能が、紙媒体とウェブ媒体で変わってきているのは、ある意味で仕方のないことだと思います。けれども、ライターとの向き合い方や時間の割き方、どこに労力と時間を割くのかという部分で、変えてはいけない部分もあると思っています。

 あと、書き手や後輩を育てる余裕が、残念ながら今の編集者にはない。仕事に追われまくっているのが、一番の理由だと思いますが。先ほどもいいましたけれど、私がデビューした1990年代の終わり頃というのは、書き手を育てる編集者が一定数いたんですよ。その意味では本当に恵まれていたと思いますし、逆にここ10年の間にデビューした若い書き手の皆さんには、少し気の毒に感じています。

──そういった状況が続くことで危惧していることはありますか?

宇都宮:私たちがやっている仕事は言ってしまえば「不要不急」。つまり、人々にとってサッカー記事というのは、なくても生きていくことができます。サッカーの記事を読むより、ご飯を食べる方が大切ですよね。スポーツ観戦だけではなく、演劇、音楽、アートなど同じようなことが言えると思います。

 私たちは広い意味で、文化的なものに携わっているわけですよ。文化的なものというのは、人間が余裕を持って生きているという証だと思っています。ですので、私たちの仕事は、お金が回り、いい意味で余裕や遊び心を持ってやっていくことができていないと、いずれ衰退してしまうでしょうね。そういう意味で、PVや効率性といったものが、必要以上に重視されすぎている現状には、衰退の兆しのようなものを感じてなりません。

──常に新しいことにチャレンジし続けている宇都宮さんですが、今後の目標などはありますか?

宇都宮:現在、主にやっていることは「書くこと・撮ること・伝えること」です。「伝える」というのは、大学での講義がメインですね。ただネット上に書いて撮って伝えるだけでは、どんどん情報が埋もれていってしまうように感じています。ですので、書籍についても引き続き、力を入れています。7月31日に『蹴(しゅう)日本紀行』(エスクナレッジ)という、単著では12冊目となる写真集が出ます。コロナ禍以降で、2冊の本を上梓できたのは、自分なりに「頑張ったな」と思っています。

 それと今年2月から「ハーフウェイオンラインコミュニティ(ハフコミ)」というオンラインサロンも始めました。これはJFL、地域リーグ、都道府県リーグで活動する全国のクラブの「当事者」をつなげていきながら、このカテゴリーを盛り上げていくことを目的としています。「書くこと・撮ること・伝えること」だけでなく、最近は「つなげること」も、自分がサッカー界で果たすべき役割なのかなと考えています。

<了>

PROFILE
宇都宮徹壱(うつのみや・てついち)
1966年生まれ、東京都出身。写真家・ノンフィクションライター。東京藝術大学大学院美術研究科を修了後、テレビ制作会社勤務を経て、1997年にフリーの写真家として活動を始める。以後、ワールドカップから地域リーグまで国内外のフットボールを幅広く取材し、「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。新著に『フットボール風土記 Jクラブが「ある土地」と「ない土地」の物語』。その他『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など著書多数。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。宇都宮徹壱ウェブマガジン主催。music.jpオンラインサロン「ハーフウェイオンラインコミュニティ」主催。2021年7月31日より初の写真集「」(エスクナレッジ)が発売中。