中国メディアの北京日報は16日、「西洋の賞(ノーベル賞)を取るかどうかは中国の発展レベルを定義する指標にあらず」と題する論評文を掲載した。

同論評文は、「2025年のノーベル賞の各受賞者が発表されると、世論に再び波紋が広がった」とし、「なぜ中国人はまた受賞できなかったのか」「日本のノーベル賞受賞者はこんなに多いのに、中日間の差は一体どこにあるのか」といった声も上がり、そこから「中国の科学研究体制は駄目だ」と考える人も出てきているとした。

そして、「多くのネットユーザーの懸念は、中国がもっと早く発展してほしいという気持ちの表れだろう。しかしながら、複雑で長期的な科学発展の問題を単純に受賞者数の比較に矮小(わいしょう)化してしまうと、『ノーベル賞焦燥感』によって目に見えない形で自己卑下的な社会心理を生み出すことにもつながる」と論じた。

その上で、ノーベル賞の問題点として、「選考基準に論争がある(非人道的な内容や賞の分野にそぐわない研究の受賞もある)」「受賞にはタイムラグがある(数十年前の功績に授与されることが多い)」「選考理念に隔たりがある(最多3人までの共同受賞は大規模かつ国際共同研究が行われている現代に則さない)」といった点を指摘。特に文学賞と平和賞は「西側世界の価値観や地政学的利益と強く結びついている」と批判した。

さらに今年の経済学賞についても「選考委員長のジョン・ハスラー氏は受賞者の理論(受賞理由は「イノベーション主導の経済成長の解明」)について『われわれに停滞に陥らないように警告している』と評したが、その理論は米国の35兆ドルに及ぶ債務の背後にある成長パラドックスを説明することもできず、中国が非西側モデルを通じて8億人を貧困から脱却させたという奇跡の発展に回答することもできず、さらには今日の世界最大のイノベーション応用現場である中国の実践成果をも直視していない」と酷評し、「このような説明能力の欠如は、経済学賞の選考基準と学問本来の使命との乖離(かいり)を示している」と主張した。

同論評文は、「先進国は先行した優位性で発言権を有しているにすぎない。そもそも、客観性に欠け、フィルターや私的意図を含んだ物差しで中国の目覚ましい発展を評価するのは的外れ」と指摘。「『ノーベル賞こそ全て』という焦燥感から抜け出し、客観的事実を見つめれば、中国が過去70年以上にわたり人類史上最大規模の近代化を成し遂げたことが見えてくる。原爆、水爆、人工衛星、ハイブリッド水稲、有人宇宙飛行。私たちは数々の重要分野でゼロからの突破を実現し、独立した、体系の整った工業システムと科学研究体系を築き上げた。これらはノーベル賞とは縁遠いように見えるが、それが間違いなく中国の近代化を推進し、新たな産業革命を迎えるための堅固な土台を築いたのだ」と誇った。

その上で、「科学技術の革新には、極めて高い時間的・機会的コストが伴い、成果が実るまでには多くの年月を要する。

近年、中国は基礎研究を国家戦略レベルに引き上げ、大規模で継続的な投資を進めているが、その成果の果実が成熟するにはなお時間が必要である。私たちは、一部の分野がまだ『追い上げ』段階にあるからといって、永遠に後れを取ると考えるべきではない。むしろ、科学技術の革新に対してより多くの忍耐と時間を与えるべきである」と呼び掛けた。

そして、「一部の者たちが、ノーベル賞の受賞数で中国をたたくことに熱心なのは、単純な数字の比較を通じて『中国の体制はイノベーションに不向きだ』と主張し、中国の発展の道を否定し、『西洋優位論』を語るためにほかならない。もし私たち自身がこうした『ノーベル賞至上主義』に陥れば、それこそ相手の仕掛けた罠に落ちることになる」と主張。一方で、「これは決してノーベル賞の価値を否定するものではない。中国の科学技術発展の目的は賞を取ることではないという点を明確にすべき」とし、「外部からの称賛や承認を得ることよりも重要なのは、探究と挑戦を通じて課題を解決し、中国により繁栄した未来を創り出し、人類文明の進歩に実質的な貢献をすることである」と結んだ。(翻訳・編集/北田)

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