2025年11月20日、中国のポータルサイト・捜狐に、劇場版「鬼滅の刃」無限城編を鑑賞した感想が掲載された。

記事は、「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来の鑑賞後の感想は非常に良好であり、特に戦闘シーンは一言で言うなら『爽快』だった。

二言で言えば『超爽快』、三言で言えば『爽快すぎる』と言わざるを得ない。この特殊効果と映像美は、まさに視覚の饗宴と呼ぶにふさわしい。上映時間約2時間半の同作は、3つの戦闘と、それに伴う回想シーンによって構成されていた」と評した。

そして、「この3つの戦闘によって物語の空気は、序盤の胡蝶(こちょう)しのぶ敗死による絶望と抑圧、中盤の我妻善逸(あがつまぜんいつ)の獪岳(かいがく)斬殺による希望の芽生え、そして終盤の冨岡義勇(とみおかぎゆう)と竈門炭治郎(かまどたんじろう)が猗窩座(あかざ)を打ち破る高揚感へと段階的に押し上げ、観客の心を深く揺さぶり、思わず木刀を手に取って振り回したくさせるほどであった」と振り返った。

また、「戦闘の合間に挿入される回想シーンは、戦闘の緊迫感をいくらか和らげる側面はあるものの、登場人物の人物像を豊かに描き出し、彼らが単なる戦闘技巧を見せる機械になってしまうことを回避している。日本のアニメは、この手法に非常に長けている」とし、「第一戦は、胡蝶の強靭(きょうじん)でありながら凄絶な戦いぶりと、童磨の残忍で、童磨は残忍かつ狂気的な振る舞いが対照的に描かれた。前者の回想は自責の念に満ちた悲痛さがあり、後者の回想は自己陶酔に満ちた戯れのようなものであった」と論じた。

さらに、「第二戦は壱ノ型しか使えない善逸と、壱ノ型だけが使えない獪岳の対決であった。前者はかつて師兄を崇拝していたが、今は憤慨している。後者はかつて弟弟子を軽蔑していたが、今は嫉妬に駆られている。 一方は無から有へと向かう向上、もう一方は有るべきものから無へと堕ちる退廃を体現している。すなわち胡蝶対童磨と善逸対獪岳の2つの戦いはいずれも明確な対比構造となっており、非常に興味深い構成であった」と述べた。

このほか、「義勇と炭治郎対猗窩座の最終戦は同作のクライマックスとして、猗窩座の恐るべき戦闘力が余すことなく描かれた。闘気を感知する術式、極限まで鍛え抜かれた武術、首を斬られても死なぬ再生能力。義勇が『アザ』を発現させ、炭治郎が『透き通る世界』を開いた状態で2人がかりで挑んだにもかかわらず、なお猗窩座に敗北しかけた」と説明した。

記事は、「もしも猗窩座が人間時代の狛治(はくじ)の記憶を思い出さなければ、結果は違っていたであろう。 父、師範、許嫁という、彼の人生で最も重要な3人の魂による説得が無惨(むざん)のささやきを打ち消し、彼本来の善良な人間性を呼び覚ました結果、自ら再生を拒絶したのである。そうでなければ、義勇と炭治郎は十中八九、敗北していただろう」と言及した。

そして、「まさに艱難(かんなん)辛苦を極めた激戦であった。生前から享楽的で、鬼となってからはなおさら下劣な存在となった童磨と比べ、生前に深い悲しみを背負い、鬼となってからは守るべきものを忘れ、弱者を嫌悪する存在となった猗窩座の方が、より深い感慨を抱かせるものである。総じて言えば、同作は確かに見応えがあり、チケット代に見合う価値のある作品であった」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)

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