2026年1月5日、米男性ファッション誌「GQ」の台湾版はアニメ映画「ひゃくえむ。」のレビュー記事を掲載し、「あなたは自分が何のために走っているか考えたことがあるだろうか」と問い掛けた。

記事は、「2025年はアニメファンにとって幸福な一年だった。

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』、劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来、『劇場版 呪術廻戦0』などが次々と感情に強烈な一撃を与えてくれる。そしてこの幸福はさらに続く。数多くのアニメファンから『隠れた必見の名作』と称される『チ。―地球の運動について―』の作者・魚豊氏によるもう一つの作品『ひゃくえむ。』が、映画化されたのだ。人生、青春、スポーツ、熱血は常に人気の題材であるが、その枠組みの中で人の心を打つ物語を描くには、高い物語の構成力が求められる。その上で、日本のアニメは、決して人を失望させないと断言したい」と述べた。

その上で、「生まれつき足の速いトガシは、現実の苦しみから逃れるために必死で走る転校生・小宮と出会う。トガシの指導のもと、小宮は全身全霊で打ち込める目標を見つけ、自分自身の記録をひたすら追い求めるようになる。100メートル走を通じて、2人は単なるライバルにとどまらず、友人のように深い絆を築いていく。数年後、トガシは天才ランナーとして名を馳せるが、勝ち続けなければならない重圧の中で迷いと恐怖を抱えるようになる。そんな彼の前に、今やトップランナーの一人となった小宮が再び現れるのである」と説明した。

また、「かつてネット上で目にした議論に、アジアの作品では主人公が高校生に設定されることが多く、欧米では成人後の姿が英雄として描かれるというものがあった。これは社会に出た瞬間に、夢や情熱といったものが失われてしまうという意味なのだろうか。『スラムダンク』で桜木花道(さくらぎはなみち)が安西先生に向かって叫んだ『俺は今なんだよ!!』という言葉のように、本当に『今』しかないのだろうか。その先はないのだろうか。『ひゃくえむ。』を見終えたなら、きっと異なる考えを抱くはずである」とした。

その上で、「若さとは、怖いものを知らず、誰にも抑えられないほどの勢いを持つ時期だ。情熱も才能も、全力で燃え上がり、夢はまるで100メートルのゴールラインのように、すぐ手の届く距離にあるように見える。小宮とトガシは、それぞれ情熱と才能の象徴であり、強烈な対照をなす2人でもある。人はしばしば、情熱と才能のどちらがより遠くまで人を運ぶのかを議論するが、その答えを見つける前に、現実が先に選択を突きつけてくる。大人になるということは、そうした現実と向き合う過程なのかもしれない」と論じた。

さらに、「子どもの頃は、走り始めたばかりのように単純だった。

ただ脇目も振らずに100メートルのゴールへ向かって突き進めばよかった。しかし成長するにつれ、現実や制度によって過剰な課題や条件を背負わされ、その結果100メートルは、ハードルだらけの障害走へと変わっていく。1秒前に進むことさえ困難になる。尽きることのない請求書、複雑な人間関係、衰えていく体力と気力。現実は何度も重い一撃を放ち、短距離の記録は欲望のブラックホールのように膨らんでいく。ライバルを超えなければならない。0.1秒を追い続けなければならない。そして、どんどん遠ざかっていくゴールラインにたどり着かなければならない。その結果、人は重たい足を引きずって走り続け、やがては、走ること自体を恐れるようになるのだ」と指摘した。

そして、「それは結果であれ過程であれ、すべてがあまりにも挫折に満ちているからである。人生には多くの課題があるが、その一つが『失敗とどう向き合うか』である。天才型であろうと努力型であろうと、必ず自分より強い存在は現れる。

しかし人は、数え切れない困難の中で、自分なりの哲学を形作っていく。そもそも失敗は本当の失敗ではないのかもしれない。多くの場合、失敗とは社会的な基準によって測られた結果に過ぎない。結果も過程も、結局はどう捉え、どう向き合うか次第なのだ」と言及した。

記事は、「『ひゃくえむ。』の登場人物たちは『成長した後の姿』を映している。そこには、きっと誰もが強く共感するセリフが数多くある。特に映画のラストシーンはわずか1秒にも満たないカットだが、深い癒やしを与えてくれる。長い時間積み重ねてきた重く大きな圧力を、一瞬で解き放ってくれるかのような感覚だ。10秒は短い。100メートルも短い。そして人生もまた短い。

だからこそ、何のために走っているのかなんてことはどうでもいい。ただ走ればいいのだ」と結んだ。(翻訳・編集/岩田)

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