2026年3月31日、中国北京の長富宮飯店(ホテルニューオータニ長富宮)に隣接するオフィスビル内にある「北京日本倶楽部図書室」が閉室した。唯一の正職員である任正平(レン・ジョンピン)氏(65)は体調不良のため、最後の勤務日に姿を見せることはなかった。
この場所は、かつて北京で生活した、あるいは現在も暮らす多くの日本人にとって、かけがえのない記憶が詰まった空間だ。
図書室の始まりは1990年にさかのぼる。当時、中国では新しい日本語書籍の入手が困難だった。こうした中、帰国する多くの日本人が自らの蔵書を日本人会事務局に寄贈し、やがて駐在員の家族らが自主的に書籍を整理・分類し、貸し出しを行うようになった。これが図書室の原型だ。
21世紀に入り、特に01年の世界貿易機関(WTO)加盟以降、中国は豊富で安価な労働力を背景に「世界の工場」として急速に台頭した。多くの日本企業が中国に生産拠点を設け、それに伴い在留邦人も増加した。日本の外務省の統計によると、00年時点で中国に在留する日本人は4万3997人、うち北京は4735人だった。
任氏は1961年に北京で生まれ、80年代後半は大学で事務職に就いていた。当時は日中関係のいわゆる「蜜月期」であり、「赤い疑惑」や「君よ憤怒の河を渉れ」といった日本のドラマや映画が中国で人気を博していた。漢字を含む日本語に親しみを感じたことから独学を始め、91年には福岡県内の日本語学校で学び、その後、東京の大東文化大学で1年間聴講生として過ごした。さらに兵庫県内で2年余り働いた後、97年末に北京へ戻った。
帰国後、日本人が多く入居するマンションの管理会社で勤務する中で、この図書室の存在を知り、足を運んだ。当時は専任スタッフがおらず、すべてボランティアによって運営されていた。やがて任氏自身もその一員となり、余暇を利用して活動に参加するようになった。
08年の北京五輪はこの街を世界の注目の中心へと押し上げ、中国がグローバル社会へ加速度的に溶け込む象徴的な出来事となった。当時、図書室にも転機が訪れた。
それまで、長期休暇のたびに北京の日本人家庭は帰国や旅行に出ることが多く、図書室はボランティア不足から一時閉室を余儀なくされていた。蔵書が2万冊を超え、利用者のニーズが拡大する中、安定した運営体制の必要性も高まった。こうした状況を背景に任氏は正式に採用され、日常運営を担うこととなった。
任氏がこの仕事を選んだ理由は、長年のボランティア経験にあった。限られた予算の中で、多くの蔵書が北京で暮らす日本人の寄贈によって支えられていることを知り、「より多くの人に読んでもらいたい」という思いが受け継がれていることに心を動かされたという。中には、北京を離れて何年もたった後、再び訪れた際に日本から本を持参して寄贈する人もいた。
任氏は、こうした善意の連なりを「リレー」に例える。
その後、任氏とボランティアらの尽力により、図書室は安定した運営体制を確立し、長期休暇中も閉鎖せずに済むようになった。
そして12年、中国に滞在する日本人は15万399人とピークを迎え、北京では1万1596人に達した。図書室の月間利用者は約500人に上り、日本人だけでなく中国人も多く訪れた。図書室は単なる貸し出しの場にとどまらず、交流と情報交換の拠点としての役割も果たしていた。
しかし、この年を境に状況は徐々に変化していく。日本人が北京を離れるようになったのだ。
日本人減少の背景には、複数の構造的要因がある。中国企業の競争力向上により、日本企業の現地での経営環境が厳しさを増し、一部は撤退を余儀なくされた。また、日中関係の緊張や安全面への懸念から、家族帯同での赴任を控える動きも広がった。さらに、日本企業の現地化が進み、駐在員の派遣規模自体が縮小していった。
その影響は徐々に広がり、北京日本人学校の児童・生徒数も減少した。外務省によると、24年の中国の在留邦人は9万7538人。北京では4534人と、00年の水準を下回った。
図書室にとっては、デジタル化の波も無視できない変化だった。アマゾンに代表されるサービスの普及で電子書籍の入手が容易になり、紙の本の貸し出し需要は減少していった。
現在、より開かれた場とするため、「北京日本倶楽部図書室」へと名称が変更された図書室の蔵書は4万冊を超える。今後は整理が進められ、北京日本人学校が一部を選定し、残りは古書市として処分される予定だという。
任氏は、自身が引退を迎える時期に、20年以上関わってきた図書室もまた終わりを迎えるとは思いもしなかったと語る。図書室への思い、そしてかつて温もりに満ちていた日中交流への思い―。その双方に、少なからぬ惜別の念が残る。
36年にわたり続いてきた一つの「リレー」は、26年3月の最後の日、北京で静かにその幕を下ろした。(取材/レコードチャイナ編集部)











