ジョン・レノンが悲劇的な死を遂げる3カ月前、エルトン・ジョンはセントラル・パークで行われた大規模な野外コンサートで、親愛なる友を称えた。

1980年9月13日に、エルトン・ジョンを見るためにニューヨークのセントラル・パークに集まった人々の正確な数は、今後も分からないままだろう。
その数は、30万人とも40万人とも報じられているが、ニューヨーク・タイムズ紙の2008年の記事では、その数字は基本的には”でたらめ”だということが明かされている。セントラル・パークの前管理者であるダグラス・ブロンスキーは、次のように話している。「プロデューサーと警察官、そして公園から来た人と一緒に部屋の中に入ると、誰かが『あなたにはこの数字がどのように見えますか?』と尋ねるのです。するとプロデューサーは、『前回よりも多くないとダメだ』と言う。これは、数字に固執したある種の科学のようなものなのです」。

あの日、セントラル・パークには40万人の人はいなかったかもしれないが、イベントの映像を見ると、翌年の夏にサイモン&ガーファンクルが動員した人数と同じくらいに、どこから見ても非常に多くの観衆がいるように見える。集まった人々は「僕の歌は君の歌」「ベニーとジェッツ~やつらの演奏は最高」「可愛いダンサー~マキシンに捧ぐ」のような大ヒット曲や、「リトル・ジニー」「恋という名のゲーム」のような新しいメロディーとのミックス曲、「罪人にあわれみを」「ハーモニー」のようなディープな楽曲を含む輝かしいショーを目撃した。また、エルトン・ジョン・バンドのオリジナルメンバーであるベーシストのディー・マレイ、ドラマーのナイジェル・オルソンが再び一堂に会した姿を見る機会にも恵まれた。

コンサートの終了間際、エルトンはジョン・レノンの「イマジン」のカヴァーを演奏した。「もう長いこと会っていない友人が書いた曲をやろうと思います」とエルトンは語った。「とても美しい曲で、みんなが知っています。彼はすぐひとつ通りを渡ったところに住んでいます。
彼は長いことレコーディングを終えていないけれど、今はひとつのことを続けているのです」。

エルトンとレノンは、1970年代中盤に非常に親しい間柄だった。エルトンは、1974年にマディソン・スクエア・ガーデンで行われた自身のコンサートでも、レノンに演奏させるため彼をうまく説得してステージに上げた。そしてこのステージが、レノンの公の場での最後のパフォーマンスとなった。エルトンが語るように、1976年にレノンが公の場から距離を置くと、彼らが頻繁に会うことはなくなった。彼が言及したレノンのアルバムとは、『ダブル・ファンタジー』のことだ。シングルで先行発売された「スターティング・オーヴァー」が1カ月後にヒットするまで、誰もそのアルバムを聴かなかったが、期待値は非常に高いものであった。このコンサートの間、レノンはセントラル・パークからすぐ近くにある彼の自宅、ダコタ・ハウスにいた可能性が高い。

エルトンは、1980年に開催したツアーのあらゆる場所で「イマジン」を演奏したが、同年12月8日にダコタ・ハウスの外で錯乱したファンによってレノンが殺害されてからは、その曲に加わった意味の重要性も引き受けることとなった。あの悲惨な事件が起きた月以降、エルトンは「イマジン」を歌っていない。1981年にエルトンはレノンへの追悼曲として、シングル「エンプティ・ガーデン」をリリースしたが、おそらくそれはかなりの痛みを伴うものだっただろう。
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