自伝『Lonely Boy』の発売を記念し、セックス・ピストルズのギタリスト、スティーヴ・ジョーンズが振り返るシド・ヴィシャス、ジョニー・ロットン、そしてバンドが辿った悲痛な運命とは?

スティーヴ・ジョーンズは数十年前に故郷のロンドンからロサンゼルスに移り住み、現在は北カリフォルニアの「何もないところ」で暮らしている。「いいところだよ。
暑すぎないし、雨もたくさん降る」彼はそう話す。「何より人が少ない。最近は誰も彼もが癪にさわるようになってきたからな。俺も気難しいジジイになりつつあるってことさ」

発表されたばかりの彼の自伝『Lonely Boy』には、頭にバンダナを巻いていたセックス・ピストルズ時代から頑固な老人に至るまでの変遷が描かれている。同書では彼の人生が「Before」「During」「After」の3期に分けて綴られている。「ギターソロみたいなもんさ。始まって、展開し、そして終わる」そう話す彼の表情には、気難しさよりも思慮深さが見て取れる。

自身の歩みを綴る同書は、彼ならではのひねくれたユーモア、そして率直な自己描写に満ちている。継父から受けた性的暴行、それに起因する自身の窃盗癖やセックスへの依存、そしてドラッグ中毒まで、同書には彼の暗い過去が生々しく描かれている。またセックス・ピストルズの母体となるバンドで使っていた機材が、1973年にデヴィッド・ボウイのジギー・スターダスト・フェアウェル・ツアーの舞台裏から盗み出したものだったことなどにも言及している。ジョニー・ロットンとシド・ヴィシャスとの思い出はもちろんのこと、同書は彼がポール・クックと共にパワーポップ寄りのポストパンクバンド、ザ・プロフェッショナルズを結成する経緯についても触れている。

セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズが語る:「俺たちは破滅する運命だった」


自身のソロ作、ショーのプロデュース、LAのラジオ局KLOSで司会を務める『Jonesys Jukebox』等、彼の人生における様々な局面を描いた同書は、サンダルやセルフィーをはじめとする「非ロックンロールなもの一覧」という、驚くほど詳細なリストで締めくくられている。
「中でも最悪なのはハゲることだ」彼はそう話す。「ハゲたオッサンどもが洒落た帽子なんかをかぶってステージに立ってる。アホくさくて笑えるよ」

『勝手にしやがれ』の発表から40年、パンクムーヴメントを新鮮な視点で振り返る同書は、スティーヴ・ジョーンズという人物のあらゆる面を、時に愚直なまでに誠実に描いている。「こんなこと世に知れ渡ってもいいのかって自問することもあった」彼はそう話す。「でも決心したんだよ。全部晒しちまおうって」

ーあなたはタフな幼少時代を過ごしました。本書を執筆する上で困難だった点は?

継父についての部分だな。俺は10歳の頃に継父から性的暴行を受けたせいで、15歳くらいまで自分のセクシュアリティに確信が持てなかった。俺は完全にストレートだったけど、あの出来事のせいで俺は迷走する羽目になった。多感な時期にあんなことを経験したら、誰だって混乱するさ。

ーその出来事はあなたの人生にどう影響したのでしょうか?

窃盗癖がついて、セックス依存に陥り、あらゆるドラッグに手を出した。でも俺がヤク中でアル中になったのは、あの出来事のせいだけじゃない。
遺伝による部分も大きかっただろうからな。でもあれをきっかけにその傾向が加速したのは確かだ。俺は自分の中にぽっかりと空いた穴を埋めようと必死だった。

長い間、俺はあの出来事を誰にも話さなかった。自分の中でも整理がついていなかったんだ。あんなことを経験したら、普通の子供なら怒りを覚えるか、フラストレーションを抱えるかのどちらかだ。俺は15~20年前くらいにセラピーを受けるまで、あの出来事をずっと引きずっていた。

ー窃盗癖とセックス依存がその出来事に起因することに気づいたのはいつでしたか?

セラピーの時だ。窃盗を繰り返していた頃、俺はそれが悪いことだとは思っていなかった。罪を犯していることは自覚していたけど、それが必要だと感じていたんだ。当時はその理由が自分でも分かっていなかった。窃盗は俺の日常の一部だった。
屈折していたけど、それが俺の生きがいになってたんだ。

今となっては後悔してるよ。俺のせいで涙を流した人もいただろうし、申し訳なく思ってる。できることなら償いたいよ。でも当時の俺は、他人のことを思いやる余裕なんて一切なかったんだ。

ー母親に継父のことを話したことはありましたか?

母親には手紙を送った。当時のセラピストに勧められて、俺は自分が経験したことと思っていることを手紙にしたためた。母親から送られてきた返事は、俺を真っ向から否定する内容だった。「そんなことが事実のはずがない。あんたはイカれてるのよ」臭いものには蓋をしろってわけさ。

セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズが語る:「俺たちは破滅する運命だった」

90年代初頭のジョーンズ(Photo by Davis Factor)

ー母親と最後に話したのはいつですか?

2008年だ。アルコール依存を克服した時、俺は母親との関係を修復しようとした。
セックス・ピストルズが始まった頃、俺たちは既に何年間も連絡を取っていなかった。もともとそれくらい疎遠だったってことさ。正直に話すと、別に彼女との関係の修復を望んでいるわけじゃないんだ。ただ、血のつながりは無視できないんだよ。彼女を悪い人間だとは思っていない。ただ冷たいだけさ。本当は子供なんか欲しくなくて、俺を授かったのは事故だったんだと思う。でも彼女は彼女なりにベストを尽くしたはずだし、俺は彼女に悪意を持ってはいないよ。お互いにとって、俺たちは疎遠でいる方がいいんだよ。

ー彼女はセックス・ピストルズのことをどう思っていたのでしょうか?

知らないな。イメージの良くない有名人を息子に持つ気分は複雑だっただろうね。俺の母親は感情を表に出さない人だった。
天気の話には応じるけど、ちょっと深い話になると心をぴしゃりと閉ざしてしまうんだ。

ー窃盗癖についてですが、自伝ではそのことを懐かしむかのように言及しています。中でも最も強く印象に残っている事件は何でしょう?ジギー・スターダストの最後から2番目のショーで、その舞台裏から機材を盗み出した事件でしょうか?

それが一番よく知られた事件であることは確かだな。俺はボウイの大ファンだった。今となっちゃ笑えるんだけど、俺は自分のラジオ番組にトニー・ヴィスコンティとドラマーのウッディ・ウッドマンジーをゲストに招いて、彼のシンバルを盗んだことをその場で謝罪して、埋め合わせをしたいと申し出たんだ。彼は驚いた様子だったよ。何が欲しいか俺が尋ねると、彼は何もいらないと答えた。何かあるだろうと俺が食い下がると、彼が100ポンドよこせと言ってきたから、俺は彼に200ポンド渡した。嬉しそうだったよ。

ーデヴィッド・ボウイに夢中だったとのことですが、自分が尊敬するアーティストから盗みを働くことに罪悪感はなかったのでしょうか?

確かに変な話だよな。俺にとっちゃ、アイドルに一歩でも近づくための手段だったんだと思うよ。

ーあなたは後年にボウイと対面していますが、その件について触れましたか?

犯人が俺だってことは彼も知ってたと思う。
でも俺が盗んだのは、実際には彼の所有物じゃなかったんだよ。

ーあなたは彼のマイクを盗み出しました。

いや、彼のものじゃなかったと思う。本当は彼の口紅がついたあの小さなマイクが欲しかったんだけどな。

ー1973年に盗み出したその機材を、あなたはピストルズのショーで使用しています。その数年後、あなたは会ったばかりの歯がボロボロの男性に、ジョニー・ロットンというあだ名をつけました。彼の歯の状態はどれくらい酷かったんでしょうか?

前歯の数本は緑色をしてて、腐ってるようにしか見えなかった。犬歯というわけでもなく、普通の形をしてた。単なるあだ名だったけど、すっかり定着しちまったな。

ーそのようですね。笑えるから気にしないとライドン本人が話していました。

当時にしちゃ俺たちはかなりユーモアのある方だったからな。何でもかんでも馬鹿にしまくってた。

ーあなたとジョニー・ロットンの複雑な関係は広く知られていますが、アメリカツアーの最中にバンドが空中分解したのは何が原因だったのでしょう?

何もかもさ。シドはただハイになりたかっただけで、ベースになんかまるで興味がなかった。ジョンは...というか俺たち全員が、それぞれまったく違う方向を向いちまってたんだよ。俺たちはバンドというよりも、統率できていない部隊のようだった。アメリカツアーは状況をさらに悪化させた。あんなにもデカい国で脚光を浴びることに慣れていなかったからな。2週間かそれくらいの期間だったと思うけど、とにかく奇妙な経験だった。

ーサンフランシスコでのショーの後、あなたとポール・クックは2人でブラジルを訪れていますが、彼が不要だと判断した理由は何だったのでしょうか?

『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』の撮影があったから、どっちにしろブラジルには行くつもりだった。ライドンは興味を示さなかったけど、俺とクッキーはノリ気だった。楽しそうだったし、俺はあの映画の制作を止めたくなかったんだ。

ー3ピースバンドとしてもやっていけると思っていましたか?

そんなことはないよ。ジョンなしで活動していくなんて誰も考えてなかった。映画じゃ俺たちがオーディションでシンガーを探してるように見えるけど、あれは(マルコム・)マクラーレンが考案したマーケティング戦略だよ。ジョン以外のシンガーを加入させる気なんてまったくなかった。そんなことをしてたら、セックス・ピストルズは完全に別のバンドになっちまってただろうね。

ーブラジルから戻ってから、あなたとライドンが次に話したのはいつでしたか?

何年も後のことじゃないかな。当時の俺はイカれちまってたから覚えてないよ。俺はあの頃からドラッグに手を出すようになったんだ。

ーその時点で、あなたはシドがドラッグ依存で苦しんでいたのを目にしていたと思います。そのことがあなたにドラッグの使用を思いとどまらせはしなかったのでしょうか?

まったくなかったな。考えたこともなかった。当時の俺にはヘロインが不可欠だった。「手を出しちゃダメだ、シドの二の舞になりたいのか?」そんな風に考えたことはまったくなかった。

ーシドは好戦的になることも多かったと言われています。あなたは自伝で、彼がバーの客によくグラスを投げつけていたと綴っていますが、彼が理由で身に危険を覚えたことはありましたか?

バンドでアメリカに来た時、俺とシドはよく一緒にカウボーイたちが集まるバーに足を運んでた。どういうわけかシドはカウボーイに目を付けられやすく、ことあるごとに喧嘩になってた。ある日テキサスかどこかのバーで、俺とシド、そして俺たちのボディガードの3人は喧嘩に巻き込まれた。俺はもうウンザリだと思った。俺にはシドがメディアの期待にわざわざ応えようとしているように思えた。「シド・ヴィシャスは筋金入りのワル」そういうイメージを地で行くかのようにね。

ーあなたはシドの死を悲しむことができるようになるまでに時間を要したと綴っています。彼のどんな部分を恋しく思いますか?

ユーモアのセンスだな。やつはスウィートなソウルの持ち主だった。あいつにはスターとしての資質があったと思うし、バンドに入ってなくても有名になってたんじゃないかな。世間はシド・ヴィシャスとしてのやつしか知らないだろうけど、実際には人々が知らないような才能も持ってた。あいつ自身、そんな自分を持て余していたのかもしれない。俺たちもそうだったけど、少なくともあいつよりは人生経験が豊富だったからな。

ージョン・ライドンは著書のひとつで、モーターヘッドのレミー・キルミスターはシドにベースを教えようとしていたと記しています。それについて覚えていることはありますか?

そんなこともあったのかもな。指の使い方は俺も教えたよ。最初は真剣な様子で、学ぼうとする姿勢を見せてたんだ。俺は抑えるべき指板にテープを貼ったりもしたけど、うまくいかなかった。誰かにベースの弾き方を教えるのはもうまっぴらだと思った俺は匙を投げ、やつは独学であの妙なプレイスタイルを身につけたんだ。

音源でやつにベースを弾かせなかったのは正解だった。もしそうしてたら酷いことになってたはずさ。『ボディーズ』の音程がずれてる部分はあいつだけどな。

ー彼が亡くなってからも、その存在の大きさを実感することはありましたか?

シドがバンドに加入したばかりの頃、やつが俺より目立ってたことには正直イラついていたけど、今となっちゃその理由がよく分かるんだ。やつはパンクを体現するような存在だったからな。ルックスや立ち振舞い、何もかもがパンクだったあいつは、最後には彼女を追ってこの世から旅立った。俺にはそんなことはできっこないからな。

ーあなたは彼のベースを所有しています。マルコムからニューヨーク・ドールズのシルヴェイン・シルヴェインのギターをもらった時は「さほど感傷的にはならなかった」と自伝で記していますが、シドのベースを譲り受けた時はいかがでしたか?

別に。買い手が見つかってないからまだ手元にあるってだけさ。

ー売る気なんですか?

いいや。すげぇ額を提示してきたやつが何人かいたけど、バチがあたったら嫌だからな。でもあのベースに特に思い入れがあるわけではないよ。

セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズが語る:「俺たちは破滅する運命だった」

Photo by ZUMAPress.com

ー『勝手にしやがれ!!』は今年、発表から40年という節目を迎えます。今あの作品を聴いて何を感じますか?

19歳か20歳のガキだったからこそ生み出せた奇妙なアルバム、ってところだな。自慢するわけじゃないが、今後もあの作品が色褪せることはないと思ってるよ。とにかくあれが唯一無二の作品ってことだけは確かだと思う。「レコード会社が喜びそうなヒット曲を書こう」なんて気は毛頭なかった。にもかかわらず、あのアルバムには一度聴いたら忘れられない瞬間がたくさんある。うまく言えないけど、とにかく奇妙なアルバムさ。今でも聴くたびに誇らしい気分になるよ。

音もすごくいいと思う。俺にとって、セックス・ピストルズのキャリアにおけるハイライトはアルバムのレコーディングだった。曲を録ってる時が一番楽しかったし、自分が最もクリエイティヴになれる場だって感じてた。ギターを始めてわずか1年だった俺に、クリス・トーマスは想像力を発揮する機会を与えてくれて、ビル・プライスがそれを最大限まで引き出してくれた。言葉にするのは難しいけど、あれが俗に言うマジックってやつなんじゃないかな。

ーあなたは自伝でこう綴っています。「セックス・ピストルズは燃え尽きるために生まれてきた。そして俺たちはその運命をまっとうした」バンドが短命のうちに終わると自覚したのはいつでしたか?

ビル・グランディのショーに出て、シドがバンドに加入した時だ。直感的に長くは続かないだろうと感じていた。そして予想どおり、俺たちはダークで狂った世界にどんどん踏み込んでいった。俺たちはみんなまだガキで、自分たちを取り巻く状況にどう対処していいかわからなかった。少なくとも俺はそうだったけど、メンバー全員同じだったと思うよ。

ーバンドが単なる見世物になってしまったと感じたのいつでしたか?

(グランディのショーに出演した後、)メインストリームのメディアの標的になった俺たちは、曲を書くことに対する情熱を失ってしまったんだ。

ー現在、ジョン・ライドンとの関係はいかがですか?

よくないよ。お互いロスに住んでるけど、連絡を取り合うことなんてほとんどない。最後にやつと話したのは、2008年のヨーロッパツアーの時だろうな。俺は連絡を取ろうなんて思わないし、きっとやつも同じさ。それでいいんだよ。俺はやつに悪意を持ってはいないし、元気でいてほしいと思ってる。うまくいかなかった夫婦生活みたいなもんさ。離婚した元嫁と連絡を取りたがる男なんていないだろ?

ーではメンバーが再び集うことはもうないと?

再結成ツアーで稼げる程度の額じゃ実現しないだろうな。ローリング・ストーンズと同じくらいの額を提示されたら、話は別だがね。

ーあなたは2003年頃、ピストルズの新作のために曲を書いていたとされています。どういった曲だったのでしょう?

ひどい出来だった。2分も聞けばズッコケたくなるような曲だった。危うくバンドの歴史に汚点を残すところだったよ。

セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズが語る:「俺たちは破滅する運命だった」


ーピストルズ解散後、あなたとポール・クックが結成したザ・プロフェッショナルズも長くは続きませんでした。同バンドの再結成の可能性はありますか?

ゼロとは言い切れないな。もしやるとしても、ポールとの関係を悪化させかねないような大掛かりなものにはしない。あいつとは長い付き合いだし、無二の親友だからさ。

ーパンクである以上成功を望んではいけないとする見方について、あなたは当時から違和感を覚えていたと綴っています。そういった考え方はいつ頃生まれたものだと思いますか?

ザ・クラッシュとか、当時の他のパンクバンドの歌詞の影響はあったと思う。当時のバンドは皆口を揃えて「俺たちはマンションに住んでロールスロイスを乗り回しているようなロックスターたちとは違う!」なんて主張してたからな。別に俺たちだってそんな生活を望んでたわけじゃなかったけど、一文無しにはなりたくねぇって思ってた。誰だってそうだろ?俺たち全員、不法占拠した空き家での生活なんてまっぴらだった。俺は皆が内心思ってることを代弁してやっただけだよ。俺たちには金を稼ぐ理由があって、それに値するだけのことをやってたんだからさ。

当時のパンクバンドの多くが共有してたそういう価値観が、いつどうやって生まれたのかは知らないよ。やつらはレッド・ツェッペリンのようなバンドとはまったく異なるメンタリティを持ってたってことさ。稼いでる額こそ違えど、俺はレッド・ツェッペリンとセックス・ピストルズの間に大きな違いはなかったと思ってるんだ。抱えた不満や怒りを音楽にぶつけるっていう部分は、どっちも同じだったからな。

ージョンに比べると、あなたはマルコム・マクラーレンのことをずっと好意的にとらえていることが自伝から窺えます。その理由は?

あの2人は仲が悪かったからな。出会って以来ずっとね。俺だってマルコムに腹を立てたこともあったけど、俺たちはバンドが始まる前から友達同士だったから、彼のことを信頼してた。今となっては(バンドの楽曲の権利を巡って、)ジョンがマクラーレンに裁判を起こしたのは正解だったと思ってる。意外かもしれないけど、本当にそう思ってるんだ。俺だって同じ思いだったけど、友人を訴えるのはやっぱり気が進まないからな。

ーマルコムとヴィヴィアン・ウエストウッドが確立したファッションが、今日のパンクにも見られることについてはどう感じていますか?

変な感じだよ。ついこないだはグッチがボンデージパンツのキャンペーンをやってたしな。いつになったら終わるんだって感じだけど、多分ポップカルチャーの一部としてこれからも残っていくんだろうな。今は何を着ても、世間の反感を買うなんてことはないしね。髪をピンクに染めたボンデージパンツ姿の男が歩いてても、誰も振り返ったりなんかしないだろ?

ー79年からずっとそのファッションにこだわり続けているエクスプロイテッドや、スパイクヘアをトレードマークにするグリーン・デイのようなバンドも見られます。

気に入ったからやめられないんじゃねぇの。はっきり言ってどうでもいいよ。イメージなんてくだらない。

ー80年代、メタルの台頭と並行してパンクは衰退していきましたが、メガデスやモトリー・クルー、ガンズ・アンド・ローゼズといったバンドはピストルズの曲をカヴァーしています。そのことについてどう思っていましたか?

アメリカに来たばかりの頃、俺自身が髪を伸ばしてそれに近いことをやってたからな。叫んだりするいかにもって感じのやつではなかったけど、個人的にはああいうバンドのエネルギッシュなところは好きだった。『アナーキー』のカヴァーや、アンスラックスのヴァージョンの『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』なんかを聞いた時は嬉しく思ったよ。ガンズ・アンド・ローゼズの『スパゲッティ・インシデント』に入ってた『ブラック・レザー』は、俺が書いた曲ってこともあってすごく気に入ってた。ジョーン・ジェットがいたザ・ランナウェイズのやつも好きだったよ。

ー80年代終盤、あなたはボブ・ディランの『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』のセッションに参加しています。自分にはまだ早かったと感じたとあなたは綴っていますが、その理由は?

ああいうレコーディングを経験したことがなかったんだ。彼はただ流れに任せながら、その場で曲を生みだそうとしていた。そう分かっていたら、俺もただ周囲に合わせてギターを弾くだけじゃなく、積極的にアイディアを出すこともできたんだけどな。ボブはマジックが起きる瞬間を待っているように見えた。

ー彼はあなたとどういう曲を作ろうとしていたのでしょう?彼はピストルズのファンだった?

さぁね、俺にも分からないよ。ただ興味のあるプレイヤーに声をかけてみたってだけじゃないかな。何にせよ、素晴らしい経験だったよ。彼とはすごくウマが合った。どういうわけか、俺にはやたらフレンドリーだったんだ。

ーソロとして新作を出す可能性はありますか?

あぁ、ふざけたやつを作りたいね。もう長い間遠のいてるからな。作りかけのまま放置してる曲がたくさんあるから、それを仕上げられたらと思ってる。ジェフ・リンにプロデュースを頼もうと思ってるんだ。

ーこれまでの人生を振り返ってみて、何か後悔していることはありますか?

(最後のライブとなった1978年の)サンフランシスコでのライブ後にバンドを去ったことは後悔してるよ。結論を急ぎすぎたと感じてる。しばらくの間互いに距離を置いて、改めてじっくり話し合う機会を持てたらよかったのにって思う。でもそうはいかなかった。俺たちはそういう運命だったんだよ。もう一度集まって音を出すことができてたらって、今でも思うんだ。
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