キース・フリントは自らを「ねじ曲がった着火剤(firestarter)」と形容する。危険さを体現し、嫌悪感を煽るその男は、プロディジーのフロントマンではない(時は90年代、プロディジーはフロントマンを擁するタイプのグループではなかった)。しかし、過去6年に渡ってプロディジーのライブでオーディエンスの煽り役を担ってきた、しかめっ面のダンサーが初めて歌った(叫んだ、あるいは唸ったという表現の方が適切かもしれない)「ファイアスターター」の大ヒットにより、フリントはバンドの顔として認識されるようになった。鼻に突き刺したボルトは、左側の上唇に向かって傾いている。そして正面から見た場合のヘアスタイルを左から順に説明すると、緑(短い)、緑(角のように尖っている)、黒(短い)、金(短い)、黒(短い)、オレンジ(天に向かって垂直に伸びている)、金(短い)ということになる。ステージ上であれ、朝食の場であれ、近所のスーパーに行く時であれ、キース・フリントが見た目を変えることはない。歌詞にもあるように、彼はパンクの扇動者なのだ。
しかし今日、ドイツでのロックフェスティバルへの出演を終え、ミュンヘンからロンドンに向かうAir UKの午前便の通路側席に座っているフリントは、大人しく放心気味であり、見るからに不機嫌だ。メンバーのリアム・ハウレット(ソングライターでありバンドのブレーン)、リーロイ・ソーンヒル(絵に描いたような長身のダンサー)、マキシム(本名キース・”キーティ”・パーマー、曲によってMCとヴォーカルを担当)の誰ひとりとしてはしゃぐ様子はなく、売れっ子バンドらしい破天荒ぶりはまるで見られない。
しかし、大人しくなったところで問題は解決しなかった。小さな声でやりとりしていたフリントと客室乗務員の間には、明らかに険悪なムードが漂っていた。
武装した2名のドイツ人警察官によって、フリントは機内の外に連れ出されていった。こうして彼は当日、我々と行動を別にすることになった。
本国イギリスにおいて、プロディジーは過去6年間で着実にキャリアを積んできた。11曲のシングルを立て続けにヒットさせ、最新の2曲(「ファイアスターター」「ブリーズ」)はチャートの首位に輝いた。バンドはつい最近までアメリカでは無名に等しかったが(2ndアルバム『ミュージック・フォー・ザ・ジルテッド・ジェネレーション』は、ビルボードで最高198位どまりだった)、今やその状況は一変した。1997年のGreat American Electronica Hypeにおいて、プロディジーはエレクトロニックの波が押し寄せるミレニアル世代のポップミュージック界(あるいはMTV)の救世主として崇められた。
しかし、それは本人たちの見解とは異なる。エセックスの郊外に構えたバンドの拠点、Braintreeスタジオの近くにあるホテルで世界中のジャーナリストを招いて行われた記者会見の場においても、彼らは見るからに不機嫌だった。
「アメリカではあなた方をロックンロールの未来と呼ぶ声が多数ありますが、今のお気持ちは?」記者の1人がそう質問した。
「俺たち全員明日には死んでるかもしれない」ソーンヒルは突っぱねるようにそう語った。「未来もクソもねぇよ、あるのは今だけだ。ただでさえアメリカのダンスシーンは10年も遅れてるんだからな」
「エレクトロニカって言葉を聞いた瞬間、すげぇウンザリした」フリントはそう話す。「俺たちはエレクトロニカじゃねぇ。あれは自分が音楽通だってことをアピールしたいやつが手を出すような代物で、あっという間に消えちまうさ。俺たちは進化し続ける。『イギリス発、最新のエレクトロニックミュージックの衝撃!』みたいなのは俺たちじゃねぇ。

米ローリングストーン誌の第767号表紙(Photo by Peter Robathan/Katz/Outline)
その隣の部屋では、ハウレットとマキシムが同じような発言で集まった記者たちを喜ばせていた。
「こんなハイプはどうせ長続きしないんだ」ハウレットは皮肉な笑みを浮かべてそう話す。「アメリカのメディアが喜びそうな発言だろ? 蓋を開けてみないとわかんねぇけどさ、アメリカのシーンは変わってるからな。音楽業界は次に来るのはエレクトロニックな音楽だって囃し立ててるけど、俺はそうは思わないね。アメリカのキッズはロックに夢中でいいんだよ、俺たちがやってんのは異形のロックなんだからさ。オービタルとかとは違うんだよ。彼らは友達だし、俺は彼らの音楽が好きだけど、そこにロックの要素は1パーセントもない。MTVはこれまでどおりロックを流してりゃいいんだよ、俺たちは別に目新しいことをやってるわけじゃないんだから。一風変わってはいても、俺たちの音楽はロックなんだよ」
プロディジーの核であるリアム・ハウレットが生まれ育ったロンドン郊外のエセックスは、アメリカでいうニュージャージーのような位置付けであり、文化的に豊かとは言い難い。彼が初めて夢中になったバンドは、父親が買ってきたスカのコンピレーションで知ったスペシャルズだった。裏ジャケットのトリルビーとスーツとサングラスを身にまとったすきっ歯の男たちに、彼はハードな反骨精神とエッジを感じ取った。
ハウレットが次に出会ったのはヒップホップだった。きっかけは友人の兄が持っていた、グランドマスター・フラッシュの初期の12インチだった。イギリスで生まれ育った若者にとって、その音楽は果てしなくエキゾチックで秘密めいており、謎に満ちていた。「パンク以降初めて登場したDIYな音楽だと思った」彼はそう話す。「これなら自分にもできるかもしれないと感じたんだ」彼はターンテーブルを手に入れ、ブレイクダンスを習い(得意技はウインドミルだった)、グラフィティにハマり、『ビート・ストリート』を数え切れないほど観たという。ハウレットは学校の仲間たちとPure City Breakersを結成し、毎日お昼休みには体育館で2つのクルーがクラブでブレイクダンスを披露する『ビート・ストリート』のワンシーンを真似ていた。
「その魅力は音楽だけじゃなかった」彼はそう話す。「とにかくリアルで、ストリートの匂いがはっきりと嗅ぎとれた。これがゲットーなのかって思ったし、自分のいる場所とは無縁だと分かっていたからこそ、すごく特別なものとして映った。周りにその魅力を理解できる奴がいなかったから、俺はいつも独りで楽しんでた。部屋にこもって曲を爆音で聴くことさえできれば、他のことはどうでもよかったんだ」
ハウレットはCut 2 Killというヒップホップのグループに加入したが、実際にシーンに身を置いてみると、外から眺めていた時に覚えた魅力(圧倒的なエキゾチシズムと手に入らないが故の憧れ)が薄れてしまったと感じた。
Cut 2 Killが1990年に発表した「Listen to the Basstone」
彼が次に経験した大きな出会い、それはレイヴのシーンだった。80年代後半にイギリスの各地で行われていたダンスパーティーの祝祭ムードと、サイケデリックなドラッグのエクスタシーに魅せられていたユースカルチャーに、彼は強く共感していた(ハウレットの初のレイヴ体験を加速させたのは、エクスタシーではなく半分に切ったアシッドのタブだった)。これこそが自分の居場所だと感じた彼は、レイヴパーティにDJとして出演するようになった。また彼はその頃から、サンプリングを駆使したオリジナルのインストゥルメンタル曲を作るようになった。
以前ハウレットはバンド名をシンセサイザーのMoog Prodigyからとったと語っていたが、それは事実ではない。当時18歳だった彼は、単に人々の興味を引くためにその名前を選んだという。「いかにもBボーイっぽい去勢の張り方だろ」彼はそう話す。「グランドマスター・フラッシュだって、自分をでっかく見せようと尊大な名前をつけてるしな。あの名前を思いついた時、それが4人組のグループ名になるとは思いもしなかった。ザ・プロディジーってのは、ベッドルームでしこしこ曲を作ってる俺のことだったんだよ」
リーロイ・ソーンヒルとキース・フリントもまた、レイヴの世界の住人だった。筋金入りのダンサーだった2人はハウレット本人からDJセットのテープをもらい、そのB面に収録されていた彼のオリジナル曲に衝撃を受け、その曲をライブでやる時には自分たちに踊らせてほしいと申し出た。
1992年のライブ映像
キャッチーなサンプルと狂ったようなブレイクビートが特徴の初期の楽曲は、イギリス国内ではヒットを記録したものの、大衆向けのお手軽品だと揶揄されることも多かった。ハウレット自身、グループのルーツであるレイヴシーンがそのピュアさを失いつつあると感じていた。神聖だったはずのそれは、もはや単なる恒例行事と化しつつあった。
フリントは当時についてこう語る。「光る棒、アルミホイル、グリッター、それに『未来的』なんて言葉が使われ始めた頃からおかしくなった。とどめを刺したのがインターネットだ。あんなもん、パーティのシーンにとっちゃ害悪でしかない。インターネットなんてクソ食らえだ。プレイステーションもな。倉庫でパーティするのが俺たちの日常のはずだろ? 深夜1時頃に道を塞いじまうぐらいの数の車が大通りに停まっててさ、警察から窓越しに『ここは駐車禁止だ』なんて言われようものなら『うるせぇ! 誰がなんと言おうと俺はここに停める。持っていきたきゃ持っていけよ、車なんてくれてやる。俺はあの建物に行ってひたすらパーティするんだ』って返したもんさ。追っかけてくる警察を振り切って、その建物に窓から飛び込んで内側から鍵をかけちまうのさ。そのうちにヘルメットやら警棒やら盾やらを持った武装警官が犬を連れてやってきて、俺たちは力ずくで引きずり出されたもんさ。アルミホイルとかプリント基盤、それにクラフトワークなんてのは、あのカルチャーとはまったく無縁の存在なんだよ。あれは反抗の手段だったんだ。反乱さ! 何十年か経てば、あれは60年代のヒッピーの若者たちが夢見ていたものと同じくらいロマンチックだったってことがはっきりするだろうよ」
プロディジーの1994年作『ミュージック・フォー・ザ・ジルテッド・ジェネレーション』は、シンセサイザーのドローンサウンドとタイプライターを叩く音で幕を開ける。続いて聞こえてくるのはアメリカ訛りのナレーションだ。「私はアンダーグラウンドへ回帰することにした、奴らの手から自分のアートを守るために」それはプロディジーの新たなマニフェストであり、オーディエンスが掲げた両手を左右に振るようなダンスミュージックのノリは希薄になっていた。ハウレットがアルバムの完成間際に書き上げた、マキシムのがなるようなヴォーカルをフィーチャーした「ポイズン」は、バンド史上初めて明確にフロントマンを据えたトラックだった。同年、バンドはデンマークで開催された大型ロックフェスティバルで、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、バイオハザード、スイサイダル・テンデンシーズ等と競演を果たした。ハウレットが感じていた手応えは、バンドの次なるステップへの糧となった。
「ファイアスターター」以前にキース・フリントの歌を聞いていた人間がいるとすれば、それはバンドのメンバーだけだろう。ツアーバンの後部座席に座ったフリントとソーンヒルは、退屈するとライターに見立てた携帯電話をかざして左右に振りながら、U2「ワン」のものまねをしていたという。しかしハウレットが温めていたインスト曲を耳にした時、フリントがヴォーカルを乗せたいと申し出たことをきっかけに、2人は共同で歌詞を書いた。ハウレットは「ファイアスターター」の構想を考えついたのは自分だと主張している。その歌詞はフリントのイメージと見事にマッチしていた。「やつは世間の常識を徹底的に無視するけど、実はすごく頭がキレるんだ」ハウレットはそう話す。「俺は自らを苦しめる精神の起爆剤」ってのはやつのことだよ。やつは頭がイカれちまう一歩手前まで、脳に何でもかんでも詰め込んじまうからな。あの歌詞はまさに完璧だった」
フリントは「自らを苦しめる」と「俺はお前が忌み嫌うクソ野郎」というフレーズが、自分自身のイメージにマッチしていると語る。「深い意味があるんだ」彼はそう呟く。「こういう場では言いたくないんだよ」彼はテープレコーダーに目をやってそう言った。「あんたに話すのは構わないけど、記事にされるのはごめんだ」
ーあなたの発言の端々にも現れていますが、あなたは自己嫌悪という感情の中にエネルギーと喜びを見出していると思います。
「その通りだ。まさにそれだ」
ー「俺はお前が忌み嫌うクソ野郎」、自分をそんな風に呼ぶ人間はそうはいません。
「そうだな。額面通りの意味とは限らないけどな」彼はそう話す。「あれにはすごくパーソナルで深い意味が込められてる。あの言葉でしか表現できない、強大な力が宿ってるんだ」
ーなぜ歌詞を書こうと思い立ったのでしょうか?
「言葉では説明できないな」彼はそう話す。「川はなぜU字型の湖となるのかっていう疑問と同じようなもんだ。6年間、俺はこの身体で自分のことを饒舌に表現してきた。オーケストラの指揮者みたいなもんだ。パーティーの場で自分のお気に入りの曲がかかった時、俺は周りの人間にそれが自分の大好物だってことを知らせてやりたいんだよ。歓喜の雄叫びを上げながら、狂ったように踊るのさ。俺にとって、歌詞を書くことはその延長線上にあるんだよ。別に何でもいいんなら、マイクを通して「ヒャッホー!』ってひたすら叫ぶね。それがパンクだし、DIY精神はプロディジーの重要な部分でもあるからな」
またその頃、フリントは見た目の面でも生まれ変わっている。鼻にボルトを通し、舌にピアスを刺し、トレードマークとなるヘアスタイルを確立した。「ほっとけよ」彼はそう吐き捨てる。「俺はバンドマンなんだ。やりたいようにやるさ」彼は自身のイメージが手に負えないほど肥大しつつあることを懸念しており、髪を真っ黒に染めることを検討している(彼は性器にピアスを開けることも考えている。その理由のひとつは、それが決して人目に触れないからだという)。彼は腹部にタトゥーを入れているが、その「Inflicted」の文字をデザインしたのはハウレットだ。その言葉は大衆から見た彼のイメージに他ならない。
フリントとハウレットが「ファイアスターター」を完成させた夜、2人は曲を車の中で30回は聴いたという。「俺たち2人とも、歌ってるのが俺だって信じられない様子だった」フリントはそう話す。「俺はシンガーじゃない。世の中には9歳とかからドレミで始まる歌のレッスンを受けてるやつがいる一方で、曲を書いたことも歌ったこともない俺がひたすらがなる曲が大きな成功を収めたっていうのは痛快だよな。大勢の人間が顔をしかめたに違いないけど、ざまぁみろって感じで興奮したね」
現在は使われてないロンドンの地下鉄のトンネルでフリントが暴れまわる「ファイアスターター」のミュージックビデオは、気が触れたかのようなエネルギーを見事に視覚化していた。その映像がイギリスで最も人気のある音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』で放送された際に、テレビ局には記録に残る数の苦情の電話が殺到したという。言うまでもなく、苦情の内容は「フリントの見た目が怖すぎる」というものだった。
「大衆が気を害したとしたら、俺たちの思惑通りってことだ」マキシムはそう話す。「テレビを観ている人間が死んだり、傷を負ったりするわけじゃないんだからな。やつは自分を表現してるだけだし、それを怖がってるようなやつらには落ち着けよって言ってやりたいね」
イギリスのあるタブロイド紙は、「ファイアスターター」の歌詞が放火を煽っているとして、「この病んだ音楽をボイコットせよ」というヘッドラインを一面に掲載した。その背景には、床屋の従業員による退屈しのぎの火遊びから起きた火事の消火作業において、史上初めて女性消防士が現場で命を落とすという事態に発展したことがあった。「自分の目を疑ったよ」ハウレットはそう話す。「あの曲に対する反響の大きさ以上に驚かされたね。世の中にはこんなにバカな人間がいるのかってさ。あの時、俺は理解したんだ、プロディジーの音楽は異なる2つの層にアピールするんだってことをね。ひとつは聡明な人々、もうひとつは大馬鹿野郎どもさ」
昨年行われたイギリスツアーにおいて、スマッシング・パンプキンズは「ファイアスターター」のカバーを披露した。「チャートで1位になった時以上に興奮したね」そう話すハウレットの才能に目をつけたのは彼らだけではなかった。デヴィッド・ボウイは最新作において、ハウレットとのコラボレーションを望んでいたという。「正直にいうと、あの話にはノリ気になれなかった」ハウレットはそう話す。「ベテランと呼ばれるようなアーティストとの仕事には興味がないんだ」
プロディジーはU2「ディスコテック」のリミックス依頼を却下したほか、彼らの前座としてツアーを回る話も断っている。また彼らは、所属するレコード会社のボスにさえ楯突いた。プロディジーのアメリカでのレーベルは、マドンナのMaverickだ(ハウレットは「あのレーベルにはロクなアーティストがいない」と語っている)。最近マドンナは仲介人を通し、ハウレットに次回作のプロデュースを依頼したが、彼は即座に却下した。「光栄だけど、やろうとは思わなかった。マドンナのレコードを手がけるなんて、今の自分たちにとっちゃ自殺行為に等しいからな。俺は自分のサウンドを所構わず撒き散らすようなことはしたくないんだ。そんなリスクを冒すつもりはないよ」
自身が大切にするクリエイティブプロセスについて、ハウレットは次のように語っている。「俺の作曲アプローチは、同じ曲のバリエーションを無数に生み出そうとするような感じなんだ。思い描いたエネルギーが形を成すまで、同じ曲を様々なサウンドで鳴らしてみるんだよ」
ー作業中はどういった気分なのでしょうか?
「10トンのダイエットに挑戦してるような感じさ」彼はそう話す。「冗談抜きでね。イメージするエネルギーと破壊力が形になるまで、延々と試行錯誤を繰り返すんだ。曲のインパクトを最大限に発揮するために、不要な要素を削ぎ落としてシンプルさを突き詰めていく。俺が思うに、それってパンクのストレートさに通じると思うんだよ。心をかき乱すような過激なものをお茶の間まで届けること、それが俺にとっての喜びなんだ」
筆者が同行したミュンヘンでのGo Bang Festivalにおいて、プロディジーは当日のヘッドライナーとしてデヴィッド・ボウイの後に出演することになっていたが、彼らは明らかに疲れていた。世界で最もホットなダンス・パンク・アクトは、毎日のように殺人的なスケジュールをこなしていた。「意識したら負けさ」ソーンヒルはそうぼやく。「背中にしょった石炭の袋みたいなもんだ」
ー現実にはミュンヘンの渋滞に巻き込まれているヴァンの中にいるわけですが。
「世間が思ってるようなグラマラスな生活じゃないってことだな」フリントがそう話す。
ーヘリコプターの中でカクテルで乾杯するような日々ではないと。
「その通りだ」フリントが同意する。「カクテルもヘリコプターも、俺たちとは無縁だ」
会場に到着したメンバーたちは、バックステージ代わりに使っているポータルキャビンの中にいた。誰も無駄口を叩こうとしない。「このお粗末なキャビンを見ると、プロモーターたちはいつも動揺するんだ」フリントはそう話す。「ドラッグをキメて互いの顔を引っ叩きあってる、俺らのイメージはそんな感じらしい。俺たちがドラッグを要求しないことに対して、奴らはちょっと困惑してるんだ。シラフでライブができるはずがないって思い込んじまってるのさ」
マキシムはため息をつく。「スカートに着替えるか」そう言って席を立った彼が身につけたのは、緑色のヴェルヴェット生地が目を引く女性もののスカートだった(「着心地がいいんだよ。ヒラヒラ舞うところも気に入ってる」マキシムはそう説明する)。前歯に金の矯正器具をつけている彼は、歯を削って埋めるか、前歯を尖らせた上でホワイトゴールドでコーティングすることを検討しているが、彼女が猛反対しているのだという。
プロディジーのセットの冒頭数曲を、筆者はステージ脇から見ていた。中央のハウレットは何台ものキーボードとシーケンサーに囲まれており、その目の前で他のメンバーたちがパフォーマンスを繰り広げる。フリントとソーントンの2人は、舞台袖で控えている時も体を動かし続けていた。そこから見ていると、自分自身が楽しむという彼らのライブのスタンスがはっきりと伝わってくる。恍惚とした表情を浮かべるフリントをはじめ、メンバーたちの興奮がハウレットをダイレクトに刺激している。彼らの意識はオーディエンスではなく各メンバーに向けられており、そこから生まれるバンドの一体感が逆説的にオーディエンスを扇動している。
1997年、Go Bang Festivalでのライブ映像
6曲目の「ゼア・ロウ」の終盤で音が止まった時、筆者はオーディエンスをかき分けてぬかるんだ道を歩いていた。わずかな沈黙のあと、客席からはブーイングが起きた。数分後、バンドは「シリアル・スリラ」を演奏し始めたが、中盤で再び音が止まってしまう。筆者がバックステージに到着すると、怒りを露わにしながらも落ち込んだ様子のメンバーたちがキャビンに戻ってくるところだった。「くそったれが!」ハウレットが叫んだ。「ケーブルの断線か何かだろうよ。ふざけやがって、悔しくて仕方ねぇよ。『ファイアスターター』もまだ演ってないってのに」会場にはバンドの演奏が終了したことを告げるアナウンスが流れた。ブーイングはバックステージにまで届き、時々ステージに向かって物が飛んでいくのも見えた。
ボトルから直飲みした赤ワインを盛大にこぼしながら、マキシムは「クソが」と吐き捨てた。
我々がミュンヘンのホテルに戻ってくると、受付のところに10代らしき女の子のファン2名がいた。翌朝再び姿を見せた彼女らはおしゃべりしながら、メンバーたちにサインをねだっていた。筆者がドイツ語を話せないと知ると、片方の女の子は拙い英語で「森に火をつける癖」と口にし、顔をほころばせた。
バンドのメンバーたちは根負けし、サインに応じていた。
「サングラス取ってよ」女の子の片方がマキシムにそう言った。
「ジーンズを脱げよ」ハウレットはいつもの調子で、消え入りそうな小さな声で呟いた。本人はジョークのつもりのはずだが、他のメンバーたちは遠慮しない。
「ジーンズを脱いじまえよ!」マキシムはそう口にした。クスクスと笑いながらも、2人が服を脱ぐことはなかった。
何よりも自らの直感を優先し、批判や非難を勲章と受け止める(それが癪にさわるという人間は多い)彼らは、この先何度も世間の怒りを買うことになるのだろう。新作の1曲目がその格好の対象となることは、もはや確実とさえ言える。パンク/ヒップホップらしいスペーシーかつハードなビートと、オリエンタルな雰囲気のヴォーカルサンプルをフィーチャーした「スマック・マイ・ビッチ・アップ」では、マキシムが次のようにシャウトを繰り返す。「ピッチを変えろ / 俺のビッチを叩きのめせ」
炎上必至とはまさにこのことだ。
1997年、プロディジーはダンス系アクトとして初めてグラストンベリー・フェスのヘッドライナーを務めた。
「リスナーに頭を捻らせる曲を作りたかったんだよ」ハウレットはそう話す。「どこまでが許容範囲なのかを確かめようじゃんか」婉曲的ではあるものの、同曲はBボーイカルチャーへのトリビュートなのだという(問題の歌詞がハウレットのお気に入りのヒップホップグループ、ウルトラマグネティックMCズの「ギヴ・ザ・ドラマー・サム」からの引用であることを考えれば、それは十分に直接的と言える)。非難されるとしても、彼らにしてみれば望むところなのだろう。
「その通りさ」マキシムはそう話す。「あの曲を聴いて、奥さんをぶちのめしてやろうなんて思わないだろ?」
「結局さ」フリントはこう続ける。「俺たちのショーに来る女の子たちはハードコアだから、あの歌詞の意味を履き違えたりしないはずさ。Aラインの花柄ワンピースを着るような女の子の中には気を害する人もいるだろうけどさ、俺たちは売られた喧嘩は買う主義なんだ。そういうやつらは俺たちのことが理解できないし、今後もずっと理解できないだろうからな」
「ストレートな侮蔑表現には、いつだって別の意味があるもんさ」ハウレットはそう主張する。「それが皮肉ってやつだ」
彼らの新作を聴いていると、ビースティ・ボーイズのデビューアルバムを思い出す。虚勢に満ちた楽曲には、「俺たちの言うことを真に受けるんじゃない」という暗黙のメッセージが宿っている。『ライセンスト・トゥ・イル』ツアーのダラス公演では、オーディエンスの大半が何もかもを笑い飛ばそうとするような、ビースティーズさながらのノリを見せていた。その一方で、本質を理解しない20パーセント程度の客(ほぼ例外なく男性)は、「スマック・マイ・ビッチ・アップ」が現代の女性蔑視のアンセムだと言わんばかりに叫んでいたことを覚えている。
「額面通りにしか受け取れない連中がいるってことなんだろうな」マキシムはそう話す。「女性は男性よりも劣っているなんて本気で考えていて、パートナーに日常的に暴力を振るうようなやつらのことだよ。そんな連中は俺たちの眼中にない」
「道徳的に正しくないことを口にする快感ってのはあるよ」フリントはそう話す。「心拍数が跳ね上がるようなね。子供の頃、差し込んだコンセントの電極に触りつつ、自分がどこまで耐えられるか試すっていう危険な遊びをやってたけど、あの感覚に似てるんだ」
彼が感電を経験したことはなかったという。少なくとも当時は。
1997年のライブ映像
それでもプロディジーは、ウォルマートに並ぶレコードでは曲名を「Smack My ***** Up」に変更することに同意した(同様に「Funky Shit」は「Funky ****」に変更された)。その効果は期待できるだろう。
一方、写真が大半を占めるCDのブックレットには以下のような記述が見られる。「我々はバターの味を知らないが、諸君に尋ねたい。バターと銃のどちらが重要か? ラードと鉄のどちらを輸入すべきか? 備えあれば憂いなし、それだけは確かだ。バターは我々を太らせるだけだ」ハウレットはその言葉を、数年前のクリスマスにレコード会社からプレゼントされた名言集から引用している。
言うまでもなく、プロディジーはいつものように我々を煙に巻こうとしている。その一節は(若干変更されているが)ナチ党員としてゲシュタポを創設し、1936年に投降したヘルマン・ゲーリングの演説の一部だ。
「アルバムのムードにすごく合ってると感じたんだよ」ハウレットはそう語る。「ナチの価値観に同調してるんじゃなくて、Bボーイカルチャーとの接点を見出したんだ。すごくパワフルで、同時にぞっとするような恐怖感を覚えた。バターか銃かっていうフレーズが頭から離れなくて、アルバムのイメージにぴったりだって思ったんだよ」
ゲーリングと同様に、プロディジーは銃を選択するのだろう。
「アティテュードの問題だよ。その意味について考える行為にこそ意味があるのさ。深く考えたわけじゃない、ただピンと来たんだ」
ナチ党人員の言葉を引用するバンドはそうはいないはずだという筆者の意見に、フリントは笑って同意する。
「まぁそうだろうな。そういう面も全部ひっくるめてプロディジーなんだよ。自ら進んで世間の顰蹙を買うっていうね。誰からも愛されるバンドなんてまっぴらだからな」
フリントが搭乗拒否されたことに対して憤りを覚えた我々は、その客室乗務員に敵意の眼差しを向けた。
「あのくそジジイ」ソーンヒルはそう呟いた。「やつに応対されるのはごめんだ」メンバーたちは辛抱強く口を閉ざしていたが、マキシムはその乗務員に丁寧な口調で名前を訪ねた。それが原因かどうかは定かでないが、飛行機がロンドンに到着して他の乗客たちが降りていく中、我々は機内で待機するよう命じられた。すると機関銃を手にした2人の武装警察官が現れ、我々に着席するよう命じると、彼らはまるで子供を相手にするような態度で説教を始めた。「あいつら何様のつもりだ」ソーンヒルはそう呟き、我々はようやく解放された。
2日後、筆者が訪れたフリントの自宅はこぢんまりとしていてカラフルだった(ハウレットの自宅では2メートル近い剣が壁に飾られており、その近くに置いてあった等身大の傾いた棺桶は金属製の根によって持ち上げられていた。「『ポルターガイスト』の終盤でさ、棺桶が地中から出てくるシーンがあるだろ?」そう言ってハウレットが蓋を開けると、そこには彼が好むアルコール類が並んでおり、どこか不吉なムードを漂わせていた)。
筆者が訪ねた時にフリントは留守にしていたが、彼の母親が家の整理をしにやって来ていた。彼女はコーヒーをいれてくれ、息子について語り始めた(彼女は「キースはプリンのように柔らかい」と話す)。ほどなくして帰宅したフリントは紅茶をいれ、自身について語り始めた。「俺には統合失調症の傾向があるんだ」彼はそう話す。「すごく温厚で穏やかかと思えば、周囲の人間が目を剥くような行動に出たりする。そういう時の俺は酷いもんさ、信じられないくらいにな。そっちに砂糖はあるか?」
話題は先日の搭乗拒否の一件に移った。その経緯について、フリントはこう説明する。「やつは俺の肩に手を置いてこう言ったんだ『お客様、お気分でも悪いのですか? お客様はいささか落ち着きがございませんので、当機にはご搭乗いただけないかもしれません』」その乗務員が再び通りがかった時、フリントは思い切り睨みながら「ご気分はいかがですか?」と皮肉たっぷりに問いかけたという。するとその乗務員は腰をかがめてこう言った。「やはりお客様には落ち着きが足りないようですね」
「俺が楽しそうなのがそんなに気に食わないのか?」フリントはそう問いかけた。「人生を楽しんで何が悪いんだ?」
「そうではございません」乗務員はそう答えた。「私はお客様に落ち着いていただきたいだけです」
「ああそうかい」フリントは穏やかな口調でこう言い放った。「俺はあんたにくたばってほしいね」
「承知いたしました」そう言って場を離れた乗務員は、ほどなくして警察官を連れて戻ってきた。フリントは別室で事情聴取を受けた後、その警察官たちから写真撮影とサインをねだられたという。

キース・フリント、1997年にイギリスで撮影。(Photo by Martyn Goodacre/Getty Images)