「ノット・ユア・バービー・ガール」が、YouTubeやMusical.lyで1000万回近くの再生回数を誇り、続く「スウィート・バット・サイコ」で一躍世界的スターと化したエイバ・マックス。2000年代中盤のダンス・ポップの復活を望む彼女は、幼き頃から夢を追いかけて来たという。
注目の新人エイバがローリングストーン誌のインタビューに応えてくれた。

エイバ・マックスは彼女の自身の髪を切り落とし、ウィッグまでもそうした。3年前、大鋏と工具を使って、今話題のあの髪型を作り出したのだ——ブロンドヘアをセンターパートにし、片方は角度のついた顎の長さのボブ、そしてもう片方はスーパーロングのビーチウェーブ、というスタイルを。

「私の髪型は、なりたいもの、なりたい人を表しているの」と、2018年にリリースされた「スウィート・バット・サイコ」で(髪型の話題と同様に)知られる25歳のシンガーは語る。同楽曲はYouTubeで3億1千2百万回以上再生され、U.K.、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーではナンバー1ヒットとなった。彼女は「独創的なものはとても重要だし、私は、人々が独創的なことをできるように、彼らをインスパイアしているのだと思うわ」と分析する。

マックスはアジアへのプロモツアーを準備している最中にロサンゼルスから電話してくれた。運命的なヘアカットを施した際、彼女はLAで3年間の下積み期間を過ごしていたと言う。「周りの人が私のやっていることを信頼するのは、難しいことだったと思う」と語る彼女は、当時感じた失望や、不愉快な思いをしながらセッションを離れたことを振り返る。「みんなはそれぞれ、自分自身のアイディアを持っていた。そして私を、私ではない何かの型にはめ込もうとしていたのよ」

ある夜、彼女はケイティ・ペリー(「ロアー 最強ガール宣言! 」)、リアーナ(「ホエア・ハヴ・ユー・ビーン」)、マイリー・サイラス(「レッキング・ボール」)と言ったアーティストをプロデュースした人物、サークットのバースデイ・パーティに出かけた。マックスは歌手であったことから、その会場で「ハッピーバースデイ」を歌うことに。
その後数ヶ月の間に、多くの楽曲を生み出すクリエイティブ・パートナーが誕生したのだ。

「私はついに、自分の求めていたサウンドにたどり着くことができた」と彼女は言う。「サークットに出会うまでは、そこにたどり着く機会すらなかった。彼が私を、自由に表現させてくれたのよ」

しばしの共作期間を経て、マックスは「エニワン・バット・ユー」をSoundCloudにアップする準備が整ったと感じた。その一ヶ月後、彼女のメールボックスは、マックスに会いたいと言うレーベルからのリクエストで埋め尽くされることになる。2017年、彼女はAtlanticと契約を果たし、翌年にかけて100以上の楽曲をレコーディング。そのうち半分は、デビューシングルのためのものだった。その中で一番目立っていたのが「スウィート・バット・サイコ」— —初期のレディー・ガガ、ケイティ・ペリー、そしてソロのファーギーと言ったアーティストの一番良いところを寄せ集めて、ポップモンスターに仕立て上げたような楽曲である。

「実はこの曲には、本当にいろんなバージョンがあったの」と、マックスは明かす。特に、50年代のようなドラムを使っていたことをよく覚えていると言う。「最終的にこの曲を選んだ時に、それは予め決まっていたことだったんだ、と直感したの」

アマンダ・エイバ・コチとして生まれたマックスは、小さい頃からスターダムに上がることを夢見ていた。彼女の両親はともにアルバニアからの移民で、母親はオペラ歌手であり、父はいつも家でピアノを弾いていたと言うほどに、音楽に傾倒していた親の元で育った。
さらに祖父はアルバニアでコメディアンや劇場俳優として活躍しており、2人の祖母は楽曲制作をしていたそうだ。

「彼女たちはアルバニア語でたくさんの曲を書いていたの」と、マックスは語る。自身はアルバニア語を話すことはできるが、読むことはできないのだそうだ。「私は、音楽から離れることはできないわ」

コチ家はマックスが生まれたときにウィスコンシン州に移住してきたが、彼女が2歳の時に、ヴァージニア州に映ったのだそうだ。両親は彼女の音楽の才能を常に応援してくれたそうで、マックスが9歳のころ、ラジオ・ディズニーによる歌唱コンテストに参加するために、近くのモールまで連れて行ってくれたこともあると言う。R&Bに傾倒していたマックスはアリシア・キーズ、ノラ・ジョーンズ、マライア・キャリーホイットニー・ヒューストンと言ったアーティストの楽曲を歌うことに夢中になっていた。しかしながら、マックスがポップミュージックシーンでキャリアを構築していくに連れて、友達との関係性に亀裂が入っていった。

マックスは「学校は、あまり良い経験ではなかったわね」と言う。彼女には1人大親友がいたが、それよりも、夢を追いかけることを考える方が多かったと言う。「私はいじめられていたの。同じ夢を持たない人たちと仲良くするのは、私にとってすごく難しいことだった。だからカリフォルニアに向かったのよ」

彼女が14歳の時、両親はマックスのリクエストによって 、拠点をロサンゼルスに移した。
しかし事態は、彼らが想像していなかった方向に向かった。プロデューサーやソングライターたちは、ティーンエイジャーの女の子にチャンスを与えることなく、マックスがスタジオに向かっても、デモすら戻ってこないような、怪しいビジネスの誘いばかりだった。「音楽業界の人々はきっと、家族が周りにいるのが気に食わなかったのね。そんな状況だと、14歳のアーティストをコントロールすることができないから」と、マックスは当時を振り返る。「たった14歳で、自分自身が何者かなんてわからないわ」

ほどなくして一家はサウスカロライナ州へと引っ越す。そしてマックスは、LAで始めたソングライティングに集中し始めた。彼女は兄弟を始めとする、自身の周りの人間との関係性を見つめ、それを元に曲を書いた。そして17歳になると、再びロサンゼルスへ戻ったマックスは、そこにあるハードルに対して自信を持つようになっていた。

「スウィート・バット・サイコ」が世に出されたのち、マックスはアンセミックな新曲「ソー・アム・アイ」をリリース。同曲はヨーロッパ各国でトップ10入りを果たした。彼女の1stアルバムは、マックスの語ることによると「ほとんど終わっている」とのことだが、引き続き、彼女が可能性を感じていると言う、2000年代中盤のポップサウンドを回帰させるべく制作に取り掛かるそうだ。

「あらゆるポップの要素を詰め込んだ、と言うわけではないの」と彼女は語る。
「多分、流行は繰り返すと思うわ。私の音楽だけではなく、ね。私はポップガールズに目がないの。そう言ったジャンルの音楽が、さらに増えるべきだと思っているわ」
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