新世代の台頭やフリースタイル・ブームも追い風となり、躍進が続くジャパニーズ・ヒップホップ。その顔ぶれや音楽性のトレンドは、この10年で大きく変化した。
そこで今回は、元・blast編集長/現・Amebreak編集長の伊藤雄介、楽曲制作/DJプレイを通じて近年のシーンを支えてきたDJ CHARI & DJ TATSUKI、レコード会社ディレクターのA氏(匿名での参加)を迎え、2010年代の日本語ラップを振り返る座談会を実施。音楽ライター・渡辺志保を進行役に、メディア/DJ/レーベルというそれぞれの視点から語ってもらった。

※この記事は2019年3月25日に発売されたRolling Stone Japan vol.06に掲載されたものです。
※本文中で言及されるアーティスト名は、一部を除き原則的に敬称略。
※参加者プロフィールは記事末尾に掲載。

2010年という境界線
 
渡辺志保(以下、渡辺):今回のテーマを踏まえて、まずは2010年に起こったことを簡単にまとめてみました。AKLOのミックステープ 『2.0』 、DJ TY-KOH feat. SIMON, Ys 「Tequila, Gin Or Henny」のヒット、あとはDABOさんの『HI-FIVE』、Ski Beatz「24 Bars To Kill」のリリースも2010年だし、「田中面舞踏会」(※)が盛り上がってきたり、インターネットがひとつの現場として機能し始めたのもこの頃かと。

※まだTwitterの浸透度の低い=ユーザー同士の交流が密だった2009年末から活動している謎のアカウント「今夜が田中(@konyagatanaka)」に引き寄せられた面々による集団T.R.E.A.M.主催のパーティ。2016年にはコンピレーション『LIFE LOVES THE DISTANCE』も発表された。

レコード会社ディレクターA氏(以下、A氏):ですね。

渡辺:もう一つ、テキジン(「Tequila, Gin Or Henny」)のヒットなどもあり、クラブで日本語ラップが普通にかかるようになってきたのもこの時期で。クラブ・イベントの「BLUE MAGIC」がスタートしたのは確か2009年、ZEEBRAとDJ CELORY、DJ NOBUの「KUROFUNE」も2010年……BLASTが2007年に休刊したあと、こういう大きなうねりが現場を盛り上げていったように思います。


ロイド・バンクス feat. ジュエルズ・サンタナ「Beamer, Benz, or Bentley」(2010年)をジャックした人気曲 「Tequila, Gin Or Henny」。記事中の通り、来日していたDJキャスト・ワンを通じてHOT97でもプレイされる快挙に。

DJ CHARI(以下、CHA):「テキジン」が流行ってた頃は、「BLUE MAGIC」もマジで盛り上がってましたよね。

伊藤雄介(以下、伊藤):クラブ・プレイで日本語ラップがかかるようになったと言うよりは、「かかんないとマズいだろ」っていうアーティスト/DJサイドの空気が行動として表れたんだと思います。今のように、例えば洋モノのヒップホップに合わせてAwich(※)の曲がかかるみたいな自然な流れではなく、どちらかというと「仕掛けた」って感じに近いと思いますね。

※YENTOWNクルーのシンガー。沖縄出身。ハードな生い立ちが反映されたリリック、バイリンガル・ラップ、力強いヴォーカルが特徴。Chaki Zuluプロデュースのもとアルバム『8』を2017年リリース。

渡辺:まさにそうだと思います。

伊藤:あと、日本におけるヒップホップとインターネットの関係性に関して言うと、日本はだいぶ遅れてたと思います。アメリカではTwitter以前に、まずMyspaceから始まってるんですよね。
日本のラッパーのほとんどはMyspaceを活用してなかったと思う。そこでまず5年くらいは出遅れていましたね。

DJ TATSUKI(以下、TA):Myspaceは使いにくかったからね(笑)。でもTwitterは日本人に合っていた。

伊藤:厳しいことを言うと、当時の日本のラッパーはネットリテラシーが低かったとも言える。

渡辺:特にネットでのプロモーションやアウトプットに注力せず、CDの売り上げを重視していたということでしょうか。あと、やっぱり、リスナーとしても「音源はフィジカルで買ってナンボ」みたいな意識もあった?

伊藤:それもあったと思います。当時はまだフィジカル依存の時代だったし、CDの売り上げで食えちゃう人も多かったから。

渡辺:私がTwitterに登録したのが2009年の6月で、当時はあくまで周りにいる音楽業界やヒップホップ業界の関係者の方たちとの情報交換や、USの最新情報をディグるためのツールとして使い始めたのを覚えてます。

TA:それ以前だと、情報交換はmixiが主流でしたね。当時のTwitterといえば、みんなで「テキジン」を50 Centにメンションで送ってましたよね。「日本でこんなムーブメントあるんだよー」みたいな感じで。
ジブさんが先陣切って「やれ!」となって、フィフティも反応するっていう(笑)。

伊藤:最終的には、HOT97(NYのヒップホップ専門ラジオ局)でオンエアされましたね。

渡辺:Twitterの浸透もあって、USのシーンと並行して情報も追えるし、我々も情報を発信できるっていう。「SNSってこんなことできるんだ、スゲー!」と感動していたのが2010年頃でしたね。ちなみに、CHARIくんとTATSUKIくんは当時から現場でガンガン回してたんですか?

CHA:もうやってましたね。

TA:ブルマ(BLUE MAGIC)が始まった当初は、まだ宇田川に BOOT STREET(※)があって……俺もCHARIもそこの影響は大きいです。

練マザファッカーの元リーダー、D.Oがプロデュースした渋谷・宇田川町のCD・レコードショップ。

CHA:その頃はまだギリギリ残ってたよね?

渡辺:BOOT STREETの閉店は2011年でした。

TA:HOMEBASS RECORDSやCISCOが潰れたのが、俺とCHARIがDJの専門学校に行ってた直後くらいなんで(共に2008年閉店)。閉店作業とか手伝ったよな。

CHA:行ったね。CISCOも通ってたなー。


TA:でも俺らは、宇田川町に吉野家があったのを知らない世代なんですよ(笑)。

CHA:「蝕(しょく)」っていつスタートですか?

伊藤:2005年頃かな。クラブで日本語ラップがかかるようになる以前の時期に、「日本語オンリーのヒップホップ・パーティ」というコンセプトで『蝕』というイベントをダースレイダーが主催してて、僕もレギュラーDJとして関わっていました。そもそも、ZEEBRAが日本語メインのDJプレイをやるようになったきっかけのひとつは、『蝕』に氏をゲストDJとして招いたから、なんですよ。

渡辺:「KUROFUNE」はもっとフロアで日本語ラップを聴こう、という趣旨のイベントで、日本各地をツアーでまわっていましたよね。それまでのイベントよりももっとフロアライクな日本語ラップをたくさんかけていたイメージです。そこから「24 Bars To Kill」などもヒットして、日本のヒップホップにおける作品の在り方もこの時期から変わってきたのかなと感じています。それは先ほど伊藤さんも仰ったような、USの最新ヒットと混ぜてかけても遜色のない日本語ラップが増えてきたというか。

伊藤:その試み自体は、2000年代前半にDEF JAM JAPANのようなレーベルが盛り上がっていた時期からあったんです。音質/クオリティ面やスタイルを当時主流のUSのヒップホップに近づけよう、という試み自体は、DABOのようなDEF JAM JAPAN所属アーティスト(当時)やDOBERMAN INCのような人たちが意識的にやっていた。だけど、当時のDJプレイはまだレコード中心で、USのラップほど12インチのリリースがなかったこともあり、かけたくてもかけられない音源も多かったんです。だから、先ほどのTwitterやネットの話にも繋がるんですけど、テクノロジーの進化っていうのがものすごく大きくて。
USと日本語を混ぜてかけやすくなったっていうのは、Serato Scratch Liveなどのシステムを活用したデジタルDJスタイルが定着してからですよね。それが2000年代後半。

CHA:それはデカいっすね。

フランスのターンテーブリスト、DJ LigOneによるSerato Scratch Liveのイメージ映像。同ソフトは2015年をもってサポート終了した。

渡辺:お二人がDJを始めたのも、ちょうど同じ時期じゃないですか?

TA:俺たちは最初アナログで、日本語ラップはCDJでかけてましたね。

伊藤:Scratch Live自体は2000年代中盤くらいからあるんですよ。海外だとDJ AMやDJ A・トラックとかが使いだして広まって。 日本のクラブでもデフォルトで設備が整うようになるのが2000年代後半頃から。まさに、今話してきた時期だと思いますよ。僕もDJプレイでScratch Liveを使うようになったのは2006年頃だったと思います。

TA:俺やCHARIは最初の頃、「パソコンなんて邪道でしょ!」みたいにスゲー言ってましたね(笑)。


渡辺:当時、確かにその論争はありましたね。

伊藤:急激なパラダイム・シフトへの対応が遅い、というのはヒップホップ業界に限ったことではなく、日本人の保守的な国民性の表れですよね。今の若い世代はもっとカジュアルに新テクノロジーに順応している印象があるけど。

CHA:厳しい!(笑)。

渡辺:先ほどの話に戻ると、AKLOのミックステープなどがリリースされるようになり、日本でもネット上をひとつのシーンとして捉える動きっていうのが加速してきた、と。

伊藤:それにも理由があって、ネットを最初の主戦場として台頭したアーティストの多くは、コネやシーンとの繋がりが薄いアーティストが多かったんですよね。コネクションがない中、成り上がるための手段としてネットを使って知名度を上げた代表格がAKLOだったと思う。SIMI LABも似たような感じでしたね。YouTubeで発表した 「WALK MAN」 のビデオが話題になって……あ、YouTubeが定着してアーティストが活用するようになったのも2000年代後半ぐらいからですよね。

2.0 by AKLO
全編でビート・ジャックに挑戦したAKLOのミックステープ『2.0』(2010年)。ジャケットからアップロードに至るまで本人の手による意欲的な作品。フリー・ダウンロードという形態も、当時は新しかった。

SIMI LABの名を瞬く間に広めた1曲「WALK MAN」。QNの手による脱臼的なトラックの上で、OMSBやMARIAら各々の個性とスキルが光る名作。彼らはその後SUMMITの中核的存在に。

渡辺:ネットを主戦場にしていたという点では、Cherry Brownも既に2008年からネット上でミックステープを発表したし、ニコニコ動画にも音源をポストしていました。

伊藤:テクノロジーの発達によって、人脈とか誰かの後輩とか、どこが地元かとかにとらわれず、新たな才能が出てきやすくなったのはその時代からですよね。

渡辺:アメリカでソウルジャ・ボーイが2000年代半ばにYouTubeとMyspaceでいきなりヒットを飛ばしたように、数年遅れで日本もそうなってきたと。

伊藤:だからAKLOは、ある意味日本版ソウルジャ・ボーイなのかも(笑)。

渡辺:SIMI LAB「WALK MAN」のビデオが公開されたのは2009年で、SLACKが『Whalabout?』を出したのもこの年。以前までは宇田川町がヒップホップ・シーンの中心地でしたが、渋谷にいる必要もなくなった。そして、周辺地域にいる若手のアーティストが、先輩後輩の後ろ盾もないまま活発に動くようになった流れができた、と。

伊藤:そうだね。

1st『Im Serious』から1年を待たずリリースされたSLACK(現5lack)の2ndアルバム『Whalabout?』。ちなみに、兄・PUNPEEとGAPPERから成る3人組ユニット、PSGの『David』も同時期のリリース。

渡辺:伊藤さんは BLASTの最終号で、「日本のシーンが細分化していって、BLASTが掬いきれなくなった」とも取れることを書いてましたよね。

伊藤:シーンが細分化して難しくなったというよりは、シーンが多様化したことによって、それぞれのクラスタしか聴かない/興味がない人が増えちゃったから、BLASTみたいに洋邦問わず幅広いスタイルのヒップホップを扱う雑誌がやりづらくなったんですよ。満遍なく取り上げるっていうのにムリが生じてきた。

渡辺:なるほど。

伊藤:この場合、多様化とか細分化って二つあると思うんです。一つはスタイルの多様化、もう一つが世代の多様化。SLACKやSIMI LABは、音楽的なスタイルというよりも世代の多様化のひとつの象徴なんだと思います。このくらいの世代からやっと、20歳くらいで全国的に有名になれるアーティストが増えてきたんです。90年代~2000年代は、みんな10代からラップを始めてても、そのくらいの年齢でアルバムデビューまでするのは稀だったし、アルバムデビューの年齢は若くても24~5歳ぐらいが平均だったと思う。例えばBLASTのこの最終号で、「未来を担うアーティスト」として表紙に選んだアーティスト(ANARCHY、サイプレス上野、COMA-CHI 、SIMON、SEEDA)は、この本を出した2007年の時点で既に20代半ば前後の人たちだった。

現場目線で振り返る、2010年代の日本語ラップシーン座談会

日本唯一のヒップホップ専門誌として1994年に立ち上がった『FRONT』を前身とし、1999年1月に独立創刊/月刊化した『blast』は2007年5月号をもって休刊。最終号では、特集「THE FUTURE 10 OF JAPANESE HIP HOP」から選出された5人のラッパーが表紙を飾った。

渡辺:この表紙を久しぶりに見て、ちょっと驚いたのが……(当時の)未来を象徴するMCがこの5人だったわけじゃないですか。でもこの時、SIMONが25歳、ANARCHYも26歳くらいだったはずで。

伊藤:そう、今の基準だと別に若くないんです。この頃はまだ、20歳そこそこで表紙を飾れるポテンシャルのアーティストがほとんどいなかった。その傾向が大きく変わっていったのが、SLACKとかSIMI LAB、RAU DEF(※)とかが台頭した時期だと思います。

※1989年生まれのラッパー。2009年には「BBOY PARK」に出演、翌年にはアルバム『ESCALATE』をリリース。「KILLIN EM!」でのZEEBRAとのビーフは物議をかもした(後に和解し、「HYPATECH」で共演)。

渡辺:自分の好きなタイミングで、サクッと曲を出せるようになったのも大きいんでしょうね。

伊藤:レーベルや流通会社に依存しないで楽曲を発表できるプラットフォームが充実してきたというのは大きいですね。あと、ネットの進化と大都市一極型のシーンの構図が崩壊した時期もリンクしてるんです。それまでは、東京や大阪のような大都市を拠点に活動していないと、それだけでハンデが生じるような状態で、東京においても、まずは渋谷のクラブシーンでの活動で評価を高めて、そこからアルバムデビューという流れが王道だった。だけど、渋谷・宇田川町のヒップホップの情報発信地としての機能が弱まっていき、特定の場所/現場やキャリアの長さに依存しないで活動するアーティストが増えてきた。例えばSIMI LABの地元は東京近郊だけど少し離れた相模原エリアだし、RAU DEFは千葉でしたし、SLACKやPUNPEEも板橋区が地元で、「東京のヒップホップ=渋谷」のような構図に依存していなかった。

KOHH、PUNPEEの台頭
 
渡辺:少し時間を進めると、2012年末にFla$hBackSの 『FL$8KS』 がリリースされています。

A氏:さっき話したようなことのすぐあとに、もうFla$hBackSが出てくるんですね。

渡辺:2012年はSALUが『IN MY SHOES』、AKLOが『THE PACKAGE』でそれぞれアルバムデビューしていて。

Febb、jjj、KID FRESINOによるFla$hBackSの1stアルバム『FL$8KS』 。その後メンバーはソロでも大いに活躍しているが、Febbは2018年に急逝。今もヘッズからの評価は厚い。

伊藤:だからやっぱり、2000年代後半頃に風穴を空けた次世代のアーティストたちの存在もあって、2012年にFla$hBackSのような若いアーティストが出てきやすい基盤が出来たんですよね。

渡辺:リスナーとしてもより親しみやすいというか、オラオラ系じゃなくても渋谷にいなくても、ラップやったり聴いたりしていいんだと思わせてくれましたからね。ちなみに、2010年のAmebreak AWARDSでは、ベストアーティスト部門にSLACKが選出されていました。その後、Amebreakが2012年の年末に新宿BLAZEで行ったイベントでも、SIMI LABやAKLOがパフォーマンスしていて。

CHA:それ、ハッスルさん(YOUNG HASTLE)が司会やってたなー(笑)。

渡辺:この辺りから、シーンが混ざり始めたような実感がありましたよね。

伊藤:いや、あのイベントの時は「混ざり始めた」ってよりは、「混ざりきらないな」という複雑な心境のほうが個人的には大きかったですよ。AKLOやSALUとB.D.じゃファン層が全然違ってたし。全方位的に日本語ラップ・ファン全体を取り込めるアーティストというのは、今も昔もそう多くないんですよ。例えばオジロ(OZROSAURUS)、般若、NORIKIYO、ANARCHYといったアーティストはそれが出来る人たちだけど、「日本語でラップしてる」という共通項だけでは全てのファン層を取り込めない、というのは今も10年前も同じだと思います。

渡辺:シーンが混ざる混ざらないで言うと、去年、他のジャンルの業界の方やリスナーの方から見ると、日本語ラップは既に広い海原のようになっているようで、それぞれのシーンが独立して、混ざっていないように見えると何度か指摘されたことがあったんです。例えばKANDYTOWNとkiLLa(※)のメンバーはあまり交流もあまりなさそう、とか。でも実際は、楽屋でみんな仲良く呑んだりしているんですよね。

※YDIZZY、Blaise、KEPHAなどが所属する東京のクルー。数枚のEPを経て2018年にクルーとしての1stアルバム『GENESIS』をリリース。

伊藤:90年代~2000年代前半は文系とストリート/不良系、ポップ・ラップくらいしか区別がなかったのが、今は更に細分化してますからね。

渡辺:それだけリスナーも細分化されきているようにも感じます。あと、KOHHの出現もシーンを大きく変えた出来事だったのではないかと思いますが、どうでしょうか。

伊藤:Fla$hBackSの登場と同時期でしたよね。

渡辺:最初のミックステープ『YELLOW T△PE』が2012年ですからね。USのトレンドと並行という意味では、やっぱりKOHHはビート・ジャックが非常に上手かった。「WE GOOD」でYGをビート・ジャックする一方で、SIMI LAB「Uncommon」のビート・ジャックもやってて。そういうセンスとスキルで魅せてくれるのは新しい存在だったなと。

TA:「WE GOOD」もそうだし、SALU「STAND HARD」のリミックスもヤバかった。日本語ラップがクラブで当たり前にいけるんだなって思えたのは、この時期からですよね。

CHA:めっちゃ盛り上がってたもんね。

伊藤:「テキジン」にも繋がるけど、その辺りは318(※)の仕掛け方の上手さですよね。KOHH本人は「音楽を作りたい」っていうピュアにミュージシャン的な性格が強い人だけど、マーケティング戦略とか、そういうことに関して彼がアイデアを常時出してきたとは思えない。318のような裏方の仕掛けが功を奏したんだと思うな。

※2000年代からプロデューサー/ディレクター/A&Rとして広範に活動し、数々のラッパーをサポートしている。記事中の通り、KOHHを世に送り出した人物と言える。

A氏:DJ TY-KOH(※)も318がサポートしていましたもんね。

※90年代から活動している、川崎出身のベテランDJ。「リッスーーーン!」の名調子でアオリ役としても参加曲多数。

渡辺:そういうメンツが「BLUE MAGIC」に集ってましたよね。私もTY-KOHとはブルマで初めて知り合ったし。

CHA:あの時のブルマにはTY-KOHさんやDJ 8MANさんもいて、DJ NUCKEYさんもヘヴィ・ヒッターズに入って、あとはDJ NOBUさんもいて……。リリースライブに行けばアーティストとも会えたし。それが今は細分化しちゃったのかもしれませんね。で、KOHHはもうみんなに愛されてる感じで。

伊藤:KOHHはまだ20歳そこそこの次世代アーティストだった頃から、オジロやNORIKIYOのように全方位的にウケたんですよ。

TA:さっき伊藤さんが言ってたように、KOHHは純粋に音楽が大好きというのが良いと思います。

伊藤:あと彼って、世間の人が思ってる以上に「日本語ラップの人」ですよね。特に初期は。彼が面白かったのは、アプローチやトラックの選び方は現行のUSスタイルだったけど、ラップで用いる言葉自体はまったくアメリカに寄せなかったんですよ。韻も固いし、本人も公言してるけどKダブシャインの影響も受けてる。そういった「出自」が、いわゆる文系でナードな日本語ラップオタクな人たちからの支持を高める一因だっただろうし、ルックスや音楽的スタイルはもっとストリート寄りだったり、クラブ・ミュージックとしてヒップホップを聴いてる人たちにもウケたし、不良の人たちにもウケた。

渡辺:KOHHはS極とN極を引き合わせたような感じがしますよね。「田中面舞踏会」が顕著ですけど、あのイベントもネットを媒介にした、ちょっとナーディなパーティだったと思うんですよ。でも、実際に現場に行ってみると、ライブをやってるのはAKLOやKOHHだったり、DJ TY-KOHとKOWICHI だったり……。

CHA:BAD HOPも出てましたよね。

渡辺:超エクストリームなことをやってるラッパーって、どっちにも作用するんだなって再認識させられました。KOWICHIは、「ナードから見ても魅力的に見える」と言ってたし。

CHA:ヤンキー漫画的な憧れっていうか。

伊藤:アメリカのギャングスタ・ラップだって、消費してる大部分は郊外のオタクの白人だったんだから。それはもうファンタジーとして。ものすごくストリートなことを歌ってても、そういった環境に置かれていない文系の人たちも面白がれる。ただオラオラ言ってるだけじゃなくて文学性もあるのがよかった。​

A氏:あと、SUMMITが設立されたのが2011年ですよね。

伊藤:SUMMITは、本人たちがやってることはヒップホップだけど、聴いてるリスナーたちの全員が、必ずしも彼らをヒップホップとして聴いてる訳でもないんじゃないですかね? ヒップホップなんだけど、そういった前提がなくても聴けるポップさもあるのが彼らの強みだと思う。

渡辺:J-POP的に聴いてるリスナーが多いんですかね?

伊藤:90年代とか2000年代は、大衆に受け入れられるヒップホップと言ったら、KREVAとかRIP SLYME的なアプローチにならざるを得なかったんですよ。キャッチー/ポップな曲調だったり、外見的なところだったり。Hillchrymeや童子-Tのようなアーティストがその象徴ですよね。そうじゃないと、ポップフィールドで売れるのは無理だとされていた風潮があった。今はそっちに寄せずに、自分たちが地で持ってるヒップホップ性を出しても、大衆が受け入れやすくなってる。その傾向を作ったのがSUMMITなのかはわからないけど、あのレーベルと所属アーティストたちがその扉を開いた部分は少なからずあると思いますよ。

渡辺:去年フジロックでPUNPEEのDJを聴いたんですが、お客さんが一番盛り上がるのはやっぱりご自身の曲。最初に(STUTSの)「夜を使いはたして」でワーッとお客さんが盛り上がって。

TA:おおー。

渡辺:でも、そのあとにキャムロンやモブ・ディープを掛けても、あまり反応がなくて……。PUNPEEって、こういう風に聴かれているんだっていうのを目の当たりにした感じがしました。

A氏:ここ数年のPUNPEEは、宇多田ヒカル加山雄三、「水曜日のダウンタウン」とか、そういうメジャー仕事もやってる一方で、「田中面舞踏会」のようにネット中心に盛り上がったムーブメントの象徴的存在でもあったわけじゃないですか。しかも、DOWN NORTH CAMP(※) のようなコアな界隈とも繋がっている。さっきのKOHHじゃないけど、両極端というか全方位で愛されるキャラクターですよね。誰も出ると思ってなかったアルバムも出て(笑)。

※ISSUGI、仙人掌、Mr.PUGによるユニット、MONJUなどが所属する謎多きクルー。

渡辺:世間一般的に、PUNPEEは2017年にデビューアルバムを出したばかりだということもあって、扱いが新人なんですよね。私たちからしたら10年以上シーンにいるヘッズでありアーティストでもあるんだけど、大局的に見るとまだ新人なんだ、というギャップを何となく感じていて。だからこそ、PUNPEEが今後どういうことをするのか非常に楽しみだし、いろんなリスナーの架け橋になってくれるんじゃないかなと勝手に期待を寄せています。

A氏:FRIDAYに載る男ですからね、なかなかいないですよ(笑)。

PUNPEEが満を持してリリースした、2017年の1stアルバム『MODERN TIMES』収録曲「Happy Meal」のMV

TA:「水曜日のダウンタウン」のオープニングでも、こち亀検証スペシャルみたいな回だと ZORN(※)の曲をサンプリングしたり、ヒップホップ的なこともやりながら(リスナーが)入りやすいようにしてますよね。

※旧ZONE THE DARKNESS。『THE罵倒』3連覇などバトルMCとして名を馳せる一方、音源では子を持つ親として等身大の日常をラップする独自の作風で、バトルシーンに留まらず支持される存在に。東京・葛飾区の出身で、こち亀検証スペシャルでは彼の曲「葛飾ラップソディー」が用いられた。

伊藤:USで言えばファレル・ウィリアムスのように、「ナードなのに不良からも認められるヤツ」みたいなポテンシャルがPUNPEEにはあると、登場時から感じてました。ただ、それはあくまでヒップホップ・シーン内に限った分析であって、ここまでマスにも通用したのは稀有な例だと思います。

ラップバトルが残したもの
 
渡辺:「BAZOOKA!!! 高校生RAP選手権」「フリースタイルダンジョン」の話もしておくべきかなと思います。BAD HOPやちゃんみな、あっこゴリラなど、2015年以降のバトルシーンが輩出してきた人材には、間違いなくスターがいる。

A氏:「高ラ」の第1回は2012年でしたっけ?

渡辺:そうです。

伊藤:なんで「高ラ」が生まれたかっていうと、さっきも話したように20歳くらいの若いラッパーがMCバトルでも出てきたんですよね。R-指定なんてまさにそう。だったら高校生、10代の奴らでもいけるんじゃないかと、番組制作サイドもある程度の確信があったから始まったんだと思います。ここまでキャラの強い面々を輩出するとまでは思ってなかったかもしれないけど。2010年代のラッパー若年齢化の流れはここにも繋がってるんです。

渡辺:そこでK-九(現T-Pablow)が第1回と第4回の二度優勝。さらに、第5回はYZERRが優勝。そして、2015年から地上波のTV番組「ダンジョン」がスタートすると。

伊藤:テレビに出るということは、スキルはもちろんとして、興味を惹かせるためのバックグラウンドも必要だし、キャラも立ってないといけない。この頃から日本のヒップホップは、キャラ重視の傾向が強くなっていきましたよね。その是非は置いておくとして、パフォーマー/エンターテイナーとして、ただイケてる音楽だけを作っていればいいって時代じゃなくなった。

渡辺:私も「高ラ」を初めて観に行った時に、(ラッパーの)バックグラウンドを紹介する映像がめちゃくちゃ凝ってたことに驚いて。「こんだけチカラを入れてるんだ!」って(笑)。そこに私たちも感情移入しちゃって、どうしても応援しちゃう……。

A氏:映像で見てしまうと、普通のバトルとは(捉え方が)変わってくるでしょうね。

伊藤:機材が安くなったこともあり、映像も撮りやすくなって、YouTubeなどで気軽に配信できるようになったことで、それまでは雑誌の現地ルポとかでしか伝えることができなかったバックグラウンドが、3~4分のMVで観れちゃうわけですよね。だからこそ、バックグラウンドやキャラクターがより重要になってくる。そういう時代になってきたのが、2013年前後じゃないかな。DJのふたりはバトルでDJとかはやってきたんですか?

TA:俺は多かったです、「THE罵倒」とか。

伊藤:「THE罵倒」はどちらかというと、2000年代中盤のMCバトルの名残が残ってるよね。バトルも大会によって多様化してますからね。

TA:昔のMCバトルは熱くなって喧嘩になるとか、地元の仲間が相手のことをステージから引き摺り下ろそうとしたりとかあった。今はそういうヒリヒリ感はまったくないし、別物として大きくなった感じがします。

伊藤:昔はバトル発端の揉め事とか当たり前だったけど、すっかりスポーツ化したよね。ラッパーにとってはラップバトルもインターネットと同じで、成り上がるためのツールという面があるじゃないですか。MCバトル自体は90年代の中~後半からあったけど、キャリアとか知名度重視じゃなく、フリースタイルのスキル次第で誰でも有名になれる可能性があるから盛り上がってきた。そして、メディアに発信される機会が増えたことでラッパーはよりキャラ重視になり、それによってバトルがエンタメ化、スポーツ化していった。で、バトル/即興ラップっていうフォーマットがあればどんなスタイルでもいいとなって、さらに多様化が進んでいくと。

渡辺:国内のバトルシーンは、今後どうなっていくと思いますか?

伊藤:90年代にKREVAが「BBOY PARK」のMCバトルで3連覇した頃から見てるけど……良い悪いは別にして、完全に別ジャンルになったと思ってる。今のバトルはもはや、お笑いに近い。「M-1」とか「キングオブコント」みたいに、いろんな大会があるのもそうだし、バトルで有名になったラッパーがバラエティ・タレント化したり、CMに起用されたりするケースも多い。ラッパーの活動の幅が広がるきっかけになったとも思う。

渡辺:ただ、バトルシーンは別物だとも思いつつ、やっぱりそこからBAD HOPやWeny Dacillo、Hideyoshiとか、音源でヒットするタイプのMCが出てきてるのも事実ですよね。そもそも、個人的には音源やバトルといった単語でアーティストを分類するような言い方は好きではないですが。

M-6POから改名し、Normcore BoyzやWeny Dacilloを擁するクルーTokyo Young Visionに所属するラッパーのHideyoshi。2018年に初音源『Never Be the Same』をリリース。

伊藤:バトルに集うラッパーには、大きく2タイプあって、ひとつはこれまで話してきたようにバトルという現場から有名になり、アーティスト活動に繋げようとするタイプ。もうひとつは、純粋にバトル~フリースタイルが好き/得意でそういった現場を主戦場として選んでいるタイプ。BAD HOPたちは、タイプとしては前者にあたる。また、いくら若いラッパーが出やすい環境になったとは言え、10代のラッパーにとっては今でもシーンに参入するにはまだ壁が高いわけですよ。経済的な事情もあるし、クラブに入るのだって年齢制限があるから容易ではない。そういう子たちにとっては、バトルにそこまで興味がなくてもバトルしか出る場所がない。

CHA:曲を作るにしても、ビートをどうするかとか知らないわけだしね。

TA:だからこそ、BAD HOPやWenyはバトルに出て名前を売ったわけだよね。

伊藤:実際、そういうタイプの人たちは、(成功/知名度が上がると)バトルに出なくなりますよね。

渡辺:Hideyoshiも典型的ですよね。

TA:あと、最近はビートもトラップで、DJタイムもずっとトラップで、出演者もトラップ好きが集まるバトルもあるらしいですよ。それは行ってみたいですね。

渡辺:バトルでいつも聴くビートって、AKLOの「RGTO」とか……。

伊藤:(韻踏合組合の)「一網打尽」とかね。

渡辺:ありますよね、バトルヒット。

TA:去年出したアルバムに入ってるビートも、「バトルビート」としてYouTubeに上がってますよ。T2KとZeusの曲なんですけど(「Straight Outta Tokyo」 )、そういう順序でPVのリンクが貼ってあって。

渡辺:アーティストが狙ったところではない場所でバズる、というのは、例えばTikTokで曲がバズるのと同じような感じなのかな……。

伊藤:日本のヒップホップが独自に生み出した一大コンテンツがフリースタイルバトルですよ。それまでのミックステープやビート・ジャックとかは、全部USヒップホップのマネでやってたことですけど、バトルはUS発祥でもその進化の仕方は日本独特。

渡辺:そこからBAD HOPも出てきたわけですからね。

BAD HOPとAK-69の関係
 
渡辺:彼ら(BAD HOP)が去年、武道館公演を成功させたのは大きかったですよね。ゲストもなし、本人たち以外でステージに上がれたのはバックDJを担当していたDJ CHARIだけだったという。

CHA:ハハハ(笑)。

渡辺:BAD HOPがなぜ、あそこまで大きくなれたのかを識者のみなさまにお聞きしたいなと。彼らの何が新しかったのか、どこがお客さんを引き付けるのか。

TA:仲間だけでやってる、っていうのはある。

CHA:うん。それからT-Pablowくんが先にあれだけハネてるっていう。

TA:ブレてないのもスゴイと思います。

BAD HOPは2018年11月13日、日本のヒップホップ・アーティスト史上最年少で 日本武道館でのワンマンライブを成功させた。

伊藤:彼らの成功って、僕は奇跡だと思っていて。BAD HOPのサクセスストーリーはテンプレート化しようがない。まず、 バックグラウンド(※)が一般人の基準からすると特殊すぎるし、そのバックグラウンドをポップなコンテンツとして見せることができた「高ラ」を活用して名を上げ、しかもバトルに出ても優勝できるスキルがあった。そういう下地と、ここまで上がってくるまでの経緯がちょっと奇跡的すぎる。さらに、リーダー格であるYZERRが商才に長けた男だという。

※複雑な家庭環境、川崎の不良社会で育ったBAD HOPの過酷な生い立ちについてはリリックでもたびたびテーマとして登場する。磯部涼『ルポ 川崎』も参照されたい。

A氏:曲作りのセンスもありますしね。

伊藤:ちゃんと海外のヒップホップも追っていて、時差のない音楽を作ることもできる。こんな奴ら、なかなかいないぞって(笑)。

渡辺:CHARIくんとTATSUKIくんは、すごく近いところでBAD HOPのメンバーと接することもあると思うんですけど、他の若手アーティストと比べて「ここが違うな~」と思うところはあります?

TA:YZERRくんがしっかりリーダーとして仕切ってるのが印象強い。

伊藤:指令系統がハッキリしてるっていう。

TA:2年くらい前にCHARIと俺とYZERRくんで呑みに行ったんですけど、その時既に、「2018年何月何日に武道館」ってもう頭の中のビジョンで決めてて……。

CHA:紙に書いて持ってきてた。

TA:そういう部分、年下には思えない(笑)。

渡辺:そこはYZERRに絶対的な自信があるからでしょうね。

伊藤:自信と野心に加えて、後には引けない、これで成功しなくちゃいけないっていう切迫さ。だからこそマネできないし、奇跡的だと思う。

渡辺:指令系統がハッキリしてるのは、本人たちに会えばパッとわかるんですよね。それもすごいことだと思います。逆に、この関係が崩れてしまうことはあるんだろうか?と余計な心配をしてしまうこともあります。

伊藤:でも、彼は年齢的に先輩というわけではないんですよね。幼馴染で過酷な幼少期を共に生き抜いてきたからこその、血よりも濃い結束で繋がってるので、彼らはそう簡単に崩れなさそうな気もしますけどね。例えば90~2000年代の代表的なクルーだとNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDとか雷家族みたいな人たちがいるけど、彼らは明確なリーダー的ポジションの人がいなかったから、それが自分たちの音楽のカオス感に繋がり、魅力にもなっていたと思います。そういった意味では、同じ集団でも、そういったレジェンドたちとはBAD HOPはまた性格が異なる。

渡辺:さっきの話にもあったように、彼らこそヤンキーへの憧れみたいなものがある人も巻き込んで、青春マンガを見ているように応援しているファンが多いような感じを受けますね。

A氏:武道館には、地方の中学生ヤンキーみたいな子も来てましたしね。

伊藤:彼らが全方位的にウケる下地を作ったのはKOHHで、中高生が感度の高い不良に憧れるように、これまでだったらロックやEXILEとかを聴いてた子がヒップホップを聴く下地を作ったひとりはAK-69だと思う。

渡辺:それは、たしかに。

AK-69は愛知県出身のラッパー。代表曲に「START IT AGAIN」「And I Love You So」など。リスナーを熱く鼓舞するような作風でアスリートやスポーツ選手にも人気が高い。

伊藤:数年前、名古屋でAK-69のライブを観たんだけど、中高生のキッズがみんな彼のトレードマークである赤い服を着ていたのが衝撃でした。マイルドヤンキーの受け皿のひとつとしてヒップホップが機能するようになった理由として、AK-69の成功は大きいんじゃないかな。

A氏:AK-69やBAD HOPって、ライブのMCでもエモいことを言うじゃないですか。「お前たちのおかげでここに来れたぜ!」みたいな。それを聞いて、ヤンキーの子がワァ~!となるんだよね。

伊藤:実は、それを90年代からやってたのはTHA BLUE HERBですよね。THA BLUE HERBとAK-69って、ファン層やスタイルは全く違うけど、地方出身で地元から発信し続けることにこだわる姿勢や、インディペンデントで成り上がっていったという、成功に至るまでのプロセスに実は共通点が多い。

A氏:YZERRのライブでのMCの喋り方は、AK-69から影響を受けてるような気もしますし。

渡辺:実際、武道館ライブの前にはAK-69からアドバイスをいただいたそうです。AK-69こそ、今までの日本のアーティストには成しえなかったことをやっていましたよね。

A氏:そして、現在のマイルドヤンキーが聴いてるのがt-Aceなんでしょうね。エモにエロを加えて、これまでなかなかラップできなかったようなことをラップするっていう。あと幼馴染クルーといえば、世田谷のKANDYTOWNもそうだよね。

t-Aceは茨城・水戸出身のラッパー。キャッチーなトラックに自らを「クズ」「エロ神」と称するあけすけなリリックでラップする独自のスタイルで幅広く人気を集めている。

渡辺:BAD HOPと対極なのがKANDYTOWNですよね。

伊藤:かつてのラップ・クルーは、スタイルや音楽性の共通性、似た思想を共有しているか否かが、クルーとして集結する上で大きな要素だったと思うんです。だから、アイデンティティありきのクルー。一方、近年のBAD HOPやYENTOWN(※)、KANDYTOWNといったクルーは、アイデンティティ以前に幼馴染や友達関係がまずあって、その友達コミュニティ内で共有していた音楽やライフスタイルの影響でアイデンティティが形成されていったように感じます。

※JNKMN、PETZ、MonyHorseなどが所属する東京のクルー。特に近年はkZm、Awichの活躍もシーンを賑わせている。

A氏:昔はラッパーの絶対数がいなかったから、クラスに一人いるかどうかみたいな。だから集わざるを得なかったんでしょうね。

伊藤:「お前もああいうラップ好きなの?」ってね。

KANDYTOWNにはIO、KEIJU、Ryohuなどが所属。Reebokとのタイアップで有名な「GET LIGHT」や「1TIME 4EVER」など古き良きNYヒップホップを思わせるサンプリング主体のビートが特徴。

渡辺:クルーとして作品を出していくことって、日本のシーンにもとてもマッチしている気がします。というのも、近年のUSだと、エイサップ・モブももともと中心人物だったヤムズが亡くなってからほぼ解体しているし、タイラー・ザ・クリエイターやフランク・オーシャンらのオッド・フューチャーや、チャンス・ザ・ラッパーらがいたセイヴ・マネーも、今ではクルー単位での活動はほぼ止まっている。彼らがクルーとして賑やかに活動していたピークはだいたい3年くらいの期間ではないかと思うんです。そう考えると、BAD HOPやKANDYTOWNみたいに、継続してクルー/グループ全員で活動してるのって奇跡的だし、それが日本のシーンにも合ってたのかなと感じますね。

日本語ラップと洋楽、リスナーの壁
 
渡辺:あと、BAD HOPやKANDYTOWNのソロ活動にも顕著ですけど、新時代の日本語ラップ・シーンを牽引してるのがCHARIくんとTASTUKIくんなのかなと。「ビッチと会う」 もそうだし、ここ数年の勢いがすごいじゃないですか。

CHA:(笑)。あの曲は、JP THE WAVYくんがパッといったのがデカいですね。

TA:ラッパーの人選と、DJだからクラブでかけやすい曲というのは意識しました。ビデオが良かった!

Weny Dacillo, Pablo Blasta & JP THE WAVYらが参加した、DJ CHARI & DJ TATSUKIプロデュースの楽曲「ビッチと会う」。「時々ビッチと会う/こいつはエロ過ぎる」という強烈なフックが話題に。

渡辺:お二人が作ってる曲には沖縄のYo-Seaや、姫路のMaisonDeのメンバーなど、東京以外のミュージシャンも参加していますよね。勢いのある若手を引っ張ってこよう、というような意図はありますか?

CHA:うーん、カッコいい人をチェックして声かけるだけで……。僕はもう、「カッコいいな」と思ったらすぐ声かけるんで。ビートを送って、「こういう感じ合うと思うんだけど」みたいな。

渡辺:私はあまり地方のクラブには行かないんですけど、昔はそれこそ東京のシーンと時差があったと思うんですよ。最近はどうですか?
TA 時差もありますけど……。

CHA:それより、最近は日本語の曲と洋楽をかける時の差がすごくて。海外ので盛り上がるのはシェック・ウェスくらいで、日本語以外は棒立ち~みたいな。

TA:去年二人でツアーをまわったときも、最初は洋楽から入るけど、早い段階から日本語メインでプレイすることが多かったです。

渡辺:それだけ国産の曲で盛り上がるようになったというのは、2010年頃を思うと大きな変化ですよね。

CHA:「テキジン」がヒットしたころは、まだ洋楽のほうが人気でしたしね。あと、当時はクラブのヒットチューンと普通の人のヒットチューンが違ってた。(KOWICHIの)「BOYFRIEND#2」もクラブでめちゃくちゃかかっても、一般には浸透していなかったように思うけど、最近はそこに差がないのかなって思いますね。

渡辺:そこはBAD HOPとかKOHHの影響かもしれないですね。お二人はずっと現場にいて、今は制作側にも回ってますけど、洋・邦のリスナーの壁は今後もっと薄くなったほうがいいと思います? それとも、別のシーンが2つあるみたいに、それぞれ発展していけばいいと思います?

CHA:それは最近考えていて。BAD HOPがラジオで(USの)新譜を紹介するのはすごくいいなーと思いますね。ファンの子も、自分の好きなラッパーが好きな海外のラッパーとか知りたいと思うし。でも正直、もっと溝が深まっていくのかなとも思いますね。(それを防ぐには)向こうのラッパーと一緒に曲を作ってヒットさせるしかないんじゃないかな。

伊藤:今ってSpotifyとかのプレイリストでも、(USと日本が)混ざってるものが多いでしょ。だから、並列に聴いてる人は増えてそうなものだけど、クラブに行くとそこに断絶を感じてしまうのは不思議だよね。

TA:ストリーミングで課金して聴いてる人はまだまだ少なくて、YouTubeで聴いてる人のほうが遥かに多数派なんでしょうね。

渡辺:私もINSIDE OUTっていうメディアを2011年からやっていて。AKLOというカリスマティックなラッパーが出演して、彼が、自分の好きなトラヴィス・スコットやJ.コールの曲を紹介すれば、きっとAKLOのファンも興味を持ってくれるに違いない……と思ってたけど、あまりそんなことはなかった気がします(苦笑)。

伊藤:我々のようなメディアサイドの願望としては、自分が好きなアーティストがどんな音楽から影響を受けてるんだろう?と思ってそこからいろんな音楽をチェックする、という風にリスナーの大多数がなってくれたらうれしいんだけど、これだけ様々なジャンルの音楽にアクセス可能な時代であっても、それはなかなか難しい。一方で、90~2000年代は例えば「MUROがプレイしてたあのレコードが欲しい!」みたいな人が今より多かった印象があるんですけどね。

A氏:日本語ラップが好きでも、昔の日本語ラップは聴かないって人もいるだろうし。

TA:今は日本語ラップが人気で充実しているから、昔だったら洋楽にあてていた情熱がそのなかだけで完結しているんじゃないですか。

伊藤:そうそう、そこで消費が完了しちゃってるから。それはそれで、日本のヒップホップの成熟化の表れだと思うから、一概に悲観的になる部分でもないと思う。それに、アメリカでもヒップホップという言葉がメインストリームで使われることが年々減っていって、「ラップミュージック」と呼ぶことのほうが多いんですよね。遡ればNasが2006年に『Hip Hop Is Dead』というアルバムを出した時期に、それ以前の定義に則ったヒップホップはある意味死んだんですよ。日本では今も「ヒップホップ」という言葉を使うことは多いけど、実際はヒップホップ的思想やロジックを重視しなかったり、ヒップホップ的なバックグラウンドのない「ラップ・ミュージック」的なスタイルの人たちが増えてきている。BAD HOPみたいな人たちは、どこまで成功しても「ヒップホップであること」に拘り続けるだろうけど。

渡辺:バトル出身の子が増えてくると、さらにそうなりそうですね。さっきCHARIくんが洋・邦が混ざらないという話で、「海外のラッパーと一緒に曲やるのが解決策」と言ってたじゃないですか。例えば中国のハイヤー・ブラザーズは、デンゼル・カリーやスキー・マスクを迎えた曲をやって、それがアメリカのメディアでも紹介されるという図式ができてますよね。日本ではどういう形が理想的でしょうか。

CHA:理想はああいう形、あのくらいのメンツでアルバムが出せたら一番いいですよね。

伊藤:だけど、日本の音楽マーケット自体が小さいからね。海外のアーティストとやるにも予算が釣り合わないし、外タレに大金払って共演が実現しても、それに見合った商業的なリターンが得られるわけじゃないから。

A氏:最近だとCz Tigerが積極的にやってますよね。

TA:昔、SQUASH SQUADのアルバムにターマノロジーが参加してた時はブチ上がった(笑)。あと、JP THE WAVYが韓国のSik-Kと一緒にやった曲(「Just A Lil Bit」)はすごく良かったです。

CHA:あれはいいね~。あと最近、曲を制作してて思うのが、ビート感ってめちゃくちゃ重要だなって。日本人って横ノリが苦手で、プチョヘンザ感というか縦ノリが好きじゃないですか。例えば、AwichさんとJujuくんの「Remember」や僕たちの「22VISION」は(右手を挙げながら)こう縦にノレるじゃないですか。でも、横になるとどうノッていいかわかんないみたいな。

伊藤:そこをどう受け取るのかって話だよね。それはそれでいいじゃん、日本独自の文化なんだからっていう考えも、一つのステートメントとしてはアリだと思う。その一方で、ヒップホップ性を踏まえるんだったら、そこの問題を打破した、アメリカ的な盛り上がり方が好きな人にとっては難しいと思うし……。アメリカと同じ盛り上がり方になれば正解なのかっていうのは、もっと深く考えるべきテーマだと思う。

渡辺:それが例えば、日本独自のMCバトルの話に帰結するというか。私もアメリカと同じようにノるのが正義とは思ってはいません。でも、中国や韓国のアーティストがあれだけアメリカでグローバルに成功している様子を見ると、「何か日本からのアンサーみたいなのもあるべきなんじゃない?」とは思いますね。

伊藤:締めっぽくなっちゃうけど、2020年代はそういうディケイドになってほしいですよね。どういう形であれ、日本のラッパーがグローバルに成功したわかりやすい例がまだないから。KOHHだって、日本以外のリスナーで彼のことを知ってるのは、まだだいぶ感度の高い人たちだけだと思いますよ。

渡辺:種蒔きは2010年代に充分できたと思うんですよ。今はそれを耕したくらい?

伊藤:畑にはなったけど、まだ農園として整理されてなくて、世界に輸出できる状態じゃない、みたいな?

渡辺:「このバナナよくできてるなー」って(笑)。それを地元の人たちで美味しく食べましょうくらいの段階なのかなと。それが次の10年でどうなるかなって。

A氏:昔はBBOY PARKで「なぜ日本語ラップがクラブでかからないのか」みたいなテーマでパネルディスカッションをやったりしてたんですけどね。

伊藤:BLASTでもしたことがありますね。今となっては「なんでそんな議論してるの?」って思う人もいるかもしれないけど、当時は大きな課題だったんですよ(笑)。

渡辺:今年はKANDYTOWNがチームでの活動をより強化していくと風のうわさで聞いてますし……2019年、面白い方向に転換するのかなと。

A氏:KANDYTOWNとBAD HOPにかかってる(笑)。

渡辺:あと私が楽しみなのは、KANDYTOWNのKEIJUをはじめ、去年からメジャーディールを獲得した若いラッパーがすごく増えていて。そういったアーティストたちが、インディーとは違う活躍や成功の仕方を示してくれるのかな、と。

伊藤:でも、もしこの記事を読んでいる人の中にメジャー・レコード会社関係者がいて、日本でヒップホップが盛り上がってきてるから、という理由で誰かと契約しようとしてるなら、この座談会を踏まえて頂きつつ、かつてメジャーで成功したアーティストたちの売り方をなぞった程度のスキームでラッパーを売り出すことはやめてほしい。J-POPや洋楽に安易に寄せたラップを作れば売れる、っていう時代ではないですし、それはただ文化を搾取してるだけなので。

Edited by Toshiya Oguma
Text by Kotetsu Shoichiro (STUDIO MAV)

PROFILE

現場目線で振り返る、2010年代の日本語ラップシーン座談会

伊藤雄介
2000年頃から音楽ライター活動を開始。後に日本初のヒップホップ専門誌「BLAST」の編集長を務める。現在はヒップホップ・サイト「Amebreak」の運営に関わる傍ら、ライター活動や『ラップスタア誕生!』(AbemaTV)の審査員なども務めている。

現場目線で振り返る、2010年代の日本語ラップシーン座談会

DJ TATSUKI
東京都杉並区出身。都内を中心にDJ活動を行い、多くのミックスCDやエクスクルーシブ音源をリリースしてきた。2016年にAIR WAVES MUSICに所属し、2018年4月にはDJ CHARIと共に1stアルバム『THE FIRST』をリリース。2019年1月にリリースした「Invisible Lights feat. Kvi Baba & ZORN」はiTunesのHip Hopチャートで初登場1位を記録した。ジャパニーズ・ヒップホップに精通し、国内外問わない新譜の選曲が特徴。ZORNのライブDJとしても活動している。

現場目線で振り返る、2010年代の日本語ラップシーン座談会

DJ CHARI
AIR WAVES MUSIC / BCDMG所属。2018年、1stアルバム『THE FIRST』をDJ TATSUKIと共同リリース。収録曲の「ビッチと会う feat. Weny Dacillo、Pablo Blasta & JP THE WAVY」はYouTube再生回数が100万回を突破した。AbemaTVで放送中の音楽番組「AbemaMIX」に毎週木曜日のレギュラーとして出演中。

レコード会社ディレクターA氏
某レコード会社ディレクター。他の座談会メンバーとは飲み/遊び仲間。

現場目線で振り返る、2010年代の日本語ラップシーン座談会

渡辺志保
音楽ライター。広島市出身。主にヒップホップ関連の文筆や歌詞対訳に携わる。これまでにケンドリック・ラマー、エイサップ・ロッキー、ニッキー・ミナージュ、ジェイデン・スミスらへのインタビュー経験も。共著に『ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門」(NHK出版)などがある。block.fm「INSIDE OUT」などをはじめ、ラジオMCとしても活動中。
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