ジョイ・ディヴィジョンについての物語は幾度となく語られてきたが、その内容はあまりに奇妙で信憑性に欠ける感さえある。パンクの歴史本の決定版とされる『Englands Dreaming』で知られるジョン・サヴェージは、1970年代からバンドを追い続けた人物の1人だが、彼が新たに発表する『This Searing Light, The Sun and Everything Else』では、これまでとは異なる切り口でバンドの歴史を描いている。バンドのメンバーのみならず、その仲間や敵、関係者たちの証言を収めた本書は、ロック史上最も謎めいたバンドのひとつであるジョイ・ディヴィジョンの真実に肉薄するオーラル・ヒストリー本だ。同書でサヴェージは、ジョイ・ディヴィジョン結成直後の日々について深く掘り下げている。マンチェスターから世界に羽ばたこうとした悪ガキたちが、ボウイに憧れるフロントマンのイアン・カーティスと共に描いたはずの夢は、バンドにとって初のアメリカ公演前夜にもたらされたシンガーの死という知らせと共に砕け散った。同書からの抜粋となる本記事では、当時ワルシャワと名乗っていた(ほどなくしてジョイ・ディヴィジョンに改名する)みすぼらしい4人組が初ライブを行うまでの経緯を描いている。セックス・ピストルズと名乗る若手バンドが彼らの街にやってきた時、彼らだけでなく、マンチェスターに生きる全てのバンドマンの人生は一変した。才能の有無にかかわらず、そのライブを目撃した人間はもれなくバンドを結成することとなった。— Rob Sheffield (Rolling Stone)
ピーター・フック(ジョイ・ディヴィジョンのベーシスト): 当時俺は市役所に勤めてた。その仕事が向いてないことは自覚してたから、勤務中に気を紛らわせるためのものをたくさん持ち込んでた。その大半は本だったんだけど、俺は音楽雑誌を隅々まで読んでたから、新しいのが出る水曜の朝を毎週楽しみにしてた。ヘヴィメタルのバンドばかり追っかけてた俺にとって、セックス・ピストルズは突拍子もない存在としか言いようがなかった。
とにかく奇妙で、もはや異文化だった。がさつなところにすごく共感を覚えて、俺は即ハマった。昔ツレの2~3人と一緒に、俺のMark 10 Jag 420Gでデヴォンまで出かけて、3週間くらい車中生活をしたことがあった。朝になると車から這い出て、朝飯と体を洗えるところを求めて周囲を彷徨い歩いた。
その時、偶然目にとまったMelody Maker誌を退屈しのぎのつもりで買った。表紙はセックス・ピストルズで、ジョニー・ロットンが客と喧嘩してる写真だった。興味を持った俺は、それを他の奴らにも見せてやった。仕事に戻ったある日、面白そうなイベントを探してEvening Newsのクラシファイド欄に目を通してた俺は、「セックス・ピストルズ Lesser Free Trade Hall チケット50ペンス」っていう広告を見つけた。
俺はバーナード・サムナーとテリー・メイソンを誘って、3人でそのライブに行くことになった。50ペンスのチケットは今でも持ってるよ。それはもうひどい内容で、まるで車の衝突事故を目撃したかのようだった。あんなライブはそれまでに経験したことがなかった。
ピート・シェリー(バズコックスのフロントマン): そこにいたのは全部で42人か43人だったと思う。その数字には俺とハワード、それにピストルズのメンバーも含まれてたかもしれない。俺はキャッシャーをやってて、受付で客の相手をしてた。俺もハワードも、マンチェスターには何のツテもなかった。俺たちはシーンの一部でもなかったし、遊び仲間も数えるほどしかいなかった。俺たちにとってあの街は、単なる大都市でしかなかったんだ。会場にはいろんなやつらが来たけど、誰もがよその世界の住人みたいに見えたし、それは向こうにしても同じだったと思う。人が少なかった上に、イベント自体がなんとなくそういう雰囲気だったこともあって、終演後には客同士の間で自然に会話が生まれてた。
バーナード・サムナー(ジョイ・デヴィジョンのギタリスト): セックス・ピストルズの伝説めいたFree Trade Hallでのライブ、俺たちはあの場にいたんだ。演奏自体は大したことなかったんだけど、「俺も彼らみたいになりたい」と思わせてくれるライブだった。テクニックがなくてもバンドはやれる、そう気付いたんだ。ミュージシャンは誰もが崇めるような存在でなくちゃいけないっていうポップスター神話を、彼らは木っ端微塵に破壊した。一緒に行った友達にはこう言われたよ。「何てこった、あの程度のギターならお前にだって弾けるぜ」
70年代の音楽はテクニックこそすべてって感じだった。リック・ウェイクマンのソロなんて、1秒間のうちに1000音くらい出してた。アメリカ西海岸のプログレバンドの大半は生ぬるくて女々しかったけど、ミュージシャンは神様のように崇められる存在で、リスナーは彼らの前にひれ伏してた。「なんてテクニックだ、すげぇ」みたいな、ジャズに似たメンタリティだったんだ。
その後、俺とフッキーはその通りにした。俺はギターの教則本を、やつはベースの本を買った。俺たちは楽器を持って、アーウェル川を渡ってすぐのところにあった祖母の家に行った。アンプは持ってなかったから、祖母が持ってた40年代の蓄音機の針を外して、そこにギターとベースのアウトプットを無理やり繋いだ。古い蓄音機だったけど、いい音だったよ。俺たちは文無しだったから、他に使えるものもなかったしな。それから俺たちは、2人で曲を書き始めたんだ。
ピーター・フック: その夜のうちに、俺たちはバンドを組んだ。「バンドやろうぜ」の一言で始まったけど、その後の道のりは楽じゃなかった。

Bowdon Vale Youth Clubに出演時のピーター・フック、イアン・カーティス、バーナード・サムナー 1979年 Photo credit: Martin ONeill/Redferns/Getty Images
テリー・メイソン(ジョイ・ディヴィジョンのツアーマネージャー): 俺がやつらを無理やり連れて行ったんだ。当時はフッキーもバーニーも音楽雑誌を読んでなかったし、(ジョン・)ピールの番組も聴いてなかった。2人とも彼女がいたし、日常に特に不満は持ってなかったはずさ。そんな状況が突如一変したわけだ。それまでバンドっていうのは敷居が高くて、人生の大部分を費やさないといけなかったのに対して、パンクに必要だったのはアティテュードと、ほんの少しのコードだけだった。ものすごいスピードと爆音で弾いてりゃ、ミスっても誰も気づかないからな。
バーナード・サムナー: テリーはギャングの一味みたいなもんだった。すごくエキセントリックなやつでね。セックス・ピストルズのことを俺たちに教えてくれたのもあいつだった。メンバーがステージ上で喧嘩するっていうのをNMEで読んで、俺たちに声をかけてきたんだ。「このバンドを観に行こうぜ。ステージ上でメンバーたちが殴り合うらしいんだ、笑えるかもよ」
Iain Gray(証言者): 俺はボウイとヴェルヴェッツ、それにイギー・ポップとも話したことがあったけど、特に刺激を受けたりはしなかった。でもセックス・ピストルズを見た時は、かつてないカタルシスを感じた。「これなら俺にもできる」そう思ったんだよ。イアンもそこにいたのを覚えてる。フッキーとバーニーもね。やつらはミック・ハックネルもいたって言ってるけど、チャーリー・ドレイクそっくりのあの顔を俺が見落とすはずがないんだ。俺は当時、ウィゼンショウ出身のラムってバンドにいたんだ。絶対成功できるって思ってたけど、現実はそう甘くなかった。それで俺はバンドを抜けたんだ。
Alan Hempsall: 当日のショーは早めで、7時30分開演ってことになってた。会場はFree Trade Hallっていうコンサートホールだったから、普通のクラブみたいにはいかなかったんだ。その日の昼にVirgin Recordsに行ったんだけど、店内には古いNMEのページをコピーしたやつが積んであった。喧嘩騒ぎになったナッシュヴィルでのライブについての記事で、客にパンチを浴びせたジョニー・ロットンは気狂いだって書かれてた。チケットはたった50ペンスだったし、俺たちは興味津々で遊びに行った。会場に着いてバンドの出演時間を知った時はびっくりしたけどね。当時俺は15歳で、帰宅したのは22時半~23時頃だった。
前座はSolsticeっていうヒッピーのバンドだったんだけど、マウンテンのナンタケット・スレイライドのカヴァーを演ってて、嫌な予感がし始めてた。でもセックス・ピストルズがステージに出てきた時、その見た目だけで前座のやつらとは完全に別物だって悟った。俺の隣には男友達が座ってて、そいつはあろうことかセックス・ピストルズって名乗ってたんだけど、バンドが登場するやいなやステージにむかってこう言った。「あーあ、あんたあんまセクシーじゃないね」ジョニー・ロットンはすぐさま反応して、そいつを睨みつけてこう言った。「だから何だ?セックスしてぇのか?」すると俺の友達はこう返した。「50ペンスでそこまでしてくれるとは思わなかったな」
演奏が始まると、やつらが腕利きのミュージシャンだってことがはっきりした。噂を信じるもんじゃないぜ、セックス・ピストルズの連中は楽器が弾ける。かなりの腕前さ。客は45人くらいで、50人以上ってことは絶対になかった。ボウイのクローンみたいなやつらやヒッピーが多くて、すぐ仲間意識を覚えたよ。アンコール前にバンドがチューニングやら何やらで準備してた数分間、最前列にいた俺たちはジョニー・ロットンと話すことができたんだ。
Paul Morley (NME記者): ずっと閉じこもってたベッドルームから思い切って飛び出した音楽ジャンキーたち、彼らのことを僕はそう認識してる。ポップグループの一員になるっていうのは、社会不適合者の彼らが他人と接するための唯一の手段だったんだ。マンチェスターの面白いところは、中心地っていうのが存在しないところだ。そこにいる人々の大半は、ストックポートとかチョーリー、オールダム、マックルズフィールド、サルフォード、そういう周辺の町から来ていた。そのせいか、街には小さな集落みたいな雰囲気があった。
初めてライブを観た時のことはよく覚えてるよ。客はあまりいなかったけど、本当に衝撃的だった。未知の何かを突きつけられて困惑し、誰もが言葉を失っていた。もちろん、当時の映像を今観てもそんな風には思えない。服装も地味だし、髪型も特に奇抜ってわけじゃない。最初のライブの時はもう少し短かったけどね。まだヒッピー予備軍だった僕らは、そのまったく新しい世界に足を踏み入れる準備ができてなかったんだ。
メンバーがステージに現れた途端、会場に異様な空気が立ち込めた。その4人は見るからに、何か不穏なものを感じさせた。彼ら自身というよりも、30年代のカルトホラー映画『Freaks』に出てきたボンデージ姿の小人たちを思わせる彼らの取り巻きが、ステージ脇でうろうろしてたことが原因かもしれない。とにかくエキゾチックに思えた。
正直なところ、彼らの見た目はフェイセズと大差なかった。しかし演奏はまったく別で、バンドの背景について知っていたことも関係しているかもしれないが、彼らのショーはまるで舞台演劇であり、ロックとはかけ離れたものに感じられた。従来の文脈では語れない、まったく別の何かだった。弾いているパターンやコードは使い古されたものであるにもかかわらず、どこか非現実的で違和感に満ちていた。古典的なのに、そのサウンドには奇妙なアヴァンギャルド感があった。
僕はひとりで来ていた。ファウストやビーフハートがそうだったように、噂は南部の方から流れてきていて、ストゥージズみたいな予想不可能な何かを目撃できるんじゃないかという期待を抱かせた。小さな劇場のステージに立った、奇妙であどけなさを残した若者たちから目を離せずにいた僕は、周囲の誰にも話しかけようとしなかった。その日の前座はボルトン出身のヒッピーバンドSolsticeで、彼らがマウンテンのカバーなんかをやってたせいで、僕たちに革命を目の当たりにしているっていう感覚はなかったかもしれない。それが起きたのは、それから6週間後のことだった。
Tony Wilson (Granada Televisionプレゼンター、Factory Records共同設立者): 彼らのライブを初めて観た夜、最初は戸惑ったけれど、「ステッピング・ストーン」が始まった瞬間に悟った。こいつらは只者じゃない、とんでもない逸材だってね。その後僕はGranadaでの番組に彼らを出演させようと提案し、リサーチャーのMalcolm Starkを連れてWalthamstow Assembly Hallで行われたライブに足を運んだ。この日もやっぱり客は少なくて、全部で80人程度だったと思うけど、そのうちの半分くらいは飛んでくる唾がかからない程度にステージから離れて、半円型をなす形で集まってた。
ピーター・フック: セックス・ピストルズのショーの後、人があんまり入ってなかったこともあって、客同士の間で自然と会話が生まれてた。何かひどいことが起きた時に、隣に立ってる赤の他人と言葉を交わすのと同じさ。車の衝突事故を目の当たりにしたら、「まぁなんてこと、酷いわねぇ」なんて言うだろ? ライブ会場で他人に話しかけることなんて滅多にないけど、セックス・ピストルズのライブは文字通り「事故」だったから、会話が自然と生まれたんだよ。みんな興奮してたってことさ。

ロッテルダムでのイベントに出演したジョイ・ディヴィジョンのバーナード・サムナー(左)とイアン・カーティス 写真:Rob Verhorst/Redferns/Getty Images
リチャード・ブーン: マンチェスターはまるで、空っぽの撮影スタジオのようだった。中性子爆弾か何かが落とされて、廃墟と化した街みたいな雰囲気だった。自然と人が集まってくる中心部ってものがなくて、芽生えた資本主義が急速に死に絶えつつある、そんな感じだった。シーンがなかったから、バンドを組む人間もいなかった。当時僕はNew Manchester Reviewっていう、ごく少数が隔週で発刊されてた雑誌の音楽イベント欄を担当してた。枠を埋めるために、Stalybridgeみたいなロクでもないハコのイベントまで掲載しなくちゃいけなかった。シーンと呼べるようなものは皆無だったんだ。
ビート・ジェネレーションの頃、マンチェスターとリヴァプールは優れたバンドを幾つも生んだけど、その後状況は変わっていった。ビートルズがロンドンに移り、リヴァプールは事実上終わった。マンチェスターのシーンは警察によって封鎖され、遊び場のほとんどが奪われてしまった。大学や職業訓練校なんかはあったけど、当時そういう場所は学生以外には開かれていなかった。他に思いつく場所といえば、プログレの残党の受け皿になってたFree Trade Hallくらいしかなかった。
どこもかしこも寂れていて、社交場と呼べるような場所はほとんどなく、観るべきバンドも皆無だった。中規模のハコを満員にできるようなバンドがことごとく消滅し、誰でも見境なく出演させてたロクでもないパブでは、目も当てられないような模倣バンドがライブをしてた。マンチェスターという街とそこに生きる人々が宿したスピリットは、今や風前の灯火だった。
ピート・シェリー: (ピストルズの)2度めのショーをやった7月20日の時点で、俺たちのバンドにはベーシストとドラマーが加わってた。実を言うと、セックス・ピストルズの最初のライブの時に、マルコム・マクラーレンが手引きしてくれたんだ。当日会場の外で誰かを待ってた無防備な様子の男に、マルコムが「お前がベーシストか?」って声をかけると、そいつはイエスと答えた。するとマルコムは「奴らは中にいるよ」と言って、俺がいたチケット受付のところまでそいつを連れてくると、窓越しに「彼がお前のバンドのベーシストだ」って言うんだ。それがスティーヴ・ディグルだったんだけど、やつは明らかに困惑してたよ。
「じゃあ、ハワードが上にいるから紹介するよ」そう言って俺がやつを連れてこうとすると、スティーヴは会場でもうひとり別の人間と会うことになってたらしくて、「セックス・ピストルズのライブがもう始まるし、とりあえず観ないか?」って言った。俺たちはそんなやりとりを交わしつつ、翌日には一緒にリハーサルしてた。その後、1ヶ月位前にドラムキットを買ったばかりだった16歳のJohn Maherがバンドに加入した。俺とハワードは1975年末くらいから曲を書いてたから、ライブの準備はできてたんだ。
スローター・アンド・ザ・ドッグスのやつらは、自分たちがバズコックスよりも多くの客を連れてこれるってマルコムに訴えてた。それは本当だったけど、やつらのいう客っていうのにはスローター・アンド・ザ・ドッグスのファンだけじゃなくて、ピストルズの最初のライブに来てた客や、そいつらから噂を聞いて興味をもったやつらのことも含まれてた。それにセックス・ピストルズ自体が話題になり始めてたから、次のライブにより多くの客が来たのは当然だった。
結局その公演で前座を務めた俺たちは、30分のセットの最後に客席に突っ込んだ。大切なのはギグがどういうものかっていう既成概念をぶっ壊すことだったから、そういう無茶もアリだと思ったんだ。リハーサルでは俺はハーフソーンのStarwayのギターを使ってたんだけど、ある日俺がかなり激しくそれを弾いてた時に、勢い余って床に投げると真っ二つに割れちまった。その時に、実はそのギターがハーフソーンじゃなかったってことが判明した。こんな安物ならまた買うかってことになって、俺はAudition GuitarのやつをWoolworthsで20ポンドくらいで買った。どうせ安物だから、俺とハワードはセットの最後にそのギターを思いっきりぶっ壊すことにした。やつは弦を次々に引きちぎり、俺はギターを床に叩きつけた。まさにカオスそのもので、すごく気持ち良かったよ。
セックス・ピストルズは明らかにレベルアップしてた。俺が「アナーキー・イン・ザ・UK」を生で聴いたのはあの日が初めてで、始まった瞬間にこれは時代を変えるって確信した。まるで開け放った扉の向こう側から、巨大な像の群れが突進してくるかのようだった。
Paul Morley: 数週間後に再び彼らのライブに行った時、フーリガンと化していた僕はスローター・アンド・ザ・ドッグスのヴォーカルのウェイン・バレットにピーナッツを投げつけたことで、危うく会場から放り出されるところだった。僕の目には、やつらはフェイクとして映った。ピストルズを初めて観た日から6週間、誰が本物で誰がそうでないかを見極めようとしていた僕らには、スローター・アンド・ザ・ドッグスはただブームに乗っかろうとしているだけのバンドに思えた。その一方で、その日のトップバッターだったバズコックスは本物だと感じたし、地元のバンドだってことにも希望を持てた。
ピート・シェリー: 会場には最初のライブにも来てたやつらがちらほらいて、自然と会話が生まれた。バンドを始めたい、あるいはファンジンを作りたいっていうやつらが大勢いたよ。パンクは来るものを拒まない。「これは俺たちのもので、お前らはおよびじゃないし、それは今後も変わらない」みたいな、それまでのアートフォームにありがちだった閉塞感がなかった。「お前にもできるさ、やってみろよ」、それがパンクのアティテュードだった。
ユーモアたっぷりなところも魅力だった。そのバンドがやらかすかもしれないことについて考えるだけで楽しかった、それがまずあり得ないとわかっていてもね。あのバンドならこんな無茶をしでかすかもしれない、そんな風に想像を巡らすことがリスナーの楽しみでもあったんだ。
ピーター・フック:俺たちは2回目のセックス・ピストルズのライブにも行った。バズコックスが前座をやってたけど、その頃には俺たち自身もシーンの一員だって感じてた。ハワード・ディヴォートとかに比べて労働者階級臭さが強すぎるとか、そんな理由で隅っこの方に追いやられてはいたけどな。俺たちは不良だとみなされてたし、実際その通りだった。俺らがつるんでた連中や、俺らが生まれ育った地域には、そういうイメージが染み付いてた。向こうはアートカレッジとかで自由を謳歌してたんだろうけど、俺たちはまだ自分たちの居場所を見つけられずにいた。
それでも素晴らしいシーンだった。パンクスがまだマイノリティだった頃、The Ranchは聖地みたいなものだった。コミュニティ的なムードの中で俺とバーニーは浮いてたけど、気にせず通ってたよ。

ジョイ・ディヴィジョン 1980年2月 マンチェスターにて 写真: Daniel Meadows
ピート・シェリー: Dale StreetのFoo Foos Palaceの隣にあったビルの地下に、The Ranchっていう小さなバーがあったんだ。Foo FooはLily Savegeみたいな、辛辣なウィットを持ったオネエだった。そこは未成年でも酒が飲める場として知られていて、見るからに15歳以下のやつにも酒を出してた。定番はカールスバーグのSpecial Brewで、ボトルにストローをさして飲むんだ。そこで2、3本ボトルを開ければもうご機嫌さ。
1976年の8月、Lesser Free Trade Hallでセックス・ピストルズの前座を務めた後、俺たちはFoo Fooがやってたマッサージパーラー兼サウナに行った。肩からタオルを下げてた彼はいかにも70年代のギャングスターって感じで、『ロンドン特捜隊スウィーニー』のワンシーンみたいだった。「あんたのクラブでギグをさせて欲しいんだ」俺たちのその申し出を、彼は訝しみながらも承諾してくれた。俺たちの考えは間違ってなかったってわけだ。
8月にそこで開催したライブには、The Ranchの常連客たちだけじゃなく、バズコックスの噂を耳にしてたやつらもたくさんやってきた。俺たちが数曲やったところで、盛装したFoo Fooが割り込んできてこう言った。「その忌々しい騒音を今すぐ止めてちょうだい」
当時のThe Ranchは、Pipsに立ち入れなそうなボウイやロキシー好きのキッズたちでいっぱいだった。最初のうちは金曜と土曜だけだったけど、そのうち日曜日にも人が入るようになって、そこは俺たちの社交場になった。後にザ・フォールを始めるやつらと初めて会ったのもそこで、やつらはカウンターのそばで飲んでた。すごく小さなバーで、50人も入ればパンパンって感じだったから、まさにちょうどいいサイズだった。どんな身なりをしていても誰も気に留めない、そういう場所だった。
当時ちょっとでも奇抜な格好をしたやつらは、ほとんどのバーで門前払いにされてた。The Ranchはドラァグの聖地だったし、文字通り地下にあったこともあってか、ドアポリシーは無いも同然だった。誰もが歓迎され、そこでしか聴けない音楽を楽しむことができる場所だったんだ。
Tony Wilson: 僕らは『So It Goes』にセックス・ピストルズを出演させた。それがSeries 1の最終回で、僕らは半ば使命感から3組の未契約バンドを出演させた。彼らの態度は横柄で、Clive Jamesに喧嘩を売ってたよ。かなり酔ってたからね。彼らの出演は3分半の予定で、事前にリハーサルしてたにもかかわらず、あと5分で撮影終了っていう状態から7分間演奏し続けた上に、スタジオの機材を蹴って破壊してしまった。2日後、ディレクターは映像を3分半に編集した。その翌日、僕はGranadaの上司から大目玉を食らうことになった。最初から嫌な予感はしてたがね。
ピート・シェリー: シャツにジーンズ姿のTVプレゼンターが、まさかパンクに興味を示すとは思いもしなかった。彼はGranadaで、地元のニュース番組の司会をやってた。パンクのギグに彼みたいな人物がやってきたのは意外だったけど、テレビの世界と繋がりが持てるってことにはやっぱり興奮した。彼は『So It Goes』っていう番組をスタートさせ、セックス・ピストルズを出演させた。
Paul Morley: 7月に行われたセックス・ピストルズのライブ以降、シーンはしばらくの間沈黙していた。みんな態勢を整えようとしていたんだ。バズコックスはDeansgateで、チェルシーとの2マンライブをやった。ビリー・アイドルとトニー・ジェイムス、それにスティーヴ・ディグルと一緒に酒を飲んだのを覚えてるよ。変わり者の一匹狼だった自分が電話でハワード・ディヴォートと話してるっていう状況に、僕はすごく興奮していた。好きな言葉を5つ挙げて欲しいと言うと、彼は「I like eating ice cream」と答えた。その時彼はアイスクリームを食べてたんだ。
ライブ会場では誰もが同じような格好をしてた。僕自身髪を短く切っていたし、他に着るものがないと言わんばかりに、祖父の衣装棚から引っ張り出してきたかのような服を着てるやつが多かった。シーンが沈黙していたその間、ワルシャワやバズコックスみたいなバンドは自分なりの回答を示すべく水面下で格闘していた。言うまでもなく、その引き金になったのはピストルズのライブだった。彼らと同じように、奇妙な音楽に夢中になっていたマンチェスターの同世代の若者たちがバンドを組み、優れた音楽を生み出していった。
Richard Boon(バスコックスのマネージャー): 1976年の11月10日、俺はElectric Circusで初めてイアン・カーティスと会った。当時バズコックスは自分たちでイベントを企画していて、その日はロンドンからチェルシーを呼んでた。俺はキャッシャーをやっていて、そこにイアン・カーティスが来たんだ。その夏にすごく話題になってたフランスのMont-de-Marsan Festivalがいかに退屈だったかということを、彼は延々とグチってた。熱っぽく話す様子を見ながら、こいつも自分たちと同種の人間なんだって思った。
ピート・シェリー: Electric Circusは元々ヘヴィメタ専門のハコだった。大きさも手頃で、端に作られたステージはかなり立派だった。壁が一面真っ黒に塗られてたから中は暗くて、入り口のとことホールの脇と後方にバーがあった。盛り上がりつつあったパンクのオーディエンスを積極的に取りこもうとしていたElectric Circusは、マンチェスターにおけるパンクとニュー・ウェーヴの中心地になっていった。場所は寂れた市営住宅が立ち並ぶCollyhurstってとこで、中心部からは歩いて40分くらいかかった。いつもその辺をうろうろしてたいかつい野良犬を追っ払えるよう、みんな何人かで一緒に来てた。
Richard Boon: ライブハウスは数えるほどしかなかった。Electric Circusは空襲に遭ったかのようだったOldham Streetの端にあった。Pipsはディスコをはじめ、ボウイやグラムロック以降のものはなんでもござれって感じだった。Band on the Wallは伝統的なジャズが多かったけど、それ以外のイベントも時々やってて、交渉次第では月曜の夜なんかは安く借りられた。以前はクラシックのコンサートが開かれてたHoldsworth Hallとか、そういう借り手がなくなってるハコが狙い目だった。
ピーター・フック: セックス・ピストルズがElectric Circusでやった最初のライブはすごく良かった。Anarchy in The UKツアーの一環だったから、宣伝もしっかりしてた。その時のポスターはずっと持ってたよ、母親が勝手に捨てちまうまではね。例の『Bill Grundy Show』に出た後、他の公演が次々にキャンセルになってたこともあって、彼らはそこでもう1回ライブをやった。会場の外にはフーリガンや変人が行列を作ってて、向かいの建物からはボトルが大量に飛んできた。もはや暴動って感じで、悪夢のような夜だった。
Richard Boon: 自主企画してた一連のギグが『スパイラル・スクラッチ』を作るきっかけになったのは間違いないけど、Anarchy in The UKツアーのあまりの成功ぶりに、パンクのピュアな部分が失われつつあるっていう危機感を抱いたことも関係していたと思う。タブロイド紙にも取り上げられ、パンクはクリシェと化しつつあったけど、それは俺たちの感覚とはかけ離れていたから、俺たちは自分たちのパンクを形にする必要があった。一刻も早く実行に移すため、俺たちはちょっとしたリサーチをやって、仲間やピートの家族に資金集めを手伝ってもらった。おかげで1000枚刷ることができたけど、それをどうするかはまるで考えてなかった。
9 Lever StreetにあったVirginのレコード店のマネージャーだったJohn Websterは、そのうちの何百枚かを買い取ってくれた上に、近隣のストアマネージャーたちにも声をかけてくれた。Virginは本部が仕入れを一括管理してたから、同僚たちを説得するのは容易じゃなかったはずだ。その後ラフ・トレードのGeoff Travisが電話をかけてきて、気づけば俺たちは初期パンクムーヴメントの一端を担う存在として見なされるようになってた。アルバムは再プレスを重ねて、約1万6000枚を売り上げた。
Martin Hannett (Factory Records プロデューサー兼ディレクター): 俺は7月にFree Trade Hallで行われた、ピストルズの2度目のライブに行った。リズムセクションはタイトだったし、いいバンドだと思った。大いに楽しんだよ。バズコックスも良かった。俺はスローター・アンド・ザ・ドッグスと仕事をしてたけど、場違いな感じは否めなかったね。やつらがやってたのはグラムロックだったからさ。ピストルズのファーストアルバムがますます楽しみになったけど、家に帰ってから俺はこんな風に考えてた。「リズムギターは180本くらい重ねられるんだろうな。クズってわけじゃないだろうけど、ありきたりなレコードになっちまうんだろうな」

Pennine Sound StudioでのMartin Hannett(Factory Recordsプロデューサー)とバーナード・サムナー(ジョイ・ディヴィジョン)1980年1月 写真: Daniel Meadows
俺が初めてプロデュースしたパンクのレコード、それがバズコックスの『スパイラル・スクラッチ』だった。「俺たちはライブもやったし、雑誌にも取り上げられた。次にやるべきことは何だ?」そう話すリチャードに、俺はこう返した。「レコードを出すのさ」ピートの親父のMcNeish氏が金の目処をつけてくれて、俺たちは16トラックのマルチコレコーダーが置いてあったIndigoに入った。その時も俺は色々試そうとしてたんだけど、スタジオのエンジニアはこんな風に怒鳴り散らしてた。「だからスネアにそんなエコーかけちゃいけないんだよ!」そんな感じだったから、結局4トラックレコーダーで録ったみたいな音になった。
あのレコードは未完成のままだ。できることならマスターを奪ってミックスをやり直したかったけど、そのエンジニアがレコードをとにかく嫌ってて、勝手に全部消しちまってたんだ。今聴くとモニターミックスかと思うだろうね。極端に明るいギターの音なんか特にさ。コンプレッサーをかけた上に、俺が高音を足したんだ。俺はあのギターが大好きだったからさ。それが彼らのサウンドだったし、あのレコードはその記録なんだよ。
Paul Morley: 76年の末頃、ピストルズはElectric Circusで2回ライブをやったと思う。ザ・クラッシュやバズコックスが前座を務め、ローカルのキッズで満員になった会場の光景には興奮したね。僕がワルシャワのことを知ったのは、彼らが実際に活動を始めてからだったと思う。その頃から風変わりなワインセラーやストリップクラブ、大学の隅っこのスペースなんかで色んなイベントが開催されるようになり、僕が彼らと出会ったのもそういう場だった。
Iain Gray: 新しいバンドを組もうとしていた俺は、Virgin Reocrdsの店内に「パワフルで情熱的なヴォーカリスト求む」っていう貼り紙を出してた。誰かが「条件: 10000ボルトの電流に耐えられること」って落書きしてあったよ、マンチェスターならではのユーモアさ。唯一連絡してきたのがイアン・カーティスで、俺たちはセールにあったVine Innていうパブで会うことにした。イアンは背中に「hate」ってプリントされたジャケットを着てた。1976年当時のマンチェスターじゃ、それはかなり危険な行為だった。ドンキージャケットを着たやつが店に入ってきた瞬間、周りにいた地元の奴らが「何だあいつ?どういうつもりだ?」って色めき立つのがわかった。
話してみると、イアンはすごくいいやつだった。まともなやつなら、関わらない方が良さそうだって思っただろうけどね。レザーパンツに「hate」プリントのコンバットジャケット、まるで『タクシードライバー』のデ・ニーロみたいだと思ったけど、彼は実際あの映画が好きだったんだよ。彼はすごく落ち着いていて、実際の年齢よりも大人びてた。俺は当時18歳で、彼は20歳か21歳だったと思う。「パンクこそが理想だ。結婚なんて退屈の極みさ」俺がそう言うと、彼は手にはめた指輪を見せてこう言った。「俺は結婚してるけどね」
イアンとデビーはヒュームのStamford Streetにあった彼の祖母の家に住んでいて、俺も何度か行ったよ。クリスマスシーズンで部屋の中には風船が浮かんでたんだけど、棒状のやつが丸いの2つに挟まれててチンコの形になってた。彼の祖母はまったく気づいてない様子だったけど、イアンは笑ってたよ。彼は本当にいいやつで、デビーに花やチャコレートをプレゼントしてた。あんな絵に描いたようなカップルには会ったことがなかったから、正直妬けたよ。
イアンは本当に幸せそうだった。子供こそいなかったけど、まさにバラ色の人生って感じだった。彼はよくタバコを吸ってて、マルボロがお気に入りだった。好きな酒はColt 45だったけど、彼はあまり飲む方じゃなかった。デビーを膝の上に座らせて、2人はテレビを観ながら一緒に紅茶を飲んでた。若くして公務員になってた彼は、上流階級の出身だった。当時はサッチャー政権が始まる前で、まだそういうのがあったんだ。彼は保守党を支持していて、とにかく野心に満ちてた。何があっても成功してみせるっていう、ギラギラしたものを内に秘めてた。
デビーは家にいることが多かったけど、俺たちはElectric Circusや初期のバズコックスのライブによく遊びに行った。1976年にElectric Circusでやったダムドのライブにも行ったし、Anarchy in the UKツアーの2公演も観た。レコードもよく貸しあったよ。彼も俺と同じくイギー・ポップが好きで、あとヘヴィーなダブやジャマイカのレゲエにも詳しかった。リー・ペリーやU・ロイ、I・ロイとかね。俺がそうだったように、彼もセックス・ピストルズのライブを観て感化されてた。彼はデビーと一緒にフランスのパンクのフェスに行ってたけど、俺は当時その存在さえ知らなかった。
出会ってから2週間後くらいに、俺たちは一緒にロンドンに行くことにした。シーンがどんな感じなのか知りたくてね。Kings Roadにあったピストルズとマルコム・マクラーレンがやってたショップや、The Roebuckに行った。どこかで遭遇するかもって期待してたピストルズのメンバーとは会えなかったけど、チェルシーのジーン・オクトーバーには会えたよ。ロンドンのバンドをマンチェスターに呼んで俺たちが前座をやる、そういうプランだったんだ。
ドン・レッツと話した時のことはよく覚えてるよ。当時ドレッドロックは珍しくて、すごく目立ってた。自分たちが前座をやる前提で、マンチェスターにロンドンのバンドを呼ぼうとしてるって伝えると、彼はこう言った。「いいバンドがいるんだけど、まだ時期尚早だ」多分ザ・クラッシュのことを言ってたんだと思う。イアンは彼にこう言った。「ロンドンのいいバンドを知らないかい?あんたってすごくクールだからさ」シャイだった俺と違って、イアンは積極的に人に話しかけた。彼もシャイではあったけど、人と話すのは苦じゃないみたいだった。
その時点で、俺たちはまだ一度もリハーサルをしてなかったけど、やがて誰かの家の庭にあった物置やパブなんかでやるようになった。俺がギターで彼がヴォーカルだったんだけど、彼が持ち歩いてたちいさなスーツケースにはリリックノートが大量に入ってた。それから1ヶ月くらいして、俺はそれを読み始めたんだけど、そこには「デイ・オブ・ザ・ローズ」や「リーダーズ・オブ・メン」、下書き段階だった「キャンディデイト」の歌詞が書いてあった。1976年当時、彼はナチスの戦車隊の指揮官たちのことなんかをテーマにしたSven Hasselのフィクションをよく読んでて、『Wheels of Terror』を特に気に入ってた。「リーダーズ・オブ・メン」の歌詞を読んだ時は笑ったよ、Sven Hasselの本のまんまだったからさ。79年か80年頃には2人ともすっかりリベラル派になってたから、そういう本を読んでたことは口にさえできなくなってたけどね。
ある日のリハーサルで、彼は死んだ蝿のダンスを初めて披露した。ロクでもない曲だったけど、俺は無我夢中でギターを弾き、彼はこんな風に白目をむいたまま大きく仰け反ってた。俺が知る限り、彼はまだてんかんを患っていなかった。もしなってたんだとしたら、かなり上手にそのことを隠してたってことになる。俺はその兆候を目にしたことはなかったけど、時々心ここに在らずって感じになることがあって、そういう時の彼は近づきがたかった。普段は思いやりのある優しいやつだったからこそ、その落差は不気味だった。
その頃ベーシストが加わって、俺たちはモス・サイドにあったGreat Westernっていうパブでいつもジャムってた。電話で「おたくでリハさせてくれないか?」って交渉してオーケーをもらったんだ。そこはいかつい労働者階級のやつらのたまり場になってて、みんな俺たちのことをじろじろ見てた。ジャケット姿のイアンがマイクに向かってシャウトし始めると、「うるせぇ!」って怒鳴られて放り出されたよ。当時、イアンはまだ自分の歌声を確立できていなかった。みんなが知る前の彼は、猫背でボソボソと歌詞を読み上げるっていうスタイルだった。
そうこうしてるうちにクリスマスが過ぎた。結局ドラマーは見つからなかった。バンド名の候補は幾つかあったけど、ワルシャワっていう案を出したのはイアンだった。彼は当時、ボウイの同名のアルバムにハマってたんだ。俺たちは優れたアイディアをたくさん持ってたけど、結局芽が出ないまま翌年の2月頃に自然消滅した。
バーナード・サムナー: バンドを組んだ俺たちが次にすべきこと、それは言うまでもなくドラマーとシンガーを見つけることだった。祖母の家はドラムを入れるには小さすぎたから、リハーサル場所も見つけないといけなかった。俺たちは当時ピカデリーにあったVirgin Recordsに行って、ドラマーとヴォーカル募集の貼り紙をした。いかにもパンクっぽいだろ。実際俺たちは、当時毎晩のようにパンクのギグに行ってた。The Ranchではちょっとしたシーンが出来上がりつつあって、そこに行けばいろんなやつと知り合うことができた。
電話を持ってたのは俺だけだったから、その貼り紙にはウチの番号を書かないといけなかった。いたずら電話が山ほどかかってきたよ。俺とテリーは彼が持ってたVauxhall Vivaでディズベリーまで行き、筋金入りのヒッピーの男と会った。俺たちはパンクスだったから自然な流れだろ? その男とは前にも一緒に飲んでて、そいつの家に行ったこともあった。そいつん家には椅子がひとつもなくて、彼がクッションを床に置いてあぐらを組んでたから、俺たちもその向かいにクッションを置いて座った。俺とテリーはお互いをちらちら見ながら、「ここは一体何なんだ?」っていう無言のメッセージを発し続けてた。

ブリストルのTrinity Hallでのイアン・カーティスとピーター・フック 1980年3月 写真: Andrew Davis
テリー・メイソン: バーニーは既にギターとアンプを持ってたから、すぐにでもバンドを始められる状態だった。ベーシストになるつもりだった俺は、フッキーがベースを買ったことに落胆した。俺はやつよりも背が高かったし、ベーシストは長身って決まってるからな。仕方なく俺はギターをやることにしたんだが、まずは金を貯めなくちゃいけなかった。その後俺たちはイアンと意気投合し、彼がバンドに入るとほぼ同時に、俺は自分のギターを買った。
シンガーを仲間内で見つけようとしていた俺たちは、まずフッキーの友達だったDanny Leeに声をかけた。ビリー・アイドル顔負けの冷笑を浮かべた彼はすごくクールで、ヤル気もありそうだったのに、結局バンドには入らなかった。仕方なく、俺たちは仲間内以外のところでヴォーカリストを探すことにした。俺らはみんな無口でシャイだったから気が重かったけど、Virginのレコード店に貼り紙をしたところ、何人かが連絡してきたんだ。
そのうちの1人は文字通りの狂人で、見た目が今のミック・ハックネルそっくりだった。赤毛の長髪をポニーテイルにしてて、Catweazleみたいなあごひげを蓄え、首と手を出すために穴を開けたクッションカバーみたいなのをジャンパーがわりに着てた。家を訪ねた俺たちを前に、そいつは3弦のバラライカを引っ張り出してきた。そいつが歌い始めると、俺たちは逃げ出すようにそこを後にした。先が思いやられるなって2人で話してた矢先に、イアンが連絡してきたんだ。
バーナード・サムナー: イアンとはElectric Circusで会った。Anarchy in the UKツアーか、ザ・クラッシュのギグのどっちかだったと思う。彼はIainっていうやつと一緒に来てて、2人ともドンキージャケットを着てたけど、イアンのやつは背中に「hate」って書いてあった。いいやつそうだったし、すごく好感を持ったよ。その日はあまり話せなかったけど、やたら印象に残った。それから1ヶ月後くらいに、俺たちはVirgin Recordsの店内にヴォーカリスト募集の貼り紙をした。パンクの時代はそれが一般的なやり方だったんだ。
募集をかけて以来、気違いじみたやつらが大勢電話してきた。マジでロクでもないやつばかりだったけど、ある日イアンが連絡してきた。「ザ・クラッシュのギグで会わなかったかい?Iainってやつと一緒に来てただろ?」って俺が言うと、彼はその通りだと答えた。俺はその場でこう言ったよ、「じゃあヴォーカルはあんたで決まりだ」ってね。オーディションもやらなかった。どういう音楽が好きかって聞くと、名前の挙がったのが俺たちの好きなバンドばっかだったから、彼でいこうってことになった。当時イアンはデビーと一緒に、モス・サイドのAyres Roadにあった彼の祖母の家に住んでた。俺とフッキーは2人でそこを訪れ、その場で彼を正式にメンバーとして迎えた。
ピーター・フック: イアンとはElectric Circusの階段のところで知り合った。俺たちの前にいた、背中にマスキングテープで「hate」って書いた服を着た男、それがやつだった。そのテープは毎朝仕事に向かう前に剥がしてたらしいけどね、あの世にいても覚えてるといいんだけどな。やつが背を向けるのを見て、俺たちは「『hate』とはね、気合い入ってんな」なんて軽口を叩きながらも、イカしてると思ってた。やつのことはいろんなギグで見かけてて、ちょっとガキっぽい熱さがやけに気になってた。
やつは友達とバンドを組んでて、そいつはギターをやってた。当時はパンクバンドにツインギターはご法度みたいな暗黙の了解があったから、やつがそいつと一緒に俺たちのバンドに加わることはできなかった。後に状況が変わるわけだけど、バーナードと俺はずっとヴォーカルを探してた。その頃の俺たちがどれだけ本気だったかは覚えてないけど、イアンが加わってトリオになった時、欠けてたパズルのピースが見つかったって感じた。ある日どっかのギグでまた顔を合わせた時、相方だったギタリストはもういなくなってたから、やつはヴォーカリストとして俺たちのバンドに入ることになった。
テリー・メイソン: やつがクッションカバーを着てないってだけで、俺たちは心底ホッとしてた。イアンのことはそれとなく知ってたよ、同世代のネットワークってやつでね。マンチェスターでパンクのライブに来るのはいつも同じやつらだったから、名前は知らなくても顔は覚えるんだ。やつのことは印象に残ってたよ。話しかけたこともあって、歌詞を書いたノートやアイディアを走り書きしたインデックスカードを見せてもらった。やつがコラムスピーカー2本と小さなアンプを持ってるってことも知ってた。
やつは見るからに真剣だった。使えると思ったし、俺たちがドン引きするようなところもなかったけど、人柄については知っておく必要があった。ある日曜の午後、俺たちはロッチデールのアッシュワース・バレーで会うことにした。一応オーディションってことになってたけど、実際には川に投げ込んだ木の枝を飛び越えたりしてして、何時間か一緒に遊んだだけだった。今思えば、オーディションとして悪くないやり方だったと思う。イアンがいいやつだってわかったからね。家で待ってたデビーに、やつが何て話したかは知らないけどな。
イアンはIain Grayと会って、バンドを抜ける意思を伝えた。それだけじゃなく、彼が持ってたアンプとスピーカーを俺に売ってくれるよう頼んでくれた。そういう経緯で俺は彼の持ってた機材を譲り受けたんだけど、俺はギターがまるで弾けなかった。どれだけ練習しても上達しなかった。俺がその時点で既に出遅れてたってことも大きかったと思う。バーニーは何年も前にギターを買ってたし、コードもいくつか弾けた。フッキーもベースを買って、徐々に腕を上げてた。俺がフッキーから2ヶ月遅れでギターを手にした時、バーニーとは既に2年の差がついてたってことだ。
ドラマー探しにも苦労してた。いいドラマーはそう簡単には見つからないからな。いろんなやつを片っ端からあたった。しばらくして、俺は持ってたギターとアンプをドラムキットと交換したんだけど、他のメンバーとの差はさらに開いてたから、苦労することは目に見えてた。
ピーター・フック: イアンは俺たちよりもずっと詳しくて、カンやクラフトワーク、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなんかが好きだった。俺はというと、当時はジョン・ケイルに夢中だった。Manchester Ship Canal Companyの食堂で働いてた頃の同僚が彼の大ファンで、レコードを全部譲ってくれたんだ。ポップやレゲエ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルなんかを聞いてた俺とバーナードに、イアンはイギー(・ポップ)とかのことを教えてくれた。少しも押し付けがましくないのがやつのいいところだった。ただ一緒にいて楽しかったから、俺たちは自然とやつから色々学んだんだ。
バーナード・サムナー: 彼は俺たちのバンドにヴィジョンを持ち込んだ。過激なものに惹かれてたイアンは過激な音楽を作ろうとしていたし、ステージでは完全に振り切れたパフォーマーであろうとした。曲を作ってると、彼はいつもこんな風に言った。「もっと冒険しようぜ。これじゃ普通すぎる、もっと狂ったやつがいい」
Tony Wilson: イアンにイギーのことを教えたのはデビーだった。見ず知らずのやつらがそう教えてくれたんだ。彼女はイギー・ポップの大ファンだった。イアンはデビーと恋に落ち、彼女は彼にイギーのアルバムを聴かせた。バンドの音楽性にはメンバーそれぞれの趣味が反映されるわけだけど、そういう意味じゃその出会いはイビサと同じくらい重要だったことになる。イアンはバンドにイギーのスピリットを持ち込んだんだ。
Kevin Cummins (フォトグラファー): 1977年3月にApolloで行われたイギーのライブ、ボウイがキーボードを弾いた時のやつだけど、あれはLesser Free Trade Hallでのセックス・ピストルズのライブと同じくらい重要なイベントだったと思う。数え切れないほどの人間があのライブに感化されたはずさ。あのツアーの時のイギーは神がかってた。あんなライブは過去に見たことがなかった。
バーナード・サムナー: 俺たちはウェイストにあったSwanってパブでリハーサルをしてた。フリーメイソンだかバッファローだか知らないけど、あそこは何かしらの組織の一部だったと思う。あそこの2階にあった会議室を使わせてもらってたんだけど、ソファの下に怪しげな引き出しがたくさんついてて、中にはバッファローの皮なんかが入ってた。あそこは秘密のミーティング場で、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵のまんまだった。バッファローのやつらのミーティングがない時に、俺たちはあそこでリハーサルしてたんだ。なかなか気に入ってたよ、結局大家に追い出されたけどな。
当時の俺たちは初めてセックスする童貞みたいなもんだった。どうしていいかわからず何をやってもうまくいかない、まさにそういう感じさ。音源として残されてる初期の曲よりも古いやつ、あれはマジで聴いてられないほど酷かった。音楽も他と一緒で、上達したければ自分自身で学ぶか、あるいは誰かから教わらなくちゃいけないんだよ。当時は文字通り修行の日々だった。
最初期の俺たちのオリジナル曲は、完全にパンクの猿まねだった。まるで真似しきれてなかったけどね。音楽的素養でいえば俺たちのレベルは9歳くらいだったけど、何とか7曲を書き上げた。バズコックスと親しくなれたのは大きかったよ、彼らには色々と世話になった。ライブのブッキングも含めてね。ピート・シェリーがRichard Boonをライブに連れて来てくれた時、俺たちは「イェーイェーイェーイェー、ファックオフファックオフ、イェーイェーイェー、クソクソクソ」なんて感じの、マジでどうしようもない曲を演ってた。
彼にはこう言われた。「ライブは俺が探してやるから、お前らは曲を書け」曲がクソだってことは自覚してたから、そのライブに向けて俺たちは新曲をいくつか書いた。あれはElectric Circusでバズコックスの前座をやった時だったと思う。用意した6つの新曲は随分マシだったけど、まだまだ未熟だった。でも6週間かそこらで書いたにしては、飛躍的に成長してたはずさ。そのうちの1曲か2曲は、『アンノウン・プレジャーズ』に収録されてると思う。
ピート・シェリー: バンドを始めたいからアドバイスが欲しいって言われて、ある金曜の夜にやつらと会うことになった。来るものは拒まずっていうのがパンクのアティテュードだったし、俺たちとしても一緒にシーンを盛り上げていく仲間を必要としてた。ミーティング場所はサルフォードのFrederick Roadにあったパブだ。飲みながらやつらの話に耳を傾け、形にするにはどうすればいいかを一緒に考えた。
ある日バーナードの家に行ったんだけど、エフェクターが内蔵されたギターを使ってたのを覚えてるよ。当時にしてもかなり変わったモデルだった。学校でバンドを組むような子供たちが最初に買うような、初心者向けのギターさ。アイディアを交換し合い、それをどう実現するかについてあれこれ議論する、やつらにもそういう高校生みたいな純粋さがあった。
Richard Boon: やつらのバンドはまだ模索段階にあった。俺たちはウェイストのバスステーションの近くにあったやつらのリハーサルスペースに顔を出し、練習後はみんなで飲みながら今後の展望について話し合った。やつらはただバンドがやりたいだけで、たちの悪い野心なんかは持ってなかった。
イアンは若さという情熱に取り憑かれているようだった。アルチュール・ランボーのようとまでは言わないが、やつのストゥージズとヴェルヴェッツへの入れ込みようは半端じゃなかったし、どこか近づきがたい何かを持ってた。他のメンバーと同じように無邪気な一面を見せることもあったけど、やつはいつも生き急いでいるように見えた。他のメンバーよりも内気で、その分思慮深いところがあった。それがカリスマ性に繋がってたんだろうけど、やつだって聖人じゃなかったってことさ。
バーナード・サムナー: イアンはかなりボリューミーなヘアスタイルにしてた時期があって、ロクでもない床屋に行って「ローマ皇帝みたいな髪型にしてくれ」なんて言ってた。俺たちみんな古代ローマにはまってたんだ。彼はニーチェの作品もよく読んでた。俺自身は読んだことないんだけど、制服や建造物がかっこよくて好きだった。俺は昔から古典様式に惹かれてたけど、イアンはニーチェを通してそういうのに興味を持ってた。
ピータ・フック: Electric Circusでのバズコックスのライブに、俺たちは前座として出演した。それが俺たちの初ライブだった。バンド名はまだ決まってなかったけど、Richard Boonは俺たちの名前をポスターに載せようとしてた。俺らが決めかねてると、彼が「Stiff Kittens (怯えた子猫たち)ってのはどうだ?」って言った。ピート・シェリーが思いついた名前らしかったけど、俺たちは断固反対した。彼はわかったって言ったくせに、結局ポスターにその名前を載せちまったたんだ。ライブ当日、俺たちはWarsawだってことにした。Stiff Kittensじゃなくてな。
死ぬほど緊張したよ。ステージに立った瞬間のことは覚えてるのに、それ以降のことは何ひとつ覚えてないんだ。ライブ後に楽屋で「緊張でぶっ倒れちまうかと思った」なんて話したよ。その時の写真が残ってるんだ。俺とテリーはドイツ戦車隊の指揮官の格好をすることに決めてて、そういう服をたくさん買っといた。変でもいいんだよ。馬鹿げたステージ衣装、クソダサい髪型、唖然とするような発言、そういうのってバンドマンの特権だからな。
テリー・メイソン: マンチェスターのパンクシーンにおいて、俺たちは典型的なルートを辿ってるはずだった。ザ・フォールやザ・ワーストはバズコックスの前座をやって、その後あちこちに出るようになってた。でも俺たちは最初のライブの後、どこからも声がかからなかった。しばらくして俺らのことを探してたらしいMusic Forceから連絡があって、Raftersで何度か前座として出演させてもらった。
Stiff Kittensっていう、ピート・シェリーが決めた仮のバンド名は却下された。俺自身はキュートでいいと思ってたんだけどな。怯えた子猫たちって、パンクバンドの名前としてバッチリだろ? 肉球を振りかざす段ボール箱いっぱいの子猫たち、これ以上にパンクなイメージはないと思ったね。でも他のメンバーたちは気に入ってなかったから、結局ボウイの「ワルシャワ」って曲にちなんだWarsawで落ち着いた。駆け出しの頃はその名前でギグをやってたしな。
Iain Gray: 彼らがPenetrationの前座として出演した時、イアンは後に確立するスタイルの片鱗を見せてた。バンドはまだ発展途上って感じで、ライブはまぁまぁだった。イアンは昔からとにかく服のセンスが良くて、すごくスマートなTonikのパンツと空軍のオーバーコートをよく着てた。1935年頃にベルリンで実際に使われてたような実用的なやつさ。バーニーは口ひげを生やしてた。フッキーはゲイのダンサーみたいな格好をしてて、ヴィレッジ・ピープルのメンバーかと思った。つばの長いキャップは当時じゃ珍しくて、Pipsで見かけた時も同じやつを被ってた。鋲を打ったレザーの首輪なんかもしてて、とにかくごちゃまぜだった。
Kevin Cummins: 演奏は決して上手くなかったけど、サウンドは当時のど真ん中だった。あの頃出てきたバンドの大半に言えたことかもしれないけどね。僕らリスナーは批評家ぶったりせず、次々に新しいバンドが生まれる状況を歓迎してた。写真も6~7枚撮ったはずなんだけど、ネガはとっくの昔に失くした。すごくエネルギッシュなライブだったけど、当時はどのバンドもエネルギーが有り余ってるって感じだったからね。チェルシーやCortinas、Eaterなんかもそうだった。でもWarsawの曲はありきたりだったな。彼らは最初から特別な存在だったわけじゃないと思う。
僕は前座のバンドも撮影するようにしていて、いつも3~4枚は撮ってた。何かが起きようとしていて、その過程を記録しているっていう実感はあったね。彼らに限らず、あらゆるバンドを撮影した。自分が何かしらの形でそれに関わるかもしれないと感じてたから、できる限りのことをしようと思った。ボウイやロキシー・ミュージックなんかのグラムが好きだった僕は、パンクスファッションには手を出さなかった。あくまで傍観者のつもりだったけど、自分がシーンの一部だっていう実感はあった。来るものを拒まず、当時のシーンにはそういう寛容なムードがあった。ロンドンは派閥争いがすごかったけど、マンチェスターはそういうのと無縁だったんだ。

1977年5月31日: Rafters マンチェスター
1977年6月18日 NMEに掲載されたPaul Morleyのレビュー
長い間ドラマーを探し続けているWarsawだが、当日スティックを握ったその人物と出会ったのは前日の夜だった。メンバーたちはどこか高慢な印象で、時折覗かせる悪魔めいた魅力はフェイセズを思い起こさせる。やや仰々しい感はあるが、恵まれた環境で技術をじっくりと磨くことで退屈というステレオタイプに陥りがちな大多数の若手バンドとは決定的に異なる何かを感じさせる。ベーシストは口ひげを蓄えていた。筆者はこのバンドに好感を持ったが、6ヶ月後にはさらにのめり込んでいるだろう。
Paul Morley: Raftersでのライブの時、バーナードは口ひげを蓄えていて、どちらかというとPipsの住人という印象だった。ロキシー・ミュージックを真似たミリタリー系のファッションからも、まだ完全に卒業できていなかった。スマートかつ謎めいていて魅力的ではあったけど、やや過剰な感は否めなかった。本気なのかただの衣装なのか、観ている側には判断がつかなかった。その必死の形相から、彼らが真剣だってことはわかったけどね。
当時はまだ何も確立されていなかった。Factory Recordsのようなレーベルが生まれる気配もなければ、そのシーンが音楽史に名を残すなんて誰も考えもしなかった。人々はただ、目の前で起きていることに興奮していたんだ。バズコックスやザ・フォール、他にもたくさんのバンドがマンチェスターで生まれているっていう状況にね。個人的にはWarsawっていう名前は好みじゃなかったし、曲もはっきり言って月並みだった。未熟でもがいてるロックバンドっていう印象だったけど、そのもがき方に何かしらユニークなものを感じたのは確かだ。
■ 1977年6月3日: マンチェスター The Squat
■ 1977年6月6日: ニューカッスル Guildhall
■ 1977年6月16日: マンチェスター The Squat
■ 1977年6月25日: マンチェスター The Squat
■ 1977年6月30日: マンチェスター Rafters
Richard Boon: やつらは未熟もいいとこだったが、バンドに不可欠なエネルギーと情熱だけは備わってた。パンクムーヴメントの初期に結成されたバンドの大半はロクでもなかったけど、Warsawにはスピリットがあった。ただ楽しんでるフッキーとバーニーとは違い、イアンは若さゆえの情熱に満ちていて、何かを発散せずにはいられないっていう逼迫感があった。
バーナード・サムナー: 初ライブの時は死ぬほど緊張したよ。自分がステージに立つなんて、小さい頃には考えたこともなかったからね。緊張してはいたけど、同時にものすごく興奮してた。世界中を飛び回っていろんな人と出会う、そんな生活を想像するだけで胸が躍った。あのライブを境に、俺の人生は大きく変わったんだ。
ピーター・フック: 初ライブの日からメンバーが固まった週の最終日までの間に、俺たちは5つのギグをやった。6ヶ月間の充電期間を挟んだ後、Electric Circusでバズコックスの前座をやって、数日後にSquatでThe Worstと競演した。その日は確かThe Dronesも一緒だったと思う。翌日にはニューカッスルでThe AdvertsとPenetrationと対バンし、火曜日にはまた地元のRaftersでジョニー・サンダースと一緒にやった。とにかく楽しくて、夢を見てるみたいだったよ。「明日パンクのイベントがあるんだけど、ライブやってくれないか? ガソリン代くらいは出せるよう頑張るからさ」なんて風に声をかけられたら、俺たちはどこにでも行った。果てしなく自由で、どこまでも気ままな日々だった。
本記事はJon Savage著『THIS SEARING LIGHT, THE SUN AND EVERYTHING ELSE: Joy Division: The Oral History』から抜粋されたものです。
Copyright © 2019 by Jon Savage. Published by Faber & Faber.