ジョニ・ミッチェルはフォークソングを歌うことからキャリアをスタートさせた。それと同時に、ジュディ・コリンズ、フェアポート・コンベンションなどのミュージシャンの楽曲の作詞家としても活動していた。
「ワン・ウィーク・ラスト・サマー」(2007年)
キャリア晩年のミッチェルは、初期にレコーディングした楽曲に立ち戻る一方で、曲作りとレコーディングの新たな手法を探り続けた。彼女の最後のスタジオ・アルバムは2007年の『シャイン』で、音楽活動からの引退を宣言して5年後に作られた。この作品のオープニング曲が、聞き紛うことのないミッチェルのピアノ・サウンドを他の楽器が優雅に包み込むようなインストゥルメンタル曲だ。「ワン・ウィーク・ラスト・サマー」は2008年のグラミー賞最優秀ポップ・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞を受賞。同年のグラミー賞では、ハービー・ハンコックの『リヴァー~ジョニ・ミッチェルへのオマージュ』が最優秀アルバム賞を受賞しているが、これはジョニ・ミッチェルの曲だけをカバーした作品だ。
「青春の光と影」(1969年)
「青春の光と影」が最初にヒットしたとき、ジョニ・ミッチェルはソングライターとして知られていたが、まだ自身のレコードは作っていなかった。ジュディ・コリンズが1967年のアルバム『野生の花』のA面もB面もオープニング曲にミッチェルの曲を選んで収録し、その翌年にコリンズ版の「青春の光と影」がトップ10ヒットとなった。ミッチェルが自分のアルバムでこの曲を歌ったのは1969年の2枚目『青春の光と影(原題:Clouds)』で、現在もミッチェルの曲の中で最も有名な曲である。個人的な野望、幻想と現実の距離を深く考察する歌詞と、それと同じくらい思慮に富んで悲痛なメロディが奏でられる逸品だ。
「コヨーテ」(1977年)
1979年のアルバム『逃避行』のオープニング曲で、ミッチェルの音楽に新たに加わった要素を紹介している。それがジャズ・ミュージシャンのジャコ・パストリアスだ。ミッチェルがストラムするオープン・チューニングのギターの周りを、ジャコのフレットレス・ベースがバレリーナように爪先でクルクル回ったかと思うと、大胆にでんぐり返ししている(「彼のサウンドを支えられるだけの厚みを得るためにギターの音をダブリングした」と、のちにミッチェル自身が説明している)。「コヨーテ」には少々トリッキーでガタガタ言う長いバース(Bメロ)がある。主人公とはまったく違う生き方の女たらしの男との恋愛を歌っているようだ。彼女がこの曲をレコーディングする何年も前から、この曲はライブでの定番曲となっていて、1976年のザ・バンドのさよならコンサート『ラスト・ワルツ』でも披露していた。
「チェルシーの朝」(1969年)
1960年代後期のフォーク界を代表するシンガーソングライターへとミッチェルを押し上げた楽曲の一つがこれだ。「チェルシーの朝」はボヘミアン・ライフの幸福を描いたもので、曲を作ったミッチェルがレコーディングする前に、ジュディ・コリンズ、フェアポート・コンベンション、ジェニファー・ウォーンズなどの他のアーティストがすでに演奏していた。ミッチェルは「壁の虹」を繰り返し登場させるが、これは彼女が色ガラスと古いビルからもらってきたステンドグラスを使って、友だちと一緒に作ったモービルのことだ。ビル&ヒラリー・クリントン夫妻はこの曲から娘の名前をつけたし、チェルシー・マニングも性転換後の名前を決めるときにこの曲からインスパイアされたようだ。
「ヘルプ・ミー」(1974年)
ミッチェルの楽曲中シングルチャートで最高位を記録したのがこれだ。ポップチャートで第7位、イージーリスニングチャートで第1位となった「ヘルプ・ミー」は、ジャズ・フュージョン・グループのトム・スコット&ザ・L.A. エクスプレスと初めてレコーディングを行った曲で、1974年のアルバム『コート・アンド・スパーク』に収録されている。
「サークル・ゲーム」(1970年)
1966年にフォークシンガーのトム・ラッシュに提供するためにこの曲のデモテープを作ったとき、ミッチェルはこの曲が自分のベスト作品になるとは思っていなかった。しかし、ラッシュは「この先も大人になる子供がいなくならなければ、この曲は必ず必要とされるだろう」と彼女に言った。ラッシュはこの曲と同名のアルバムを1968年にリリースして大ヒットとなった(このアルバムにはミッチェルの曲がもう2曲収録されている)。ミッチェル自身がこの曲をレコーディングしたのは、1970年のアルバム『レディズ・オブ・ザ・キャニオン』だった。この曲は他のアーティストの注目を集めるようになった頃の楽曲で、イアン&シルヴィア、バフィー・セイント・メリーもこの曲をレコーディングしており、彼らのバージョンも多くの人々の記憶に残っている。
「恋するラジオ」(1972年)
ミッチェルのマネージャーのデヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバートがレコード・レーベル、アサイラム・レコーズを始めたとき、彼女は1972年のアルバム『バラにおくる』のレコード契約をした。このとき、ゲフィンはミッチェルを「自分のためにヒット・シングル曲を作るべきだ」と説得したのである。その結果として生まれたのが「恋するラジオ」で、ラジオフレンドリーな2分半の曲に仕上がっている(「ヒットレコードを作れと助言した私をからかうような曲だった」と、のちにゲフィンが言っている)。
「ア・ケイス・オブ・ユー」(1971年)
ローリングストーン誌のキャメロン・クロウとのインタビューで、「当時の私には自己防衛という意識がまったくなかった」と、アルバム『ブルー』をレコーディングした当時を思い出してミッチェルが語った。この作品の中心をなすのが、美しい別れの曲「ア・ケイス・オブ・ユー」だ。「でも、音楽でも自己防衛がまったくなかった点が利点でもあったわ」とミッチェル。彼女の歌詞は親密な相手と会話しているような雰囲気を醸す。純粋に面白い部分(カナダ国家を入れ込んでいる部分もある)が点在しているかと思えば、それ以外は悲しさしか感じない部分だったりと、かなり複雑な感情が入り混じっているのだ。この曲の奇抜さは一つの言葉(「あなたは『愛は魂に触れること』と言った」)が、「恋人の血は『聖なるワイン』だ」という型破りなフレーズにつながる部分だろう。
「ビッグ・イエロー・タクシー」(1970年)
ハワイ旅行中に書き上げた曲で、この旅行中、巨大な駐車場を見たミッチェルは落ち着きを失ってしまった。「ビッグ・イエロー・タクシー」は環境保護主義のベールをまとった失恋の歌だ(曲名が登場する歌詞に注目してほしい)。『レディズ・オブ・ザ・キャニオン』収録の楽曲で、初めてポップチャートに入った曲でもある。
「リヴァー」(1971年)
リリースからしばらく経ってヒットとなったこの曲は、1971年のゴージャスなアルバム『ブルー』に収録されているが、この曲が人々に知れたのは発売から30年後のことで、映画『あの頃ペニー・レインと』と『ラブ・アクチュアリー』に続けざまに使用されたことがきっかけだったのだ。そして2000年代、「リヴァー」はクリスマス・シーズンに複雑な思いを抱く世代のクリスマスソングの定番となった。現在は、ミッチェルの曲でカバーされる頻度が2番目に高い曲(1番は「青春の光と影」)で、453もあるカバー・バージョンのうち彼女の公式サイトに掲載されているのは2つだけで、両方とも1990年より前にレコーディングされたものだ。興味深い事実は、「リヴァー」の歌詞がアーヴィン・ベルリンの「ホワイト・クリスマス」のオリジナルの歌詞と同類の心情を表現している点だ。