渋谷のエンターテインメントに関わる著名人&有識者が集まり、渋谷のナイトタイムエコノミーについて考える「WHITE NIGHTWEEK SHIBUYA」が、11月5日(火)~7日(木)にわたり、東京・TSUTAYA O-EAST 5F特設会場にて開催された。

本記事では、DAY1に「ナイトシーンのリビングレジェンドが語る今昔、未来」というテーマで開催されたトークセッションをレポートする。
登壇者は、芝浦に伝説のクラブ「GOLD」を開業した株式会社テーブルビート代表取締役、有限会社佐藤商品開発 代表取締役・佐藤俊博と、同じく芝浦GOLDでプレス及び企画の仕事を担当した有限会社ティール 代表・臼杵杏希子。モデレーターはライターの吉岡加奈が担当した。

吉岡加奈(以下、吉岡):まず初めに、お二人のプロフィールからお聞きしてもよろしいでしょうか?

佐藤俊博(以下、佐藤):私は山形の酒田で産まれて、田舎が嫌で嫌で逃げるようにして東京に出てきました。それから色々な流れがあって、GOLDとかいくつかお店を経営しました。それからバブルが弾けまして。今は新丸ビルの方で、丸の内の街づくりをやっています。

臼杵杏希子(以下、臼杵):現在は有限会社ティールという自分の会社を起こしていまして、DJなどのアーティストのエージェント事業をおこなっています。それと、ナイトシーンで活躍する女性のための「CHICKA ON A MISSION TOKYO」という団体を立ち上げています。自分もプロフィールが長く、1960年生まれで、佐藤社長とは10代の頃から知っております。それこそ椿ハウスでもよく遊んでいて、ニューヨークから帰ってきた頃にGOLDというクラブで一緒に仕事をさせていただくようになって、そこからクラブの仕事を始めたことになりますね。今でも、毎週末なんかしらのイベントをやっていまして渋谷にいます。

吉岡:お二人の共通点として、70年代後半から80年代頭にあった椿ハウスというクラブと、89年から始まった芝浦にあったGOLDの名前が挙がりました。
当時の新宿の様子をお聞きしたいです。

佐藤:70年代80年代は非常に面白くて、活気のある時代だったと思います。その背景にあるのが、60年代に反戦運動があり、そこから若い人たちの表現としてファッションであったり音楽、アートで自分の個性を出していこうという流れが生まれた。それが70年代になって形になり、80年代で熟成していった。70年代の半ばには雑誌の『POPEYE』が創刊し、ファッションで言うとBEAMSが創業したりISSAY MIYAKEがパリコレで活躍されたり、日本独自の音楽となると70年代後半のYMOであったり、そういった文化が入り混じった時代でした。色々な立場の人が独自に表現していて、それが元気に楽しく時代を作っていたのかなと思います。

吉岡:当時、臼杵さんは文化服装学院に通われていらっしゃったのですよね。

臼杵:はい、YMOのレコジャケの人民服を作って、講堂内で写真を取ったりもしていましたね。当時は本当にYMOが流行った時代で、テクノカットっていう髪型もありまして、そういうのが好きな人が集まったのが椿ハウスでした。そこに行くと好きな音楽がかかっていて。他のディスコだと嫌われるんですよ。ニューヨークニューヨークとかに行くと怒られたりしました。
でも椿ハウスでは、ファッションは音楽と強く結びついていましたね。

1980年代当時のゲイシーン

吉岡:新宿という土地柄、当時はLGBTの方との文化の交差はあったのでしょうか?

佐藤:当時のゲイシーンはとても閉鎖的で、特に二丁目は閉鎖的でした。僕が最初に連れていってもらったのは、当時のブラックボックスがあったあたりで、作家さんが集まるような場所もありました。そういう人たちが70年代後半に椿ハウスを通して色々混じり合うんですよ。パーティーもたくさん行われていましたし、確かに文化が産まれていっていたんだと思います。

吉岡:佐藤さんはクラブの制服を初めてデニムとTシャツにしたと伺いました。

佐藤:そうですね。当初は我々は水商売として跪いて蝶ネクタイをしてサービスをするという時代だったのですが、時代も変わっていってニューヨークなんかではTシャツがどんどん出てきていました。でも僕の時代ではそれは下着だって言われていたんです。(写真を見ながら)このスーパーマンのはコシノジュンコさんがデザインしてくれたんですよ。当時のニコルとかのデザイナーの方もデザインしてくれて、そこからTシャツが定着していきました。Tシャツとジーンズで商売をするというのは、椿ハウスが最初でしたね。
海外からもデザイナーが来ていましたし、東京コレクションもあって活気のある時代でした。その中で我々も色々と学んでいったということです。

吉岡:当時、女性の存在はいかがでしたか?

臼杵:私なんかは当時文化服装学院の学生でしたので、憧れていたのはトップのメゾンのデザイナーさんでした。そういうメゾンには、とてもかっこよくてキレる女性の方が大体いて、ファッション誌で見ては憧れていました。椿ハウスにいると、有名なデザイナーさんとお酒が飲めたりもしたんですよ。それは学生にとってはとんでもないことで、普段なら教壇の上の方と遊び場で会えるということで、皆自分の姿を見せたいとか、作ったものを見せたいとかで行っていました。

ナイトシーンのリビングレジェンドが語る今昔未来

Courtesy of  WHITE NIGHT WEEK

吉岡:夢のある話ですね。

佐藤:その反面、当時の一線のデザイナーの方も、若い人たちががどんなスタイルなのかというのを凄く興味を持っていました。

吉岡:そこに通じるかもしれないのですが、佐藤さんの名言に、「3人フロアでかっこいい人が踊っていれば、必ずその店は繁盛する」というのを訊きまして、その代表がロンドンナイトであったと。

佐藤:音楽もファッションも新しいものって時代によって変わっていきますよね。クラブで音楽を表現するのもそうなのですが、経営とかを考えてしまうと足踏みしてしまう。やはり常に新しいものを捉えていくためには、そういう新しい要素を入れていく必要性があると思っていました。
ロンドンナイトには、かっこいい人が来るようになってその後盛り上がっていったということですね。

1989年、芝浦GOLDがオープン

吉岡:そこから10年ほど経って89年に芝浦GOLDという、今のクラブの原型と呼ばれている建物ができました。

佐藤:GOLDの時はですね、音楽シーンが変わっていていました。トゥーリアというディスコをオープンする時に、六本木のマハラジャ系のディスコが盛り上がっていて。でも、それにどうなのかなって思ったときがあって。アメリカではガラージュが盛り上がって、シカゴハウスになって、それがハウスミュージックになるんですけれども、日本でもディスコのダンスミュージックよりは、コットが時代としてもいいんじゃないかと。それでトゥーリアに海外のDJを招待したんですね。でもそこから事故があって、ハウスミュージックのためのナイトクラブということでGOLDができていくんです。

吉岡:そんな流れがあったのですね。

佐藤: GOLDを作る際には、7階建だったのですが、いわゆるダンスフロアや、カップルの店、イベントスペース、キックボクシングや格闘技を足るスペースなど、僕はいろんな人が混ざり合うのが大事だと思っているので、そんな構成のお店になりましたね。吉原もありましたね。当時はバブルの時代でしたから、まあその後すぐに終わるんですけれど、海外からも国内からもそれなりの人が注目していまして。
そういう人たちの居場所はダンスフロアでは難しいですから。それまでは我々は非常に海外から学んでやっていたのが、これから日本的なものを大事にしなきゃいけないなと時代に入ってきていたというのもあります。

吉岡:臼杵さんは、当時ニューヨークにいらっしゃったんですよね?

臼杵:はい。パラダイス・ガレージには毎週通っていて、だんだんとハウスミュージックが出来上がっていった時のことはすごく覚えています。この音楽は何なんだろうと思っていて最初みんな馴染めなくて。でもラリー・レヴァンっていう天才的なDJが私たちを毎週洗脳していくんですね。それで好きになっていきまして。まさに時代が変わる時で、そのあたりからファッション系の人が増えていったんですね。お客さんも変わってきて、同時にアメリカの中でもブラックカルチャーが大きく変わる時代で。マイケル・ジョーダンであったり、スパイク・リーであったり、黒人のデザイナーの方が活躍したり、ブラックカルチャーが台頭していくんですね。それと同時にパラダイス・ガレージがとんでもなくヒットしていって。音楽全てが変わっていったんですよ。


吉岡:そんな時代に臼杵さんと佐藤さんはニューヨークで出会ったのですよね。

ナイトシーンのリビングレジェンドが語る今昔未来

臼杵杏希子(Courtesy of  WHITE NIGHT WEEK )

ナイトシーンのリビングレジェンドが語る今昔未来

佐藤俊博(Courtesy of  WHITE NIGHT WEEK )

臼杵:そうなんですよ。佐藤さんもニューヨークによくいらっしゃっていたみたいで。ある日、セイントっていうゲイディスコの角にある103という24時間やっているカフェがあって。そこは夜中に行くとクラブ帰りの人が集まっているような店で、そこで佐藤さんと再開を果たしまして。当時はiPhoneもFacebookも無かった時代なので、そこで会っていなかったらもう会っていないという。そのおかげで今ここに来れているのかなという(笑)。

吉岡:そこからGOLDに繋がっていくと。

佐藤:60年代からずっと続いている問題ですけれど、それまでは反戦があって音楽にはドラックとかフリーセックスとか色々なものが背景にあって。そこから80年代になって、エイズの問題であったり様々な社会的な問題にが出てきて、89年にGOLDができた時も変わらないといけない時代だったんですよね。まずドラックはやめましょうとなったときに、音楽であったり別のものでそういうことができないかなとか、様々な仕組みで作っていきました。

吉岡:私は、当時の80年代90年代には不良のかっこよさがそこにあったというイメージがあります。

佐藤:まあ不良が社会的にいいかと言われれば絶対的にダメなんですけれど、個性っていうのは非常に大事だと思っています。社会では、個性を生かせる環境が少なくなってきているのですが、個性の強い人は自己主張も強いのでみんなでそれを共有して、そこから新しい文化が産まれていくのかなと思います。

吉岡:確かにそこから生まれていった文化も多いですよね。

「文化は夜からしか生まれない」

佐藤:やっぱり文化は夜からしか生まれないんですよ。夜は、社会的な都合とかいろんなものが排除される時間で、みんなの個性が生きるし、背負っているものを外して、そこで自分にとって良い人と出会える、それが夜の良さだと思うんですよね。

臼杵:私は、ずっとクラブのシーンにいて何度もそういう場を見てきたので、夜のパワーを信じるしかないというか。特に椿ハウスもそうでしたけれど、パラダイス・ガラージの頃の経験が私にとっては大きくて、ハウスミュージックの頃から見たことのないようなとんでもない格好をした人が来るんですよ。でもそれが1ヶ月後とかにどこかしらで製品になっていたりとか。本当にニューヨークが面白かった時代で。道で売られていたものをあるヒップホップスターがつけるようになったりとか常に動いているのが見て分かって。もしかしたら、パラダイス・ガラージの時空は世界より10分くらい先なんじゃないかって思うくらい夜にエネルギーがあって、みんな引きつけられて。今だとYouTubeとかあるけど、そこに行かないとわからないじゃないですか。だから、そこにいなきゃいけないっていう場所でしたね。GOLDにも有名人の方がたくさん来ていまして、そのまま飲みにいったりしていましたけれど、フロアに存在したくて来ていたそんな場所でした。

吉岡:そんな伝説を駆け抜けてきたお2人から見て、今のナイトライフシーンはどのように見えていらっしゃいますか?

佐藤:とにかくコミュニティー作りっていうのは大事なんですよ。でも、ここ渋谷のコミュニティーっていうのは、あるはあるんでしょうけれど、感じられないんですよね。いつの時代も街っていうのは、六本木も、その前やっていた新宿もそうでしたけれどコミュニティーがあったんですよ。渋谷は、クラブであったり街の夜をどう強いていくのかをもう少し大切に考えると良いと思います。開発も進んでいますけれど、あそこから文化が産まれるとは思えないですよね。もっとやはり路地にいないと。

吉岡:外国の方が沢山訪れるようになっている町でもあると思うのですが、その点に関してはいかがでしょうか?

佐藤:僕たちがニューヨークにいた時は、そこにニューヨークらしさを感じていましたし、日本に来る海外の方も確かに日本らしさを求めていると思うんですよね。ただ、いらっしゃった方に媚びるというよりかは、そこで遊んでいる人の音楽やファッションで1番良いとされるものこそが、彼らにとっても刺激になると思うんですよ。

東京、渋谷のナイトシーンに期待することとは?

臼杵:私はヨーロッパが好きでよく行くのですが、今DJカルチャーが大きくなっていて日本のDJシーンの人から羨ましいと思われていたりしますよね。確かにその差を感じている人も多いと思うけれど、でも同じものなんて違う場所では起こらないじゃないですか。なぜなら、同じ店を持ってきても、そこにいる人は持ってこれないから。だから同じものを作るんじゃなくて、共通項はあってもオリジナルを作るのが大事だと思います。チョイスはいいんですよ。日本のクラブも努力して、いいブッキングしていて。だからもっと自信を持ってやり切って欲しいと思う。海外と同じことを目指さなくてもいい。ただ1点違うのは、あっちはそこにいる人が面白いんですよ。日本の若い子も、だからクラブ行く時くらいは自由に自分のしたい格好をして自分のしたいメイクをして、自由に遊べばいいと思います。 

吉岡:これからナイトシーンを引っ張っていこうと考えている若者にアドバイスをいただけますでしょうか?

佐藤:自分の思うことをどんどんやっていった方がいいと思います。それをするためにはそれなりの努力とエネルギーが必要なので、それに負けないようにやっていければ良いと思う。それには協力できる人であったり、価値観を共有している人がいないと動けないけれど、その人たちに媚びるのは絶対にダメで、自分の想いを強く持つこと。そういうことが大事だと思います。

臼杵:最後にお2人が東京、渋谷のナイトシーンに期待すること、やってみたい事はありますか?

佐藤:先ほど言いましたけれど、文化は夜からしか産まれないので、夜のシーンがもっとその視点で考えられたらいいのかなと思います。街にたいする愛情をもっとみんなが持って、遊びに来る人がもっと楽しむためにに、クラブであったりナイトシーンやコミュニティーが活性化していけば、変わっていけるのかなと思います。

臼杵:私は今、「CHICKS ON A MISSION TOKYO」というナイトシーンで活躍する女性の団体を立ち上げていて主催をしていることもあって、女性がもっともっと活躍して欲しいんですよね。夜のジェンダーギャップを無くしていきたいです。女性のオーナーがもっと出てくれば今まで無かったようなアイデアで全く違った楽しみが生まれると思うので、そういう場所に私も居たいなと思います。

Edited by StoryWriter
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