無敵のグラム・バンド、T・レックスが2020年にロックの殿堂入りを果たした。音楽ライターのロブ・シェフィールドが、マーク・ボランの永遠の神秘性に迫る。


プリンスからハリー・スタイルズまで、圧倒的な影響力

T・レックスのファンよ、ゴングを鳴らせ(Bang a gong)。イギリスのグラム・ロックの雄が、同世代の仲間ロキシー・ミュージックに一年遅れて、ついにロックの殿堂入りを果たすときがやってきた。とても美しい瞬間だ。マーク・ボランはいつだってグラムの慈悲深い狂気を象徴する存在だったのだから。T・レックスの活動期間は短い。ボランが交通事故で他界したのが1977年で、あと2週間で30歳の誕生日を迎えるという時期だった。彼が最高のグラム・ソングを次々と生み出したのは死を迎えるまでのたった3年間だったが、死してなお、彼はコズミック・ダンサーたちの魂の導き手となっている。楽曲「スペースボール・リコシェット」で、ボランは「俺の心の奥底に、お前の全部がぴったり入る家がある」と歌う。その家は今でもワイルドで魅力的な場所であり続け、だからこそ、T・レックスは今でも気になる存在なのだ。

T・レックスは70年代初期のイギリス・チャートを支配した。ボランの非現実的なヴォーカルと、恥知らずなまでのエゴマニアぶりがこのバンドを牽引していた。1972年のローリングストーン誌の巻頭特集記事で、彼は「T・レックスはモンスターで、俺はむち打ち名人だ」と語っている。
彼はまばゆいグラム・ロック界で最も可愛い男の子であり、マンボの太陽の下でレスポールをかき鳴らす中性的な王子様であり、自分と同類の神秘的な女性たちに囲まれて銀色の剣歯を持つ夢を実現していた。彼の代表作は2枚の完璧なアルバム、1971年の『電気の武者』と1972年の『ザ・スライダー』だ。そこに詰め込まれた彼の哲学は基本的に「俺の髭には星があるし本当に変な気分」だった。

T・レックスは時にバブルガム・ポップとして片付けられることもあるが、音楽界の奇人変人たちは常に彼らの虜になってきた。プリンスはT・レックスへの賛辞を表した1985年の「ラズベリー・ベレー」でチャート2位となり、もっとあからさまな曲「クリーム」でチャート1位となった。ザ・スミスは「パニック」で「メタル・グルー」のリフを拝借した。らせん状にカールしたヘアに帽子というスラッシュの風貌はボランが始めたものだ。ガンズ・アンド・ローゼスは1993年のアルバム『ザ・スパゲッティ・インシデント』で「ビューイック・マッケイン」をカバーしてT・レックスからの恩恵に応えた。そして、昨年の夏、ハリー・スタイルズは著しくボラン風のポップ・アルバム『ファイン・ライン』の制作中に、「トリート・ピープル・ウィズ・カインドネス」で弦楽四重奏団を招いた。そしてT・レックスの「コズミック・ダンサー」をスピーカーから流して、自分が求めるヴァイブを彼らに伝えた。「うん、かなりT・レックスっぽいね。今まで聞いたストリングスの中でベストだよ」と、ワンテイクを終えてハリーが言ったという。


T・レックスの誕生、デヴィッド・ボウイとの因縁

ボランの神話の一つが、これまで出現したどのロックスターよりも彼の虚栄心が突出して強かったというものだ。実際「俺はいつだって上手く切り抜けてきたよ」と、1971年のレコード・ミラー紙で自慢気に語っている。「つまり、俺が俺自身の幻想ってこと。俺こそが『コズミック・ダンサー』で、子宮から飛び出して『電気の武者』の墓場に向かって踊りながら進んでいるってわけ。テレビに出演して600万人の視聴者の前でグルーヴすることなんて恐れちゃいない。ビビっちゃったらクールじゃないからね。外でも家でも同じだし、別に大したことでもない。俺は音楽には真剣だけど、自分の幻想なんて真面目に捉えていないよ」と。

ハックニーのトラック運転手の息子として1947年に生まれたマーク・フェルドは、ロンドン・シーンの流行の最先端を牽引しながら育った。若くて貧乏な目立ちたがり屋だった彼はショービズの世界に入るために必死で、ある日、彼のマネージャーの事務所のペンキ塗りにもう一人の青年と一緒に雇われた。マークは「キング・モッド」と自己紹介し、「あんたの靴はサイテーだな」と言い放った。実は、このとき一緒に雇われた青年こそがデヴィッド・ボウイだった。
ここから先何年間も、ライバルとして2人は互いを苦しめることになる。1969年2月、イギリス・チャートを賑わしたボランは、ボウイをツアーに招待した――パントマイムをさせるために。のちにトニー・ヴィスコンティは「マークは当時、まだ音楽キャリアが軌道に乗っていなかったデヴィッドに対して、非常に冷酷な態度を取っていた。だから、デヴィッドをミュージシャンとしてではなく、ティラノザウルス・レックスの前座のパントマイマーとして雇ったことは、マークにとってサディスティックな喜びだったと思う」と語っている(このとき、ボウイに投げつけられたブーイングに、ボランはさらに大喜びしたことだろう)。

ボランは1965年にデビュー・シングル「The Wizard」をリリースした。これは自分の魔法の力への賛辞を歌った曲で、誰も見向きもしなかった。しかし、この青年は有言実行するタイプだった。彼はロンドン中の新聞に、自身の神のような存在である重荷について大喜びで話したのである。「個人的には必ず死ぬという未来に感動はない。でも4年間、唯物論的アイドルになる未来には魅力を感じる。俺は人生を味わいたい。ケーリー・グラントみたいな白髪が欲しい」と、イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴにボランが話している。
このとき、ボランは18歳になったばかりだった。

ジョンズ・チルドレンという前衛的なバンドを組んで一瞬活動したあと、ボランはヒッピーのフォーク・デュオ、ティラノザウルス・レックスを結成した。このグループでは、ボンゴ担当のスティーヴ・トゥックと共にアコースティック・ギターを弾きながら、指輪物語の著者トルーキンに触発された物語をさえずる声で歌った。1968年にデビュー作『ティラノザウルス・レックス登場!!』をリリース。イギリスのメディアはボランを「ボップするエルフ」と呼んだ。そしてスティーヴ・トゥックをミッキー・フィンに代えて作ったのが傑作アルバム『A Beard of Stars』だった。しかし、ターニングポイントとなったのはT・レックスへ改名後のスマッシュヒット曲「Ride a White Swan」で、エレクトリック・ギターに持ち替えたことだった。彼はレスポールをアンプにつなぎ、魔法使い、ドルイド、黒猫を讃える歌を歌ったのである。プロデューサーのトニー・ヴィスコンティはリヴァーブを大幅に増量して、ストリングスを加えた。その後、ボランは「ホット・ラヴ」、「イージー・アクション(Solid Gold Easy Action)」、「チルドレン・オブ・ザ・リヴォルーション」、「ゲット・イット・オン」、「20センチュリー・ボーイ」といったヒット曲を次々と発表していく。

ヴィスコンティとボランは無敵のアーティスト・プロデューサー・コンビとなり、時を同じくしてヴィスコンティがボウイの初期の楽曲も多数プロデュースしていたことが、ボランの競争心にさらに油を注ぐこととなった。彼はことあるごとに、勝手にグラム界の敵とみなすボウイの悪口を言って回っていたのである。
1973年にはクリーム誌のキャメロン・クロウに「デヴィッドなんて俺の足元にも及ばないと思っているぜ」と語った。「ヤツには俺に匹敵するような才能はないってだけ。俺にはある。昔も今もな。ロッド・スチュワートにもヤツなりの才能がある。エルトン・ジョンにもあるし、ミック・ジャガーにもある。マイケル・ジャクソンだってあるよ。でもデヴィッド・ボウイにはない。残念だがな」と。

今も息衝くT・レックスの魂

T・レックスの作品で最も有名なのがアルバム『電気の武者』と言える。この作品には、宇宙での大騒ぎの「プラネット・クイーン」、吸血鬼のセックス「ジープスター」、キューブリック的ドゥーワップの「モノリス」等が収録されており、「モノリス」でボランは映画『2001年宇宙の旅』と楽曲「Duke of Earl」を融合させた。この作品の1年後にリリースされたのが『ザ・スライダー』で、過小評価されている「ミスティック・レディ」が収録された作品だ。
この曲は時代を先取りしすぎたシスターズ・オブ・ザ・ムーンのバラッドだ(訳註:「Sisters of the Moon」はフリートウッド・マックの曲で、この歌詞でスティーヴィー・ニックスはステージでの自分のペルソナを「sister of the moon」と表している)。また「ベイビー・ブーメラン」はパティ・スミスについて歌った最初の曲だ(女性嫌悪や男っぽさを一切匂わさずに女性を扱った曲を量産するボランの才能は、70年代の他のロッカーとは一線を画すものだったと、ここでは言っておこう)。

ボランはイギリスでの驚異的な人気に驚くことは一度もなかったようだ。「特定のコードには魔法の霧が存在するね。Cメジャーコードを聞くと、俺の頭の中で25のメロディとシンフォニーが聞こえてくる。その中から一つを引っ張り出すだけだ。重圧なんて一切ないし、とにかく溢れ出てくるんだ」と、リンゴ・スターが監督したロック・ドキュメンタリー『マーク・ボラン&T・レックス/BORN TO BOOGIE』でボランは自慢気に話していた。また、彼は自作の詩を集めた作品集『Warlock of Love』を出版してもいる。

悲しいことに、彼の栄光が終わりを告げるときは、あっという間にやってきた。人生のほとんどで飲酒しなかったボランも、『ザ・スライダー』後にアルコールとコカインのかすみの中に迷い込んでしまった。実は1973年に『タンクス』をリリースした頃にはもう音楽的にガソリン切れになっていたのだが、『地下世界のダンディ』、『銀河系よりの使者』、ボウイの『ジギー・スターダスト』への悲劇的なアンサー・アルバム『ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー』を立て続けに投下していった。そして、彼は人生の最後の年に、それまでのことをすべて整理して、60年代にR&Bシンガーだったアメリカ人の恋人グロリア・ジョーンズとともに、二人の間に生まれた息子ローラン・ボランを育てていた。さらに子供番組「Marc」のホストを務め、最終話ではボウイと和解した。2人はボランがステージから転落するまでの1分間、ジャム・セッションを行ったのである。

それから2週間後、ボランは交通事故で死亡してしまった。ボウイ、ヴィスコンティ、ロッド・スチュワートが彼の葬儀に出席した。ボウイはこう語った。「恐ろしいほど心がズタズタに引き裂かれている。彼に贈る唯一の言葉は、彼がこの世界で最も偉大な”小さな巨人”だった、だ」と。しかし、ボランのファンには、彼が自ら進んで爆弾の中に身を投じたと言う者もいる。あれから何十年を経た現在もT・レックスのスピリットが息衝いている理由はこれだ。火星のボールルームからロックの殿堂へと途切れることなく。
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