ファウンテインズ・オブ・ウェインのオリジナルメンバー、アダム・シュレシンジャーが4月1日に新型コロナウイルスによる合併症で亡くなって以来、友人やコラボレーターたちからのトリビュートが次々に出されている。ここでは作家で脚本家のデヴィッド・バーカッツがシュレシンジャーとの35年間の友情を回想する。


この世界には、この先絶対に聞くことができないにしても、心の中にしっかりと刻み込まれる曲がある。ずっとリリースを待ちわびた旋律だったのに、この先絶対に完成しない曲もある。自分の未来予想図を明るくしてくれた仲間の表情は今では影を帯びてしまった。過去のものとなってしまった彼の灯火は、今では背後からしか灯りを放たない。

みんなと同じで、私も新型コロナウイルスが命を奪うのは年配の人たちだけ、もしくは若くても持病のある人だけだと思っていた。アダム・シュレシンジャーはそのどちらのカテゴリーにも入っていなかった。しかし、私の知るアダムは知り合って以来、数々のカテゴリーを巧妙に避けて生きてきた。

私たちが知り合ったのは1985年。場所はウィリアムズ大学。二人は隣接する寮に住むことになり、フィラデルフィアとニュージャージーというWASP臭の強いニューイングランド地方出身で、似たような環境で育ったユダヤ人の私たちはあっという間に意気投合した。仲の良い同期生たちが宗教や経済学101について話すのを尻目に、私たちは不可避な大虐殺が起きたときの脱出計画を冗談交じりに語っていた。アダムは私には脱出計画に最適な手立てがあると考えていた。
プレパラトリー・スクール時代に着ていたブルックス・ブラザーズ製の制服が、検問を「通過」できる最高の変装だと言っていたのである。私はアダムは絶対に生き残ると言っていた。「お前の音楽の才能を買って連中は生かしてくれるぜ」と。

それに対してアダムは「最高だね。俺は収容所でナチスのためにモーツアルトを演奏したユダヤ人みたいになるってことだな」と返した。

大学での1年目はまだCDが登場する前で、カセットテープとラジオが主流だった。私の部屋に置かれた大量のレコードを見つけたアダムは、驚異的な集中力でレコードを吟味し始めた。私の音楽趣味を確認するというよりも、私の日記を読んでいるような掘り下げ方でレコードを漁っていることに気付いた。ブラック・フラッグ、ザ・スペシャルズ、ヤズーは合格。ジェリー・マリガン、ミンガスの『直立猿人』、ディオンヌ・ワーウィックの『Make My Way for Dionne Warwick(原題)』も合格。しかし、アダムが引っ張り出した手を高く上げたアルバムが1枚だけあった。ポリスの『白いレガッタ』だ。
このアルバムは聴きすぎたために青いジャケットが擦り切れていた。アダムは注意深く分析し、そして真剣な表情で「お前、これはもっと聴かないとダメじゃないか」と言って、私に対する批評を展開しながらアルバムを絶賛するという荒業を披露したのだ。互いの人となりを深く知るようになって、この時のアダムの言葉が完璧だったことに私は気づくことになる。彼は真剣そのものだった。同時にあの言葉は冗談でもあった。

彼が在籍した中でも最も知名度の高いバンドの名前も彼らしかった。そう、ファウンテインズ・オブ・ウェインだ。神秘的で、自然の雄大さと水のパワーを秘めており、なぜだかどこか伝説的にすら聞こえる。これはニュージャージーにあるショップの名前だ。この店ではマクマンション(訳註:郊外に連立する低品質の大量生産住宅のことを指す)の前庭によくある芝生用の噴水機を売っていた。もちろん、バットマンの住処ウェインマナーの前庭にもこの噴水機がある。

大学でアダムがやっていたバンドはザ・リズム・メソッドと呼ばれていて、大きなパーティーなどで演奏していた。
彼らは完コピしたカバー曲を演奏していたのだが、これを書いている今浮かんでくるのが「テイク・オン・ミー」と「パープル・レイン」だ。キーボードやベースを弾くとき、そして歌うときのアダムの嬉しさ半分、心配半分の表情が今でも浮かんでくる。あの表情には、モノマネしながら曲を歌う彼、音楽を慈しむ彼、心配性のリーダーの彼が読み取れた。バンド名をネタにアダムをからかっていたことも思い出す。「The Rubbers(訳注:コンドームの意)とか、The Diaphragms(訳註:ペッサリーの意)の方がパンクっぽくてクールだぜ」と。

「まあな。でもザ・リズム・メソッドの良さは、このバンド名がバンドに合っていないってみんなが知っていることさ」と、アダムは言っていた。

すべてのアダムが永遠に消えてしまった

新型コロナウイルスによる閉鎖にもかかわらず、世界中の死者数は酔いも瞬時に覚める勢いで増え続けており、生きている私たちはいつ自分の番がくるかと不安な気持ちで生活している。「みんなが想像しているよりも酷い状況になるのか?」「回復は困難なのか?」「みんな心配しすぎているのか?」「普段の生活にいつ戻れるのか?」。今の状況はまるで嫌々やっている火災避難訓練のようなもので、寒空の下で消防士の合図をイライラしながら待っているのと似ている。早く建物の中に入って普段どおりの仕事に戻りたいと。

私を含めてアダムを個人的に知っている人々にとって、このウイルスは予想外の出来事を引き起こした最悪の存在だ。
この感染症以上にダメージを与えるものは「治療法がない」という事実で、今ではもう「普段の生活」に戻ることなど不可能だ。私たちの普段の生活は二度と戻ってこない。だって、笑うアダム、父親のアダム、冗談を言うアダム、曲を作るアダムがいてこそ「私たちの普段の生活」なのだから。すべてのアダムが永遠に消えてしまった。

カレッジを卒業して何年も経ってから、アダムが私のアパートに来て、一緒に音楽を作るためのブレインストーミングをしていた。「何について?」「どんなスタイルで?」 このとき、私は(スティーヴン・)ソンドハイムのミュージカル『カンパニー』をかけた。

このミュージカルのブロードウェイ用サウンドトラック制作を迫ったドキュメンタリーを悩ましい顔で観ているアダムを見て、私は彼が70年代初頭のソンドハイムに似ていると思ったのだ。もちろん、アダムはソンドハイムより10歳若かったが。このとき、アダムはチューニングの狂ったハーフサイズのギターを手に持ち、まずはスカ、次にサンバ、そしてエモ、最後にバロック風の「Being Alive(原題)」をプレイした。そして「急いで一つ選べ。明日開幕するぞ」と言った。

アダムが「プロとして」行なった最初の演劇仕事は、私がジョン・レグイザモと一緒に作ったスケッチ・コメディ・ショーで舞台音楽を作り、サウンドブースを管理することだった。
会場は一番街にあるダウンタウンで伝説的なパフォーマンススペースのPS122。何よりも楽しかったのは、60cm×120cmの狭いサウンドブース内で、アダムとスティーヴ・ゴールドが効果音や音楽のタイミングがズレることを口論しているのを聞くことだった。これは演者のアドリブが原因だったのだが、二人の口論の方が自分が作った舞台よりも楽しかったのを覚えている。ブース内のアダムに目をやるとキューが遅れて怒るアダムが見え、彼はイライラし、取り乱していた。この建物の中で一番才能に恵まれた男が、マドンナの「ヴォーグ」をシンセで即興演奏しながら、スピーディー・ゴンザレスの「Arriba, Arriba, Andale, Andale」(訳註:スペイン語で「行け、行け、頑張れ、頑張れ」の意)が出てくるボタンを押して、建物中にこれを響かせていると考えるだけで、自分が果報者だと思ったものだ。

このスケッチ・コメディ・ショーはシリーズ化され、ついにはテレビ番組『House of Buggin(原題)』へと進化し、ここからテレビ番組と映画作品のコンポーザーとしてのアダムのキャリアが始まったのである。彼を見出したことを誰かに評価してもらいたい気持ちもあるが、そんな自分の職業に伴うちっぽけなプライドよりも、彼から得たセンセーションの方が遥かに大きい。言うなら、森の中を一人でハイキングしていて、美しい日の出に遭遇する機会に恵まれたとする。この日の出を自分が起こしたなどと考える人は一人もいないだろう。逆に偶然その場にその時に居合わせたことを幸運に感じるはずだ。何年も前にオースティン・ペンドルトンと交わした会話を今思い出している。フィリップ・シーモア・ホフマンをプロ作品で起用したのはオースティンが最初だと言った私の言葉に端を発した会話で、オースティンは笑いながら「デヴィッド、(自分よりも先に)見る目のあるやつが彼の周りにいたら絶対に起用していたよ」と答えた。
アダムの才能はいつだって明らかだった。アダムが成功するのは当然のことだった。

頭の中で彼の曲を次から次へと早回しして、いろいろな曲の歌詞を頭の中で合成している

2~3年前のことだ。ニッカボッカーホテルで酒を飲みながら、アダムと子育てについて話したことがあった。最近『Company』のドキュメンタリーをまた観たと伝え、「お前、今もソンドハイムに似ているな。でも、今じゃお前の方が年上だ」と言うと、ウイスキーを一口すすった後、アダムは「数年後にもう一度この話をしような。きっとお前はエレイン・ストリッチに生き写しって言うと思うぜ」と言い返した。

アダムのファンたちと同じで、私もこの数日は彼の音楽ばかり聴いて、そこに慰めを求めている。そこにアダムを感じている。でも、一番明るい曲でも今は現実に調和しない暗い曲に聞こえる。アダムの音楽は多分に楽天的だった。メランコリックな曲でも、少し進むと歯ごたえの良いアップテンポのパワーコードが必ず聴こえてきた。しかし、私の仲間の体内の細胞をハイジャックしたウイルスはそこで留まらなかった。新型コロナウイルスというヤツはアダムの音楽にまで浸透して熱で犯し、アダムの細胞DNAにしたようにアダムの音楽まで書き換えている。

このウイルスによって私たちは孤独と隔離を強いられた。現在、私たちは多くを奪われている。でもアダムだけは奪わせないし、私はどうしても彼を見つけないとダメなのだ。頭の中で彼の曲を次から次へと早回しして、アダムをもう一度見つけるためにウイルスよりも先回りしようと、いろいろな曲の歌詞を頭の中で合成している。

And now youre leaving New York.(そして今 君はニューヨークを去る)
For no better place.(ここより良い場所なんてないのに)
Youre going nowhere.(君はどこへも行けないよ)
And Ill be there too.(僕もそこにいるだろうね)

愛する人を失ったとき、人はその人を取り戻したいと願う。そして、それが不可能だと実感したとき、次にくる衝撃は……いなくなった彼のあとを追いたいと思うこと。

I wanna sink to the bottom with you.(君と一緒に底まで落ちていきたい)
I just wanna, I just wanna, I just wanna….(そうしたい、そうしたい、そうしたい……)
I might as well go under with you.(君と一緒に落ちるほうがマシだよ)

1996年、アダムのデビュー・アルバムをファイルしようと思って、Fのセクションのフガジ、フリートウッド・マック、フォリナーの間に空間を作った。アダムと一緒にこの3つのバンドを褒めそやし評論したのを思い出した。アダムは人物や音楽に対して、これと同じように意見を述べた。最初に褒めちぎり、分析し、次に皮肉満載の笑えるコメントを言うのが常だった。そして最後は正直な意見を述べた。

アダムの1stアルバムはFセクションに入れないことに決めた。これは「もっと聴く必要のある作品」セクションで保管する。私が17歳のときに、レコード漁りをしていたアダムが手に持って「聴き足りないぞ」と行ったあの『白いレガッタ』の真横に置く。
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