ザ・バンドの結成から解散までを追ったドキュメンタリー映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』が、10月23日(金)より角川シネマ有楽町、渋谷WHITE CINE QUINTOほか全国順次公開される。同映画でも大きくフィーチャーされているのが、音楽史に燦然と輝く彼らのデビューアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』。
古びたモールス信号送信機器、バーベキューグリルでの大火傷、裸のヒッピーのダンスまで、ルーツロックの金字塔にまつわるエピソードの数々を紹介。

波乱に満ちた1968年の夏に発表された『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』は、人々の心を癒す穏やかなサウンドのレコードだと捉えられがちだが、それは大きな間違いだ。ザ・バンドのデビュー作は、静かに革命の火を灯すようなアルバムだった。シーンがサイケ一色に染まりつつあった当時、カントリーやブルース、ゴスペル、ウェスタン・クラシカル、そしてロックを融合させた彼らのサウンドは新鮮で刺激的だった。ジミ・ヘンドリックス、クリーム、ザ・フー等が歪んだサウンドで鼓膜を揺さぶったのに対し、ロビー・ロバートソン、リヴォン・ヘルム、ガース・ハドソン、リック・ダンコ、そしてリチャード・マニュエルの5人はボリュームを下げ、楽曲の繊細なアレンジと深みのある歌詞を際立たせた。当時ビートルズやブライアン・ウィルソンが、スタジオで高度な技術を駆使した実験に明け暮れていたのに対し、ザ・バンドはキャッツキルの大自然に佇む湿っぽいコンクリート造りのワインセラーで、音楽の女神が微笑む瞬間を待ち続けた。不要なものを全て削ぎ落としたそのサウンドとスタイルは、当時の業界の常識に対する強烈なアンチテーゼだった。

「僕たちは反乱軍に対する反乱軍のような存在だった」ロビー・ロバートソンは後年にそう振り返っている。「他のやつらが東に向かうなら、僕たちは西に向かう。口に出さずとも、僕たちはそういう感覚を常に共有していた。まさに鉄の意志を持った反逆者の集まりさ。他の集団から距離を置くっていうのは、僕たちの本能だったんだ」

優れたソングライティングと演奏力のみによって、5人はボブ・ディランのバックバンドという世間のイメージを払拭してみせた。
「彼らは10代の若造なんかじゃなかった。既に確かな経験を積んでいた彼らのデビューアルバムは、ピークを迎えたバンドのように洗練されていた」プロデューサーのジョン・サイモンは1993年にそう語っている。「楽曲はコンテンポラリーのアーティストの作品というよりも、アメリカの地に長年眠っていた財宝のような輝きを備えていた」。ディランが書いた「アイ・シャル・ビー・リリースト」(ディランは「怒りの涙」と「火の車」にも共同作曲者としてクレジットされている)目当てだったリスナーの多くは、同作のハイライトであるロバートソン作曲の「ザ・ウェイト」等の奥深さに驚かされたに違いない。

田舎への移住はロックンロールにおけるクリシェとなっているが、ザ・バンドはその先駆者であり、そうすることの意義を証明してみせた。「本作は約2週間で制作された」5つ星評価を与えた本誌のレビューにおいて、筆者のアル・クーパーはそう記している。「人里離れた環境では、大抵の人間が堕落した日々を過ごす」。しかしリヴォン・ヘルムは、同作があらゆる方面から賞賛されたわけではないと話している。「僕らがいるウッドストックの地元紙では、アルバムの出来はまぁまぁで改善の余地ありってレビューされてたよ」

この歴史的名作にまつわる知られざる10の事実を、以下で紹介する。

1. 「ビッグ・ピンク」はロックスターらしからぬ寂れた建物だった

ビッグ・ピンクにまつわる物語は、1966年7月29日にニューヨーク州ウッドストックの郊外で、ボブ・ディランが愛車のバイクTriumph Tiger 100を走らせていた際にハンドルを切り損ねたところから始まる。事故によって負傷したロック界の吟遊詩人は近所にある自宅での療養を余儀なくされ、予定されていた全てのコンサートをキャンセルしたため、そのバックバンドのメンバーたちはスケジュールの大幅な変更を強いられた。ドラマーのリヴォン・ヘルムはその前年にバンドを脱退し(後に復帰する)、メキシコ湾の石油採掘場で働いていたが、他のメンバーたちは直面したその状況をキャリア変更の良い機会だと捉えた。
「どうしていいかわからなかった」リヴォン・ヘルムの自伝『ザ・バンド 軌跡』において、ダンコはそう述べている。「ツアーミュージシャンである僕たちは、完全に行き場を失くしてしまってた。それでもレコーディングをしたいっていう気持ちは変わらなかったから、近場で音が出せる場所を探し始めた」

僅かな手付金で暮らしていかねばならないミュージシャンたちにとって、ニューヨークでの暮らしは非現実的だった。そこで彼らは、ディランと共通のマネージャーのアルバート・グロスマン、そしてニューヨークの音楽仲間たち数人が暮らしていたキャッツキルの田舎町に移住することを考えた。ダンコとリチャード・マニュエルの2人は、1967年2月にピーター・ヤーロウ(グロスマンが同じくマネージメントしていたピーター・ポール&マリーのメンバー)の映像プロジェクトへの参加で同地を訪れていた。またロビー・ロバートソンも、ディランとハワード・アルクが取り組んでいた『Eat the Document』(終えたばかりだったイギリスとアイルランドツアーのドキュメンタリー)の制作をサポートする目的でその地を踏んでいた。手付かずの森と連なる山々、キャッツキルの大自然はツアーに明け暮れていたミュージシャンたちをあっという間に魅了した。「まさに理想的な場所だった」Barney Hoskyns著『Across the Great Divide』において、ガース・ハドソンはそう話している。「ウッドストックはマジックに満ちてた。ワワージング、オハヨ、ベアーズビル・フラット、あらゆる場所に伝説を想起させる名前が付いてるんだ」

ガース・ハドソンがビッグ・ピンクを再訪した、米ローリングストーンによる2014年の動画。終盤には彼がピアノを弾くシーンも。

ダンコはWoodstock Motelを仮住まいとしながら、メンバーたちが共同生活する家を探していた。
「クラブハウス、つまり居住空間と音を出せるスペースの両方を備えている物件を探していた」ロバートソンは2016年発表の『ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春』でそう述べている。ほどなくしてダンコが見つけたソーガティズの2188 Stoll Roadにある2階建ての箱型の建物は、まるで郊外から空輸で運び込まれたかのようだった。サーモンを思わせる派手な色の塗装が施されたその家は、地元の住民たちからビッグ・ピンクと呼ばれていた。お世辞にも趣味がいいとは言い難かったが、数百エーカーに及ぶ緑豊かな敷地、Overlook Mountainを望む景色、大きな池、4つの寝室、シンプルなキッチン、ダイニングルーム、そして家具一式と「Beer」のネオンサインを備えたリビングという充実ぶりでありながら、月125ドルという条件はまさに破格だった。しかし何より魅力的だったのは、決して豪華ではないが広々とした地下室だった。「一番の課題は、その味気ない空間を僕たちのレコーディングルームに生まれ変わらせることだった」ロバートソンはそう記している。「ライブで使っていた機材を片っ端から持ち込んで音を出しながら、僕たちだけのサウンドを見つけること。それが目標だった」

ロバートソンとハドソンはホームレコーディングに必要な機材を揃えるという役目を買って出たが、機材に詳しい友人からの返答は2人を困惑させた。「付き合いのあった友人に、その地下スペースを見てもらった」ロバートソンは2011年にそう語っている。「彼はこう言った。『使い物にならないな、手の施しようがない。床はコンクリートで壁はシンダーブロック、おまけに巨大な金属製のボイラーまである。
レコーディングスペースにはご法度の要素が全て揃っちまってる。デモを録るだけだとしても、まともなものにはならないだろう。録った音を聴き返してみれば、きっと気が滅入ると思うよ。あまりの音の悪さに、2度とレコーディングなんてしたくないと思うかもしれない』」しかし彼らは賃貸契約を既に結んでおり、もう後戻りはできない状況だった。彼らはそのスペースにNorelcoのマイク数本、Altecのミキサー2台、そして1/4インチのAmpex 400テープレコーダーを設置し、天に祈るような思いで見切り発車した。

ハドソン、マニュエル、ダンコの3人はその年の春にビッグ・ピンクに入居し、ロバートソンはフランス系カナダ人ジャーナリストのガールフレンドDominique Bourgeoisと共に、ビッグ・ピンクのすぐ近くにあった家で暮らし始めた。ほどなくして、彼らはシンプルな生活パターンを確立する。「料理は全部リチャードが担当した」ダンコは『ザ・バンド 軌跡』でそう述べている。「ガースは全員分の皿を洗い(綺麗好きの彼はその役を他の誰かに任せようとしなかった)、僕はゴミ出しを引き受け、誰から言われるでもなく暖炉に薪をくべてた」。彼らの精神的支柱だったディランは頻繁にビッグ・ピンクを訪れるようになり、その度に地下室でセッションを行なった。「曲が次から次へと生まれ、マジックが起きていると誰もが感じてた」ロバートソンはHoskynsにそう語っている。「誰かが何か思いつくたびに、地下室に移動してレコーディングした。
しばらくするとまた誰かがアイディアを出す、そういうサイクルを繰り返してた。僕は自分の寝室でギターを弾き、ボブはタイプライターで言葉を紡ぎ、他のメンバーも何かを生み出そうと常に試行錯誤してた。そういう雰囲気の中で、素晴らしい作品が生まれつつあることを全員が感じていた」。同年にレコーディングされた100曲以上の音源(「The Basement Tapes」と題されたブートレグ音源が多数出回り、2014年にボックスセットとして正式にリリースされた)は、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の青写真となった。

2. 『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のレコーディングはビッグ・ピンクでは行われていない

タイトルとは裏腹に、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』はビッグ・ピンクでレコーディングされたわけではなく、『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』収録曲の大半もまた然りだ。場当たり的なベースメントセッションのタイムラインは大雑把だったが、1967年の初春にバードクリフにあったディランの自宅Hi-Lo-Haで本格的なレコーディングを開始し、同年初夏にその舞台をかの有名な地下室に移している。同年10月にリヴォン・ヘルムが2年ぶりにバンドに復帰すると、ビッグ・ピンクは手狭に感じられるようになったため、4人は新たな住居を探すことにした。ヘルムとリック・ダンコはWittenberg Roadにあった一軒家に入居し、そこはやがてレコーディングセッションの中心となる。ガース・ハドソンとリチャード・マニュエルはOhayo Mountain Roadにあった小さな小屋で暮らし始め、ロビー・ロバートソンは同じ家でのちに妻となる女性との共同生活を続けた。

1967年秋に行われたハワード・アルクの誕生日パーティーにて、ザ・バンドのメンバーはフリーランスプロデューサーのジョン・サイモンと意気投合する。マネージャーのアルバート・グロスマンはレコーディングの予算を確保し、ニューヨークの799 Seventh Avenueの7階にある敷地面積1万平方メートルを誇るA&Rs Studio Aを抑えた。1968年1月初旬にレコーディングを開始する際に、サイモンがバンドにどういったサウンドを求めているのかと尋ねると、ロバートソンは簡潔に「あの地下室の音が欲しい」と答えた。
「あの地下室でのセッションから学んだのは、6時以降は音を出せず、誰もが時計を気にしているような環境じゃ、優れた音楽は生まれないってことだった」ロバートソンは2015年にUncut誌にそう語っている。「向こうが僕たちのやり方に合わせる必要があるって言ってやったよ。その逆じゃなくてね」

ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』知られざる10の真実

Photo by Elliott Landy/MAGNUM

エンジニアたちは当初、音の被りを抑えるためにメンバーたちの間に仕切り板を設けるという、ごく一般的な手法を実践していた。しかし、何カ月もの間シンダーブロックに囲まれた空間で互いに向かい合って演奏していた彼らは、その距離感に言いようのない違和感を覚えていた。「こう言ったよ。『これじゃダメだ。あの地下室でやっていたように輪になって、互いの顔が見える状態で録るべきだ。このやり方じゃ、音による会話は生まれない』」ロバートソンはそう話す。エンジニアたちは懐疑的だったが、最初のセッションで録った「怒りの涙」「ウィ・キャン・トーク」「チェスト・フィーバー」「ザ・ウェイト」のサウンドに、メンバーたちは大いに満足していた。2月上旬にバンドと契約を交わしたCapitol Recordsの重役たちもその出来に手応えを感じ、ロサンゼルスのVine Streetにそびえる高層ビル内にある、最高クラスの8トラックレコーディングが可能だったスタジオを彼らのために抑えた。同作の大半はここで録音されているが、バンドはフィル・スペクターがウォール・オブ・サウンドを確立したことで知られるGold Star Studioでもレコーディングを行っている。ヘルムは自伝で、同スタジオでビッグ・ビル・ブルーンジーの「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」を録った時のことについて触れているが、そのセッションの音源は1曲もアルバムには収録されなかったと考えられている。

3. 「ザ・ウェイト」は当初本命ではなく、アルバムに収録される予定ではなかった

1967年10月にヘルムがバンドに復帰したことを祝うように、ロバートソンは彼のヴォーカルスタイルを存分に生かした曲を書いた。「レヴォンにしか歌いこなせない曲を書こうと思った。僕は彼の実力をよく知ってたからね」ロバートソンはUncut誌にそう語っている。「彼は僕の親友だったし、彼に相応しい特別な曲を書きたかったんだ」。作業部屋でMartin D-28を手にした彼は、サウンドホール内に「Nazareth, Pennsylvania」(Martin社の工場の所在地)と記されたラベルを見つけた。聖書を思わせる地名とアメリカーナの聖地の並びは、ロバートソンのイマジネーションを刺激した。「あるストーリーテラーが住むアメリカの架空の町、そういうイメージが浮かんだんだ」彼は1987年にそう語っている。「その人物は、その町とそこにやって来ては去っていく人々の物語を紡いでいるんだ。僕自身は行ったことはないけど、その町が確かに存在することは誰もが知ってる」

徐々に形を成し始めたその曲は、聖書というよりも組織的な宗教への批評を超現実的なイメージによって表現する、スペインの映画監督ルイス・ブニュエルの作品を思わせた。「彼の作品の多くは、聖人は存在し得ないっていう事実を描いてる。『ビリディアナ』や『ナサリン』で、登場人物たちは善行に励もうとする」ロバートソンは後年にそう語っている。「『ザ・ウェイト』で歌っていることはそれと同じなんだ。ブニュエルの作品は宗教を思わせる部分が少なくないけど、実際には必ずしもそういう意味じゃない。彼の作品のキャラクターたちは善良な人間であろうと努めるんだけど、それは根本的に不可能なんだ」。ロバートソンはブニュエルの作品に登場する良心に満ちた人間像を、バンドの活動を通じて出会った特異な人々に投影しようとした。「Anna Lee」はヘルムの友人だったAnna Lee Amsdenのことであり、「Carmen」も彼の故郷に住む人物だという。また「Crazy Chester」について、ヘルムはこう語っている。「ファイエットビルに住む僕たち全員に共通の知人なんだけど、土曜になると無数のおもちゃの拳銃を腰に指して街中をパトロールするんだ。嘘みたいな話だけどね」。これらのキャラクターたちが登場する物語を、ロバートソンはごくわずかな時間で書き上げた。

「その翌日、僕は書き上げた曲をメンバーに聴かせて、アルバムに収録すべきかどうか意見を求めた」ロバートソンは自伝『ザ・バンドの青春』でそう綴っている。「彼らはあの曲が大きな可能性を秘めてるって言ってくれたけど、僕自身は他に選択肢がない場合のバックアップ程度に考えてた」。バンドはA&R Studio Aでのセッション時に、ふと思い出したかのように同曲をレコーディングした。「いろんなバージョンを録ったけど、どれも出来は今ひとつだった」彼は1995年にGuitar Player誌にそう語っている。「ある日スタジオで手持ち無沙汰だった時に、何となく『あの曲をもう一度録ってみるか』ってことになった」。ガース・ハドソンが安物のピアノを弾いたそのバージョンのアレンジは、ほぼ即興でありながら神がかった魅力を宿していた。「録り終えて聴き返した時には全員が驚いてた。確かな手応えがあったからね」

4. ロビー・ロバートソンによる「チェスト・フィーバー」の歌詞はその場しのぎだった

「ザ・ウェイト」では複雑な感情と意味合いが交錯するが、ロバートソンによる曲がすべて同じというわけではない。「『チェスト・フィーバー』の歌詞の内容は覚えてないよ。というか、あの曲に歌詞があったかどうかさえ覚えていないんだ」彼は冗談交じりにBarney Hoskynsにそう語っている。「ガダ・ダ・ヴィダ」的な大言壮語と脂の乗った軍隊のマーチングバンドを組み合わせたかのような同曲は、ヘルムの記憶によるとアルバムの完成直前にジャムセッションから生まれたという。「『チェスト・フィーバー』の歌詞はリハーサルの場でロビーが適当につけたもので、結局そのまま使われた」彼は自伝にそう綴っている。「アルバム制作の最終局面で生まれてきたあの曲は、ちゃんと仕上げる機会もないままレコーディングされた」

翌年の夏に行われたウッドストックに出演したザ・バンドは、セットの冒頭で同曲を披露している。バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」をベースにしたガース・ハドソンによる悪魔めいたロータリーオルガンのプレルードは、一瞬にして50万人のフラワーチルドレンたちの注意を引いた(後にライブの場で度々披露されるインスト曲「ザ・ジェネティック・メソッド」へと発展するそのパートについて、Hoskynsはハドソンの「19世紀の偉大な作曲家たちへの関心の表れ」だとしている)。「『チェスト・フィーバー』が好きだっていう人もいるけど、その理由は神のみぞ知るってところだね。あれは掴みどころのない曲だから」ロバートソンはそう語っている。「歌詞もオケもアレンジも、何ひとつとして明確な意味はないんだ」。それでも、同曲のファンは決して少なくない。ポール・シェーファーはビル・マーレイが2015年に『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』に出演した際に、その登場シーンで同曲をプレイしている。

5. ガース・ハドソンによる「火の車」のキーボードサウンドはモールス信号がヒントになっている

他のメンバーよりも若干歳上であり、クラシック音楽の素養を備えていたガース・ハドソンは、彼らがザ・ホークスとして活動していた60年台前半には、週10ドルでメンバーたちにレッスンを行うなど、エキセントリックな講師のような存在だった。スケールの練習に嫌気がさしていたメンバーもいたが、彼らはほどなくしてハドソンのような存在が身近にいることは大きなメリットだと気付く。「ガースにあれこれと教えてもらえて幸運だった」ヘルムは自伝にそう綴っている。「キャデラックのラジオから流れる曲を聞いて、彼はそのコードを言い当てたりすることができた。複雑なコード構成も彼にとっては朝飯前で、彼のおかげで僕たちはなんだって弾けるようになった」。メンバーたちは演奏の腕も上げたが、ハドソンの知識と技術はバンドの作曲と編曲の才能を大きく開花させた。「僕たちがソングライターとして優れているとしたら、それはガースのバックグラウンドによる部分が大きい」ロバートソンは1982年にMusician誌にそう語っている。「僕たちの曲のコード構成やハーモニー、どの楽器がメロディのトップにきて、どの楽器がボトムを支えるのか、そういったことの大半はガースが決めていたんだ」

以降の10年間で、ハドソンはバンドの技術面全般を仕切るようになっていった。彼はLowery Festivalオルガンに様々な自作エフェクト(ワウワウやピッチベンドペダル等)や、開発されたばかりだったLeslie社の2段階速度切替が可能なロータリースピーカーキャビネットをかませた。1967年上旬にビッグ・ピンクで暮らし始めると、ハドソンはレコーディング機器のチョイスなど、率先して地下スタジオの構築に取り組んだ。彼のこだわりと飽くなき探究心は、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のスタジオセッションでも存分に発揮されている。「僕たちはガースのことをH.B.って呼んでた」ヘルムはそう話している。「Honey Boy(働きバチ)の略だよ。セッションを終えて僕たちが機材を片した後も、ガースはスタジオに残ってブラスや木管楽器を重ねたり、曲の魅力を引き出すためにあれこれと試し続けてた」

ボブ・ディランによる歌詞にリック・ダンコが曲をつけた「火の車」のレコーディングに際し、ハドソンは軍の放出物資店で買った古いセミオートマチックの電鍵をエレクトリックピアノのRMI Rock-Si-Chordに用いることで、スタッカートの効いた独特のキーボードサウンドを生み出した。「その電鍵には反復機能が付いてたんだ。どちらか一方に動かすとドットかダッシュがひとつ入力され、その逆方向に動かすとドットが反復入力されるんだ」彼は1983年12月にKeyboard Magazine誌にそう語っている。「小さな箱に取り付けた1/4インチのコンセントを介して、その電鍵をキーボードに繋いだ。あとは反復レートを設定すれば準備完了さ」。シグナルのオン/オフを繰り返すことで生まれる歯切れのいいパーカッシブなサウンドは、モールス信号を彷彿とさせた。「ガースが電鍵を叩いてあの音を出した時のことはよく覚えてるよ」ヘルムはそう語っている。

6. アルバムのオールドファッションなポートレートのフレーム外には、裸で踊るヒッピーがいた

定石に抗うかのように、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』はリチャード・マニュエルとボブ・ディランが共作した穏やかでソウルフルなスロートラック「怒りの涙」で幕を開ける。独自の路線を行くというバンドのスタンスはレコードのカバーにも表れており、世界的に有名なフォトグラファーたちによるポートレート撮影のオファーも全て却下した。「いい子ぶった自分たちの写真を使うなんてまっぴらだった。そういう写真を見ても、僕は何とも思わなかったしね」ロバートソンはそう話している。彼をインスパイアしたのは、目を覆いたくなるような欧米諸国による強制労働の歴史を描く19世紀の写真集だった。「その本に載ってた写真には、どこか訴えかけてくるものがあった」。「最高」のカメラマンよりも「最低」のアーティストとの仕事を望んだロバートソンは、廃刊寸前のアングラ雑誌Ratの専属フォトグラファーだったエリオット・ランディーに目をつけた。ザ・バンドとディランが1968年1月にカーネギー・ホールで行われたウディ・ガスリーのトリビュートコンサートで共演した際に、ランディーはアルバート・グロスマンによって会場から叩き出されていた。

幸先こそ良くなかったものの、やがて意気投合したランディーとロバートソンの2人は4月下旬に、リヴォン・ヘルムとリック・ダンコがビッグ・ピンクから移り住んだベアーズビルの一軒家を訪れる。メンバーたちは時代劇で使われそうな帽子やベスト、それに蝶ネクタイ(彼らは普段から似たような服装していた)を身につけ、オールドファッションなダゲレオタイプを演出すべく野原に立った。「当時のフィルムはすごくスローだったから、できるだけじっとしているよう彼らに伝えた」ランディーはそう話している。「ポーズを決め、深呼吸し、微動だにしないこと。少しぼやけてるのは、シャッター速度を1/4秒に設定していたからだ」。メンバーたちは厳格な表情を保とうと努力していたが、そこで思わぬものを目にする。「フォトグラファーがカメラに集中している時に、ガースの友達の新妻が僕たちを笑わせようとして、ランディーのすぐ後ろで踊っていた」ヘルムは『ザ・バンド 軌跡』でそう綴っている。「最初の1枚を撮る時、彼女は裸になってグラインドを始めた。真剣な表情の男たちが、踊り狂う裸のヒッピーを見つめている画はさぞ奇妙だったに違いない。結果的に使ったのは、まさにそのショットだったはずだ」

●【画像を見る】レコードカバー掲載のポートレート

ベアーズビルでのフォトセッションに加え、ランディーとメンバーたちはオンタリオ州シムコーまで出向き、リック・ダンコの兄弟が所有する牧場で、カナダに住むメンバーの家族たちが一堂に会したポートレートを撮影している(同行できなかったアーカンソーに住むヘルムの両親の写真は、ポートレートの上部左端に挿入されている)。その「家族写真」もまた、ステージで毎晩のようにエディプスコンプレックスのファンタジーを演じるジム・モリソンのようなロックスターに対するアンチテーゼだった。「母親を憎み、父親を刺すみたいなのが、当時の音楽におけるパンクなアティテュードとして持てはやされてた。あの写真は、僕たちがそういうのとはかけ離れてることを示すステートメントだった」ロバートソンは1969年に本誌にそう語っている。「僕たちは両親を憎んだりしていないからね」

7. アルバムスリーブのデザインは「I♡NY」のグラフィックで知られるミルトン・グレイザーが手がけている

「僕たちのデビューアルバムには眉唾もののエピソードがたくさんある」リヴォン・ヘルムは1993年にそう語っている。「僕たちのカバーショットなんてものは存在しない。ボブ・ディランが描いた5人のミュージシャンとローディー、そして象のイラストがすべてだよ。スリーブ内のグループ写真とバンドを結び付けられる人は多くなかった」。実際にアルバムのアートワークでは、彼らのポートレートよりもビッグ・ピンクの写真の方がはるかに目立っている。バックカバーではヘッドライン並みに大きなアルバムタイトルの文字がビッグ・ピンクの小さな写真を囲んでおり、スリーブ内に見られる現在のロバートソンの妻であるドミニクによる簡潔なヴァースは様々な憶測を呼んだ。

その印象的なデザインは、前年に発表されたボブ・ディランのベスト盤のカラフルなポスターを手がけたミルトン・グレイザーによるものだ。彼はある意味で、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』のプロジェクトの生みの親でもある。60年代初頭に、アルバート・グロスマンをウッドストックに連れて行ったのはグレイザーだった。その牧歌的な風景に魅せられたフォーク界の仕掛け人は、それからほどなくしてベアーズビルの近くに別荘を購入し、ディランをはじめとする多くのアーティストによる作品、そして数々の伝説が生まれる舞台の基盤を作った。

ディランによる絵、ランディーが撮ったバックに山が見えるポートレート、そして例の家族写真を使ったアルバムのデザインを、ロバートソンがグレイザーに依頼しようと考えた時、彼はまだその近所に住んでいた。「タイトルは『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でいきたいと伝えた」ロバートソンは自伝『ザ・バンドの青春』でそう綴っている。「『ビッグ・ピンクって何だ?』と訊く彼に、僕は今作ってるレコードの曲が生まれてきたクラブハウスだと説明した。すると彼は、それがどういうものか知りたいから写真を見せて欲しいと言ってきた。はっきり言って醜い、ピンク色の建物だと伝えると、彼は興味を持ったようだった。『君らのグループ名は?』と尋ねられ、僕はこう答えた。『そっけないんだけど、ザ・バンドって言うんだ」

8. ザ・バンドは当初、The Crackersの名でCapitolと契約していた

ザ・バンドのメンバーたちは1960年からザ・ホークスとして活動していたが、8年後にグループ名の変更を強いられた。第一にそのグループ名は、60年代初頭に一世を風靡したものの既に時代遅れとなっていたロカビリーの申し子、ロニー・ホーキンスのバックバンドというイメージが付いてしまっていた。より大きな問題だったのは、反戦ムードが高まる中で「hawk」という言葉が軍隊の支持を思わせるようになっていたことだった。それは平和主義のカナダ人たち(ヘルムはアメリカ人)にそぐわなかったうえに、60年代後半の業界にロックバンドを売り込む上で不利だった。しかし、彼らはウッドストックにおいて文字通り唯一のバンドだったため、その問題はしばらく棚上げされていた。

1968年1月20日にカーネギー・ホールで開催された、ウディ・ガスリーのトリビュートコンサートでディランのバックバンドを務めた時点でも、グループ名の問題はまだ解消されていなかった。「僕たちが裏口から機材を搬入していると、バックステージの警備をしていた老人がこう言った。『おい、お前らなんてグループだ?』」ヘルムは自伝にそう綴っている。自虐的(倫理的にはやや不適切)なジョークのつもりで、彼はThe Crackers(南部の無知な白人を指す)だと答えた。彼自身はそのことなどすっかり忘れていたが、コンサートから数週間後にCapitol Recordsと契約を交わそうとしていた彼らは、いよいよバンド名を決める必要性に迫られていた。リチャード・マニュエルは冗談交じりに、The Marshmallow OvercoatsとThe Chocolate Subwayという、いかにも『サージェント・ペパーズ』的サイケデリアとフラワーパターンを連想させる名前を挙げた。ロバートソンもジョークで対抗し、The Royal Canadians Except for Levon(レヴォンを除く忠実なカナダ人たち)という案を出した。それに対して南部出身のヘルムは、今度は真剣にThe Crackersという名前を提案した。「南部の愚か者たちを指す言葉は、僕たちが作っている音楽にフィットしてた」彼は『ザ・バンド 軌跡』でそう述べている。「僕は本気だったし、少しも後悔していない」

他のメンバーたちは彼に同意し、その言葉の真意を知らなかったレーベルの重役にその意向を伝えた。「当初、レーベルはその名前を気に入った様子だった」ロバートソンは『ザ・バンドの青春』にそう記している。「彼らはクラッカーのリッツやハニージンジャーのことだと思っていて、無知で偏屈な南部の田舎に住む白人のことだとは知らない様子だった」。結果的に、Capitolと交わした契約書のグループ名には「The Crackers」と記された。

『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』がThe Crackersのレコードとして発表されなかった正確な理由については諸説ある。ヘルムによると、Capitolの誰かがその名前の真意に気づいたのだという。「1968年7月1日にアルバムがリリースされた時、The CrackersではなくThe Bandとクレジットされているのを知って驚いた」彼はそう綴っている。「実のところ、それは確かに僕たちの名前だった。ウッドストックに住む人々は皆、僕たちのことをザ・バンドと呼んでいたのだから。The Crackersという名前をよしとしなかったCapitolの重役たちは、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』をザ・バンドのレコードとして発表した」。一方ロバートソンは、グループ名の変更はメンバー全員で決めたことだと一貫して主張し続けている。「ウッドストックにはバンドなんてほとんど皆無だったから、友人や住民たちはみんな僕たちのことをザ・バンドって呼んでたし、僕たち自身その名前に慣れていた」彼は同作のリリース後に本誌にそう語っている。

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興味深いことに、1968年9月にThe Eye誌に掲載されたインタビューで、ロバートソンはザ・バンドという名前は(プリンスのような)匿名性の象徴だと述べている。「はっきりさせておきたいのは、僕たちには名前なんかないってことだ」彼はそう主張している。「僕たちはレコードのプロモーション活動には興味ないし、アルバムを売るために『ジョニー・カーソン』に出るつもりもない。あのグループ名は僕たちのクリスチャンネームに過ぎないんだ。あのレコードがザ・バンドの作品として発表されたのは、そうしないとレコード店に置けないからだよ。それに、友達や近所の住民はみんな僕らのことをその名前で呼んでたしね」。同月に「ザ・ウェイト」が1stシングルとしてリリースされた時、批評家たちは同曲のクレジットを「ジェームス・ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、レヴォン・ヘルム」としていた。プロモーション用のポスターも同様だったが、その多くには「通称ザ・バンド」という但し書きが添えられていた。

9. 不運と交通事故が重なってバンドがツアーに出られなかったため、Capitolは不可解なプロモーションキャンペーンを企画した

1968年夏に『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』がリリースされた後、バンドがツアーもインタビューも行わなかったことは、アルバムのセールスに深刻な影響を及ぼしかねなかった。しかし、必死の宣伝活動という業界の風習に従わない彼らの姿勢は音楽至上主義の表れだと解釈され、田舎暮らしの謎めいた男たちというイメージの強化に繋がった。「世間は『あんな山奥で彼らはいったい何をしているのか?』みたいな感じだった」ロバートソンは2015年にUncut誌にそう語っている。「素性の知れないバンドっていうイメージが生まれてた」。だんまりを決め込んで世間の憶測を煽るというのは、アルバート・グロスマンが多くのアーティストに実践させていたプロモーション戦略だったが、ザ・バンドのショービジネスに対する無関心ぶりは本物だった。「できればツアーには出ないつもりだった」ヘルムは自伝でそう述べている。「ベースメント・テープスやビッグ・ピンク期に確立したやり方で曲を書き続けること、それが僕たちのポリシーだった。名声に無頓着だった僕たちが望んでいたのは、誠実さを失わずに活動を続けていくことだった」

しかし、そういった展望は田舎暮らしならではの思わぬ落とし穴によって変更を余儀無くされる。「僕たちが住んでた家からはアショカン貯水池を見渡すことができて、よくそこでバーベキューをしてた。ある日、リチャードが火を強めようとグリルの底にガソリンを注いだ」ヘルムは自伝でそう述べている。一方ハドソンは、マニュエルが「可燃性の高い液体を流し込んだ瞬間、グリルから吹き出した炎によって彼はくるぶしに火傷を負った」としている。ヘルムはさらにこう付け加えている。「グリルは爆発し、彼は足の甲にひどい火傷を負った。彼がその後2カ月間ドラムを叩けなかったことは、僕たちが1968年の夏に『ビッグ・ピンク』のツアーをやらなかった理由のひとつだった」

彼らがツアーに出なかったもう一つの大きな理由、それは複数の交通事故だった。ヘルムは愛車のバイクのスピンによって足を負傷し、ダンコは「ちょっと飲み過ぎてた上にハイになってた」時に車で大木に衝突し、瀕死の重傷を負った。その事故で彼は首の骨を折り、背骨は4つに分断されていて、以降7カ月間ほぼ寝たきりの生活を余儀なくされた。「僕は何週間も牽引治療を受けることになった」彼は『ザ・バンド 軌跡』でそう述べている。「僕が事故に遭い、首の怪我が治るまで何もかもを我慢してベッドに横たわってることを公表しないようアルバートに伝えた」。彼らがザ・バンドとして初めてステージに立ったのは、1969年4月17日にサンフランシスコのWinterlandに出演した時だった。

バンドが身動きが取れない状況下で、Capitolの宣伝チームはアルバムのセールスを伸ばすために風変わりなプランを立てる。彼らが企画した様々なコンテストについて、ヘルムは「僕たちを10代の女の子たちが夢中になるようなバンドに仕立てあげようとしてた」と語っている。プロモチームが企画した「A Big Pink Think」と題されたキャンペーンでは、ディランによるイラストのタイトルを公募したり、「Big Pinkにちなんだ名前をつけるとしたら、自分はBig Pink _____だ」という文章の空欄を埋めるようファンに呼びかけたりすることになっていた。賞品リストにはピンクレモネード、ピンクのパンダのぬいぐるみ、ピンクのヤマハのバイクなどが含まれていた。「レコードの発売に合わせて、ピンク色に染めた象をロスのタワーレコードの前に連れてくるなんていう馬鹿げた案もあった」ロバートソンは『ザ・バンドの青春』にそう記している。「アルバートと僕はロスまで出向いて、Capitolの社長に就任したばかりだったStanley Gortikovと話し合った。主な目的は『ビッグ・ピンク』とザ・バンドの何たるかを伝える上で、ピンクの象やネーミング公募がいかに不適切かを伝えることだった」。彼らの意向を受け、それらの案は早々に却下された。

10. 同作はエリック・クラプトンにクリームの解散を決意させ、あるハードロックバンドの名前をインスパイアした

Big Pink Thinkキャンペーンに頼ることなく、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』はロック界のスターたちの賞賛を集めた。スタジオでの実験的な作業に明け暮れ、ローファイ志向のアングラのミュージシャンたちの対極にあったビートルズでさえ、ルーツに根ざした彼らのアプローチには一目置いていた。同年9月に公開された「ヘイ・ジュード」のプロモーションビデオの終盤で、ポール・マッカートニーは「ザ・ウェイト」のアドリブ演奏を披露している。またジョージ・ハリスンは同年秋に、ディランとザ・バンドのメンバーに会うためにキャッツキルを訪れている。

しかし誰よりも『ビッグ・ピンク』に影響されたのは、ハリスンの友人でもあったエリック・クラプトンだった。当時世界で最も人気のあるバンドのひとつだったクリームが同年夏に行ったツアーは莫大な収益を上げていたが、実際には葛藤していた彼にとって、同作のブートレグのテープは心の拠り所となっていた。「あれが私に立ち止まる機会を与えてくれた」彼は2007年発表の自伝で同作についてそう語っている。「同時に、(クリームが抱えていた)問題を浮き彫りにしているように感じられた。カントリー、ジャズ、ブルース、ロックなどの要素を融合させながら、彼らは素晴らしい曲を書いていた。馬鹿げているし無駄だとは分かっていながら、私は彼らと自分たちを比較せずにはいられなかった。彼らはまさに、私が必死で求めていた指標のような存在だった。彼らの素晴らしいアルバムを聴けば聴くほど、自分たちが行き詰まっていること、そして自分がバンドから脱けたがっていることを自覚させられた」。『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』リリースから数カ月後の1968年7月に、彼はクリームの解散を発表する。

ハリソンと同様に、クラプトンもまたウッドストックを訪れているが、一番の目的は果たせないままだった。「本当は私をバンドに加えてくれと頼むつもりだったんだが、勇気がなくて言い出せなかった」1994年にザ・バンドがロックの殿堂入りを果たした際に、彼は壇上でそう語っている。彼らのニュアンスに満ちたプレイとコラボレーションを重んじるスタンスを、クラプトンは短命に終わったブラインド・フェイス、そしてデラニー&ボニーとの仕事で実践している。

クラプトンの方向転換のきっかけを生んだことについて、ロバートソンは複雑な思いを抱いていた。「『ビッグ・ピンク』の精巧さとレイドバックしたフィーリングは、彼に大きな影響を与えた」ロバートソンは『ザ・バンドの青春』にそう記している。「クリームでずっと大げさなアプローチを実践していたエリックは、何か違うことをやりたがっていた。すごく光栄ではあるけれど、個人的にはクリームの曲のいくつかは好きだったから、あのアルバムが彼らの解散に繋がったことについては複雑な気持ちだった」

『ビッグ・ピンク』はあるバンドを解散させた一方で、(少なくとも)1つのバンドの名前をインスパイアしている。1968年にスコットランドで結成されたハードロックバンドのナザレス(後に「ラブ・ハーツ」をヒットさせる)は、バンド名をロバートソン史上屈指の歌詞の一部から拝借している。「最初のリハーサルに使った場所でバンド名について話し合ったんだけど、合意には至らなかった」ヴォーカリストのダン・マッカファーティーは2014年にそう語っている。「出たばかりの『ザ・ウェイト』をみんなで聴いてた時に、ベーシストのピート・アグニューが『ナザレスっていうのはどうだ?』って言ったんだ。それが僕たちの始まりさ」

From Rolling Stone US.

ザ・バンド『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』知られざる10の真実

『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』
(原題「ONCE WERE BROTHERS:ROBBIE ROBERTSON AND THE BAND」)

監督:ダニエル・ロアー 製作総指揮:マーティン・スコセッシ、ロン・ハワード
原案:「ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春」(ロビー・ロバートソン著、奥田祐士訳、DU BOOKS刊)
出演:ザ・バンド〈ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リヴォン・ヘルム、ガース・ハドソン、リチャード・マニュエル〉、マーティン・スコセッシ、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン、エリック・クラプトン、ピーター・ガブリエル、ジョージ・ハリスン、ロニー・ホーキンス、ヴァン・モリソン、タジ・マハール

2019年/カナダ、アメリカ/英語/カラー・モノクロ/アメリカンビスタ/5.1ch/101分
後援:カナダ大使館/字幕翻訳:菊地浩司/字幕監修:萩原健太
配給:彩プロ/宣伝:プレイタイム、スリーピン
©️Robbie Documentary Productions Inc. 2019

公式ホームページ:http://theband.ayapro.ne.jp/
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