自社の一流メディアに対する絶対的な自信と個人消費の限界に挑戦したいというディズニーの強い意志は、現代の音楽業界の画一的なアプローチとは対照的である。
来週、米ディズニーによってエンターテイメント史上もっとも革新的な価格実験のひとつとなる試みが行われようとしている。
新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大を恐れるあまり、いまも多くの映画館が閉鎖され、観客数も減少するなか、米現地時間9月4日にディズニーは最新のアクション超大作実写映画『ムーラン』を公開する——それも劇場での上映ではなく、公式動画配信サービス「Disney+」独占配信という形で(日本でも同日配信)。だが、ブロードウェイ・ミュージカル『ハミルトン』やビヨンセのビジュアル・アルバム『ブラック・イズ・キング』のように劇場での上映を飛ばしてダイレクトにDisney+で配信された昨今のコンテンツとは異なり、『ムーラン』を視聴するには、月額5.99ドル(日本では700円)の会員料に加え、ディズニーが「プレミアアクセス料金」と呼ぶ29.99ドル(日本では2980円)の追加料金を支払わなければならない。
この大胆な実験的試みは、従来のペイ・パー・ビュー(訳注:有料テレビの課金方式のひとつで、視聴するコンテンツごとに視聴料金を支払う、PPV)の常識をはるかに超えるものだ。それにもかかわらず、ディズニーは自社の商品力に対する圧倒的な自信を見せつけ、お隣の音楽業界が著作権所有者にもっと多くの収益をもたらすことができるような、類似の価格実験をここまで頑なに拒むことに疑問を投げかけた。
30ドルという『ムーラン』の視聴価格をディズニーが発表して以来、このギャンブルによってディズニーは採算を取ることができるのか? という議論が紛糾した。ファミリー向けの超大作をリビングルームで鑑賞するのにファミリー層は30ドルの追加料金を妥当と考えるだろうか? もしそうだとしたら、ディズニーは劇場公開を飛ばしても、2億ドル(約212億円)と推測される製作費を回収できるのだろうか? 仮にその答えがイエスだとしたら、これはポストコロナ時代の映画館にとって何を意味するのだろう?
8月4日、ディズニーがアナリスト向けに行ったテレビ会議での決算発表で、同社の最高経営責任者(CEO)のボブ・チャペック氏はDisney+での『ムーラン』配信を発表した。チャペック氏は、劇場公開が延期されていた『ムーラン』のリリースは「唯一無二」のイベントである一方、ディズニーにとって新たな学びの機会となることを期待したいとコメントした。「プレミアアクセス料金」を設けた理由は、『ムーラン』製作に注がれた「一部の資金をできる限り回収するため」とチャペック氏は説明した。
リリース前の調査によって劇場公開を飛ばしてダイレクトに動画配信サービスで公開しても採算が取れるという結論に至ったのか? という質問に対し、チャペック氏は「私から言えるのは、『プレミアアクセス料金』によって私たちが当初のビジネスで見込んでいた収益が得られるだけでなく、Disney+への新規加入を促すうえで、極めて重要な起爆剤になるということだけです」と応じた。
要するに、今回の価格実験が引き起こすかもしれない失敗の損害は、長期にわたってディズニーの収入源となるDisney+の新規会員を引き込むことでかなり少なくなるとチャペック氏は考えているのだ(Disney+にまだ加入していない人は、最初の1週間は無料で同サービスを楽しめることを踏まえると、チャペック氏の発言はそこまで横柄に聞こえない。となると、『ムーラン』のリリースは、それ自体がDisney+の無料トライアルの大々的なマーケティングでもあるのだ)。
ここで少しだけ、筆者の自慢話にお付き合いいただきたい。今年の4月に筆者は、Disney+と音楽業界のストリーミング戦略を比較した本誌のコラムで、こうなることを予測していた。当時のコラムでは、ディズニーが所有するスポーツ配信プラットフォームESPN+に加入した総合格闘技UFCファン向けに同社が高額のPPVコンテンツを追加で発表したことに触れた。その際、筆者は同社がDisney+においても価格面で似た動きを見せた場合、音楽業界は「音楽ストリーミングサービスの月額サプスクリプション料金より高額な[独自の]価格帯の設定を前向きに検討するかもしれない。その結果、消費者はいまだかつてないほど大量の新作に独占的にアクセスできるようになる」という考えを示した。
だが、その答えはいまだに「ノー」である。
たしかに、コンテンツの配給者であると同時にコンテンツの制作者であるという点においてディズニーはいかなる大手音楽会社とも異なる。Disney+の会員がすでに6000万人を超えているのに対し、音楽業界はいまだにストリーミングサービスに代表される配給者と、レーベルやアーティストに代表される制作者のあいだに壁がある。先日ユニバーサルミュージック・グループ(以下、ユニバーサル)がテンセント・ミュージックの中国のプラットフォームに特別な楽曲提供を行うと合意したのは音楽業界にとっては朗報で、この業界の新たな実験的な動きを示唆している。
だが、自社の一流メディアに対する絶対的な自信と個人消費の限界に挑戦したいというディズニーの強い意志は、現代の音楽業界の画一的なアプローチとは対照的である。
たとえば、現在の音楽ストリーミング界に君臨しているSpotifyとApple Musicという2大配給元を見てみよう。
SpotifyとApple Musicは、月額の会員料に追加料金を上乗せするというディズニー方式を近いうちに採用するだろうか? 答えはイエスだ。
だが、ユーザーからもっとキャッシュを絞り出そうとする両社の計画は、両社が提供する主要コンテンツ(音楽など)のなかでももっとも話題の作品にプレミアムな価値を上乗せする「ディズニー流」とは明らかに異なる。ディズニーと異なり、両社は主要コンテンツを「土台」としたうえで多種多彩なサービスを提供しようとしているにすぎない——たとえば、Spotifyは音楽、ポッドキャスト、オーディオブックを提供し、Appleは音楽、ニュース、テレビを宣伝するように。「音楽とプラスアルファ」という多彩なコンテンツのラインナップによってはじめて全部込みのバンドル・サブスクリプションという高額な料金が請求できるのだ。
次は、音楽コンテンツ界に君臨する3大レコード会社に目を向けてみよう。そのなかでも最大手のユニバーサルは、2023年までの新規株式公開(IPO)を計画しており、グローバル会員がもたらす収益とサービスを頻繁に利用する顧客に対する「生涯会員バリュー」は、投資家にとって重要なポイントとなる。
その一方、NASDAQに上場したワーナー・ミュージック・グループは、米証券取引委員会(SEC)に提出したIPO申請書のなかで成人の12パーセントが「新型コロナウイルスのパンデミックをきっかけに、音楽ストリーミングにより多く支払うことが予測される」という調査報告を引用している。さらに同社は「音楽ストリーミングが消費者にもたらす価値提案は、プレミアム商品に関するイニシアチブを支持するものだと考えている」と言い添えた。
・Apple Musicが「ラジオ」にこだわり続ける理由
無料会員を対象とした標準的な有料コンテンツであれ、既存の有料会員を対象とした追加料金が必要なコンテンツであれ、特別なコンテンツへのアクセスを期間限定にするといった戦略に代表されるように、新型コロナウイルスのパンデミックは、音楽の価格実験においてうってつけの機会となったのではないだろうか?
デジタル上の著作権侵害がCDのグローバル収益に大打撃を与えてからまだ15年が経たないなか、こうした判断の正当性を問う人もいるだろう。そんな人々には、改めて次のように言わせてほしい。
ムーラン流の試みが音楽業界にとっても有益であるという証拠もある。たとえば、テイラー・スウィフトが8月初頭にリリースしたナンバー1アルバム『フォークロア』の8種類のデラックス盤のフィジカル商品を見てほしい。それだけでなく、BTSの新曲「Dynamite」のMVは、発表から24時間以内にYouTubeで1億回以上再生された。こうした例は、トップスターのなかには、ファンを利用したビジネスを最適化するために大々的なリリースの際に差別化された特別なデジタル価格を設定できるだけの影響力を持つアーティストがいることを示している。
音楽業界のチャートは、変化の起爆剤にはならないかもしれない。というのも、こうしたチャートは収益を完全に反映したものではないからだ。標準的なダウンロード版のアルバムと比べて高価なデラックス盤を売ることでテイラー・スウィフトに追加の「売り上げ」が入るわけではない。観客一人ひとりが払ったチケット代が興行成績ランキングに反映される映画業界とは、状況が異なるのだ。
音楽業界とディズニーの戦略の最大の違いは、重要な2点に集約される。ひとつは、そもそも映画ファンは大々的な新作を無料で(それも合法的に)観られるなんて思っていないことだ。それに対し、音楽ファンはSpotifyやYouTubeといった無料メディアに慣れ親しんでいる。
もうひとつは、音楽業界がコンテンツの所有者と配給者によっていまだに分断されていること。両者の意見が一致するのは不可能であり、ディズニーが試みたような大胆な実験も決して行われない。映画館の経営者たちが上映を無視するディズニーのムーラン戦略を「クソくらえ」と呼んでいるように、同様の緊張関係は映画業界にも存在する。だが、Disney+の独り勝ちによって影響力の地殻は決定的にシフトしてしまったようだ。
・Spotifyで生計立てるのは「夢のまた夢」 データから見える収入格差の実態
決算発表で『ムーラン』のリリースを発表したチャペック氏は、次のように述べた。「自社プラットフォームがあれば、どんなことにもチャレンジできるのです」。大手レコード会社の投資家たちが聞いたら、悔し涙を流すことだろう。
ティム・インガムはMusic Business Worldwideの創業者兼発行人。2015年の創業以来、世界の音楽業界の最新ニュース、データ分析、雇用情報などを提供している。ローリングストーン誌に毎週コラムを連載中。
From Rolling Stone