本展は、2018年5月から2019年11月まで、ジョンの故郷である英国リヴァプールにて開催されていた大規模な展覧会。
今更ジョンとヨーコのストーリーについて、説明する必要などないのかも知れない。が、本展を鑑賞する上で知っておくとより理解が深まるエピソードを、いくつか最初に紹介しておこうと思う。
1940年生まれのジョン・レノンと1933年生まれのオノ・ヨーコが出会ったのは、1966年11月7日。当時、ニューヨークを拠点とする前衛芸術運動「フルクサス」の一員だったヨーコによる、ロンドンはインディカ・ギャラリーでの個展『未完成の絵画とオブジェ』の開催前日に、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のレコーディングを間近に控えるジョンが、ふらりと訪れたことが始まりと言われている。そこに展示されていたヨーコの作品「天井の絵」の、ポジティブなメッセージにいたく感銘を受けたジョンは、次第にヨーコに惹かれていく。
「僕は、女性芸術家と出会って恋に落ちるという夢がずっとあったんだ。アート・スクールに通っていた頃からね。彼女と出会って話してみると、彼女は僕の知ってることを何でもお見通しだって気付いた」(1984年、「Penthouse誌」に掲載されたインタビューより)
当時ジョンには妻シンシアと息子のジュリアンが、ヨーコには映像作家アンソニー・コックスと娘のキョーコがいたが、数年の交際を経て2人は結婚。1969年にジブラルタルで式を挙げ、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールではヴェトナム戦争に抗議するパフォーマンス、「ベッド・イン」を行い大きな話題となる。以降も2人がオールヌードとなったアヴァンギャルドなレコード『Two Virgin』(1968年)をリリースしたり、「War Is Over (If You Want it)」(1971年)の街頭広告を行ったりと、自身の知名度を使ったメッセージ発信によって賛否両論を巻き起こした。さらに、ニューヨークに移住してからの2人は過激派のアクティビストらとも知り合い、政治運動に拘泥していく。
ジョンとヨーコの出会いのきっかけとなった作品とは?
1973年、「Imagine」の思想を受け継ぐ架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言したジョンとヨーコだったが、アルバム『マインド・ゲームス』をリリース前に別居。ジョンは個人秘書のメイ・パンと共にロサンジェルスへ移り住む、いわゆる「失われた週末(Lost Weekend)」を1年ほど過ごすことに。その間にハリー・ニルソンやジョン・ボーナムらと各地で繰り広げた乱痴気騒ぎは、今なお語り草となっている。
1975年、別居生活を終えたジョンとヨーコは一人息子のショーンを授かり、それからの5年間、ジョンは「専業主夫」となり子育てに専念する。1976年、念願だったグリーンカードを取得したジョンとヨーコは、ショーンを連れて何度も日本を訪れていた。また、表立った活動は控えていたものの、自宅での音楽制作は続けており、その時の音源は『ジョン・レノン・アンソロジー』(1998年)にも収録された。
1980年、再び音楽活動をスタートしたジョンは、ヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』をレコーディング。2人の共同プロデューサーにはジャック・ダグラスが起用され、トニー・レヴィン(キング・クリムゾン)やヒュー・マクラッケン、アンディ・ニューマーク(スライ&ザ・ファミリー・ストーン)ら名うてのセッション・プレイヤーが参加している(有名な写真は篠山紀信によるもの)。アルバムは11月にリリースされたが、その一月後にジョンは狂信的なファンの凶弾に倒れ、12月8日に永眠する。
『DOUBLE FANTASY – John & Yoko』は、そんなジョンとヨーコのあまりにも有名なエピソードを、貴重な展示物と共に振り返る内容である。時系列に沿って展開されており、会場に入るとまず目に飛び込むのが、壁の両端に貼られたジョンとヨーコの幼い頃のポートレートだ。
最初の見どころはやはり、ジョンとヨーコの出会いのきっかけとなった作品「天井の絵」と「釘を打つための絵」だ。「天井の絵」は白い脚立を昇っていき、天井のボードを備え付けの虫眼鏡で覗くと小さく「yes」と書いてあることが分かるというもの。当時、アヴァンギャルド・アートに懐疑的だったジョンは、この作品のポジティブなメッセージに救われたとのちに話している。一方「釘を打つための絵」は、鑑賞者がキャンバスに自由に釘を打ち付けられる作品で、「オープン前に釘を打つには5紙リングが必要」とヨーコに言われたジョンが、「想像の5シリングを君に払うから想像の釘を打たせくれ」と返したエピソードもよく知られている。
【画像】ジョンとヨーコが出会った1966年インディカ・ギャラリーも再現(写真13点)
書籍や音源だけでは味わえない感動
他にも、ジブラルタルの挙式でジョンが着ていたピエール・カルダンの白いジャケットや、平和パフォーマンス「ベッドイン」でジョンが弾いていた(「平和を我らに」のミュージック・ビデオにも登場する)ギブソンのアコギ、1971年にボブ・グルーエンのポートレート撮影で着用した、「NEW YORK CITY」のロゴが入ったTシャツ(袖を自分で切り落としたもの)、ニューヨークはマディソン・スクエア・ガーデンで開催された「One To Oneコンサート」(1972年)でジョンが着用したミリタリーシャツなどが陳列されており、もはや「歴史上の出来事」となっているエピソードを、それにちなんだ「現物」と共に振り返る体験は、書籍や音源だけでは味わえない感動があった。
【画像】ジョンやヨーコの貴重な私物も展示されている(写真13点)
個人的に印象深かったのは、ニューヨークのヒルトン・ホテルの便せんに書かれた「Imagine」の手書きの歌詞と、ジョンが取得したグリーンカードの現物だ。特に後者は、71年にニューヨークに移住したジョンが、2度の国外退去を命じられながらも5年がかりでようやく手に入れた永住権の「証」であり、その長い苦難の歴史を思うと胸にこみ上げるものがあった。
他にも、ジョンが日本語を練習しているイラスト入りのスケッチブックや、西丸文也が撮影した軽井沢での家族写真で、ジョンとヨーコが着用していた洋服、専業主夫時代にジョンが使っていた「抱っこひも」など、日本初公開の展示物も並んでいた。
こうしてジョンとヨーコが出会ってから死別するまでの14年間を振り返ってみると、その活動は決して首尾一貫したものではない。時には著しく矛盾を孕むようなものもあり、激しい批判を浴びることも少なくなかった。
「信じるときはとことん信じる。
ジョンもヨーコも決して聖人でもなければ人格者でもない。その時その時を並外れた集中力で懸命に生きながら、既成概念にとらわれず「ありのままの姿」をさらけ出してきた人間味溢れる表現者だ。『DOUBLE FANTASY – John & Yoko』を通じて知る、愛するということ、政治とアートの関係性、家族や子育てのあり方……等々、今なお私たちが抱えている問題について、自分たちを「メディア化」しながら真剣に取り組んだ2人の波乱万丈な道のりに、ただただ心を揺さぶられずにはいられなかった。
DOUBLE FANTASY - John & Yoko
~ 2021年1月11日(月・祝)
場所:ソニーミュージック六本木ミュージアム(東京都港区六本木5-6-20)
主催:株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント / 株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ
メディアパートナー:朝日新聞社
オフィシャルサイト: https://doublefantasy.co.jp/