●【画像を見る】「知的な淑女」と謳われた当時のシャーデー
ことイギリスの業界においては物事は実際以下のごとくである。レコードのヒットの前に、称賛の前に、さらには声にすら先立って、まずは見た目が問われる。ではこのシャーデーの”見た目”を見てみよう。高くまで顕わになった額。すらりとした体型。そして、輝かんばかりの、ほとんどエキゾチックともいえそうな双眸。ふくよかな口元は官能的ですらある。淡い化粧や刈り込んだ髪型などは差し引いても、彼女の顔立ちはかつてどこにも見つからなかった種類の独特の魅力に満ちている。
この1年半ばかりというもの、25歳のシャーデーは、この見た目を武器に、自分たちの音楽的キャリアの方も、同様の目覚ましさで切り拓いてきた。彼女は自身の名を冠したバンドのリードシンガーであり、作詞を担当している。バンド”シャーデー”のデビュー作『ダイアモンド・ライフ』はすでに英国国内だけで100万枚以上を売り上げ、全世界では400万枚に達している。しかも同作は現在シングル「スムース・オペレーター」のヒットを受けて、アメリカのチャートを駆け上がってもいるのである。
流行と一線を画した「シンプルな物語」
デュラン・デュランにスパンダー・バレエ、カルチャー・クラブにワムらを含めたほかのイギリス国内の1位獲得アーティストらとは一線を画し、シャーデーは過剰なシンセサイザーの使用を周到に回避している。目にもまばゆい衣装とか、贅沢なミュージックビデオといったものについても同様だ。代わりに彼女は沈着かつ断固たる姿勢で、徹底的に削ぎ落とした中からこそ生まれる優雅さというものを体現して見せている。少し掠れたシャーデーの漂うような歌声と、好んでまとう背中の開いた黒のカクテルドレスとは、何よりもあの、懐かしくも偉大なる1930~40年代当時のニューヨークのジャズシーンを思い出させずにはいない。最小限の編成によるバンドの編曲スタイルが、ロックンロールよりもむしろジャズの文脈に身を寄せて入ればなおさらだ。
とりわけ本国イギリスにおいては、彼女の成功はジャズの復権といった話題と一緒に括られがちである。しかしながらシャーデー自身は、自分の作品を”ジャズ”と形容することをやはり注意深く避けている。
「たとえほんの1分だけでも誰かが、私たちがジャズバンドを目指しているのだと見做しているなんてことは、考えるだけでぞっとするの」
彼女は言う。
「だってもし本当にそうなら、きっと今よりずっと上手くできているはずだから」
Photo by Paul Natkin/Getty Images
写真の彼女は厳めしく、時に傲慢にも見えてしまいそうだ。しかし本人は開けっぴろげで気さくな人間だった。すべては本能的なものなのだろう。鋲打ちのジーンズに黒の革ジャンという出で立ちで現れた彼女は、こんな午後の時間帯の、ファッションと音楽の世界の震源地たるキングスロードやウェストエンドからは遠く離れた立地にある、彼女の広報担当者のロンドンの事務所というやや控えめな場所にいても、きっちりと決まって見えていた。
「みんなで座って、よし、じゃあこんな音で行こうかなんて話し合って決めたことはまったくない。あまりに自然にああいう音になったものだから、頭で考えたことすらないくらい。曲に取り掛かるとね、だから、そうなるようになっていくのよ。私たちの曲というのは明らかに”ポップス”だわ。だってわかりやすいでしょ? 私が好きになってきた歌たちというのは、この点はジャズの曲でも同じことなんだけれど、そこに物語があるものなの。たとえば(ローランド・カークの)『溢れ出る涙』とか、あるいは(マイルス・デイヴィスの)『スケッチ・オブ・スペイン』とか。あれなんか本当にスペインにいるみたいな気分になるわよ。
ソウルの分野で好きなのはまずスライの『ファミリー・アフェア』。あとマーヴィン・ゲイも。
シャーデー・アデュの生い立ち
ナイジェリア生まれのヘレン・フォラシャーデー・アデュの人生にはいつも違和感がつきまとっていた。彼女の両親が出会ったのは50年代だ。ナイジェリア人の父親がロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで修士課程を履修していた時期になる。結婚し、長男が生まれたところで二人はナイジェリアに帰国し、イバダンという町に居を構え、そこで父親は教師の仕事を見つけた。1959年にはシャーデーが生まれた。
けれど両親の関係は長続きはしなかった。
「父というのはとても気難しい人だったのよ」
Photo by Gered Mankowitz/Redferns
1963年までにはすでにシャーデーはイギリスに移り住んでいた。母と兄、それに母方の祖父母と一緒にグレートホークズリーというエセックスの小さな村にいたのだ。
「目に入るもの全部白か、さもなければ緑色だった。どこもかしこも白か緑」
シャーデーはそんなふうに記憶しているらしい。
「私はそれまで雪なんて見たこともなかったのよ。しかも祖父というのがちょっとばかりしみったれな人で、私たちの部屋には暖房も入れてくれなかったの。結露になったところからはじき氷柱が生えてきたし、窓枠の棚のところには氷が張ってた。本当にひどいものだったわ」
看護学校を卒業した母親は子供たちを連れとりあえずは自立した。しかしこちらも結局は一時の仮住まいに終わった。シャーデーが10歳になった時、母親は”いかれ肉屋(マッドブッチャー)”なる相手と再婚し、家族はホランドオンシーに移った。
「ゴーカート場みたいな海辺の町よ。プードルとお婆ちゃんたちでいっぱいだった」
音楽との出会い、バンド活動が転機に
14歳の時に初めてクラブに足を踏み入れた彼女は、そこでダンスとソウルミュージックに出会った。これらが彼女の冷めない情熱の向かう先となった。
「聴けるものはそれだけだった。好きになれそうだったのも」
彼女はそう言っている。ソウルはもちろん本場アメリカ産のものに惹かれたのだが、スティーヴ・ウィンウッドの声もツボに嵌まったようだ。地元のDJに、今夜の最後の曲はトラフィックの「ウォーキング・イン・ザ・ウィンド」にしてよね、などと頼んだりもしていたらしい。
ロンドンに出てきたのは17歳の時だ。ウェストエンドにあるセントマーティン美術大学で3年間ファッションと芸術の専門課程を履修するためだ。同時に彼女は首都のクラブバンドたちを観る楽しさというものも見い出した。学校を終えるとそのまま自立した。紳士服のデザインと販売の仕事を始めたのだけれど、これがせいぜいよくいって、どうにか帳尻を合わせ口を糊するような日々だった。ところが折よくこの時期は、かつてなく音楽とファッションとが接近していた時代でもあった。そこでバンドのマネージメントを専門にしていた知り合いの一人が、バックコーラスの仕事に興味はあるかと彼女に打診してきた時は、ほとんど渡りに船というか、それ以上のものに映った。
「ただ歌の話がきた時も、それで自分の人生をなんとかしようなんて発想はまだ欠片もなかった」
当時のことをシャーデーは笑顔でそんなふうに呼び起こす。
「私は編み物もしなければバドミントンだってやったことがなかったの。だからこう思ったわ。あら、ひょっとすると、これはいい趣味になるかも知れないわって」
この知人というのがリー・バレットで、バンドの方は当時プライドと名乗って活動していた。シャーデーは最初は断わられたのだけれど、グループは結局ほかの誰かを見つけることが叶わずに、最終的に改めて彼女に加入を打診した。やがてバレットが、彼女とプライドのメンバーのうちから数人だけで自分たちのレパートリーを仕上げ、プライドのステージの繋ぎにするようにとの指示を出した。かくしてバンドの方のシャーデーが、ロンドンの一流ジャズクラブであるロニースコッツでのプライドの舞台で、とりあえずの第一歩を踏み出してみる運びとなったのだった。ほどなくしてシャーデーらの方が母体のショウよりウケがいいことが明らかになってくると、同バンドでサックスとギターとをプレイしていたステュワート・マシューマンがシャーデーと共同で曲を書くようになった。
プライド時代、1982年のライブ映像
シャーデーが明かす「引き算の美学」
バンド”シャーデー”の転機は1983年に訪れる。現代美術協会(ICA)でのコンサートに出演できることになったのだ。この公演には、協賛として雑誌の「The Face」が名を連ねていた。英国のつやつやピカピカの、音楽とファッションの専門誌である。当日のクライマックスは目一杯着飾ったテクノポップバンドでこそあったのだけれど、しかし優雅に落ち着き払ったシャーデーが、従えているのはただマシューマンとリズムセクションだけという編成でなお自信に満ちて、胸を裂くようなあの「クライ・ミー・ア・リヴァー」を、いかにもそれに相応しい吐息のような歌声で歌った時、会場はたちまちにしてトレンド発信者たちの歓喜の坩堝と化した。彼らは次のネタを見つけだしたのである。
1983年10月に、バレットがバンドをエピックと契約させた。グループはシャーデーとマシューマンを軸として、ベースのポール・デンマンと鍵盤のアンドリュー・ヘイル、それから後にはデイヴ・アーリーと交代することになるドラムのポール・クークという編成に落ち着いていた。彼らはまた、プロデューサーのロビン・ミラーに紹介されることにもなった。広がりのある落ち着いた音作りに定評のあった人物である。シャーデーとミラーとによるシンプルで控え目なサウンドアプローチは、あの手この手の音響効果で注意を引きつけようというサウンドばかりの目立った当時のポップの世界では、むしろ一層際立つことにもなった。最初のシングル「ユア・ラヴ・イズ・キング」は2月の発売だ。そして2枚目のシングル「メイク・ア・リヴィング」とアルバム『ダイアモンド・ライフ』とがこれに続き、いよいよシャーデーは船出し、動き始めた。
まさに時代の流行に乗ったのかも知れない。「ニュージャズ」ムーヴメントの先駆けとなったのだとも言えよう。確かにこれは、通好みというか、きらびやかさとはほど遠い一枚だった。まさにシャーデーの普段のスタンス通りの作品だ。
「けっこう私、こういうアプローチをしがちなのよね」
シャーデーはこのように説明する。
「やり過ぎるということができないの。振り切っちゃえないとでもいうのかしら。どういったって控えめなのよね。そういうのが歌い方にも出ちゃってる。でも、人の心を動かすためには、必ずしも泣き叫んだりシャウトしたりする必要があるとも思ってはいないの。私自身だって時に泣いたり叫んだりすることはあるわよ。私の方としては、歌に何かを込めたいとはいつだって考えているし、言いたいと思っていることもある。でも、真逆の立場の聴く方の人々からしてみると、なんだかとても大人しめに響いているみたいなの。きっとそうすべき時がきて、そういうのが相応しい歌を歌うような場面では、私も声を張り上げて振り切ってしまうのでしょうね。でも、強調することが何かを通わせる最善の手段だとも思っていないことも本当だわ」
「同じことがすべての場面に当てはまるのよ。服もデザインも、それから建築もだと思うけれど。今はぶっ飛んでいることが受け容れられる時代よね。四方八方十六方どころか、とにかくそこら中に向かって伸びてる髪型とか、色数の無茶苦茶多い格好とか。それが流行りだから。だから突飛な姿もすっかり受け容れられて、つまりそれは、ある意味保守的にさえなっているのよ。美術学校にいた時から私はもう、周りが受け容れやすいような方法で何かをやっている、つまり、ほかの誰かがやっているのを目にしてすでに安全だとわかっているようなことをやりながら、自分たちはものすごく変わっているんだと思えちゃえるような、そういう図太い神経の持ち主みたいな輩が大っ嫌いだったわ。私自身は特に肩で風切っているように見えたいなんて思っていないわよ。でも、周りと同じに見えたいとも思っていないの」
当時のシャーデーが思い描いた未来
この野卑さや悪目立ちすることへの嫌悪もまた、表に出てくるシャーデーという人物像に色濃く反映されているようだ。そもそも彼女が取材を受けること自体が相対的に非常に少ないのである。それにほかのアーティストと反目するようなこともない。そして、ポップスターというものがフリート街に軒を並べた、あの大小のマスコミらによって執拗に追い回される宿命を負わざるを得ないような同国においても、彼女の記事がゴシップ欄を飾ることも起きていない。現在の彼女は北ロンドンの閑静なハイブリーで、ロバート・エルムスとシェアハウスをして暮らしている。この人物はジャズファンのジャーナリストで、流行の牽引者でもある。
雨の中、バス停から家までの道のりを歩いて帰り、チラシのうらに「メイク・ア・リヴィング」の歌詞を書きなぐり始めた夜から、彼女ははるばる今のこの場所までたどり着いた。なお虚飾とは無縁のまま居心地よい暮らしを楽しんでいる。1984年というのはだから、シャーデーにとっても素晴らしい一年だったのだ。
目の前に横たわる新たな挑戦についても彼女はしっかりと見据えている。
「私たちにはちゃんと何かがあると思ってもらえる、そういった証明になるようなレコードを作りたいと思っているわ。キャリアの初期のうちから大きな成功を収めたアーティストに対しては、誰もがとても懐疑的になりがちだから。自分でもね、それは私たちに”何か”があったからだと証明したいの。だから『ダイアモンド・ライフ』に続く作品もすごいものにしたいのよ。バンドとしての可能性を広げ、さらなる前進になるような一枚。だって私たちはまだ始まったばかりなんですもの。やらなくちゃならないことは山ほどあるわ。確かに『ダイアモンド・ライフ』は成功した。でもそれはそれ。もうお終い。私たちはようやくバンドとして一緒にやっていくことに慣れてきたばかりなの。私自身どうにか歌うということに慣れてきたところでしかないし。今はいろんな物事に晒されて、ただただ勉強しているわ。知恵熱の真っ最中よ。私たちが受け取った反応はものすごいものだったから、周りもまた、私たちに途轍もなく多くを期待してくれいていることはわかっているのよね――」
考え込むようにそこで言葉を切ったシャーデーは、たぶん自分では吸うつもりもなかっただろう新たなもう一本の煙草に火をつけてから、最後にこう続けた。
「でも、歌うことと曲を書くこととについて一層の自信が持てるようになったことは本当よ。この先の道のりはきっとまだまだずっと長いんだろうとしても、ね」
※本記事はローリングストーン誌1985年5月23日号に掲載されたもの。
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