90年代を象徴するポップの女王、マライア・キャリーがかつて秘密裏にグランジ・アルバムを録音/発表していた――彼女のイメージを大幅に塗り替えそうな新事実について、当時を知る彼女の元エンジニア、デーナ・ジョン・シャペルが語る。「大体は自然発生的で、ほとんど即興みたいなものだった」

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まさに”待望”というべき回顧録の発売(9月29日)を目前にしたタイミングで、マライア・キャリーが爆弾を落とした。
敬虔な仔羊のごとき揺るがぬ信仰を誇ったはずの彼女の信者たちですら、これには身を震わせざるを得なかった。千変万化の歌姫(シャンテーゼ)は、1995年に”チック”名義で、オルタナティブロックのアルバムを録音/発表していたというのだ。

「当時は自分の音楽性をどこまで広げられるものかと探っていた時期だったけれど、同時に全身を怒りでたぎらせてもいたの」

回顧録『The Meaning of Mariah Carey』の中で、長らく伏せてきた自身のグランジ作品について、彼女はこのように触れている。

「自分のうちにある怒りを知りそれを表現することは、私にはいつだって挑戦に繋がったわ。アルバム『デイドリーム』の時期、私生活は本当に窒息寸前だったの。ただ解放されたくてたまらなかった」

Fun fact: I did an alternative album while I was making Daydream Just for laughs, but it got me through some dark days. Heres a little of what I wrote about it in #TheMeaningOfMariahCarey S/O to my friend Clarissa who performs the lead w/ me as a hidden layer #Chick #TMOMC pic.twitter.com/Re23t5whcd— Mariah Carey (@MariahCarey) September 27, 2020
(※ツイート訳)
面白い話がある。『デイドリーム』の制作時期に私、実はもう一枚オルタナティブのアルバムを作っていたの。やってみたら笑えるかなと思って。でもおかげで鬱っぽい日々を切り抜けられた。ちょっとだけ♯TheMeaningOfMariahCareyにどう書いているか紹介するわね。親友のクラリッサに感謝。わからないように私と一緒に歌ってくれているのが彼女なの。


”余り時間”の即興セッション

チックの唯一のアルバム『Someones Ugly Daughter』は、日に14時間にも及んでいたヒットアルバム『デイドリーム』の収録が一旦終わった後のニューヨークはヒットファクトリースタジオで、曲が書かれるそのそばからそのままレコーディングされていくといった形で行われていた。

「別人格みたいなアーティストを頭の中で創りあげて、だから、それこそジギー・スターダストみたいにバンドまででっちあげたのよ」

同書で彼女は、さらにこう続けている。

「私のキャラは髪の色の暗い陰気なゴス少女で、ビアンカっていうの。彼女がバカバカしくも痛々しい曲を書き、それを自分で歌っている」

ちなみに、この彼女の分身たる黒髪(ブルネット)のビアンカは、数年後に「ハートブレイカー」のビデオにおいて実際に世に姿を見せることになる。

長年マライアのプロデューサーを勤めてきたデーナ・ジョン・シャペルはしかし、マライアがこのアイディアを『デイドリーム』のスタッフに初めて示した瞬間については、残念ながらきちんと覚えてはいなかった。ただ、この実験の突発性と楽しさについてはこの限りではなかったようだ。毎晩、真夜中頃を迎えると、現場の音楽性の方向はすっかり明後日の方を向き、巻き込まれた誰も彼もがこのマライアの即席ロックバンドに加わった。プログラマーのゲイリー・シリメリがギター、プロデューサー/ソングライターのウォルター・アファナシェフがドラムス。そして主役のマネージメント事務所の一人がベースを持たされた。

「大体は自然発生的で、ほとんど即興みたいなものだった」

1991年から2005年にかけてマライアのメインエンジニアを務めてきたシャペルは、ローリングストーン誌の取材にこのように応じてくれた。

「彼女はあそこに努力なんてものは一切突っ込みたくなかったのさ」

●【画像を見る】1995年のマライア・キャリーと『Someones Ugly Daughter』ジャケット

『Someones Ugly Daughter』の制作は、ひょっとすると2カ月も3カ月もかかるような仕事となっていてもまったく不思議ではないだろう。しかし実際には、真夜中過ぎの”余り時間”だけでちゃっちゃとまとめ上げられていったのだ。


「ほとんどの場合、彼女は声に出しながら曲を作っていたよ。軽やかでね、10分か15分もあれば一曲できあがっていた」

彼はこうもつけ加える。

「そこら辺のクッションに座っているうちに、歌詞の一部とか曲のアイディアを思いつく訳だよ。すると次の日には仕上がってる」

まっすぐなオルタナロックへの憧れ

マライア自身が回顧録で書いている通り、この企画の大部分が基本はパロディの発想のうえに成り立っている。しかし同時にまっすぐなオルタナロックへの憧れも見つかる。彼女が曲の着想を得ていたのは、スリーター・キニーやL7、グリーン・デイといったバンドたちだ。シャペルによれば、特にグリーン・デイの『ドゥーキー』は当時の大のお気に入りでもあったらしい。

自分の”陰気な黒髪ゴス少女”キャラに命を与えるべく彼女は、メインヴォーカルに関してはブースで少し声を変えて歌い、そのうえに友人であるクラリッサ・ダナ・デイヴィッドソンの歌唱を重ねるという手法を採った。バックコーラスの方はその夜スタジオで見つかった誰も彼もが駆り出されていた。

「事務所の人間とかスタジオの人間とかだよ。彼女は廊下の先まで駆けていって誰かしら見つけてくると、引っ張ってきてコーラスを歌わせるんだ。音程が合っていようがいまいが気にしなかった」。
シャペルはそう証言する。

回顧録中でマライアは、このロック方面への探検には「個人的に非常に満足した」とも書いている。シャペルは彼女がこのアルバムに日の目を見せたいと心から願っていたことも覚えていた。ソニーも比較的簡単にこれに応じ、同じ1995年のうちに、あまり目立たないようにしつつも、これをチックのデビューアルバムとして発売した。ミュージックビデオも作られたのだが、シャペルはこの制作費はおそらくマライアが自分で賄っていたと信じて疑わない。最終的に仕上がったアルバムでは、デイヴィッドソンの歌の方がメインの位置にミックスされ、映像でも彼女が主役を務めている。YouTubeやほかのストリーミング配信でまだ見つかるはずである。

マライアはこのチックの秘史を暴露した翌日(9月28日)に、「実は今、私のヴォーカルをメインにしたヴァージョンを世に出そうと思ってがんばってるのよ」ともつけ足した。近い将来、本来の姿のチックが登場するだろうと確約してもいる。”ロックスター”マライアと同じ部屋にいてその姿を確かめた一人としてシャペルは、これを聞いて素直に喜んだという。

「あれは素晴らしい作品だと思っているんだ。彼女がとうとう真実を明らかにしてくれて嬉しく思う。
人々に別次元のマライアを見せてくれる気になったことについても同じように感じている」

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From Rolling Stone US.

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