こんな世界があるなんて、あなたは想像できるだろうか? 業務のために飛行機でヨーロッパに飛び、そこではピンヒールと石畳がワインとチーズのように相性抜群で、誰もあなたの名前なんて知らないけれど、あなたが来てくれたことを無条件に喜んでいる。そう、Netflixにはそんな世界があるのだ。その名は、『エミリー、パリへ行く』。
「いままでずっと人に好かれようとしてきた」とライトなロマンチックコメディの主人公エミリー・クーパーは、恋人候補の男性に語る。「それってかなり悲惨な目標だね」と言う彼に対し、「ほんとそう」とエミリーは答える。
『エミリー、パリへ行く』は、少し浅はかとも言える軽い作品であると同時に迎合的な作品でもある。
>>予告編動画はこちら
たいていの人にとってはかなりストレスフルな状況だ。だが、エミリー(演:リリー・コリンズ)はショッピングバッグを2つほどぶら下げながら、シャンゼリゼ通りを闊歩するかのような気楽さでこの状況に臨む。犬のフンを踏んでしまう朝もあれば、会社の住宅補助で借りたアパートメントのシャワーが故障したり、隣人のエネルギッシュなセックスのせいで眠れなかったりなど、当然、あちらこちらでトラブルに見舞われる。だが全体的に見れば、エミリーは争い事とは無縁だ。『セックス・アンド・ザ・シティ(SATC)』を手がけたダレン・スターが全シリーズをとおしてエミリーに仕掛けたトラブルの数は、『SATC』のオープニング画面で主人公キャリー・ブラッドショーに降りかかるそれと比べるとかわいいものだ。
それなのに、笑えるくらい中身のない同作が公開から二週間で、なぜアメリカで3番目に人気のNetflix番組という地位に着いたのだろう? アメリカ人にはセンスがないからという理由はさておき、明確な答えがひとつある。
エミリーの世界には、しかめっ面(ムカついた)、八の字のような眉毛(困った)、思案顔(考え中)、キス顔(Instagram用)のような愛くるしい表情や肩をすくめるジェスチャーで払い除けることができない困難なんて存在しない。何かがうまくいかないとき、エミリーは新しい同僚たちに向かって声高に「セ・ラヴィ!(これも人生よね!)」と実際のフランス人はあまり言わない言葉を口にする。
ここまでストレスフリーな人物にありがちなことに、エミリーはどんな”学び”にも一切興味がない。フランス語教室に入学するものの、8話になっても話せるのは「ボンジュール」と「ヴー(あなた)」くらいだ(それでも、エミリーはノンストップのおしゃべりでフランス人の隣人や同僚を魅了する)。フランス人の上司のエレガンスを称賛する一方、上司の黒のオールインワンやエレガントなラップドレスをまねるのではなく、クレアーズ(訳注:カラフルな米カジュアル・アクセサリーブランド)のカタログをぶちまけたかのようなコーディネートで出社する(『SATC』のスタイリングを担当したパトリシア・フィールドが自らの名前を付したキッチュなブランドが大活躍)。エミリーは、一方的に届くランジェリーや無理矢理のキスといった年配の男性クライアントのセクハラをフランス人だからと受け入れる一方、同年代の男性に「アメリカ人のアソコ」が好きと言われると、愕然としてしまう。
スター製作陣に支えられた『エミリー、パリへ行く』は、往々にして%MCEPASTEBIN%と比較されがちだ。だが、実用的とは程遠いピンヒールでよろめきながら街を歩く女性の登場人物たちと、いたるところに隠された仕掛けを除き、『エミリー、パリへ行く』と同作のルーツと言われている『SATC』の共通点はあまりない。
エミリーの年齢を特定するのは困難だが、このファンタジーは、エミリーと同じミレニアル世代に極めて強い効果をもたらすだろう(鮮やかな色彩のミニスカートとビーチを想起させるふんわりとした定番ヘアスタイルが特徴のエミリーの推定年齢は、12歳以上~リアリティ番組『Real Housewife(原題)』の出演者以下と言ったところだろう)。エミリーの恋愛も複雑ではないものの、一応存在している——このドラマでは、セクシーな男性は誰もがエミリーの虜になるようだ。それは、コロナ禍のはるか前からささやかれていた、最近の若者はもうデートなんかしない、という残念なトレンドとは対照的だ。
さまざまな求婚者がいながら、エミリーは多かれ少なかれ、自立している。職場には友人を装う敵がふたりほどいて、新たに友達になった在仏米国人の生意気なミンディ(演:アシュリー・パーク)は、第2のサマンサにうってつけだ。ミンディは、白ワインのサンセールを「朝食用のワイン」と呼び、父の事業を引き継ぐために中国に帰国したら「メルケル首相みたいな服装をしないといけない」と嘆く。そんな彼女も、仕事と一目惚れを行ったり来たりするエミリーの狭い視野の端で生きている。
『エミリー、パリへ行く』には、現在の若者たちの複雑な生き方と働き方があまり描かれていない。毎度のごとくエミリーがいとも簡単にインフルエンサーになるように、同作の洞察は最初から最後まで使い捨てのSNSカルチャーの範疇を出ない。私たちは、数え切れないほどのフォロワーを抱える人々が「完璧な」自撮りを演出しようと何時間も費やすことを知っている。だがエミリーは、クロワッサンを食べています、エッフェル塔の前でアヒル口をしています、親友とおでこを合わせています、チーズバーガーを食べていますなど、できるだけありふれた写真を撮影しようとするのだ。そんなエミリーの「いいね!」と新しいフォロワー数は、国債よりも早いスピードで増えてゆく。
同作をInstagramの一種の化身(キレイだけど、見ていると感覚が麻痺してくる)とみなし、自分たちのアイデアはどれも天才的で、言うことはすべて正しく、成功が保証されていると信じるエミリーをミレニアル世代の化身と表現したい誘惑に駆られるのは事実だ。だが、エミリーはどちらかと言えば、ミレニアル世代の悲哀の解毒剤なのかもしれない——グレート・リセッション(訳注:2008年のリーマン・ショックに端を発するアメリカ国内の深刻な景気後退)、気候変動、深まる格差、そして壊滅的な被害をもたらしたパンデミックによって約束された未来が訪れなかった世代の防衛手段なのだ。
では、非ミレニアル世代が全10話を観るのはなぜか? ひょっとしたら、私たちはやり直しを望んでいるのかもしれない——前進が明るい未来につながると思っていたあの頃に。4年間の社会政治的な衰退によって相手を侮辱することが対話とみなされるようになったいま、誰も傷つけないことを目指す世界に生きるのは単純に良いことなのかもしれない。この夢のような風景は、ミレニアル世代だけのものではない。みんなでこのバカらしくも温かなハグに加わろうではないか。高級シャンパーニュを掛け合い、Boomerangで加工した動画をInstagramにアップしよう。明日の朝、現実の世界で目を覚ましたとしても、それが人生なのだ。
From Rolling Stone US