
絵画の勉強から学んだこと
1974年の春、ディランはカーネギーホールへと戻ってきた。1961年にコロンビアと契約を交わした数日後、自身初となる小さなリサイタルを開いた場所だ。だが彼をこの建物に呼び戻したものは音楽ではなかった。
彼が同所にやってきたのはノーマン・リーベンに教えを請うためだった。ロシア生まれの画家でユダヤ文化の研究者でもある彼が、会場の上、11階のスタジオで講座を開いていたのである。
輝かしき勝利の時間であっておかしくない時期であったにも関わらず、この頃ディランは芸術的な危機に直面していた。2月までには『プラネット・ウェイヴス』が自身初のナンバーワンアルバムとなり、ザ・バンドを従えての32日間に及ぶアリーナツアーも敢行、大成功を収めていた。だが本人が後にローリングストーン誌のジョナサン・コットに語ったところによれば、まるでごく初期の日々に後戻りし、劫火の中を手探りしているような気分が拭えなかったのだそうである。
「『ブロンド・オン・ブロンド』の時代を通じて、自分はずっと無意識のままやっているような状態だった。そんなある日、いよいよ中途半端になっていた光が消えた。その瞬間から、なんだか半ば記憶喪失みたいになってしまったんだよ」
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そこで彼はリーベンを探し出した。
リーベンの力を借り、ディランは自らを意識的な芸術家へと作り替えた。「あの人は描き方なんてほとんど教えてはくれないんだよ」。ディランは言う。「彼が示してくれるのは、頭と心と、そして目とを一体にするその方法だ――目を覗き込んで、こちらが何者であるかを教えてくれるのさ」
とりわけ重要だったのは視座と時間に関する考え方だった。決して物事を直線的に捕らえるということをしてこなかったディランが、キュビズムの唱えた多重視点の観点からの時間というものと、そして”昨日と今日と明日とを同じ一つの部屋にあらしめる”ような語りを構築する方法とを理解し始めたのだ。この結果として出来上がったアルバムの1曲目は、教室でディランの画布が呈していたある一色への過剰な依存傾向をレーベンが評した言葉から取られることとなった。
「青(ブルー)にこんがらがって」(Tangled Up in Blue)
エレン・バーンスタインとの新たな関係
ディランがこんがらがっていたのは芸術性の問題だけではなかった。『プラネット・ウェイヴス』とライブ作品『偉大なる復活』をデイヴィッド・ゲフィンのアサイラム・レーベルから発表した後、コロンビアへの復帰を画策するという一仕事をどうにかやりとげたばかりだったのだ。さらに重要なことには、12年に及んでいたサラ・ロウンズとの結婚生活が緊張を孕み出していた。
二人はブロモーターのビル・グラハムが主催していたパーティー会場から抜け出すと、彼女の家に行ってそこで徹夜でバックギャモンに興じた。
バーンスタインは再びディランから連絡が来るものかどうかについては半信半疑だった。けれどほどなくマリブの自宅に来ないかという誘いを受けた。夏にはミネソタの農場にも招待された。ミネアポリスの西にある、クロウ川沿いの地所である。ディランの弟のデイヴィッド・ジマーマンが表の道路沿いの場所に家を持っていた。さらに奥に位置したもう一軒で、ディランは午前中のいっぱいを赤いノートに歌詞を書き付けることに費やしていた。
バーンスタインはクリントン・ヘイリンに以下のように語っている。
「ディランが姿を見せるのは大体ちょうど正午くらいで、階下に降りてきたかと思うと、まだ日のあるうちから書き上げたものを私に見せてくれました。詞はノートに書かれていたのですけれど、彼は演奏し、どう思うかと訊くのです。
どうやらこうした歌たちのほとんどが今なお変化をやめようとはしていないようだ。以後何年もの長きにわたって、演奏やレコードへの収録のその都度にこれらは、歌詞や登場人物を変え、背景を変え、視座を変えている。まるでディランはリーベンの教えをそのまま自分の聴衆たちに伝授したいとでも考えているかのようだ。
「止まらないんだ」。1991年にはディラン自身がポール・ゾロに「愚かな風」(Idiot Wind)の異なるヴァージョンについて訊かれ、このように答えている。「作品が今なお、たゆまぬ前進を続けているようなものなのさ」
友人ミュージシャンが振り返る「奇妙な体験」
赤いノートが17曲分ほどの歌詞で埋まると、ディランは両海岸にわたって友人たちの前でこれを披露することでさらなる彫琢を施した。7月22日にはセントポールでのクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのコンサートの後に、ホテルの一室で、スティーヴン・スティルスとベーシストのティム・ドラモンドを前に8曲か9曲を演奏して見せている。
「僕らはツインベッドに腰を下ろしていた」
ドラモンドはローリングストーン誌にこう語っている。
「ああまったく、どれほどすごかったかなんてとても言葉にはできないよ」
しかしスティルスはそこまで感動はしなかったようだ。グラハム・ナッシュによれば、ディランが去った後にスティルスはこう言ったらしい。
8月にバーンスタインを伴ってのオークランドでの滞在中に、ディランはさらに多くの『血の轍』の収録曲を、今度はマイク・ブルームフィールドに聴かせている。この時を遡ること9年前にもブルームフィールドは、やはりディラン本人から、レコーディングに先立って『追憶のハイウェイ61』の曲の幾つかを教えてもらっていた。しかしこの時はまるで違う体験となった。ディランは間を開けることも一切せず断固として曲を続けた。もちろんテープに録ることは許さなかったし、覚えるとか追いかけていくといった猶予も与えなかった。
「ただ次々聴かされるんだ。途方に暮れたよ」
ブルームフィールドはこのように言っている。この段階では全曲がオープンDチューニングで演奏されていたらしい。
「そのうち全部が同じ曲に聴こえ出した。キーも同じでどれもが長かったからね。僕の人生でも最も奇妙な体験の一つだった」
消化不良のレコーディング
9月までにはディランとバーンスタインはニューヨークにいた。いよいよアルバムの最初のレコーディングが実施されることになっていたのだ。
「彼はユダヤ敬虔主義者たちが集まっている界隈にいる友人を訪ねたがったの。たぶんクラウンハイツだったと思う」。バーンスタインはそう記憶している。「裏庭に行ってその彼の友人たちの前で演奏したのよ。敬虔主義者のユダヤ人の一群」
9月の半ばにはディランのレコーディングへの準備も整った。セッションはマンハッタンのミッドタウンにあるA&Rスタジオで開始された。以前はコロンビアのAスタジオだったところで、彼が最初の6枚のアルバムを制作した場所でもある。9月16日の午後、ディランはプロデューサーのフィル・ラモーンと会い、10曲を聴かせている。この時ラモーンが録音した音源はブートレッグにもなったことがない。それでもこれを聴いたことがあるという者たちに寄れば、生々しくも剥き出しで、実際完璧だったらしい。アルバムに収録された最終的なトラックにも勝っているものも複数あったという。
この複雑さというのはただちに加味され出した。ラモーンはまずエリック・ワイズバーグの肩を叩いた。弦のあるものならなんでもござれという人物で、ちょうどこの前年に映画『脱出』のサウンドトラックとして録音した「デュアリング・バンジョー」がビルボードのホット100で2位にまで昇り詰め、まさに金脈を掘り当てたばかりだった。夕方の6時にワイズバーグと『脱出』のバンドがやってきて、レコーディングが始まった。メンバーは皆熟練したスタジオミュージシャンたちで、開始早々からもう全員が、ディランについていくという今回の課役に不満を募らせ出していた。彼は一度自分自身を、半ば冗談めかしてではあるが”空中ブランコ乗り”にも準えたことがあるような人物なのである。
ラモーンはこの日の早い時間に録音していたディランのソロによるテイクを彼らに聴かせることもしなかったうえ、楽譜もなかった。代わりにディランが曲を示すのだ。バンドは大急ぎでコードを書き留めた。しかし通しが始まると、メンバーはただ演奏するディランの手元だけを見つめ続けることを強いられた。進むに連れ彼がどんどんコードを変えていってしまうからだ。
「彼はその一瞬の性急さみたいなものを求めていた――間違いがあるとかないとかにはおかまいなしだ」。ギタリストのチャーリー・ブラウンが作家アンディ・ギルにこう語っている。「でも一方の僕らの方は、正しく演ることに慣れていた」
しかしこの夜ばかりはそういう訳にはいかなかった。真夜中までの6時間をかけ、6曲かそれ以上をそれぞれ30テイクほどこなした。このフルバンドによるトラックもまたブートレッグ化されてはいないのだが、これらを耳にしたことのある者たちは、ディランの楽曲や歌の持つ感情的な生々しさと、洗練され過ぎた演奏とがただ衝突し、残念な仕上がりにしかなっていないと形容している。
翌日ディランはベーシストのトニー・ブラウンだけを呼び戻した。ほかの『脱出』バンドの面々はなしだ。単身やってきたブラウンは、緊張どころの話ではなかった。しかし彼にも考えがあった。チャーリー・マッコイの疾走感に自らを同調させつつも、演奏を『ジョン・ウェズリー・ハーディング』の仕上がりに寄せていくつもりだったのだ。他の多くの人々と同様、彼もまた、ディランの真に偉大と呼べるアルバムは同作が最後だったと信じていたのだ。それからの3日間、このブラウンをパートナーにディランは、まだ最終型ではなかったにせよ、各収録曲を一応の完成にまで追い込んだ。最初の夜には『追憶のハイウェイ61』にも参加していたポール・グリフィンをオルガンに加え「きみは大きな存在」(Youre a Big Girl Now)が仕上がった。2日目の夜はディランとブラウンが一対一で「おれはさびしくなるよ」(Youre Gonna Make Me Lonesome When You Go)と「嵐からの隠れ場所」(Shelter from the Storm)を完成させた。3番目の夜にはグリフィンが戻り、「愚かな風」を含むさらに4曲をレコーディングした。かくして9月25日、いよいよ『血の轍』の試聴盤を手にディランは去った。
地元のミュージシャンと録り直し
赤いノートに曲を書きためていた時と同様に、ディランはこれをほかの人間に聴かせて彼らの反応を見極めた。そのうちの一人は弟のデイヴィッドで、12月にディランがミネアポリスに戻ってきた時にこれを聴かされた。デイヴィッドは仕上がりの苛酷なまでの完璧さに心打たれもしたのだが、同時にディランの各曲に最善を求める強い気持ちに再び火をつけてしまいもした。
「デイヴィッドは、このままではラジオでかかりまくったり、世間をあっと言わせたりすることは難しいんじゃないかと考えたんだ」
当時を振り返って、ケヴィン・オデガードはそのように語っている。当時のオデガードは地元のシンガーソングライターで、デイヴィッドにマネージメントを任せていた。ディラン本人ともそれまでに何度か会っていた。
「俺らの仲間うちってのはけっこう近しかったんだよ」。彼はそうも言っている。
オデガードは列車の制動手として生計を立てていた。クリスマスの終わった木曜の夜、彼はデイヴィッドからの電話を受けた。あるギターを探しているとのことだった。マーティンの1937年製の、0042という型番だ。オデガードが捜索を手伝っていくうち、幾つかの会話の中からその理由も浮かび上がってきた。ディランがミネアポリスのサウンド80というスタジオを使い、幾つかの曲をレコーディングしなおそうとしていたのだ。
ほかに三人のミュージシャンにお声がかかった。鍵盤のグレッグ・インホファーとベースのビリー・ピーターソン、それにドラムのビリー・バーグだ。フォークよりはむしろジャズよりの面子である。12月27日、彼らはサウンド80で、オデガードとそれから、例のギターが見つかった店の店主だったクリス・ウェバーとに合流した。
「本当にボブ・ディランが同じ部屋に入ってきた時の衝撃といったらなかったよ」
これはオデガードの弁である。それでも、気安さもすぐに明らかになった。
「ボブってのは二人いるんだ。映画に出てくるようなボブ・ディランと、それからミネソタ男のロバート・ジマーマンだ。平気でそこらにいるようなやつ。その日出てきたのはそっちの方だったんだ」
ウェバーがディランに話しかけ、ギタリストに抜擢されてバンドに曲を教え始めた。最初は「愚かな風」だった。ニューヨークでのテイクと比べればはっきりと異質な、もっと辛辣なヴァージョンだった。
「彼は火がついたみたいだったよ」オデガードは言う。「『追憶のハイウェイ61』の怒りのエネルギーが宙に漲っていた」
テイク4まで録り終えたところでディランは再生を聴き、自分でハモンドB3のオルガンを弾いてニュアンスをつけ足した。その次には「君は大きな存在」が、こちらは一発録りで続き、作業はその夜のうちに収まった。
絶え間なく更新される一枚
ディランは明らかに喜んでいた。月曜日には再び同じセッションメンバーが招集されたが、物事はさらに素早く進んだ。オデガードの記憶によれば、ディランは夜中ずっと赤いノートに書いてあった歌詞を練りなおし、ピンク色の電話用のメモに書き留めていったのだそうである。
「彼はぎりぎりの直前まで歌詞を走り書きしていたよ」オデガードは証言する。「そしてクリスとブースでちょこちょこっと仕事して、二人が出てきたところで全員で演るんだ」
最初に仕上がったのは「ブルーにこんがらがって」だった。オデガードも、オープンDチューニングによるニューヨークのヴァージョンのままでは生気に欠けると感じたようだ。
「なんか、這いつくばってた」彼は言う。「退屈で、思わず、こいつには気合い入れてやらねえとな、とか口にしてたよ。尻叩こうぜってな」
キーをAに変え彼らは同曲をかき鳴らした。7小節目か8小節目でディランも頷き、こちらも一発で録音された。
「全員静かになったよ。ボブも含めてね」オデガードは言う。「みんな自分の靴を見てた。ホントに圧倒されちまったんだな」
「リリー、ローズマリーとハートのジャック」(Lily, Rosemary and the Jack of Hearts)と「彼女にあったら、よろしくと」(If You See Her, Say Hello)も、やはりそれぞれ一発録りでこれに続いた。ディランには自分が求めている音が正確にわかっていたから、「彼女にあったら~」にはギターとマンドリンとをオーバーダブで自ら重ねた。二晩にわたった計8時間ほどの作業で彼らは5曲を完成させた。
「終わった後ディランは、駐車場でビリー・ピーターソンを捕まえて、興奮気味にいろいろまくし立てていたよ」オデガードはこうも続けた。「あそこで俺たちがやったことがわかるか? どれくらい上手く成し遂げたかってことだ。あれはただ、すごかったんだ」
ディランはコロンビアと再契約を交わしていた訳だが、同社はすでにジャケットの印刷に入っていた。作品はもう12月には終わっていたものと考えていたのだ。新規に録音されたテイクは、アルバムに収録されることとはなったが、クレジットには反映されなかったし、その後改訂されることもなかった。本作はディランの最高傑作の一つでもあるが、なお絶え間なく更新されることを要求し続けている一枚でもあるのである。
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