ローリングストーン誌ライターのロブ・シェフィールドが、初代ジェームズ・ボンド役を演じたショーン・コネリーを追悼。キングにもなれたコネリーは、生涯にわたってその魅力を失わなかった。


史上最高の偉人のひとりである故ショーン・コネリーの死を偲び、献杯しよう。伝説的な俳優である英北部スコットランド出身のコネリーは、今年の夏に90歳を迎えたものの、彼の死はいまでも信じられないほど衝撃的だ。なぜなら、コネリーは永遠の存在のような気がしていたから——他のスターたちより高い場所にそびえ、彼らを照らすオークの樹のような存在だった。コネリーは、名声にはまったく興味を持たず、固い強面が特徴の映画俳優のなかでももっともカリスマ性に富んだ人物で、誰にも媚びなかった。コネリーにはシンプルなルールがあり、生涯それを守った。1983年の本誌の特集でコネリーは次のように語っている。「口は閉じて、表玄関は清潔に保つこと。これが教訓だ」。

コネリーは、まさに別世界から来た人物だった。第二次世界大戦期の飢えを経験して成長した最後の世代の俳優のひとりで、スコットランドの首都エディンバラの労働者階級の家族の息子として、屋内にトイレのない都会のスラム街で幼少期を送った。13歳のときに学校を中退し、次々と汚い仕事をこなす。そんなコネリーは、英国の上流階級のエレガンスの極みともいえるジェームズ・ボンドを演じて有名になった。
どんなに陳腐な映画でも、コネリーを起用すれば、ほんの少し威厳のある作品になった。さらにコネリーは、『フライングハイ』(1980)を手がけた映画プロデューサーのジェリー・ザッカーがメガホンを取った『トゥルーナイト』という1995年のファンタジードラマでアーサー王を演じ切った。同作では、騎士ランスロット役をリチャード・ギアが、グィネヴィア王妃役をジュリア・オーモンドが演じていた。『トゥルーナイト』はかなりひどい映画かもしれないが、コネリーは一見の価値があった。それに彼は、自らの神秘性を傷つけずに守り抜いたようだ。コネリーを見るたび、最後の真の映画スターを見ている気がした。

1961年の『007/ドクター・ノオ』から1971年の『007/ダイヤモンドは永遠に』にいたるまで、そして1983年に『007/ネバーセイ・ネバーアゲイン』で復帰するまで、コネリーは決定版ジェームズ・ボンドとして絶大な人気を博した。コネリーは、殺しのライセンスを持つ諜報員ジェームズ・ボンドを演じる際、颯爽としているものの、笑顔は見せない無愛想さを自ら取り入れた。コネリー扮するボンドは、ブラックタイ姿の酒盛りや女遊びには何の魅力も感じていないようで、英国と女王陛下のために任務にあたっていた。歴代ボンドのなかでもコネリーのボンドはもっとも気難しく、気分の浮き沈みが激しく、顔を歪めながら、仕方なしにジョークを飛ばしていた。その典型例は、『007/ロシアより愛をこめて』(1963)のワンシーンだ。上流階級の英国家庭で育ったという仲間のエージェントが実はKGBの暗殺者であると知ったボンドは、驚いたと言わんばかりに目玉を天に向けて上げ、「魚料理と赤ワイン——あのときに気づくべきだった」と言う。


>>関連記事:007シリーズ屈指のセクシーなボンドガール、オナー・ブラックマン死去

イートン校とサンドハースト王立陸軍士官学校という名門出身で、エリート階級の家庭の息子であるジェームズ・ボンドを、スコットランドの貧しいアパート出身のコネリーが演じるというのは皮肉なことだ。ケーリー・グラントをはじめ、英国紳士役で人気を博した多くの俳優同様、路上でさまざまな仕事を経験したコネリーは、カメラの前で自身の魅力を発揮する術を学ぶ。体には、「Scotland Forever」のタトゥーがずっと刻まれていた。これは、1940年代に16歳で英国海軍に入隊した際に彫られたもので、当時は、まっとうな映画俳優がタトゥーをするなんて考えられない時代だった。「戦争が始まったため、教育を受ける機会をすべて失ってしまった」とコネリーは話していた。「何か仕事をするにも私には何の資格もなく、それでなくてもスコットランドの失業率は極めて高かったから、来る仕事は拒まなかった。牛乳配達、肉体労働、鉄曲げ、セメントづくり……ありとあらゆる仕事をした」。

コネリーは、ボディビルと芝居をはじめ(彼にとって両者は無関係ではなかった)、ミスター・ユニバース・コンテスト(3位に入賞)に参加するため、ロンドンに引っ越した。俳優としてブレイクするきっかけは、10歳年上の女優ラナ・ターナーの目に留まり、彼女の希望でドタバタのメロドラマ『Another Time, Another Place(原題)』(1958)の恋人役に抜擢されたことだった(コネリーは、ターナーのギャングのボーイフレンドの襲撃を恐れ、ロサンゼルスを離れた)。さらにコネリーは、サイコな小人を描いた、恐怖の子ども向けディズニー映画『ダービーおじさんと不思議な小人たち』(1959)にも出演した。

しかしながら、コネリーは『007/ドクター・ノオ』で映画スターとしての地位をようやく手に入れた。同作で浜辺の女神のような初代ボンドガールのハニー・ライダーを演じたのは、ウルスラ・アンドレスだ。
カジノのシーンで「ボンド、ジェームズ・ボンド」と名乗るボンドの無愛想さは、『007/ゴールドフィンガー』(1964)から『007/サンダーボール作戦』(1965)、さらには『007は二度死ぬ』(1967)(劇中でコネリーは、”ザ・ロック”ことドウェイン・ジョンソンのプロレスラーの実の祖父をボコボコにする)から『007/ダイヤモンドは永遠に』(1971)(同作のボンドガールは、実生活ではヘンリー・キッシンジャー元米国務長官の恋人)にいたるまで、007シリーズとともにますますひどくなるばかりだ。

現実世界とファンタジーがまったく相入れないなか、ボンドをここまで本物らしく演じることができたのは、コネリーだけだ。ソ連との冷戦に英国が加勢していたなんて世間が知らないなか、英国の諜報員が冷戦を戦うという姿には、どこか滑稽なものがあった(英国人が米東海岸のコネチカット州を侵略!?)。国家の偉大さを証明する主な要素がポップスターの輩出とミニスカートの発明になっていた当時、ボンドはもはや存在しない大英帝国の栄誉を守る最後の砦だったのだ。それにボンドは、自分が油断した瞬間、あるいは「ステアではなくシェイクのマティーニ」を楽しもうとした瞬間にソ連の軍隊がクロイドン(訳注:ロンドン南部にある自治区)、シャフツベリー(訳注:ロンドンから車で2時間ほどの田舎町)、ウェイクフィールド(訳注:イングランド北部の都市)に流れ込むと信じていたようだ。007というボンドのコードネームには、そんなジョークが込められていた——同じような妄想に取り憑かれた、少なくとも6人が世界中を駆けずり回っているというジョークが。

ショーン・コネリーは、007役を「フランケンシュタイン博士が生み出した怪物」と表現し、そのイメージから逃れるために必死に戦った。「私は、25歳から俳優をしている」とコネリーは本誌に話した。「だがメディアは、運良くタキシード姿の役に抜擢され、ウォッカマティーニをミックスしはじめた男というイメージを私に貼り付けた。当然ながら、これはまったくのデタラメだ。私はテレビや演劇はもちろん、ありとあらゆることをしてきた。だが、通りから偶然この世界に足を踏み入れた人物というイメージを貼り付けるほうがドラマチックだったのだ」。
本物の俳優としての力を証明するため、——ティッピ・ヘドレンと主演したヒッチコック監督の1964年のスリラー『マーニー』をチェック——コネリーはボンド役を離れ、さらなるチャレンジに挑んだ。ボンドとして残りの人生を歩むこともできただろうに、彼は本当の自分を見出したのだ。

1970年代半ば、彼は文字通り「コネリー、ショーン・コネリー」となった。きっかけは、中年のならず者の冒険を描いた3部作、『王になろうとした男』(1975)、『風とライオン』(1975)、『ロビンとマリアン』(1976)だった。コネリーは、007で使用していたカツラをやめ、カリスマ性だけを強めていった。米映画評論家のポーリーン・ケイルは「髪がないことは、もはや償うべき欠点ではない。コネリーが永遠に変えてしまったのだから」と綴った。

40代になると、コネリーは突如としていつになくより大きく、騒々しく、堂々とするようになった。感動作『ロビンとマリアン』では、疲れ切ったロビン・フッドを演じ、シャーウッドの森でオードリー・ヘップバーン扮するマリアン姫と再会を果たした。同作でコネリーはキャリア史上もっとも強烈な演技を披露し、ロビン・フッド役は生涯の当たり役となった。英作家ラドヤード・キプリングの作品を映画化した『王になろうとした男』では、実生活でも友人のマイケル・ケインとともに1880年代のインドを舞台に、ふたりのペテン師を演じた。互いのタバコに火をつけたり、行進したりしながら、軍隊を利用して小国を乗っ取り、王として君臨しようと企むふたりの犯罪者を完璧に演じた。
コネリーが演じたダニー・ドレイボットは、犯罪者のなかでももっとも危険なタイプだ。なぜなら彼は、自分がついた嘘にさえ惚れ込んでしまう謎めいた悪党なのだから。

これらの作品はヒットしなかったものの、のちに私たちが知る大御所俳優というコネリー像を打ち立てた。それ以来、コネリーは引く手数多の人気俳優となり、良作駄作にかかわらず、さまざまな作品に出演した。『ハイランダー悪魔の戦士』(1986)、『バンデットQ』(1981)、『さらばキューバ』(1979)、『アウトランド』(1981)、『ザ・ロック』(1996)、『未来惑星ザルドス』(ディストピアを描いた1974年の映画で、「私は未来を見たが、それは機能していない」というセリフが有名)、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989)(同作では、年齢差わずか12歳のハリソン・フォードの父親役を演じた)。『アンタッチャブル』(1987)では、活気とユーモアあふれるシニカルなシカゴの警官を演じてアカデミー賞助演男優賞を受賞。もうすぐ還暦というところで、コネリーは初めてボンドを超えた。007を出し抜いた唯一の人物がショーン・コネリーだったわけだ。

>>関連記事:「私たちのヒーローだった」アンディ・ガルシア、ショーン・コネリーを追悼

コネリーは数え切れないほどのB級映画にも出演したが、いつも自分らしくあり続けた。彼にはどんなときも、クロスビー・スティルス&ナッシュと共演していた頃のニール・ヤングの「一緒にツアーは回らないけど、ライブには姿を現す」的な威勢の良さがあった。観たことのある作品にはほぼ必ず出演しており、いつも特徴的な重々しさを見せてくれた。1993年の見事なまでに滑稽なクライムスリラー『ライジング・サン』では、ウェズリー・スナイプスとタッグを組み、日本の暴力団に挑んだ。
劇中では、日本文化の洗練さについてスナイプスに講義をしている。1999年の美術強盗を描いた『エントラップメント』では、窃盗団の温厚な長を演じ(コネリー主演作にしかあり得ない役柄)、『007は二度死ぬ』と『007/ダイヤモンドは永遠に』の間に生まれたキャサリン・ゼタ=ジョーンズと共演した。コネリーのように自分に自信のない俳優がこの手の作品に出演すると、率直に滑稽になってしまう。それはセルフパロディ的だったり、観ている人を悲しい気分にしたりする。だが、コネリーが自分を見失うことはなかった。

コメディアンのダレル・ハモンドは、米人気番組『サタデー・ナイト・ライブ(通称SNL)』恒例の「Celebrity Jeopardy」というコーナーでコネリーのカリスマ性をとらえ、アレックス・トレベック的クイズ司会者の俳優ウィル・フェレルをいじった。だが、フェレルのほうが一枚上手で、コネリーのモノマネを主演作『Anchorman(原題)』で自ら演じたロン・バーガンディー役のモノマネに変え、「Great Odins raven!」や「By the beard of Zeus!」のようなセリフを叫んだ(ここでフェレルは、『王になろうとした男』のお気に入りのセリフである「Gods holy trousers!」のパロディを披露)。

相当な物議を醸した後——というのもコネリーは、スコットランドに対する愛国心を公言していたから——コネリーは、2000年にエリザベス女王からナイト爵位を授与された。2003年の『リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い』が遺作となる。コネリーがジョークのネタになることはなく、彼は決して滑稽にもならず、ミスキャストという罠にもはまらなかった。プライバシーを徹底して守り、大のゴルフ好きであるコネリーは、意外にも45年間ひとりの女性だけを妻とした。ユーモアのセンスはもとより、気難し屋特有の独立心を最期まで失わなかった。彼のような俳優は、もう現れないだろう。さあ、ショーン・コネリーに献杯しよう——ステアではなく、シェイクで。
編集部おすすめ