史上最悪のならずもの国家による、企業家のセルフヘルプ的ロジックというダークなテーマを扱った『ワンダーウーマン 1984』(日本公開:12月18日~)で描かれる悪事は、まさに1980年代の象徴だ。

パティ・ジェンキンス監督の『ワンダーウーマン 1984』のオープニングシーンはひとつの教訓である。
成功者への近道も、他人を踏み台にしてズルをすることも、結局はなんのためにもならない。すべては勝者不在の状況なのだ。そしてこれは、この時点では子どもで、女性が支配するセミッシラ島で暮らしている、ダイアナ・プリンスが私たちの女神・救世主ワンダーウーマンになる前に学ぶ、十分すぎるほど強固な教訓だ。ある大会でやや自信過剰になったダイアナは、馬から振り落とされるものの、賢い方法を見つけて試合に復帰する。ここであなたは、素早い思考と機転を利かすことが重要な教訓として称えられていると思うかもしれない。だが、代わりにダイアナは叱責される。
正しく、より困難な方法というまっすぐな道を進め——さもなければ、道徳的にいつも遅れを取ることになってしまう。『ワンダーウーマン 1984』で徐々に姿を現す悪は、他人に適応されたときにこの教訓の価値をもう少し明確に示してくれる……。だが、半神半人のダイアナにとっての困難な道とはいったい何だろう? 彼女たちにはいつも勝算があるのだから。たしかに、情け深い存在として描くという手はある。そうでもしなければ、私たち普通の人間はお手上げだ。でも、彼女たちの独創性と機知にブレーキをかけてしまうのはいかがのものか。


そもそも、ワンダーウーマンにブレーキをかけるのはなぜか? ドラマチックなカオスと込み上げてくる強い想い、さらには複雑な考古学的悪事と闘う『ワンダーウーマン 1984』は、多くの点において前作よりはるかに野心的かつオープンな作品だ。だが、ガル・ガドットがふたたび演じているダイアナ・プリンスは、前作よりやや単純で、明確な目的を持っており、ただただ高潔であるような印象を与える。それによって2時間半という上映時間がもたらすありとあらゆる興奮が、たとえスケールが拡大しても、どことなく制限されたもののように感じられるのだ。呪われた古代物体、マックスウェル・ロード(ペドロ・パスカルが意図的に冴えない演技を披露)という誇大妄想狂、精神的に不安定で頻繁にハラスメントを受けている地質学者のバーバラ・ミネルヴァ(クリステン・ウィグが好演)、過去からの一撃などによって同作の世界は拡大していく。だが、それと並行してダイアナ自身は小さくなっていくようだ。

>>関連記事:『アベンジャーズ/エンドゲーム』とスーパーヒーロー映画に見る<継承>の精神

ここでは、あらすじはスキップしよう。
『ワンダーウーマン 1984』は、スーパーヒーロー物の続編のあるべき形として、前作よりも巧みにつくられた、より興味深い作品である。と前置きした後で、ここからが本題だ。あなたは、クライマックスでバトルが待ち受けていることはわかっている(前作は、デヴィッド・シューリスが登場するアクションシーンがそうあるべきであるように、魅力的だが大惨事に終わっていることは間違いない)。オーディエンスを飽きさせないため、クライマックス以外でもバトルが繰り広げられることもわかっている。ジェンキンス監督が手がけたふたつの『ワンダーウーマン』は、ダイアナの性格のちょっとした装飾音的なもののほうに関心があるような印象を与える。だが続編の問題点は、こうしたものが少ないというよりは、新たな側面が多少加わった点にある。
両作のアクションシーンはたしかに魅力的だ。しかし、本質はワンダーウーマンという”女性”に対するジェンキンス監督の関心にあるような印象を終始受けるのだ。例えば、同作のアクションシーンは、昇華されたアイコンを演じるガドットのうらやむべき才能や、「私の叫びを聞きなさい!」と言わんばかりの倫理観云々と比べると、バトルの詳細(スーパーヒーロー物にとっては長年の問題)ゆえに記憶に残らない。実際、映画スターにできる唯一のことと言えば、アクションシーン中もカッコよくあることくらいだ。『ワンダーウーマン 1984』は、劇中で回想される世界大戦の残骸を駆け抜けるスローモーションのアクションシーンと常に関連付けて語られるだろう。このイメージは十分機能しており、ひどくおどけているのにやたらキャッチーなテーマ曲のせいでワクワク感も薄れていない。


良質なスーパーヒーロー物の超英雄的資質を優れたものにしているのは、アクション映画ならではの手堅いおどけの要素だ。それは、実写化の重荷によって足を引っ張られることもない。同作は、すべての視線が自分に注がれていることをヒロインが自覚していて、劇中のバトルが何かを破壊したり、”男性”をボコボコにしたりするための計画あるいは言い訳ではなく、ガドットの正真正銘の映画スターとしての資質を誇示するためのチャンスのように思えてならない。こうしたものはすべて、前作のクライマックスの混乱によってなんとなく崩壊してしまった。それでも前作の地獄のようなバトルの第三幕は、ダイアナが初めてアイスクリームを食べる場面や、初めて男性を見かけるシーンほど記憶に残らない。ロマンチックな伏線をはじめ(ネタバレは控えます)、続編のストーリーはこうした要素の大半を取り除いてしまった。
『ワンダーウーマン 1984』の特徴を挙げるとすれば、同作の中核にある諸刃の剣的な約束(ここでもネタバレは控えます)という、立ち向かうべき悪の本質に人々が気づく遅さだ。この点では、考えさせられる作品である。価値があるかはさておき、噛みしめるべきことはたくさんある。

ジェンキンス監督とガドットが思い描いたワンダーウーマンは、当然ながら、世界を救いたいと思っている。その一方、肩にのしかかる重荷に耐えるため、できる限り強くならなければいけない近年のバージョンの神のようなスーパーマンとは異なり、ワンダーウーマンは、そこまで力にこだわっていない。それは、いまは亡き英雄的パイロットのスティーブ・トレバーに恋をしたせいだ。私たちの世界の”リアルな”半神半人は、クラーク・ケントではなく、ダイアナ・プリンスである。だが、前作の可笑しくも皮肉な点は、ダイアナだってクラークと同じくらい異質な存在だということだ。というのも、不死身の彼女は、女性が支配する世界で育ったのだから。前作は、そこに起因するユーモラスなナイーブさを強調した。続編のダイアナは、執拗につきまとう同僚を手慣れた様子でぶっきらぼうにさらりとかわす。数年間で彼女はいろんなことを見てきたのだ——愛するスティーブの姿以外は。

ノスタルジックなコンテンツがあふれているいま、1980年代が舞台の映画はオーディエンスのために若干やりすぎるきらいがある。レトロな衣装による悪ふざけ、派手なニードルドロップ(訳注:映画のBGMに既存の楽曲を使用すること)、スピルバーグ監督をはじめ、当時を象徴するポップカルチャーに対する数多のオマージュ、X世代のポップ嗜好を浴びる喜びを感じさせることで観る人をハッピーな気分にしてくれる描写(あるいはあからさまな拝借)などがそうだ。『ワンダーウーマン 1984』は、衣装が誘う笑い(ダイアナは例外——どんな時代でもタイムレスなファッションをまとえるのは不死身の存在だけ)をいかんなく見せつけ、お決まりのギャグも巧みに盛り込まれている。

だが、私たちが『ワンダーウーマン 1984』から感じる、1980年時代とのより濃密なつながりは——これは筆者にとって意外だったのだが——世界と政治だ。今後の解説記事などは、同作がいかに政治的であるかを説き、その受け止め方を教えてくれるに違いない。同作の悪役は”オイルマン”——というよりは、必死で石油企業家になろうとする男だ。1980年代は、ニューヨーク・タイムズ紙の記事がかつて”石油の過剰供給”と呼んだ時代である。要するに、悪役マックスウェル・ロードは、誰もがオイルマンになった時代に自分もそうなりたいと思っている。そんなマックスウェルは、手腕に長けているようには見えない。彼はテレビタレントで、大人になりきれない残念な性格の持ち主で、怪しげな物を売りつけてくるセールスマンのように調子の良い態度を取る——トランプ氏を思い浮かべる人がいるかもしれない。かなり説得力のあるこの特殊なつながりは、同作が中東へと迂回することによって生じる全体的な不自然さと、同地で起きるいくつかのバトルと波乱の歴史と比べると、あまり重要ではない。たとえあなたが『ワンダーウーマン 1984』は良作だと思ったとしても、こうした点が原因で同作は奇妙な映画に仕上がっている。だがそれは、実際立ち止まって考えてみなければ気づかないことだ。

>>『ブラックパンサー』監督、故チャドウィック・ボーズマンを追悼「ずっと見守ってくれる」

当然ながら、人間は立ち止まって考える習性を持つ生き物ではない。すべては障害物競争のように進んでいく。カイロで起きた紛争やそれによる混乱に対して登場人物たちが何らかの感情を抱いたとしても、彼らはそれを口にしない。この点で同作が浮き彫りにする現実社会の問題は、単なる背景ではないものの、登場人物にまったくと言っていいほど影響を与えないため、なぜあえて社会問題をここで持ってきたのだろう? とオーディエンスが頭をひねるのは自然なことだ。先祖伝来の土地の所有権が主張される。賽ならぬガントレットが投げられたのだ。少しはこの問題に触れてもいいのではないだろうか? ダメなら仕方ない。同作でもっとも重要なのは、待ち受ける核戦争に対する不安だ。核は普遍的な存在である——誰もが関連を見出せる恐怖なのだから。その他のありとあらゆるトラブルは、すべて雑音に過ぎない。

『ワンダーウーマン 1984』は、重要なところでは堅実で、ファンの期待に応えて感傷的だ。それと同様に、チャーミングと言えるほど十分な笑いも備えている。言うまでもなく、脚本は時折クレバーだ。同作で描かれるあらゆる悪事の本質は、史上最悪のならずもの国家による、企業家のセルフヘルプ的ロジックというダークなテーマのように思われる。それはまるで、『The Power of Positive Thinking(ポジティブシンキングの力)』という書籍が上映中ずっと”権力は腐敗を生む……”というロジックに頭突きをくらわせているのを見るようなものだ。これらはすべて、ウィグ扮するバーバラ・ミネルヴァの運命ほど強烈な印象は与えない。優秀すぎるバーバラは、間違った理由から実力を認めてもらえないものの、これまた間違った理由で注目を集めてしまう。バーバラの思考は私たちにも総じて理解できるものだ。同作が挑発的なパンチを繰り出すのは、まさにここなのだ。その他は、かならずしも納得できるとは限らない。演技は終始優れているとは言い難いし、クライマックスは若干長すぎる。ありがたいことに、ワンダーウーマンというヒロインに対するキャストと映画監督のむき出しの愛情のおかげで若干の魂は感じられる。これがすべてというわけではないが、だからといって無意味なことでもない。

ワンダーウーマン 1984』は、米現地時間12月25日からHBO Maxにて配信開始、日本では、全米公開に先駆けて12月18日から劇場公開中だ。

From Rolling Stone US.