日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年4月の特集は「最新音楽本2022」。
田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのはダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドの「堕天使ロック」。1980年に自主制作盤で発売になったライブアルバム『海賊盤~LIVE FIGHTING 80S』からお聴きいただいております。CDになっていないのでアナログ盤のレコードからお送りしております。この曲のオリジナルは言うまでもなく、ジャックスです。今日の前テーマはこの曲です。
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堕天使ロック / ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド
今月2022年4月の特集は「最新音楽本2022」。今週は3週目です。去年末にディスク・ユニオンから発売になりました『横浜の"ロック"ステーション TVKの挑戦』という本です。
兼田達矢:どうもこんばんは。よろしくお願いします。
田家:電子書籍の発行とかもやっているんですね(笑)。
兼田:ええ、まあマイペースでやっております。
田家:1人でですか?
兼田:デザイナーの方と2人だけで。
田家:今日は兼田さんにこの本を語るときに思い出のある曲を選んでいただきました。この「堕天使ロック」が入っていて、「え! これが選ばれてる!」と思ったりしたのですが、思い入れがあるんでしょうか?
兼田:他のバンドもそうなんですけど、まずはアーティストで選んだんです。ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドについては、僕はずっと歌謡曲が好きで、ジュリーが大好きで聴いていたんですけど、そこに歌謡曲シーンの中でロック的なヒット曲を歌うバンドとしてダウン・タウンが出てきて。しかも宇崎さんはそもそもブルース、ジャズがお好きな方だと後ほど知るんですけど、そういうものに道を開いてくれた存在なんです。同時に日本ロックの脈絡みたいなものも繋がっているバンドだと思って、だからジャックスのカバーがいいかなと思いました。
田家:自主制作盤は「ファイティング80s」のライブ盤なわけで、このアルバムの話も追々お訊きしていこうと思うんですけども、兼田さんは兵庫県の姫路生まれなんでしょ?
兼田:18歳までそこにおりました。
田家:お書きになったTVKは横浜の放送局なわけでどういう出会いをしたんですか?
兼田:宇崎竜童さんがパーソナリティをやられていた「ファイティング80s」が神戸の局、サンテレビで、姫路でも放送されていて。それで番組を知っていたんですけど、そのときはただの高校生でしたからサンテレビでそういう番組をやっているんだと思っていたんです。東京に出てきてから、あの番組はテレビ神奈川がやっていたんだと知りました。
田家:サンテレビの中で「ファイティング80s」は他の番組とは違う何かがありましたか?
兼田:サンテレビって本当に阪神タイガースのチャンネルみたいで。完全生中継とかやっていて、ある意味ではすごく画期的なチャンネルだと思うんですけど、そんな局が音楽番組をやるような印象がなかったんです。
田家:それが「ファイティング80s」だったんだ。東京に来てからはもっと密接なものになったと。
兼田:そうですね。
田家:「堕天使ロック」ってライブ盤で13分50秒あるんですよ。これはなかなかまるごとご紹介できないな、時間がもったいないなということで、前テーマで雰囲気だけお伝えするということになってしまって。代わりと言ってはなんですが、ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドでこの曲から始めたいと思います。1980年に発売になった「鶴見ハートエイク・エイブリナイト」。
鶴見ハートエイク・エイブリナイト / ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド
田家:ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドは1979年12月31日国際劇場で封印宣言をして名前を変える。古い歌を歌わないダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドになって1980年から活動をするようになった。『横浜の"ロック"ステーション TVKの挑戦』には「ファイティング80s」の出演者リスト、選曲リストが載っております。第1回放送が1980年4月4日、この曲が演奏されていました。
兼田:ええ、そうでしたね。
田家:この「ファイティング80s」は蒲田の日本工学院で収録されてました。ここには行かれました?
兼田:「ファイティング80s 」の収録では行ったことなかったんですけど、佐野元春さんも「ファイティング80s 」にレギュラー出演されていて、1993年か94年に里帰りみたいな感じでTVKのライブ番組を蒲田の電子工学院で収録したことがあったんです。そのときは番組のスタッフでお手伝いさせていただいていたので、日本工学院で歌う佐野元春を生で観ることができました。
田家:番組のスタッフは自分からですか?
兼田:そのときは「ライブy」という番組になったんですけども。
田家:平山雄一のYだ(笑)。
兼田:いやいや、横浜のYだと思う(笑)。まさに平山さんと僕と2人でお手伝いさせていただいたんです。
田家:それは平山さんから「やらないか?」って言われたんですか?
兼田:そうですね。
田家:本の中には、もちろん宇崎さんのインタビューも載っておりまして、その中で兼田さんがお書きになっていたのは「ファイティング80s」という番組名を宇崎さんが「泥臭い、それはないだろう」というふうに言った(笑)。
兼田:おっしゃってましたね。自分で苦笑いみたいな感じで話されていましたけども。
田家:なんで泥臭いと思ったんですかね。
兼田:「ファイティングってそれをそのままみたいなね」という意味での苦笑いだったと思うんですけどね。
田家:そうか、自分のバンド名をそのまま使ったということで、ちょっと恥ずかしいみたいな感じなんだ。このときの出演者がダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド、佐野元春さん、RCサクセションだった。兼田さんが選ばれた今日の2曲目、RCサクセションで「いい事ばかりはありゃしない」。
田家:1980年のアルバム『プリーズ』の中の曲です。この本の最後に出演者と演奏曲が載っているわけですが、この曲は入っていない。兼田さんがこの曲を選ばれた理由があるんだろうなと。
兼田:単純に好きだからというのもあるんですけど、せっかく選ばせていただけるのでラジオだとあまりかからんだろうなという曲もかけたいスケベ心みたいなものもあって。
田家:この番組では流れているんです(笑)。
兼田:はははは(笑)。余計なこと考えたから、演奏時間が長い曲ばかりになってますね、申し訳ないです、すみません(笑)。
田家:さっきちょっと話に出たサンテレビは1969年開局のUHFで、TVKは1972年に始まっている。TVKが開局したときに「ヤング・インパルス」という番組が同時に始まっていた。「ヤング・インパルス」は僕ら観ているんですけども、もうちょっとフォーク系の番組だった印象があるんですよね。
兼田:そうだったみたいですね。「ヤング・インパルス」の最初のレギュラーアーティストもRCサクセションなんですけど、そのRCサクセションはフォークスタイルなんです。ちなみに2番目のレギュラーアーティストが海援隊でその次の次、4番目だと思うんですけどダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドなんですね。
田家:「ヤング・インパルス」の最初のゲストがRCだったんだ。
兼田:まさにフォークが中心だったのが、ダウン・タウンがレギュラーアーティストになるぐらいの時期にロック色が出てくるみたいな時代の流れも反映しているんだと思うんです。
田家:TVKの開局のときの話も書かれていましたけども、東京のキー局がメインカルチャーだったら、我々はサブカルチャーで行くんだ、そういう局の方針があったんですね。
兼田:そうですね。プロデューサーである住友利行さんにお話を聞いたものが中心になっているんですけど、住友さんの言い方で言うと局の方針というよりは同じことをやっていたら勝てないから、生き残るためにどうしたらいいか考えたらそうするしかなかった。社長さんが会議で方針としてこうだぜっていうことではないと思うんですよね。
田家:そこまで会社としての形がまだ出来上がっていなくて、住友利行さんというプロデューサーがわりと自分のやりたいようにやれた会社だったんだ。
兼田:そうですね。今回住友さんに話を聞いて知ったことの1つが、ラジオ関東という局のカラーの大きさ。ラジオ関東からTVKの開局に合わせて何人かスタッフの方が移籍されたらしくて。「ヤング・インパルス」の最初のプロデューサーは元ラジオ関東の方だったそうです。僕はそれこそ関西の人間だったので、ラジオ関東の番組は全然知らないんですけど、まさにTVKがやったように、よそがやらないことをやった局であり。テレビがどんどん盛り上がっていく中でラジオがどうやって生き残っていくかというときに、独自路線を貫いたラジオ局だったと教えてもらって、なるほどなと1つ勉強になりました。
田家:おもしろい話がありまして、宇崎さんが結婚して横浜に住んで、最初につけたテレビで流れていたのが「ヤング・インパルス」で「え、こんな音楽を取り扱っている番組があるんだ」と思った。それが「ファイティング80s」に繋がっているということですね。
兼田:宇崎さんいわく、ちょうどキャロルが出てるときに点けたらしいんですよね。キャロルはほとんどテレビに出ないバンドというか、そもそもああいう音楽のバンドがテレビに出ることはほとんどなかったみたいですけど、そういうバンドがテレビに映っていることにびっくりしたみたいですね。
田家:で、「ファイティング80s」が始まったときに自分たちのバンド名が番組のタイトルになってしまった。「ファイティング80s」の1回目に出ていたのが佐野元春さん。兼田さんが選んだのは1981年のアルバムタイトル曲「ハートビート」。
田家:「ファイティング80s」の最多出演者が何組かいたんだなと出演者リストを見て思ったのですが、ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドからソロになった宇崎竜童さんダントツで、その後に佐野元春さんとRCサクセションが並びますね。やっぱり縁があった?
兼田:そうですね。「ファイティング80s」を始めるときに住友さんが宇崎さんと話したことの1つは日本のロックシーンをこの番組から作るんだという想いで、その中心になっていくダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドはもちろんそうなんだけど、RCと佐野元春なんだということを思ってらしたんだと。同時に、これは住友さんがはっきりおっしゃっていたんですけども、宇崎さんは自分のバンドにファイティングって名前を入れるくらい過激な、よりロック色の強いものをやっていくんだという気持ちが強かった。番組制作者としてあまりにそういう方向に行ってしまうと間口が狭いというか、とっつきにくい番組になるだろうから、ある種もうちょっとポップな色合いが番組に入った方がいいだろうと。そのポップな色合いを担う才能は、佐野元春だという判断もあったという話をされていました。
田家:佐野さんのアーリーヒストリーの中で必ず出てくる最初の定期的なライブは横浜のサンドイッチ屋さんだった。それはTVKと組んでいたんだなというのをあらためてこの本で思いました。
兼田:組んでいたというか、後押しをしていた形で、それこそ笑い話ですけど、サンドイッチ屋さんの2階が産婦人科で大きな音出しは困るからやめてくれって言われて番組が後押ししていたライブシリーズは1回中断になったみたいですね。
田家:佐野さんのインタビューも載っておりまして、TVKについてオルタナティヴ意識、自立意識があったと話をされていましたね。
兼田:オルタナティヴという言葉を出してらしたのはもちろん佐野さんからだったんですけど、自立意識というのはその前に佐野さんが野球の野茂投手について答えているインタビューで、野茂さんに自分の曲を捧げるとしたら「インディビジュアリスト」がいいと思うと。「インディビジュアリスト」って個人主義者みたいな訳を当てられることが多いけど、自分としては自立主義者という言葉を当てたいと。そういう意味で野茂さんにこの曲がふさわしいと思うんだみたいな記事を僕が読んでいて、そういう話がありましたよねって訊いたら、TVKも同じ意味で自立精神のある局だったと思うと話してくださいました。
田家:「ファイティング80s」の出演者リストをずっと見ていたら、こんな人も出ていたんだと思ったのは沢田研二さん、浜田省吾さんという名前がありました。
兼田:浜田省吾さんは何年か前にアルバムを紙ジャケで出し直したときがあったじゃないですか。そのときに何かのアルバムの特典映像でTVKの映像がついていたことがあったんです。
田家:あったあった。1981年3月20日というのがあって、6月5日にも出ていました。
兼田:沢田研二さんも出てらして、それはかなり一生懸命探らないといけないですけど、今検索するとYouTubeで観れるみたいですね。
田家:このへんは住友さんがご自分で決めていたということになるんでしょうかね。
兼田:そうですね。
田家:「ファイティング80s」は1983年3月27日に終了して、その後に「ライブトマト」という形で1986年11月6日に始まります。横浜そごう9階新都市センターホールという。1回目がHOUND DOGとRED WARRIORS。兼田さんが選ばれた4曲目、アンジーで「銀の腕時計」。
銀の腕時計 / アンジー
田家:アルバムは1986年の『嘆きのばんび』の中に入っておりました。この曲を選ばれているのは?
兼田:アーティストで選んだんですけど、さっきご紹介いただいた「ライブトマト」が1986年に始まって、その前に「ミュージックトマトJAPAN」というミュージッククリップをどんどん流す番組を住友さんがTVKで始められていた。今で言うヘビーローテーションだと思うんですけど、特定のアーティストをとにかくかけまくることを住友さんがやられて、それがザ・ブルーハーツの「リンダリンダ」とアンジーの「天井裏から愛を込めて」という楽曲をやったんです。住友さんは自分の作る番組からヒットを生み出すんだということで、ヘビーローテーションみたいなことをやり始めたわけですけど、特にアンジーは僕個人の印象としてもすごくいい曲がたくさんあるなと。だから、TVKで流行っていたのも含め、アンジーは絶対いれないといけないなと思いました。
田家:「ライブトマト」と「ファイティング80s」は出演者顔ぶれが変わるでしょ。「ライブトマト」は新しいバンドがたくさん出ていて、最初の6週間はRED WARRIORSがずっと出ていましたね。
兼田:そうですね。バンドブームは1990年前後、それこそ「イカ天」が始まった時期の話だと思うんですけど、それの先駆けというか、たくさんいいバンドが出てくる芽みたいなものを住友さんや当時のTVKのスタッフはいち早く感じ取ったということなんじゃないですかね。
田家:兼田さんが選ばれた今日の5曲目、UP-BEATで「KISS IN THE MOONLIGHT」。
田家:「ライブトマト」の出演者は「ファイティング80s」とはだいぶ変わった。アンジーにしてもUP-BEATにしても「ライブトマト」にはわりと出ているバンドですね。
兼田:そうですね。UP-BEATは同時代的に聴いていたんですけど、この曲はドラマ主題歌だったりしますけど、すごくいい曲だなとあらためて思いますね。
田家:「ファイティング80s」と「ライブトマト」の違いはどう思われます?
兼田:「ファイティング80s」は住友さんがプロデューサーという立場なので、方向づけをやる立場で。キュー出しとか、映像の編集はディレクターの方がやってらした。それにしても住友さんの番組だったようなんですよね。「ライブトマト」はちょうど僕の世代、1960年代前半の世代の人間がディレクターとか、アシスタントプロデューサーという立場に立っていて、そういう人たちが主導的に進めていくのを住友さんが見守っていたと言うと語弊があるかもしれませんけど、そういう時間が流れたことによって住友さんの立ち位置がちょっと変わっているんだなというのと、世の中にどんどん新しいバンドが出てきたことがいい形でマッチングしたんじゃないかなと思いました。
田家:これもあらためて拝見していて思ったんですけど、エピック・ソニーとか『PATi・PATi』という媒体とTVK、それから特に「ライブトマト」を中心にした動きはかなりシンクロしていたんだなと思いました。
兼田:そうですね。そもそもの始まりは「ファイティング80s」を始めるとき、ロック番組にスポンサーがなかなかつかない状況で。スポンサーとしてお金を出してくれたのは、エピック・ソニーの丸山茂雄さんだったんですよね。そういうところから縁が始まって、今度は住友さんの言い方で言うと、えこひいき。いいと思ったらとことん応援するというか、えこひいきしてクリップもかけるし、ライブもブッキングするしっていうことをどんどんやっていく。相手がバンドがいいというだけではなくて、スタッフまで含めた体制とか考え方が共有できる人たちとやっていくことがベースにあったみたいで。だから、その相手がエピックのアーティストたちであり、『PATi・PATi』。メディアミックスって死語になっちゃったかもしれないですけどテレビと雑誌で音楽のムーブメントを後押ししていく。当時、本当に新しい発想だったと思うのですが、ライブ番組を作るということ自体ある程度軌道に乗ってきたからもう1つ上に行こうじゃないかと、行けるんじゃないかということで住友さんはそういうことをやられたみたいですね。
田家:インタビューする人の人選はかなりいろいろ案があったりしたんですか?
兼田:この本を作ろうとなったときに住友さんの同期の方、開局と一緒に入られた方2人にお話を訊いたんですけど、その方については住友さんから推薦をいただいたのですが、他の方は僕が「この人に話しを訊きたいから訊きますね」と言って、やらせていただきましたね。
田家:わりと大きめなインタビューで出ているのが、宇崎竜童さん、佐野元春さん、エピック・ソニーの丸山茂雄さん、大友康平さん、奥田民生さん、ディスクガレージ会長の中西健夫さん、宮田和弥さん、スペースシャワー創立者の近藤正司さん。アーティストではチャボさん、アナーキーの仲野茂さん、THE MODSの森山達也さん、RED WARRIORS
の木暮武彦さん、石井竜也さん、PUFFYのお2人、ゴスペラーズ村上てつやさん、いきものがかりの山下穂尊さん、木村カエラさん。これは兼田さんが会いたいと言って?
兼田:そうですね。
田家:みんなそれぞれ思い入れがあったり、ゆかりがあったり?
兼田:本の組み立ての話になっちゃうんですけど、住友さんの話はたしかにおもしろいですし、それをちゃんと伝えることに意味があると思ってやったんですけど、それだけだと一方通行と言うとよくないですけど、そういう形になっちゃうかもなという。これもちょっとスケベ心というか、有名アーティストの方にもご参加いただくと、アーティストのファンの方にも興味を持っていただけるんじゃないかなということもあって。
田家:インタビュー受けられる方みなさん好意的ですもんね。
兼田:「住友さんの本なんだったら、受けるよ」ってわりとはっきりおっしゃった方もいらっしゃいましたからね。
田家:ロックがメジャーになった、とても大きな功績を残したテレビ局だったんだなということがあらためて分かりますね。丸山さんのインタビューの中に「TVKってライブハウスだったんだよ」という名言がありました。今日兼田さんが選ばれたのはJUDY AND MARYで「JUDY IS A TANK GIRL」。
田家:JUDY AND MARYの1994年のデビューアルバム『J・A・M』の中に入っております。ジュディマリが「ライブトマト」に出た日にちを見ていたら1992年12月17日。これはデビュー前じゃないかなと思いました。
兼田:それこそ、彼女たちはエピック・ソニーでしたけれども、事務所がソニー・ミュージックアーティスツというところで、いずれもTVKと長くて深い縁のある人たちだったので。しかもジュディマリについては当時平山雄一さんとか、ソニー・マガジンズと組んでライブ「GiRLPOP」というイベントを新宿パワーステーションでやっていた。
田家:やってましたね。
兼田:それのブッキングをやっているときに「こういう女の子のボーカルのバンドがいるんだけど、ぜひ観てくれ」って言われて、恵比寿のライブハウスに観に行って、1にも2にもこれは絶対出てもらわないとダメだと思ったバンドだったので。そのときもこの曲をやってました。
田家:あらためて本の話を伺うんですけども、何度か話になっている住友利行さん。1948年生まれで山口県の人で広島大学卒業生。開局したばかりのTVKに就職して、でも東京の人じゃないとダメだというので、住民票を東京に移して入った。これもこの本で知りました。どんな方だと思われました?
兼田:僕が手伝わせていただく頃には音楽業界では知る人ぞ知る大プロデューサーという存在でしたけど、お話をすると穏やかというか、全然怖いところのない人で。こんな人がいろいろなことを取り仕切ってプロデューサーみたいな立場でやれるんだというぐらい穏やかな人でした。これもまたそもそもの話になっちゃうんですけど、本って別の方というか、クレジットには企画ということで入ってますけども井黒成郎さんという方がいらっしゃって、それは住友さんのTVKの後輩なんですね。その方が住友さんの業績を本に残したいとずっと考えてらして。でも、住友さんが「そんなのいいよ」っておっしゃっていたのをあるときに何度か僕も仕事でご一緒してたから、「じゃあ、かねやんにインタビューしてもらったらやりますか」って言ったらしいんですよ。「かねやんだったらいいかもな」って言われてっていうのが始まりだったので、そこからあらためてゆっくり住友さんの話を聞くようになって始まっていった本の作り始めだったんです。
田家:TVKがロックステーションになれた、これだけシーンの中で影響力があったという、彼だからできた感じがありますかね。
兼田:ありますし、やっぱりTVKというある種最初から逆境という。キー局があって、同じことをやっていたら食っていけないというところに入ったということ。住友さんが本来お持ちだったキャラクターとしての反骨心だったり、人とは違うことをやるんだということが上手くハマったところがあるんじゃないですかね。
田家:今日の最後の曲はこの人たちなんですね。Mr.Childrenの「星になれたら」。
田家:1992年12月に発売になった2枚目のアルバム『Kind of Love』に入っております。「ライブトマト」には1993年3月4日に出ていました。Mr.Childrenもそういう意味ではまだブレイクする前にTVK「ライブトマト」に関係があったということですね。
兼田:これまたBAD MUSICというJUN SKY WALKER(S)から始まって、Mr.Children、the pillowsとかTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTを送り出している、それこそロックなプロダクションがあるんですけども、そのプロダクションも住友さんと一緒にものを作っていく思いを共有できるプロダクションの1つで、その事務所のアーティストだったということも大きいんだと思うんですよね。
田家:この本についてあらためて思うことは?
兼田:住友さんは1948年で所謂団塊の世代ですよね。同期で入られたお2人の話も聞いて1番思ったのは、これは団塊の世代の人たちの青春物語なんだなと。青春時期に新しい局で職を得た人たちが辿る道が日本におけるロックの発展と重なっただけでということが作り終えた後でもすごく思うんです。だから、団塊の世代の方って人数も多いし、いろいろな分野で今の日本のベースを良くも悪くも作った世代の人たちだと思うんですけど、そういう世代の人たちだからこそおもしろいことを音楽でもテレビの分野でもやれたんじゃないかなということは勉強させていただきました。
田家:当時、TVKで音楽を知るようになった。特にロックはTVKが入口だったという人はたくさんいると思うので、そういう人たちに知ってほしいことはあります?
兼田:それこそTVKが「ファイティング80s」とか「ライブトマト」をやっていた時代よりも、今はストリーミングサービスとかあるし、掘ればいくらでも見つけられるからTVKがライブやミュージッククリップの形で伝えてきた、いい音楽がもちろん今でも聴けるのだから、ぜひそれを聴いてほしいなとあらためて思います。
田家:そういう入口にこの本がなればいいなということでもある。ありがとうございました。
兼田:今日はありがとうございました。
田家:「J-POP LEGEND FORUM 最新音楽本特集2022」今週は3週目。兼田達矢さんがお書きになった 『横浜の"ロック"ステーション TVKの挑戦』、ディスク・ユニオンから発売になっております。この本のご紹介、ゲストは兼田達矢さん。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさん「静かな伝説」です。
音楽の歴史、特にフォークロック、J-POP系の歴史の中でテレビ局との相性はよくないんですね。関係があまりよろしくない。なんでかと言うと、テレビが偉そうだったということに尽きます。使ってやるとか、出してやるとか、売ってやるとか、そういう匂いがプンプンしておりまして、そういう姿勢でミュージシャン、アーティスト、レコード会社の人たち、僕らに対して接する人たちがいっぱいいた。70年代はその最たるものですね。レコード会社のスタッフが新しい見本盤を持っていくと、「こんなもの売れねえよ、事務所どこだよ、そのへん置いておけよ」という。中にはその場で割って、ゴミ箱に捨てるというような時代がありました。
シンガーソングライターがテレビに出ないようになったのは彼らが出なかったわけではなくて、相手にされなかったんです。あるときから態度が変わったこともみんな見てしまって、ああいう人とはもう付き合わないよというふうになっていたのがその歴史ですね。TVKがなぜこれだけアーティストと信頼関係を持てたかと言うと、これも簡単です。偉そうにしなかったから。一緒に作ろうとか、一緒に大きくなろうとテレビ局の方がそういう姿勢をちゃんと見せてくれた。誠意のある人たちが作っていた。そこにライブというのがあったんですね。ライブでみんなで音楽を共有しようよ、ライブがあるから僕らの音楽は活きるんだよねとか、ライブをファンの人たちに伝えていこう気持ちがTVKを支えてきたんだと、あらためてこの本を読んで思いました。テレビ局の時代はもう終わったかもしれません。インターネット、SNS、メディアの戦国時代が始まっております。ラジオが安泰とは言えません。でも、ライブを1番重要視するメディアが生き残るのではないのかなというのは予感でもあるし、希望でもあります。こういう話は来週の柴那典さんに伺おうと思います。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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パート3はディスク・ユニオンから発売された『横浜の"ロック"ステーション TVKの挑戦』にスポットを当てる。著者の音楽ライター、ラジオやテレビなどの番組企画構成、編集をしている兼田達矢本人をゲストに迎え、本を紐解く上で思い入れのある名曲を辿りながら内容について語る。
田家秀樹:こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのはダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドの「堕天使ロック」。1980年に自主制作盤で発売になったライブアルバム『海賊盤~LIVE FIGHTING 80S』からお聴きいただいております。CDになっていないのでアナログ盤のレコードからお送りしております。この曲のオリジナルは言うまでもなく、ジャックスです。今日の前テーマはこの曲です。
関連記事:中川五郎が語る、フォーク・ソングとの出会いからコロナ禍までを描いた自叙伝
堕天使ロック / ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド
今月2022年4月の特集は「最新音楽本2022」。今週は3週目です。去年末にディスク・ユニオンから発売になりました『横浜の"ロック"ステーション TVKの挑戦』という本です。
TVKはテレビ神奈川ですね。UHF。70年代、80年代、90年代、ロックの発信地であり続けた横浜のテレビ局のドキュメンタリーです。TVKとはどんなテレビ局だったのか、どんな人たちが働いていたのか、音楽シーンにどんな功績を残したのか、アーティストたちは何を求めていたのか。出演者、関係者などを取材してまとめたドキュメントです。今週のゲストはその著者の兼田達矢さん。1963年生まれで雑誌『FM STATION』の編集部、WOWOWの音楽番組制作者を経て、1992年から音楽ライターとしてだけではなく、ラジオやテレビなどの番組企画構成、編集、電子書籍の発行と幅広く活躍されております。こんばんは。
兼田達矢:どうもこんばんは。よろしくお願いします。
田家:電子書籍の発行とかもやっているんですね(笑)。
兼田:ええ、まあマイペースでやっております。
田家:1人でですか?
兼田:デザイナーの方と2人だけで。
田家:今日は兼田さんにこの本を語るときに思い出のある曲を選んでいただきました。この「堕天使ロック」が入っていて、「え! これが選ばれてる!」と思ったりしたのですが、思い入れがあるんでしょうか?
兼田:他のバンドもそうなんですけど、まずはアーティストで選んだんです。ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドについては、僕はずっと歌謡曲が好きで、ジュリーが大好きで聴いていたんですけど、そこに歌謡曲シーンの中でロック的なヒット曲を歌うバンドとしてダウン・タウンが出てきて。しかも宇崎さんはそもそもブルース、ジャズがお好きな方だと後ほど知るんですけど、そういうものに道を開いてくれた存在なんです。同時に日本ロックの脈絡みたいなものも繋がっているバンドだと思って、だからジャックスのカバーがいいかなと思いました。
田家:自主制作盤は「ファイティング80s」のライブ盤なわけで、このアルバムの話も追々お訊きしていこうと思うんですけども、兼田さんは兵庫県の姫路生まれなんでしょ?
兼田:18歳までそこにおりました。
田家:お書きになったTVKは横浜の放送局なわけでどういう出会いをしたんですか?
兼田:宇崎竜童さんがパーソナリティをやられていた「ファイティング80s」が神戸の局、サンテレビで、姫路でも放送されていて。それで番組を知っていたんですけど、そのときはただの高校生でしたからサンテレビでそういう番組をやっているんだと思っていたんです。東京に出てきてから、あの番組はテレビ神奈川がやっていたんだと知りました。
田家:サンテレビの中で「ファイティング80s」は他の番組とは違う何かがありましたか?
兼田:サンテレビって本当に阪神タイガースのチャンネルみたいで。完全生中継とかやっていて、ある意味ではすごく画期的なチャンネルだと思うんですけど、そんな局が音楽番組をやるような印象がなかったんです。
最初に観たときも、「プロ野球ニュース」か何かを観ているときにザッピングしてたらダウン・タウンが演奏していたから、「あっ」と思って観始めた感じです。
田家:それが「ファイティング80s」だったんだ。東京に来てからはもっと密接なものになったと。
兼田:そうですね。
田家:「堕天使ロック」ってライブ盤で13分50秒あるんですよ。これはなかなかまるごとご紹介できないな、時間がもったいないなということで、前テーマで雰囲気だけお伝えするということになってしまって。代わりと言ってはなんですが、ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドでこの曲から始めたいと思います。1980年に発売になった「鶴見ハートエイク・エイブリナイト」。
鶴見ハートエイク・エイブリナイト / ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド
田家:ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドは1979年12月31日国際劇場で封印宣言をして名前を変える。古い歌を歌わないダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドになって1980年から活動をするようになった。『横浜の"ロック"ステーション TVKの挑戦』には「ファイティング80s」の出演者リスト、選曲リストが載っております。第1回放送が1980年4月4日、この曲が演奏されていました。
兼田:ええ、そうでしたね。
田家:この「ファイティング80s」は蒲田の日本工学院で収録されてました。ここには行かれました?
兼田:「ファイティング80s 」の収録では行ったことなかったんですけど、佐野元春さんも「ファイティング80s 」にレギュラー出演されていて、1993年か94年に里帰りみたいな感じでTVKのライブ番組を蒲田の電子工学院で収録したことがあったんです。そのときは番組のスタッフでお手伝いさせていただいていたので、日本工学院で歌う佐野元春を生で観ることができました。
田家:番組のスタッフは自分からですか?
兼田:そのときは「ライブy」という番組になったんですけども。
田家:平山雄一のYだ(笑)。
兼田:いやいや、横浜のYだと思う(笑)。まさに平山さんと僕と2人でお手伝いさせていただいたんです。
田家:それは平山さんから「やらないか?」って言われたんですか?
兼田:そうですね。
田家:本の中には、もちろん宇崎さんのインタビューも載っておりまして、その中で兼田さんがお書きになっていたのは「ファイティング80s」という番組名を宇崎さんが「泥臭い、それはないだろう」というふうに言った(笑)。
兼田:おっしゃってましたね。自分で苦笑いみたいな感じで話されていましたけども。
田家:なんで泥臭いと思ったんですかね。
兼田:「ファイティングってそれをそのままみたいなね」という意味での苦笑いだったと思うんですけどね。
田家:そうか、自分のバンド名をそのまま使ったということで、ちょっと恥ずかしいみたいな感じなんだ。このときの出演者がダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド、佐野元春さん、RCサクセションだった。兼田さんが選ばれた今日の2曲目、RCサクセションで「いい事ばかりはありゃしない」。
田家:1980年のアルバム『プリーズ』の中の曲です。この本の最後に出演者と演奏曲が載っているわけですが、この曲は入っていない。兼田さんがこの曲を選ばれた理由があるんだろうなと。
兼田:単純に好きだからというのもあるんですけど、せっかく選ばせていただけるのでラジオだとあまりかからんだろうなという曲もかけたいスケベ心みたいなものもあって。
田家:この番組では流れているんです(笑)。
兼田:はははは(笑)。余計なこと考えたから、演奏時間が長い曲ばかりになってますね、申し訳ないです、すみません(笑)。
田家:さっきちょっと話に出たサンテレビは1969年開局のUHFで、TVKは1972年に始まっている。TVKが開局したときに「ヤング・インパルス」という番組が同時に始まっていた。「ヤング・インパルス」は僕ら観ているんですけども、もうちょっとフォーク系の番組だった印象があるんですよね。
兼田:そうだったみたいですね。「ヤング・インパルス」の最初のレギュラーアーティストもRCサクセションなんですけど、そのRCサクセションはフォークスタイルなんです。ちなみに2番目のレギュラーアーティストが海援隊でその次の次、4番目だと思うんですけどダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドなんですね。
田家:「ヤング・インパルス」の最初のゲストがRCだったんだ。
兼田:まさにフォークが中心だったのが、ダウン・タウンがレギュラーアーティストになるぐらいの時期にロック色が出てくるみたいな時代の流れも反映しているんだと思うんです。
田家:TVKの開局のときの話も書かれていましたけども、東京のキー局がメインカルチャーだったら、我々はサブカルチャーで行くんだ、そういう局の方針があったんですね。
兼田:そうですね。プロデューサーである住友利行さんにお話を聞いたものが中心になっているんですけど、住友さんの言い方で言うと局の方針というよりは同じことをやっていたら勝てないから、生き残るためにどうしたらいいか考えたらそうするしかなかった。社長さんが会議で方針としてこうだぜっていうことではないと思うんですよね。
田家:そこまで会社としての形がまだ出来上がっていなくて、住友利行さんというプロデューサーがわりと自分のやりたいようにやれた会社だったんだ。
兼田:そうですね。今回住友さんに話を聞いて知ったことの1つが、ラジオ関東という局のカラーの大きさ。ラジオ関東からTVKの開局に合わせて何人かスタッフの方が移籍されたらしくて。「ヤング・インパルス」の最初のプロデューサーは元ラジオ関東の方だったそうです。僕はそれこそ関西の人間だったので、ラジオ関東の番組は全然知らないんですけど、まさにTVKがやったように、よそがやらないことをやった局であり。テレビがどんどん盛り上がっていく中でラジオがどうやって生き残っていくかというときに、独自路線を貫いたラジオ局だったと教えてもらって、なるほどなと1つ勉強になりました。
田家:おもしろい話がありまして、宇崎さんが結婚して横浜に住んで、最初につけたテレビで流れていたのが「ヤング・インパルス」で「え、こんな音楽を取り扱っている番組があるんだ」と思った。それが「ファイティング80s」に繋がっているということですね。
兼田:宇崎さんいわく、ちょうどキャロルが出てるときに点けたらしいんですよね。キャロルはほとんどテレビに出ないバンドというか、そもそもああいう音楽のバンドがテレビに出ることはほとんどなかったみたいですけど、そういうバンドがテレビに映っていることにびっくりしたみたいですね。
田家:で、「ファイティング80s」が始まったときに自分たちのバンド名が番組のタイトルになってしまった。「ファイティング80s」の1回目に出ていたのが佐野元春さん。兼田さんが選んだのは1981年のアルバムタイトル曲「ハートビート」。
田家:「ファイティング80s」の最多出演者が何組かいたんだなと出演者リストを見て思ったのですが、ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドからソロになった宇崎竜童さんダントツで、その後に佐野元春さんとRCサクセションが並びますね。やっぱり縁があった?
兼田:そうですね。「ファイティング80s」を始めるときに住友さんが宇崎さんと話したことの1つは日本のロックシーンをこの番組から作るんだという想いで、その中心になっていくダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドはもちろんそうなんだけど、RCと佐野元春なんだということを思ってらしたんだと。同時に、これは住友さんがはっきりおっしゃっていたんですけども、宇崎さんは自分のバンドにファイティングって名前を入れるくらい過激な、よりロック色の強いものをやっていくんだという気持ちが強かった。番組制作者としてあまりにそういう方向に行ってしまうと間口が狭いというか、とっつきにくい番組になるだろうから、ある種もうちょっとポップな色合いが番組に入った方がいいだろうと。そのポップな色合いを担う才能は、佐野元春だという判断もあったという話をされていました。
田家:佐野さんのアーリーヒストリーの中で必ず出てくる最初の定期的なライブは横浜のサンドイッチ屋さんだった。それはTVKと組んでいたんだなというのをあらためてこの本で思いました。
兼田:組んでいたというか、後押しをしていた形で、それこそ笑い話ですけど、サンドイッチ屋さんの2階が産婦人科で大きな音出しは困るからやめてくれって言われて番組が後押ししていたライブシリーズは1回中断になったみたいですね。
田家:佐野さんのインタビューも載っておりまして、TVKについてオルタナティヴ意識、自立意識があったと話をされていましたね。
兼田:オルタナティヴという言葉を出してらしたのはもちろん佐野さんからだったんですけど、自立意識というのはその前に佐野さんが野球の野茂投手について答えているインタビューで、野茂さんに自分の曲を捧げるとしたら「インディビジュアリスト」がいいと思うと。「インディビジュアリスト」って個人主義者みたいな訳を当てられることが多いけど、自分としては自立主義者という言葉を当てたいと。そういう意味で野茂さんにこの曲がふさわしいと思うんだみたいな記事を僕が読んでいて、そういう話がありましたよねって訊いたら、TVKも同じ意味で自立精神のある局だったと思うと話してくださいました。
田家:「ファイティング80s」の出演者リストをずっと見ていたら、こんな人も出ていたんだと思ったのは沢田研二さん、浜田省吾さんという名前がありました。
兼田:浜田省吾さんは何年か前にアルバムを紙ジャケで出し直したときがあったじゃないですか。そのときに何かのアルバムの特典映像でTVKの映像がついていたことがあったんです。
田家:あったあった。1981年3月20日というのがあって、6月5日にも出ていました。
兼田:沢田研二さんも出てらして、それはかなり一生懸命探らないといけないですけど、今検索するとYouTubeで観れるみたいですね。
田家:このへんは住友さんがご自分で決めていたということになるんでしょうかね。
兼田:そうですね。
田家:「ファイティング80s」は1983年3月27日に終了して、その後に「ライブトマト」という形で1986年11月6日に始まります。横浜そごう9階新都市センターホールという。1回目がHOUND DOGとRED WARRIORS。兼田さんが選ばれた4曲目、アンジーで「銀の腕時計」。
銀の腕時計 / アンジー
田家:アルバムは1986年の『嘆きのばんび』の中に入っておりました。この曲を選ばれているのは?
兼田:アーティストで選んだんですけど、さっきご紹介いただいた「ライブトマト」が1986年に始まって、その前に「ミュージックトマトJAPAN」というミュージッククリップをどんどん流す番組を住友さんがTVKで始められていた。今で言うヘビーローテーションだと思うんですけど、特定のアーティストをとにかくかけまくることを住友さんがやられて、それがザ・ブルーハーツの「リンダリンダ」とアンジーの「天井裏から愛を込めて」という楽曲をやったんです。住友さんは自分の作る番組からヒットを生み出すんだということで、ヘビーローテーションみたいなことをやり始めたわけですけど、特にアンジーは僕個人の印象としてもすごくいい曲がたくさんあるなと。だから、TVKで流行っていたのも含め、アンジーは絶対いれないといけないなと思いました。
田家:「ライブトマト」と「ファイティング80s」は出演者顔ぶれが変わるでしょ。「ライブトマト」は新しいバンドがたくさん出ていて、最初の6週間はRED WARRIORSがずっと出ていましたね。
兼田:そうですね。バンドブームは1990年前後、それこそ「イカ天」が始まった時期の話だと思うんですけど、それの先駆けというか、たくさんいいバンドが出てくる芽みたいなものを住友さんや当時のTVKのスタッフはいち早く感じ取ったということなんじゃないですかね。
田家:兼田さんが選ばれた今日の5曲目、UP-BEATで「KISS IN THE MOONLIGHT」。
田家:「ライブトマト」の出演者は「ファイティング80s」とはだいぶ変わった。アンジーにしてもUP-BEATにしても「ライブトマト」にはわりと出ているバンドですね。
兼田:そうですね。UP-BEATは同時代的に聴いていたんですけど、この曲はドラマ主題歌だったりしますけど、すごくいい曲だなとあらためて思いますね。
田家:「ファイティング80s」と「ライブトマト」の違いはどう思われます?
兼田:「ファイティング80s」は住友さんがプロデューサーという立場なので、方向づけをやる立場で。キュー出しとか、映像の編集はディレクターの方がやってらした。それにしても住友さんの番組だったようなんですよね。「ライブトマト」はちょうど僕の世代、1960年代前半の世代の人間がディレクターとか、アシスタントプロデューサーという立場に立っていて、そういう人たちが主導的に進めていくのを住友さんが見守っていたと言うと語弊があるかもしれませんけど、そういう時間が流れたことによって住友さんの立ち位置がちょっと変わっているんだなというのと、世の中にどんどん新しいバンドが出てきたことがいい形でマッチングしたんじゃないかなと思いました。
田家:これもあらためて拝見していて思ったんですけど、エピック・ソニーとか『PATi・PATi』という媒体とTVK、それから特に「ライブトマト」を中心にした動きはかなりシンクロしていたんだなと思いました。
兼田:そうですね。そもそもの始まりは「ファイティング80s」を始めるとき、ロック番組にスポンサーがなかなかつかない状況で。スポンサーとしてお金を出してくれたのは、エピック・ソニーの丸山茂雄さんだったんですよね。そういうところから縁が始まって、今度は住友さんの言い方で言うと、えこひいき。いいと思ったらとことん応援するというか、えこひいきしてクリップもかけるし、ライブもブッキングするしっていうことをどんどんやっていく。相手がバンドがいいというだけではなくて、スタッフまで含めた体制とか考え方が共有できる人たちとやっていくことがベースにあったみたいで。だから、その相手がエピックのアーティストたちであり、『PATi・PATi』。メディアミックスって死語になっちゃったかもしれないですけどテレビと雑誌で音楽のムーブメントを後押ししていく。当時、本当に新しい発想だったと思うのですが、ライブ番組を作るということ自体ある程度軌道に乗ってきたからもう1つ上に行こうじゃないかと、行けるんじゃないかということで住友さんはそういうことをやられたみたいですね。
田家:インタビューする人の人選はかなりいろいろ案があったりしたんですか?
兼田:この本を作ろうとなったときに住友さんの同期の方、開局と一緒に入られた方2人にお話を訊いたんですけど、その方については住友さんから推薦をいただいたのですが、他の方は僕が「この人に話しを訊きたいから訊きますね」と言って、やらせていただきましたね。
田家:わりと大きめなインタビューで出ているのが、宇崎竜童さん、佐野元春さん、エピック・ソニーの丸山茂雄さん、大友康平さん、奥田民生さん、ディスクガレージ会長の中西健夫さん、宮田和弥さん、スペースシャワー創立者の近藤正司さん。アーティストではチャボさん、アナーキーの仲野茂さん、THE MODSの森山達也さん、RED WARRIORS
の木暮武彦さん、石井竜也さん、PUFFYのお2人、ゴスペラーズ村上てつやさん、いきものがかりの山下穂尊さん、木村カエラさん。これは兼田さんが会いたいと言って?
兼田:そうですね。
田家:みんなそれぞれ思い入れがあったり、ゆかりがあったり?
兼田:本の組み立ての話になっちゃうんですけど、住友さんの話はたしかにおもしろいですし、それをちゃんと伝えることに意味があると思ってやったんですけど、それだけだと一方通行と言うとよくないですけど、そういう形になっちゃうかもなという。これもちょっとスケベ心というか、有名アーティストの方にもご参加いただくと、アーティストのファンの方にも興味を持っていただけるんじゃないかなということもあって。
田家:インタビュー受けられる方みなさん好意的ですもんね。
兼田:「住友さんの本なんだったら、受けるよ」ってわりとはっきりおっしゃった方もいらっしゃいましたからね。
田家:ロックがメジャーになった、とても大きな功績を残したテレビ局だったんだなということがあらためて分かりますね。丸山さんのインタビューの中に「TVKってライブハウスだったんだよ」という名言がありました。今日兼田さんが選ばれたのはJUDY AND MARYで「JUDY IS A TANK GIRL」。
田家:JUDY AND MARYの1994年のデビューアルバム『J・A・M』の中に入っております。ジュディマリが「ライブトマト」に出た日にちを見ていたら1992年12月17日。これはデビュー前じゃないかなと思いました。
兼田:それこそ、彼女たちはエピック・ソニーでしたけれども、事務所がソニー・ミュージックアーティスツというところで、いずれもTVKと長くて深い縁のある人たちだったので。しかもジュディマリについては当時平山雄一さんとか、ソニー・マガジンズと組んでライブ「GiRLPOP」というイベントを新宿パワーステーションでやっていた。
田家:やってましたね。
兼田:それのブッキングをやっているときに「こういう女の子のボーカルのバンドがいるんだけど、ぜひ観てくれ」って言われて、恵比寿のライブハウスに観に行って、1にも2にもこれは絶対出てもらわないとダメだと思ったバンドだったので。そのときもこの曲をやってました。
田家:あらためて本の話を伺うんですけども、何度か話になっている住友利行さん。1948年生まれで山口県の人で広島大学卒業生。開局したばかりのTVKに就職して、でも東京の人じゃないとダメだというので、住民票を東京に移して入った。これもこの本で知りました。どんな方だと思われました?
兼田:僕が手伝わせていただく頃には音楽業界では知る人ぞ知る大プロデューサーという存在でしたけど、お話をすると穏やかというか、全然怖いところのない人で。こんな人がいろいろなことを取り仕切ってプロデューサーみたいな立場でやれるんだというぐらい穏やかな人でした。これもまたそもそもの話になっちゃうんですけど、本って別の方というか、クレジットには企画ということで入ってますけども井黒成郎さんという方がいらっしゃって、それは住友さんのTVKの後輩なんですね。その方が住友さんの業績を本に残したいとずっと考えてらして。でも、住友さんが「そんなのいいよ」っておっしゃっていたのをあるときに何度か僕も仕事でご一緒してたから、「じゃあ、かねやんにインタビューしてもらったらやりますか」って言ったらしいんですよ。「かねやんだったらいいかもな」って言われてっていうのが始まりだったので、そこからあらためてゆっくり住友さんの話を聞くようになって始まっていった本の作り始めだったんです。
田家:TVKがロックステーションになれた、これだけシーンの中で影響力があったという、彼だからできた感じがありますかね。
兼田:ありますし、やっぱりTVKというある種最初から逆境という。キー局があって、同じことをやっていたら食っていけないというところに入ったということ。住友さんが本来お持ちだったキャラクターとしての反骨心だったり、人とは違うことをやるんだということが上手くハマったところがあるんじゃないですかね。
田家:今日の最後の曲はこの人たちなんですね。Mr.Childrenの「星になれたら」。
田家:1992年12月に発売になった2枚目のアルバム『Kind of Love』に入っております。「ライブトマト」には1993年3月4日に出ていました。Mr.Childrenもそういう意味ではまだブレイクする前にTVK「ライブトマト」に関係があったということですね。
兼田:これまたBAD MUSICというJUN SKY WALKER(S)から始まって、Mr.Children、the pillowsとかTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTを送り出している、それこそロックなプロダクションがあるんですけども、そのプロダクションも住友さんと一緒にものを作っていく思いを共有できるプロダクションの1つで、その事務所のアーティストだったということも大きいんだと思うんですよね。
田家:この本についてあらためて思うことは?
兼田:住友さんは1948年で所謂団塊の世代ですよね。同期で入られたお2人の話も聞いて1番思ったのは、これは団塊の世代の人たちの青春物語なんだなと。青春時期に新しい局で職を得た人たちが辿る道が日本におけるロックの発展と重なっただけでということが作り終えた後でもすごく思うんです。だから、団塊の世代の方って人数も多いし、いろいろな分野で今の日本のベースを良くも悪くも作った世代の人たちだと思うんですけど、そういう世代の人たちだからこそおもしろいことを音楽でもテレビの分野でもやれたんじゃないかなということは勉強させていただきました。
田家:当時、TVKで音楽を知るようになった。特にロックはTVKが入口だったという人はたくさんいると思うので、そういう人たちに知ってほしいことはあります?
兼田:それこそTVKが「ファイティング80s」とか「ライブトマト」をやっていた時代よりも、今はストリーミングサービスとかあるし、掘ればいくらでも見つけられるからTVKがライブやミュージッククリップの形で伝えてきた、いい音楽がもちろん今でも聴けるのだから、ぜひそれを聴いてほしいなとあらためて思います。
田家:そういう入口にこの本がなればいいなということでもある。ありがとうございました。
兼田:今日はありがとうございました。
田家:「J-POP LEGEND FORUM 最新音楽本特集2022」今週は3週目。兼田達矢さんがお書きになった 『横浜の"ロック"ステーション TVKの挑戦』、ディスク・ユニオンから発売になっております。この本のご紹介、ゲストは兼田達矢さん。流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさん「静かな伝説」です。
音楽の歴史、特にフォークロック、J-POP系の歴史の中でテレビ局との相性はよくないんですね。関係があまりよろしくない。なんでかと言うと、テレビが偉そうだったということに尽きます。使ってやるとか、出してやるとか、売ってやるとか、そういう匂いがプンプンしておりまして、そういう姿勢でミュージシャン、アーティスト、レコード会社の人たち、僕らに対して接する人たちがいっぱいいた。70年代はその最たるものですね。レコード会社のスタッフが新しい見本盤を持っていくと、「こんなもの売れねえよ、事務所どこだよ、そのへん置いておけよ」という。中にはその場で割って、ゴミ箱に捨てるというような時代がありました。
シンガーソングライターがテレビに出ないようになったのは彼らが出なかったわけではなくて、相手にされなかったんです。あるときから態度が変わったこともみんな見てしまって、ああいう人とはもう付き合わないよというふうになっていたのがその歴史ですね。TVKがなぜこれだけアーティストと信頼関係を持てたかと言うと、これも簡単です。偉そうにしなかったから。一緒に作ろうとか、一緒に大きくなろうとテレビ局の方がそういう姿勢をちゃんと見せてくれた。誠意のある人たちが作っていた。そこにライブというのがあったんですね。ライブでみんなで音楽を共有しようよ、ライブがあるから僕らの音楽は活きるんだよねとか、ライブをファンの人たちに伝えていこう気持ちがTVKを支えてきたんだと、あらためてこの本を読んで思いました。テレビ局の時代はもう終わったかもしれません。インターネット、SNS、メディアの戦国時代が始まっております。ラジオが安泰とは言えません。でも、ライブを1番重要視するメディアが生き残るのではないのかなというのは予感でもあるし、希望でもあります。こういう話は来週の柴那典さんに伺おうと思います。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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