パティ・スミスの娘であるジェシー・パリス・スミスは、ヴァーレインが「短い闘病生活」を経て死亡したことをローリングストーン誌に認めた。「彼はニューヨークで、親しい友人たちに囲まれながら安らかに息を引き取りました。彼のビジョンと想像力は惜しまれることになるでしょう」とスミスは綴っている。
また、パティ・スミスはInstagramに彼女とヴァーレインの写真を掲載し、「これは、すべてが可能と思えた瞬間/さよならトム、オメガの彼方へ」と追悼文を寄せている。
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トーマス・ミラーとして生まれたヴァーレイン(この苗字はフランスの詩人、ポール・ヴァーレインに由来)はパンクのアイコン、リチャード・ヘルと高校の同級生だった。パンクの黎明期にマンハッタンのローワーイーストサイドにやってきたヴァーレインとヘルは、短命に終わった前進バンドのネオン・ボーイズを経て、1973年にギタリストのリチャード・ロイドと共同でテレビジョンを結成する。
ヴァーレインとテレヴィジョンは、CBGBやマクシズ・カンザス・シティといった伝説的ライブハウスで、トップ・アクトとしてそのサウンドに磨きをかけた。パティ・スミス(かつてヴァーレインのギター・サウンドを「1000羽の青い鳥の鳴き声」と喩えた)は初期テレヴィジョンが1974年に開催したライブを観客として目撃しており、翌年にパティ・スミス・グループとしてCBGBデビューを飾った際にはテレヴィジョンと共演している。
ヘルはまもなくテレヴィジョンを脱退し、ハートブレイカーズを結成。ヴァーレインとロイドのコンビは、パンクのリフとジャズのインタープレイを融合させたギター・サウンドを展開した。1975年にシングル「Little Johnny Jewel」でレコードデビューしたあと、バンドの代表作にして、パンク時代の最高傑作のひとつである『Marquee Moon』を発表した(ローリングストーン誌は当時のレビューで、ブロンディやラモーンズといったCBGBのバンドが1977年にリリースした一連の作品のなかでも「最も面白く、大胆で、なおかつ不穏」であると評している)。
さらに、ローリングストーン紙は「歴代最高のアルバム500選」の第107位に『Marquee Moon』を選出。
「ラモーンズのデビュー作が残忍なまでにシンプルであったのに対し、『Marquee Moon』はその叙情的な野心に満ちたサウンドで、いまも驚きを与えてくれる。『Friction』と『Venus』、そして強大なタイトルトラックは、ギザギザで切迫感がありながら、同時に美しくもある。パンクの資質としては、トム・ヴァーレインの声とソングライティングにおける謎めいた興奮と息の詰まるような実存主義を忘れてはならない。
その後のトム・ヴァーレイン
テレヴィジョンは1978年、2ndアルバム『Adventure』をリリースしたのち解散。その後、ヴァーレインはソロ活動に乗り出すことになった。パティ・スミスが記しているように、ヴァーレインは彼のアルバムで「無骨なリリシズムと鋭くて叙情的な傍白、ずる賢いウィット、それぞれの弦を揺らしてその真の感情を引き出す能力」を披露している。ヴァーレイン、ロイド、ベーシストのフレッド・スミス、ドラマーのビリー・フィッカの4人は、1992年に発表されたアルバム『Television』で再結成した。
※編注:1992年にテレヴィジョンは初来日公演を開催。2001年に再々結成し、2002年にフジロック出演。2007年のリチャード・ロイド脱退後は、ヴァーレインのソロに参加していたジミー・リップを後任ギタリストに迎えて活動継続。2013年、2014年、2016年にも来日公演を行った。
1979年、ヴァーレインはセルフタイトルのソロアルバム(邦題:醒めた炎)をリリース。同作の収録曲「Kingdom Come」は、デヴィッド・ボウイが翌年に発表した『Scary Monsters』にてカバーされている。ヴァーレインはポストパンクの探求を続けながら、インスト作品、サイレント映画のスコア、パティ・スミスやCBGBの住人たちとのコラボレーションまで手がけ、長きにわたりリリースを続けた。
ローリングストーン誌による1988年のインタビューで、U2のエッジはヴァーレインを大きな影響を受けた人物として挙げ、「僕がヴァーレインから影響を受けたのは、彼のスタイルというよりも、他の誰もやったことのないことをやったという事実に対してだと思う。僕はそこが好きだったし、実に価値のあることだと思ったんだ」と述べている。
From Rolling Stone US.