日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2023年1月の特集は「伊東ゆかりステージデビュー70周年」。
1947年生まれ、6歳のときに米軍の下士官クラブのステージで歌い始め、11歳でレコードデビュー。その後、カバーポップス、カンツォーネ、歌謡曲、J-ポップ、シティポップスなど時代の流行に乗ってヒット曲を放ち続けてきた伊東ゆかりの軌跡を5週間に渡って辿る。パート3は、オリジナル・カバーポップスの走り、海外進出に成功したパイオニアである姉妹デュオ、ザ・ピーナッツについて、伊東ゆかりとともに語る。

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J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今月2023年1月の特集は伊東ゆかりステージデビュー70周年、自叙伝。伊東ゆかりさん1947年4月生まれ。
初めて歌ったのが1953年、6歳でした。レコードデビューが1958年6月、11歳。そこから65年です。まだ日本にオリジナルのポップスがなかった時代に歌い始めて70年。去年ソニーミュージックレーベルズから『POPS QUEEN』と題したオールタイム・シングル・コレクションが発売になりました。6枚組138曲入り。
まさに自叙伝のような内容。今月はご本人伊東ゆかりさんをお迎えして、アルバムを中心に70年をたどってみようという5週間です。

伊東ゆかりさんの70年は、1人のシンガーの軌跡であると同時に日本のポップミュージックの歴史そのものですね。J-POPと呼ばれる音楽、中でもガールポップと呼ばれる音楽がどのように始まったのか。その一端を担っていた当事者であり、証言者でもあります。先週からの3週間は、その証のような内容でお送りしています。
先週は美空ひばりさん、雪村いづみさんと初代三人娘と呼ばれた江利チエミさんの曲を聴きながら思い出を伺ってきました。今週は、まさにオリジナルのカバーポップスの走り、海外進出に成功したパイオニアでもあります。ザ・ピーナッツの話を伺っていこうと思います。

田家:こんばんは。

伊東:こんばんはよろしくお願いいたします。伊東ゆかりです。


田家:縁の深い方ですね。

伊東:いや、縁が深いっていうか、ピーナッツさんと同じ社長さんの家に下宿していた。最初の頃ね。

田家:ザ・ピーナッツのレコードデビューが1959年4月ですが、ゆかりさんは58年4月。

伊東:ちょこっとだけ早いのよね。ただ、ただ早いっていうだけです(笑)。


田家:ピーナッツと最初にお会いしたときのことを覚えてらっしゃいます?

伊東:社長さんの家に下宿していたとき、多分台所か何かで会ったような気がする。あと、応接間にピアノがあって、そこ宮川泰先生が来て歌を練習していたりしたから、そんなときじゃないかなと思います。

田家:渡邊晋さんのご自宅はどういうお部屋だったのかも後ほど伺うと思うんですが、ピーナッツのほうが年齢は6つ上でしょ。お姉さんって感じはありました?

伊東:下宿している頃はお話もあまりしなかったので、『シャボン玉ホリデー』とかでちょこちょこお仕事を一緒にしだしてからですよね。メイクの話とかドレスの話とか。もうピーナッツさんは下宿を出ちゃってましたから、その頃ですね。
お姉さんみたいな感じで、ここはこうした方がいいわよとかアドバイスをしてくれたり。

田家:ピーナッツの話を伺う前に、伊東さんの6枚組のボックス『オールタイム・シングル・コレクション』から1曲お聴きいただきます。1963年のシングル「恋の売り込み」。オリジナルはエディ・ホッジス。

恋の売り込み / 伊東ゆかり

田家:この曲の〈出ておいでよん〉の〈よん〉って歌い方が好きで。

伊東:そう歌えって言われて、そう歌ってます。笑っちゃう(笑)。

田家:それはディレクターに言われたんですか? お父様?

伊東:いや、確かあらかはひろし先生に言われました。「ゆかりは鼻声でよく歌うだろう。鼻にぽんと通る。それがいいんだから、「出ておいでよ」の後に「ん」をつけて」って言われて、その通りに歌ってますね。

田家:それ響きましたね。あそこがいいんだよな。当時思っていたことで、英語の発音がね。

伊東:いやいや多分渡辺プロに英語の先生がいたんじゃないかな? 最後の〈Im gonna knockin ringin tap〉の口が回らなくてちょっと苦労しました。

田家:伊東ゆかりの発音って英語の先生よりも英語っぽいよなって話をみんなでしてました(笑)。

伊東:英語って歌から覚えた方が単語も覚えるし、いいですよね。文法からいくとどうも難しくて。

田家:この曲は、ザ・ピーナッツのラストライブで中尾ミエさんとメドレーがあって。

伊東:すごく長いメドレーですね、宮川泰先生の得意の。大変でしたあれは。

田家:ピーナッツの話の前にもう1曲、伊東ゆかりさんのカバーポップスをお聴きいただきます。1962年のシングル「ロコモーション」。オリジナルはリトル・エヴァ。ザ・ピーナッツのラストライブのメドレーでもこの曲が歌われておりました。

田家:ザ・ピーナッツは伊藤エミさんと伊藤ユミさん、双子の姉妹ですね。2人とも1941年生まれ。「伊藤シスターズ」という名前で名古屋のラテン音楽を聞かせるレストランで歌っていた高校生を渡辺プロダクションの渡邊美佐さんがスカウトした。見つけてきたのはジミー竹内さんってドラマーだったそうなんですが、ジミー竹内さんが渡辺プロに「こんな子がいるんですよ!」ということで、美佐さんが行って、その場で東京に来る交通費を置いて行ったという話が有名です。

ザ・ピーナッツの名前をつけたのはピーナッツの話には必ず出てきますテレビ番組『シャボン玉ホリデー』のプロデューサー井原高忠さんでしたね。女性ポップス、女性のデュオでいうと、この人たちで始まって、いまだにこの人たちを超える2人組はいなかったんじゃないかと思わされますね。伊東ゆかりさんは渡辺プロダクションの仲間だったわけで、ゆかりさんの話を聞く前に、ピーナッツのおさらいをちょっとの時間してみようと思います。

田家:ザ・ピーナッツ、1959年9月発売3枚目のシングル「情熱の花」お聴きいただきました。ベートーヴェンの「エリーゼのために」をアレンジした大ヒット曲ですね。オリジナルはイタリアの人気歌手カテリーナ・ヴァレンテが歌ったんですね。60年代のカバーポップスはアメリカの曲が主流でしたけど、アメリカだけじゃなかったんですね。しかもヨーロッパ系の曲で海外で火がついた。日本のポップスが海外で評価された最大の例は坂本九さんの「スキヤキ」「上を向いて歩こう」がビルボード1位になった出来事でしょうね。これが1963年6月なんですが、九さんの「スキヤキ」も最初はヨーロッパだった。イギリスで火がついて、イギリスからアメリカに情報が行って、アメリカのDJがかけてアメリカでヒットした流れだったんです。

ピーナッツは1963年から海外に行き始めて、5年間で8回海外公演。海外で歌っているんですね。それもドイツ、オーストリア、アメリカ、オランダ、ソ連。しかも当時のソ連は日本と国交がない国だったんですけど、国賓級の扱いを受けたという記事が残っております。アメリカではエンターテイメント番組を代表する『エド・サリヴァン・ショー』とか『ダニー・ケイ・ショー』にも招かれて歌ってるんですね。日本のガールポップの走りだった。当時のシンボル的な存在だったと言っていいでしょう。

田家:1960年4月発売「悲しき16才」。アメリカではキャシー・リンデンという人で大ヒットした曲ですね。〈やややーや〉ってのがかわいらしいでしょ。伊東ゆかりさんの曲の中にも〈うぉううぉう〉って歌詞がある。〈やあやあ〉とか〈うぉううぉう〉とか〈シャララ〉っていうのは当時のアメリカンポップスの一つのアイコンでもありました。16歳っていうのがこの頃のキーワードですね。伊東ゆかりさんには「すてきな16才」という歌もあります。

ザ・ピーナッツは、こういうコーラスがとても綺麗にハモっているという意味でも、日本のコーラスグループを代表する一組ではあるんですが、カバーポップス全盛の中で日本語のオリジナルを模索していた2人だったんですね。「情熱の花」のカップリングは、「米山さんから」って歌なんです。ちゃっきり節とかおてもやんなんかも8ビートで歌っている。これはロカビリーの人たち日劇ウエスタンカーニバルで歌った平尾昌晃さんとか山下敬二郎さんとかの男性も民謡を8ビートにする試みをしてるんですね。そういうところから日本語のオリジナルのポップスが始まってきていると言えると思うんですが、ピーナッツ最初のオリジナルのヒットが、この後の後にお聞いただく「ふりむかないで」って曲。その前に「悲しき16才 」のB面をお聴きいただこうと思います。実はこの曲、私が好きだったんですね。 ピーナッツ最初のシングルのオリジナルです。「心の窓にともし灯を」。

田家:ザ・ピーナッツ1960年4月発売「心の窓にともし灯を」。さっきの「悲しき16才」のカップリングだったんですね。私は13歳、14歳で中学生。この歌好きだったな。寂しい中学生だったんでしょうね(笑)。作詞が横井弘さん。伊東ゆかりさんの「パパの日記」を書いた人でもありますね。作曲は中田喜直さん。「小さい秋みつけた」とか「めだかの学校」とか「雪の降るまちを」とかいろいろな名曲があって、学校の教科書にも載っている方ですが、甥っ子さんが細野晴臣さんと大学のバンドで一緒で。細野晴臣さんと大滝詠一さんを引き合わせたのが中田喜直さんの甥っ子だったという、その後のストーリーもあります。

日本のポップミュージックに残した渡辺プロの功績っていうのがいくつかありまして。一つは原盤という形を最初に作ったんですね。クレイジーキャッツでしたけど、レコード会社ではなく自分たちが原盤を作ってレコード会社に渡すシステムを彼らが作った。そしてフリーの作家を多く使ったんですね。それまではレコード会社の専属性があって、作詞家も作曲家も他のレコード会社の仕事はできなかったんですが、渡辺プロはレコード会社に縛られないフリーの人たちをたくさん使った。だから渡辺プロの音楽はいろんな人が共作しているんです。

もう一つはテレビメディアの活用。制作を担当したんですね。『ザ・ヒットパレード』は渡辺プロ制作です。ディレクターがフジテレビのすぎやまこういちさん。1959年6月に放送開始で、そこから洋楽のヒット曲を日本語で歌うランキング番組がテレビで初めてできたんです。ピーナッツはそのレギュラーで、その中でこれを歌ったんだと思うんですね。それで中学生の寂しい心に届いたんでしょうね。そういうカバーポップスが並ぶ中で最初に大ヒットしたのが次の曲。オリジナルです。1962年3月発売、作詞が岩谷時子さん、作曲が宮川泰さん。「ふりむかないで」。

田家:〈イエイイエイイエイ〉ですからね。王道のアメリカンポップスのフォーマットを使っていると言っていいでしょうね。日本の都会的ポップソングのはしりですね。これを聴いたときはドキドキしました。中学生ですから。男女が同じ空間にいる。女性は靴下を直しているんですよ。しかもその靴下は黒い靴下ですよ。子供にとっては見てはいけないもの。男性が「ちょっとあっち向いてて」って言われて直してるって情景を想像するだけで胸がドキドキしてきて、ピーナッツの顔を見て顔が真っ赤になるという少年でしたね。タータンチェックとかロマンスってカタカナが歌詞の中に出てきている。岩谷時子さんが女性の作詞家として決定的な評価を受けるようになった。加山雄三さんとのコンビはこの後ですからね。岩谷時子さんとザ・ピーナッツは切っても切れない関係でした。

田家:というわけで再びよろしくお願いします。1959年4月発売「可愛い花」。

伊東:これはピーナッツさんがユニゾンでで歌っていて、途中でわかれてハーモニーになるでしょ? あそこが好きですね。私は中尾ミエさんとよく歌ったんですけど、中尾ミエさんはメロディーで、私がハーモニー。私はつきちゃんひでちゃんって呼んでいたので、お姉さんのひでちゃんの方のハーモニーをずっと歌ったんですけど、ある時ピーナッツさんが中尾ミエさんと私の「ベストフレンド」っていうコンサートを見に来てくれて、「ゆかりたち合格!」って(笑)。「あとは、あなたたちに任せた」って言われて。

田家:合格って言われたときどう思いました?

伊東:やったね!ってミエさんと2人で。

田家:やっぱりそういう存在だった。ピーナッツは渡辺プロダクションが育成した第1号ってなっているんですが。

伊東:一時はみんなピーナッツさんの方に宮川泰先生やら社長やらが向いていて、ちょっとヤキモチを焼いたこともありますよ。

田家:渡辺プロダクションはクレイジーキャッツとか、いわゆる先週の話にあった米軍キャンプでやってらっしゃるジャズミュージシャンたちが所属していて、そこにピーナッツが入ってきた。所属アーティスト一覧っていう厚い本を見たら、ザ・ピーナッツの名前は1959年からなんです。伊東さんの名前はですね1958年の6月から。

伊東:ちょっと先輩なんだ。年数は(笑)。あの頃の渡辺プロさんはまだ始めの頃で、所属はクレイジーキャッツさんとかジャズの歌手の方が多かった。渡邊晋とシックス・ジョーズはもちろんそうですけど、こういう歌謡曲とかポップスを歌う人は私ぐらいじゃなかったかな。あとはみんなジャズの人ばっかりでした。女性歌手で小川洋子さん、丸山清子さん、宇治かほるさんにはメイクの方法を教わりました。笈田敏夫さんの奥さんになった方ですよね。

田家:皆さんジャズの方だった?

伊東:ですね。もちろんこの方たちもアメリカ軍のキャンプで歌ってました。

田家:いわゆる先輩後輩の順列みたいなものはあったんですか。先輩を立てろとか敬語を使えとか。

伊東:楽屋の振る舞いはうるさく言われました。特にクレイジーキャッツのハナ肇さんは楽屋のことはとってもうるさく言いました。私達は新人ですから、楽屋の奥に行くなとか、楽屋でギャーギャーギャーギャー騒ぐなとか、楽屋で歌の練習するなとか。先輩がしてる分にはいいけど、私達はまだ下っ端ですから聞こえない便所でしろとか。あと人の靴までちゃんと揃えなさいとか。そういうことはうるさく本当に言われました。しつけられましたね。

田家:1963年4月発売、ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」。作詞岩谷時子、作曲宮川泰。さっきの下宿なんですけども、写真だと木造家屋で2階にいますよね。

伊東:ピーナッツさんは駐車場の上の木造にいました。お台所の裏手の方にプレハブ住宅っていうのが流行りかけたのかな。私たちはプレハブで2階で4段ベッド。中尾さんと私と後からの梓みちよさん3人でそこにいました。

田家:かなり広いお宅だったんでしょうね。

伊東:今考えれば結構広いお宅でしたよ。お庭も広かったし。

田家:応接間にテレビ局の人とかレコード会社の人がたくさん集まって。

伊東:応接間じゃなくて日本間。夜集まってきて、そこで麻雀が始まる。そこにお茶を運んだり、おにぎり運んだり、いろんなディレクターの方とか新聞社の方と初めましてとかご挨拶して。ミエさんなんかはずっとそこにいてお話したり。私はすぐ引っ込んじゃって(笑)。

田家:宮川さんのレッスンはまた別の時間に。

伊東:そうです。昼間聞こえてくるんですよね。よくハモってるなとか、さすが姉妹なんだなとか思いながら聞いていました。

田家:岩谷時子さんにザ・ピーナッツの話を伺ったことがあって、「あれだけ行儀がよくて、いい意味の普通のお嬢さんはいなかった」っておっしゃってたんですよ。そういう感じはありました?

伊東:とにかく私が見てるピーナッツさんの姿は、いつも何か練習をしていましたね。歌の練習、それから振り付けの練習。どこで休むんだろうって不思議な感じがしました。お仕事のときは楽屋も違いますけど、どっちか1人が歌って、それにハーモニーをつけたり振り付けの練習。私の知ってるピーナッツさんは本当にあの人たちどこで休むんだろうって感じでしたよ。

田家:そういう2人が先ほどの「恋のバカンス」に次ぐこのヒット曲を歌いました。1964年9月発売、「ウナ・セラ・ディ東京」。

田家:伊東ゆかりさんが選ばれた「ウナ・セラ・ディ東京」。作詞岩谷時子さん、作曲宮川泰さん。宮川さんのレッスンはどういうものだったんですか。

伊東:宮川先生のレッスンは、私達のときは結構明るく、ちょっと間違った音を出すと「それにしよう!」とかだったんですけど、ピーナッツさんのときはそういうのはなかったみたいですよね。力を入れてるって言ったら変ですけど、厳しい先生だったみたいですね。

田家:この曲はマスコミから当時「無国籍歌謡曲」って叩かれたんですよ。どこの国の歌かわからないって。

伊東:いいじゃないですかね、と思いますけど。何ででしょう(笑)?

田家:当時のマスコミはそういう古い人たちが集まってたんでしょうね。宮川さんも渡邊美佐さんもこういう曲が日本で生まれて海外に聞いてほしいんだ。むしろそれは褒め言葉だと思うってお話もされてました。ピーナッツはやっぱりプレッシャーがあったりしたんでしょうかね。

伊東:あれだけ楽屋でもハーモニーとか踊りの練習したら、いざ本番になったらもう心配はなかったんじゃない? でもガクガクはしてたかもしれませんね、わかんないけど。とにかく2人で歌うから、どっちか一方がもし音を間違えちゃったらガシャガシャなっちゃいますよね。ピーナッツさんっていうのはハモるのが当たり前。ユニゾンなんか聞いても、ユニゾンで聞くと1人が歌ってるみたいな感じでしょ、ピタッと合って。それが当たり前のピーナッツさんですから、ちょっとでも間違えたらすぐわかっちゃうんじゃない。そういうプレッシャーがあったかもしれませんね。

田家:ヒットさせなければいけないってのもあったかもしれない。

伊東:踊りの振りにしても、本当に同じシンクロナイズドスイミングのデュエットみたいな感じでやってたから、間違えちゃいけないっていうプレッシャーはあったと思いますよね。

田家:ピーナッツの2人のような方は、今の音楽をやってるような人たちに、どんなふうに届けばいい、知ってほしいですか。

伊東:今は時代が違うから、どうなんでしょう。今の方たちって音を覚えるのも早いし。踊りまくって歌うなんてことは当たり前でしょ? 今のピーナッツさんのときのレッスンの仕方をしたら、みんな辞めてっちゃうのかもしれない(笑)。

田家:そうかもしれないですね(笑)。今日最後の曲は「ラバー・カム・バック・トゥ・ミー」。

ラバー・カム・バック・トゥ・ミー (恋人よ我に帰れ) / ザ・ピーナッツ

田家:伊東ゆかりさんが選ばれたザ・ピーナッツの4曲目、ジャズのスタンダード「ラバー・カム・バック・トゥ・ミー (恋人よ我に帰れ) 」。

伊東:これはたしかピーナッツさんが『エド・サリヴァン・ショー』で歌ったんですよね。ライブになると生の音ですから、宮川先生がノっちゃってテンポがどんどん速くなる(笑)。

田家:伊東ゆかりさんはラストコンサートに一緒に参加されました。あれはどんなふうに思い出されますか。

伊東:いやあ、楽しかったですよ。宮川先生の30曲近いメドレーをやって。昔のビデオなんか見ていたら、ようやったなと思って。振りもありましたし、4人でハモるところもあったし、楽しかったですね。ラストコンサートの千秋楽の日、東京でやってるんですけど、フィナーレの歌が終わったら、ちょうど日出代(エミ)さんのフィアンセの沢田研二さんが客席から出てきて、みんなびっくりして。ステージこそ上がりませんでしたけど、びっくりしました。ハプニング。

田家:そういうお付き合いをしてたってご存知なかった?

伊東:いや、みんな知ってました。結婚するのでやめるってことでラストコンサートになったと私は記憶してますね。

田家:いい思い出ですね。

伊東:これで、やっぱりピーナッツさんは引退するんだなって改めて感じましたね。結婚っていいんだなって思いましたけど。その頃私は結婚して別れてますから(笑)。私が言うのもなんですが、そこで結婚っていいなと思いました。

流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。渡辺プロ。帝国というふうに言われましたね。これも改めて知ったんですが、渡辺プロの所属女性歌手ではザ・ピーナッツよりも伊東ゆかりさんの方が先だった。

渡辺プロダクションは50年代から60年代、そして70年代、今でも力を持ってるプロダクションですけど、元々はジャズミュージシャンの夢を組織化したいということで始まったんですね。社長さんだった渡邊晋さんは、中村八大さんもいた人気バンド・シックス・ジョーズのバンドのベーシストでした。渡邊美佐さんはバンドのマネージメントをする学生さん。渡邊美佐さんのお父様はマナセプロダクションという会社をやっていて、仙台の米軍キャンプに東京からミュージシャンを呼んで、向こうでクラブとかエンターテイメントの場所にミュージシャンを派遣する会社をやっていたんですね。そういう中で、もっと音楽ビジネスは近代的にならなければいけないということで2人が発足したのが渡辺プロでありました。

音楽ビジネスの近代化に最も功績があったプロダクションと言っていいでしょう。その後の巨大権力ぶりがいろんな形で尾鰭がついたり実際にひずみが生じたり、大きくなりすぎたことで、70年代にあっち側、歌謡曲側の総本山みたいに見られていった歴史でもありましたね。伊東ゆかりさんのお父様は渡辺プロダクションのそういうミュージシャン仲間でお付き合いがあったんですが、70年代に入ってそこから離れるストーリーも5週目でお聞きできるんではないかと思います。来週は弘田三枝子さんの話をお聞きします。

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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