「水の神秘性」とアンビエント
「自分でも、歌詞を書いたあとにそれに気づいたの。多分、洗礼だったり再生を意味するのかな。滝の水の下で洗い流され、よみがえりを感じるような」
あなたにとって「水」とは?という質問に対し、ケレラはそう答えている。アートワークから曲のタイトル、サンプリング音、リリックに至るまで、水の持つ不思議さに憑りつかれている本作は、ケレラがこれまでも持ち合わせてきたアブストラクトな要素を決定的にあぶり出しているようだ。
そもそも、これまで古今東西のあらゆる優れた音楽家が「水」の魔力にインスピレーションを受け、おおいに引用してきた。顕著なジャンルとしてはアンビエントで、たとえば高木正勝はじめ多くの作品で水の音が頻繁に捉えられるし、「アンビエンスなムード」という広い括りで考えると、滴る水の音を楽曲へと静かに取り入れてきたミュージシャンはアルバム・リーフやボーズ・オブ・カナダなど枚挙にいとまがない。ヒップホップではジェルー・ザ・ダマジャの「Come Clean」でDJプレミアがサンプリングした水滴のような音が真っ先に想起される。アートワークに目を向けると、水しぶきを写すガスター・デル・ソルの『Upgrade & Afterlife』は、様々な音色と不協和音が一体となり溶け込むことで音のグラデーションの境界を揺らぎ続ける。同様の揺らぎのアプローチは国内でも岡田拓郎によって「Deep River」や「To Waters of Lethe」といった曲で緻密な音響とともに表現され、優河も近作「WATER」で夜明けの曖昧な心情を描いた。近年のR&Bでも、水のフィーリングはUMIが「River」でアトモスフェリックなムードによって歌いあげ、ケラーニは昨年『Blue Water Road』で海から香るフレッシュな感性をアルバム全体に投影している。
果たして、水とはなぜこれほどまでに表現者を惹きつけるのだろう。
そしてケレラの今作『RAVEN』においても、水の魔力があらゆる効果を発揮し、聴く者をビザールな音の洪水へと誘い込んでいるのだ。冒頭の「Washed Away」から、リバーブの効いたパッド音を背景にケレラの声とシンセがこだまし、終盤には水しぶきが聴こえる。「Sorbet」では、”It's waves / Rushin in / The taste on my mouth / Can we go again=波よ押し寄せて/口の中の味/もう一回行ける?”というリリックに乗せて、身体の境界が溶けていくようなアンビエンスなサウンドがじわじわと広がっていく。ゆったりとした静謐なベース音は、水中の中からぽつぽつと浮き上がる気泡のようにも聴こえる。
ケレラは今作で、水の神秘性や魔力をアンビエンスなサウンドで表現しているのだ。ヨー・ヴァン・レンズとフロリアン・T・M・ザイジグからなるデュオ・OCAをはじめ、起用されたプロデューサー陣は、ケレラ自身が感じている身体や感情のおぼつかない感覚をじっくりと繊細に料理する。その感覚はもちろん、この優れた音楽家が黒人女性というだけで受けてきた不当な扱いに対し抱く、怒りや哀しみを起点に生まれている。
本人は次のように語る。「業界には、皆が用いるスタンダードな曲の書き方が存在していて、しかも、それはどんどん範囲が狭くなってる。特にエンタメ業界の中の黒人女性に求められるものはそう。より肌の明るいライターたちがある基準を作ってるのよね。成功するためのスピードとか、サウンドとか、体型とか。投資金だって、その基準に従って決まっていたりする」。
それがゆえに、共同制作者であるアスマラとバンビーとは同じ葛藤でつながっているようだ。「アスマラもインディアン・アメリカンだし、バンビーも黒人だし、私たち皆が全く同じではなくても、男性や白人のエゴと戦ってきた。だから、私たちは3人とも気持ちが分かり合えるの。自分たちがやるべきことをやってきて、彼らがやっていないことがわかりながら作業をしなければいけない気持ち。歌詞にも制限があったり、本当に意味のある作品というものを作りたいのに作れない葛藤を、私たちは経験しているのよね」。
葛藤の末に立ち上がった肉体性
ただ、ケレラがアンビエンスな音像に接近するのは決して今作が初めてのことではない。特に、2019年にドロップしたミックステープ『Aquaphoria』は、アスマラとともにアンビエントとR&Bの融合を試みた極めてオリジナリティ高い作品だった。デビュー当初から見せていたレイヴィーなブレイクビートの要素に加えて、アンビエンスな側面は、ケレラのもう一つのアイデンティティとしてすでに根づきはじめている。ゆえに、今作はこの音楽家がデビュー当初から培ってきた大きな二軸の音楽性が甘美な潮目のもと合流した、集大成としての一作としても捉えられるだろう。タイトル曲「Raven」などは最もその手腕が分かりやすく披露されているし、両者の世界観がシームレスに繋がれる「Closure」から「Contact」の流れはあまりに魅惑的で筆舌に尽くしがたい。
けれども、遊泳するアンビエントと攻撃的なクラブミュージックの共存をやってのけながら、ケレラならではの細工がもう一つ隠されている点を聴き逃してはならない。本作には、芸術作品における「水」の効果として先述した”曖昧さ”がふんだんに投影されながらも、”運動性”と”時間への意識”もまた見事に表現されているからだ。
だからこそ私は、2018年のサマーソニックでケレラのステージを観た時の、震えるベース音の衝撃を思い出す。ケレラはUKのクリエイターと関わりながらダブの魅力を的確に捉え、本作においてアンビエンスな楽曲においても空気を振動させている。「水」としてのアンビエントに、「空気」を振動させるベースサウンド。空気の振動が水面を揺らす、水流を作る――あの映画作品のように。そこには”運動性”と”時間への意識”が生み出される。ケレラは黒人女性という疎外された境遇に対しアンビエンスな様子で葛藤しながらも、それでも有形である自身の肉体を揺らし、運動と時間を生み出す。
「(アルバムタイトルである)”Raven”とはあなたにとって何を意味するのでしょうか?」という問いかけに対し、ホワイトとブラックという色の持つ意味性に疑問を投げかけながら、ケレラは次のように答えるのだ。
「鳥って、白い鳥が良い鳥で、黒い鳥が悪い鳥っていうイメージがあると思わない? で、”そんなの馬鹿げてる!”と思って、黒い鳥の名前をタイトルにしようと思ったわけ(笑)。それで黒い鳥の名前をググって、Ravenがかっこいいなと思って意味を調べたら、それが大当たりだったの。Ravenはサイコパスであり、スピリチュアルな世界と現在の地球の世界をつなぐメッセンジャーらしいのよね。これは私だ、と思った。
ケレラの表現は、今年一年を通して世界中の音楽家に影響を与え、葛藤の末に立ち上がった肉体性は次なる音像の指標としてじわじわ浸透していくだろう。『Raven』は、水と空気の魔術師から届けられた、2023年の早すぎるベストアルバムである。

ケレラ
『RAVEN』
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