ブーツィー・コリンズの影響力は、いかに強調してもしすぎることはない。
2017年頃からツアー活動を控えるようになったものの、ブーツィーは自身のスタジオ「ブートケイブ(Bootcave)」において、数々のスターと共にアルバム制作を続けている。最近の作品では、彼に影響を受けたスヌープ・ドッグやチャック・D、同じベーシスト仲間であるヴィクター・ウッテンやスタンリー・クラーク、かつてのバンドメンバーである故バーニー・ウォーレルとのコラボレーションが実現している。さらに、4月11日発売予定の新作アルバム『Album of the Year #1 Funkateer』には、Pファンク時代の盟友であるジョージ・クリントンとの未発表コラボレーションも収録されており、ブーツィーは「最高にヤバい作品になる」と語っている。
このキャリア総括インタビューで、現在73歳のブーツィー・コリンズに、半世紀以上にわたるファンクづくりの変遷と、自分がどのようにして”ブーツィラ(Bootzilla)”になったのかを語ってもらった。
ジェームス・ブラウンからの教え
―成功していちばん良かったと思うことは何でしょうか?
ブーツィー:実験できることかな。楽器を持って、自分がその楽器になったような感覚で、音楽が自然に降りてくるときって、まるでギフトみたいなんだよね。それをみんなに渡していく感じ。でも、2~3ドルもらえたら、それはそれでありがたいよ(笑)。
―では、成功して一番つらかったことは何でしょうか?
ブーツィー:一度フランケンシュタインがモンスターを作っちゃったら、もうコントロールできなくなるんだよね。家族と時間を過ごしたくても、成功し始めると全部があっという間に進んでいって、そのモンスターがやってきて、全部を飲み込んでしまう感じなんだ。
それと、ビジネスの部分だね。ジェームス・ブラウンが前に言ってたんだよ、「ビジネスが75%、音楽は25%」だって。でも当時の俺は、その言葉を鵜呑みにする気になれなかった。音楽が大好きだったからさ。それでもやらなきゃいけないってわかったときは、正直ちょっと悲しかった。でも、やるしかないんだよね。ジェームスが言ってたよ、「人は食わなきゃ生きていけない。働かなきゃ、食えないんだ」ってさ。
―ジェームス・ブラウンは、演奏中にミスをしたミュージシャンに罰金を科していたそうですが、それは正しいことだったと思いますか?
ブーツィー:彼にとっては、正しかったんだと思うよ。俺にはそんなことできなかったけどね。
ジェームスは罰金でやる気を引き出そうとしてたんだよ。いわゆる逆心理ってやつだな。でも当時の俺たちは、全然その意味がわかってなかった。「なんで俺たちがダメだって言われるんだ? なんで金取られなきゃいけないんだ?」って思ってた。でも、あの経験を通していろいろ学んだよ。ある程度まで行ったら、ジェームスはもう罰金は取らなくなった。
それに、たぶん彼も気づいたんだろうな。俺たちから罰金を取ろうにも、もともと金なんて持ってないんだからさ。ストリート出身の俺たちは、最初は給料をもらうって感覚すらなかった。
―ジェームスは自分を「ミスター・ブラウン」と呼ばせていたそうですが、あなたも「ミスター・コリンズ」と呼ばせたことはありますか?
ブーツィー:いや、それは絶対にないね。俺にとっては、そういうのはもう時代遅れって感じなんだよ。「ミスター・コリンズ」って呼ばれると、「いや、ブーツィーでいいよ」って返してる。俺はいつでも”子どもの心”を持っていたいんだ。そういう大人にはなりたくない。みんなのことはちゃんとリスペクトするし、もし俺のことをリスペクトしてくれなくても、それはそれでいい。でも、他人に「ミスターって呼べ」って強制するのは、ちょっと違うかなって思う。
―とはいえ、彼がそうしていた理由も理解していたのでしょうか?
ブーツィー:それはそうさ。ジェームスには信用できる人間がいなかったんだと思う。あの人の生い立ちを考えれば無理もないよね。
―当時はその意味を理解していましたか?
ブーツィー:いや、すぐにはわからなかったよ。俺は父親のいない家庭で育ったから、「息子」ってどうあるべきかも知らなかった。でも、ジェームスは俺たちのことを息子のように扱ってくれたんだ。最初は戸惑ったけど、今はほんとに感謝してる。あの経験のおかげで、いろんなことを学ばせてもらえたからさ。
生まれ故郷シンシナティ、母や兄との関係について
―あなたとお兄さんのフェルプス・”キャットフィッシュ”・コリンズ(編注:2010年死去)は、シンシナティでハウスパーティーなどの演奏をしていたときに、ジェームス・ブラウンに雇われたそうですね。あの街はあなたにどんな影響を与えましたか?
ブーツィー:あの街で育ったおかげで、いろんなコミュニティの雰囲気を感じることができたんだ。母ちゃんは床を磨いたりする仕事を2つか3つ掛け持ちしてて、よく仕事場に俺たちを連れて行ってた。学校が終わったら、母ちゃんの仕事を見てなきゃいけなかったんだけど、俺と姉ちゃんはふざけてばっかでさ。
シンシナティって、俺にとっては「2カ月に1回引っ越す場所」だった。家賃が払えなくてさ、母ちゃんに金がなかったから、いつも荷物は箱に詰めたまま。だから、街のいろんな場所を転々として、そのたびに新しい友達ができたんだ。ギターを弾き始めたら、ギャングの連中が俺のことを気に入ってくれてさ。女の子がたくさん集まってくるから、俺の周りにギャングも集まるようになった。まるで俺が何かすごいヤツみたいに見えてたんだろうな。他の街だったら、あんな風には扱われなかったと思う。
―お兄さんと一緒に演奏することで、ベーシストとしてどんな影響を受けましたか?
ブーツィー:子どもの頃、兄貴が新聞配達してたから、俺もマネして新聞を配ってたんだ。兄貴は赤いワゴンを持ってて、「俺もああなりたい」って思ってた。ギターを弾いてて、バンドもやってたんだけど、仲間を家に呼んでリハーサルする時、俺はいつも窓の外から見てた。中には入れてくれなかったからね。「おい、出てけよ。邪魔だ」って感じでさ。俺は「見てるだけなのに!」って思ってた。でもバンドの連中は、俺がウロチョロしてるのを面白がってくれてたよ。みんな俺より8歳とか15歳も年上で、俺は9歳、彼らは22歳とかだった。
兄貴がそんな風に俺を遠ざけるもんだから、「見てろよ、いつかギャフンと言わせてやる」って思ってた。兄貴が新聞配達に行ってる間に、こっそりギターを持ち出して練習してたんだよ。で、そのうち兄貴が気づくんだ。「あいつ、めっちゃ弾けるじゃん」ってね。実際そうだった。ある日ギグに連れて行かれることになったんだけど、それは母ちゃんが「ギグに行くなら弟も連れて行きなさい」って言ったからなんだ。あの夜が、俺の人生を変えた夜だったよ。あれがすべての始まりだった。
―ジェームス・ブラウンのライブ・アルバム『Love, Power, Peace: Live at the Olympia, Paris, 1971』を聴くと、キャットフィッシュの「Sex Machine」でのリードギターが本当に素晴らしいですね。
ブーツィー:あいつがどれだけすごい演奏をしていたのか、本当の意味で知ってる人はほとんどいないと思う。俺の手元には、まだ世に出てない録音やテープがいくつもあるんだ。だから、キャットフィッシュのアルバムをなんとかして出したいと思ってる。ぶっ飛ぶような映像もあるし、きっとみんな驚くと思うよ。
スターマンとブーツィラの誕生
―ジェームス・ブラウンと活動した後、あなたとキャットフィッシュはジョージ・クリントンと共にパーラメントやファンカデリックに参加されましたが、カルチャーショックはありましたか?
ブーツィー:ジョージは、どっちかっていうと父親というより兄貴みたいな感じだったね。だから女の子とも遊べたし、やりたいことが自由にできた。ミスター・ブラウンのもとじゃ、そんなの無理だった。ジョージと一緒になってからは、ビジネス面でもいろいろ試すチャンスがあったんだ。レコード会社に「俺はこういう音をやりたい」「こんな服を着たい」「こういう見た目で行く」って説明できたし、「俺たちちょっとイカれてるけど、そこまでじゃないよ」ってちゃんと納得させることができたんだ。「これはただのルック(見た目)なんだ」ってね。スーパーマンみたいなもんさ。普段はクラーク・ケントで、スーパーマンになるときだけ変身するって感じ。
―良いイメージを作るためのアドバイスはありますか?
ブーツィー:俺の場合は、自然に形になっていった感じだったよ。学校に通ってた頃、机に座ってよく棒人間の絵を描いてたんだけど、なぜか星型のメガネをかけた”スター・マン”ばっかり描いてたんだよね。で、ジョージと組むようになったときに、「あ、あのイメージを使えばいいんだ」って思った。だから、昔学校で描いてた絵が、そのままステージのイメージになったんだ。
―あのミラーレンズの星型サングラスには、どんな意味があったのでしょうか?
ブーツィー:ファンのみんなが俺に夢中になってくれてたのは、すごく嬉しかったよ。でも、同時に「君たちもスターなんだよ」ってことを伝えたかったんだ。いちいち一人ひとりにそう言わなくても、あのサングラスをかけることで、自然とそれが伝わるようにしたんだよね。サングラスが語ってくれてたんだ。
―星型のベース(スペース・ベース)を作ってもらうのは簡単でしたか?
ブーツィー:いや、全然簡単じゃなかったよ。ついこの前、当時俺が描いた実際のデザイン画を見つけたんだけどさ。最初は1974年、ミシガン州ウォーレンで「スペース・ベース」を作ってくれる人を見つけたんだ。名前はラリー・プレスと言って、アコーディオンの修理屋で働いてた。
それまでニューヨークの48丁目を端から端まで回って、「こんなの作ってくれ」って頼んだけど、みんな「この形じゃダメだ」「音がちゃんと出ない」とか言って断ってきた。
で、アコーディオンショップの店主に「ベース作れますか?」って聞いたら、「なんでアコーディオン屋に来たの?」って言われた(笑)。でも俺にとっては、ただの”音楽の店”だったからさ。何が起こるかわからないもんだよ。そしたら、「あ、奥の部屋にアコーディオンもギターも作るギタープレイヤーがいるよ」って言うから、「じゃあ会わせてくれ」って頼んで、そっから話が進んだんだ。実際に完成したのは1975年だった。
―”Wiind me up(俺のネジを回してくれ)”のような名キャッチフレーズを生み出す秘訣は何でしょうか?
ブーツィー:あれはね、ある日ジョージが俺の新しいサングラスを見たんだよ。真ん中に星がついてて、ラインストーンがいっぱいついてるやつ。それ見て「うわ、お前モンスターみたいだな!」って言ってきたんだ。すかさず「俺はブーツィラだぜ!」って返した。別に計画してたわけじゃなくて、そういうのって自然に出てくるもんなんだよ。ファンクの面白いところはそこなんだよね。何かが”起こる”から、それをパッとつかまえるだけ。
※編注:「ブーツィラ」(Bootsy + Godzilla)はゼンマイ仕掛けの玩具という設定
―誰かがあなたの見た目や雰囲気を真似すると、嫌な気持ちになりますか?
ブーツィー:いや、全然クールだなと思ってたよ。むしろ「よし、そろそろ次に行こうかな」ってスイッチが入るきっかけになってた。誰かが今の俺のスタイルを真似したら、俺は次のステージに進むだけ。それがモチベーションにもなってたんだ。
ブーツィーに訊く「ファンクとは何か?」
―新作のタイトルは『Album of the Year #1 Funkateer』と名付けられていますが、ご自身のアルバムが「今年最高のアルバム」だと確信できるのはなぜですか?
ブーツィー:Pファンクやジェームス・ブラウンと一緒に過ごしてきた時間の中で、いつも他の人たちが賞をもらってるのを見てたんだ。でも、俺たちは全然もらえなかった。だから思ったんだよ、「誰も言ってくれないなら、俺が自分で言うしかないだろ」って。
それって1978年の『Bootsy? Player of the Year』と同じなんだ。あれだって、最初はただのアルバムだったけど、俺が「プレイヤー・オブ・ザ・イヤー」だと言い張ったことで、賞みたいになった。だから今回もまたその時期が来たってことさ。「おいおい、また俺のことスルーか? じゃあ、これ見てみろよ」って感じで、自分のアルバムに『Album of the Year』って名づけたんだ。
ファンクってのは、何もないところから何かを生み出すことなんだよ。
―あなたはファンクを宗教のように語ることが多いですね。ファンクとはどれほど重要なものなのでしょうか?
ブーツィー:ファンクは”言葉”なんだよ。そしてその言葉が”肉体(実体)”になったものだ。ファンクがなければ、この世の物理的な何かってのは存在しないんじゃないかって思ってる。
俺たちが持ってるのは2つ。ファンクと、スピリット(魂)だ。人間は手に入れたものを使って、道具を作ったり、何かを生み出したりしてきたけど、最初に何かを生み出したのは人間じゃない。ファンクなんだ。ファンクこそが、最初の創造なんだよ。
―1977年の曲「The Pinocchio Theory」で 〈Dont fake the funk(ファンクを偽るな)〉 と歌われていますが、ご自身がファンクを偽ってしまっているのではと不安になったことはありますか?
ブーツィー:あの曲を作る前から、自分にこう誓ってたんだ。「もしファンクを偽らなきゃいけない状況になったら、そこで身を引こう」って。俺は絶対にファンクを偽ることなんてできない。だからツアーを降りるかどうか考えたとき、まず浮かんだのが「もう、これ以上あの重い衣装着て、毎日ベース抱えてステージに立つのは無理だな」ってことだった。
2006年から2017年くらいにかけて、だんだん「ああ、もうこのスタイルは続けられないな」って思うようになってきた。無理してやったら、それはもう”フェイク”になる。俺にはできないよ。
だから、別のやり方を見つけるしかなかった。それが『Album of the Year』を作ったことにもつながっている。今は(ライブ活動より)制作に費やす時間のほうが多くなったけど、それがすごく楽しいし、何より、無理してファンクを偽らなくていいのがうれしい。世の中には平気で偽っちゃう人も多いけど、俺にはそれはできない。
ジョージ・クリントンとの思い出、二人が友情を取り戻すまで
―あなたとジョージ・クリントンは、70年代にLSDをよく使っていたことで有名でしたが、なぜやめたのですか?
ブーツィー:最後にLSDをやったのは1981年だった。そのとき自分に、「もし一度でもバッドトリップしたら、もう二度とやらない」って決めてたんだ。それまでは毎回すごく良くて、前よりさらに気持ちよかったんだけど、最後の一回が最悪だった。何が起きたのか、自分でも覚えてないくらいで、あとから人に「お前、あの時こんなだったぞ」って教えてもらったくらい。
よくやってたのが、LSDをキメて車でドライブするっていうやつでさ。道路の白線が車の中に入ってくるように見えたのを、今でも覚えてるよ。
―これまでで一番贅沢をした買い物は何ですか?
ブーツィー:たぶんバイクを7台買ったことだろうな。全部違う種類で、スタイルもいろいろ。トレイルバイクとか、ブーツサイクルっていうのもあった。音楽以外で俺が一番ハマってたのはバイクだったんだ。ギグに行くときもブーツサイクルに乗って行ってた。1976年のアルバム『Stretchin Out』のジャケットに写ってるやつのことね。飾りじゃなくて、本物のバイクだった。LAでもよく乗り回してたよ。黒のレザーにスタッズとラインストーンがついたスーツ着てさ。あれが俺にとっての自由だった。風を感じて、髪がなびいて、ノーヘルで走る。後ろに女の子が2~3人乗ってたりしてさ。最高だったよ。完全にラリってたけど(笑)。ステージに立ってるとき以外なら、あの時間が一番楽しかった。
―1983年にバイク事故を起こしてから乗るのをやめたそうですが、その出来事はあなたの人生をどう変えましたか?
ブーツィー:医者には「もう右腕は使えない」って言われたんだよ。「もう二度とベースは弾けないだろう」って言われて、俺は「そんなの絶対イヤだ」って思った。そしたら医者が「必要なのはリハビリ、リハビリ、そしてリハビリだ」って言ってきてさ。
正直めちゃくちゃ怖かったよ。だって俺にできることって、音楽をやることだけだったから。ベースを弾いて、自分の音楽に歌詞を書いて――それがすべてだった。他のことは何をやってもダメだった。右腕がまた使えるようになったって実感するまでに、1年くらいかかったよ。
事故の原因はコカインだった。LSDから切り替えて、コークにハマっちゃってた。テンション上がりっぱなしになるからね。ジョージもめちゃくちゃ好きだったよ。奴は「コカイン番長」って呼ばれてたくらいだから。
マイアミでヨットを出して釣りに行ってさ、ジョージはコカインを丸ごと1オンス持ってきて、俺は持っていったギターを弾いて、ジョージは口ずさみながら一緒に釣りしてた。釣り竿は水の中に入ってて、「お、釣れたぞ!」って声をかけ合ってさ。ほんとに、あの頃は最高に楽しかったよ。
―裏庭にマザーシップを置いているそうですが、それはなぜですか?
ブーツィー:2018年に手に入れたんだよ。ステージショー用に欲しかったからさ。ある時、大きな野外会場で湖がある場所でのギグがあってね。俺は宇宙船から降りて、湖のほうまで歩いていったんだけど、水の下にランプ(スロープ)が仕込んであって、まるで水の上を歩いてるように見えるんだよ。観客は大盛り上がりだった。
それで、今はそのマザーシップを裏庭に置いてある。これからMVの小道具として使う予定だよ、たぶんね。
―1970年代から80年代初頭にかけて、Pファンクでジョージ・クリントンと長く活動されていましたが、最近また彼とコラボレーションされていますね。その友情を修復する秘訣は何だったのでしょうか?
ブーツィー:ビジネスのせいで、俺たちは一度バラバラになっちゃったんだよね。俺も彼がどうしてるか、わからなくなってた。でも今は、いい感じにまた距離が縮まってきてる。
きっかけはね、カマラ・ハリスがテレビで「ジョージ・クリントンの人形を見つけたの。それに、ブーツィー・コリンズが大好き!」って言ってるのを見たときなんだ。なぜかわからないけど、それがグッときてね。「そうだよな、彼はまだ友達だ。何があったとしても、自分から歩み寄るべきだ」って思えた。
それで電話して「一緒に曲を作ろうぜ」って言ったんだ。そしたら、ジョージもすぐに「やろうやろう!」って乗ってきた。これからも続けていくつもりだよ。だってファンクって、何が起こるかわからないからさ。ファンクに関わってると、次にどんなことが起こるかは、ほんとに読めないんだ。
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