2018年12月24日(月)ROCK CAFE LOFT is your room 【講師】牧村憲一 【ゲスト】黒田義之(元『DOLL』編集部)
#2【後半】『ラフ・トレード、そして日本のパンク・ロック、ア...の画像はこちら >>
 「渋谷系」という言葉に、四半世紀追っかけられてきました。一言で言えば、様々な解釈がつきまとうかなり面倒なものでした。
しかしそこに「ラフ・トレード」「英国音楽」「パンク」を掛け合わせると、ある断面が見えてきます。70年代から、音楽界を並走してきた黒ちゃんを迎えてのパンク談義。その後編です。(文責・牧村憲一)

パンクとプログレは方法論的に理解しやすかった

牧村:当時、パブ・ロックやプログレと、パンクやニューウェイヴは、どう関わり合ったのでしょうか? 黒田:パンクはそれまでのコマーシャル的な音楽を否定しましたが、音楽自体を否定したわけじゃないんです。ピストルズのような正統派ロンドン・パンクの流れがありつつ、パブ・ロックの流れでパンクと融合したバンドもいます。パブ・ロック流れの人は音楽的にもちゃんとしているから、演奏も上手いんですよ。その代表がスティッフにいたエルヴィス・コステロですね。
コステロの初来日は、今日会場にいらしている麻田浩さんのトムス・キャビンが招聘したんですが、麻田さんにパンク/ニューウェイヴ系を呼びたいと相談されて、一緒にタイアップして『ZOO』が主導で初来日のプログラムを作ったんです。 牧村:今日は徳間ジャパン時代のラフ・トレードの資料を、友人の沢田さんから大量にお借りしています。そのなかの1枚なんですが、スリッツとポップ・グループの両A面のスプリット・シングルです。この盤のスリッツの曲を聴いてみましょう。 ──ザ・スリッツ「In The Beginning There Was Rhythm」 黒田:ラフ・トレードのなかにはYレコードというスリッツとポップ・グループのレーベルがあって、いま聴いてもらったのはそのなかの1枚です。聴いてもらってわかるように、かなり実験的な音楽をやっています。
スティッフがパブ・ロックなら、ラフ・トレードはプログレ絡みの人が意外と多いんです。僕もパンクを知る以前はプログレ、特にジャーマン・プログレをよく聴いていたので、パンクとプログレは方法論的に非常に理解がしやすかった。いま聴いてもらったスリッツにもそういう要素があるし、ポップ・グループはレゲエをかなり大胆に採り入れた最高のバンドだったんじゃないかと思います。イギリスはレゲエのシーンがロックと同時進行でありました。スリッツのメンバーにアリ・アップというボーカリストがいて、そのお母さんがのちにジョン・ライドンの奥さんになったんですよ。アリは残念ながら8年前(2010年)に癌で亡くなってしまったんですが、亡くなる前日にアリとジョン・ライドンが病院でデュエットをしたという話もあります。
よくよく考えてみれば、PIL(パブリック・イメージ・リミテッド)とスリッツには音楽的な接点があるような気がしますけどね。ラフ・トレードはかなり特色のあるレーベルなんですが、レーベルでディストリビューションを兼ねていたのは、ラフ・トレード含めて限られていたんです。ラフトレードはのちの牧村さんの仕事にもつながる、ネオアコ系のバンドを数多く輩出しています。アズテック・カメラやギャラクシー500といったバンドですね。これからかけるのはメインどころではないのですが、スクリッティ・ポリッティというエレクトロ・ポップのバンドです。 ──スクリッティ・ポリッティ「Sweetest Girl」

アートワークにも重きを置いたラフ・トレードのスタンス

黒田:当時、インディー・レーベルが数多くあったなかで、ラフ・トレードはとてもアーティスティックなレーベルだったんです。アーティストのチョイス然り、アルバムのアートワーク然り。
レコードのラベルにしても、他のレーベルはただロゴを載せるだけなのに、ラフ・トレードはアーティストによってデザインが全部違うんです。 牧村:ラフ・トレードのスタンスからは大きな影響をもらいました。レーベルが一番ではなく、アーティストが一番なんだというスタンスです。まずアーティストありきという姿勢がありましたね。
#2【後半】『ラフ・トレード、そして日本のパンク・ロック、アフター・パンク』
黒田:最初に話した通り、僕は音楽よりもデザイン、アートのほうに関心があったので、ラフ・トレードのスタンスには余計に共鳴を覚えます。 牧村:当時はレコードの真ん中の穴を自分で空けなくちゃいけなかったみたいです。
日本盤の音の良さ、質の良さがイギリスでも評判で、日本編集盤は人気だったそうです。素晴らしいアーティスティックなレーベルがアートワークでも秀逸なことをやっていて、それに感銘を受けた日本のレコード会社が編集盤を独自に作り、その編集盤が向こうで評価される。理想的な循環ですね。今やそのアートワークが二番手になってしまって、ネットで音を聴く時に一番欠落しているのはその部分だと思うんです。 黒田:同感です。僕もアナログで育った世代だし、いわゆるジャケ買いもよくしていましたから。
──ウィークエンド「The End Of The Affair」

ニューミュージック路線だったロフトがパンクを受け入れた理由

牧村:前半のパンクと打って変わって、ボサノバ調の美メロを聴いていただきました。こうした多種多様な音楽がラフ・トレードの特色で、他のインディー・レーベルにはない要素だったんです。それまでニューミュージック勢が出演していたロフトがなぜパンクを受け入れたのか、ここは当事者である平野悠さんに聞いてみましょう。 平野:こんにちは、平野です。僕は新宿にロフトを作るまではずっと山下達郎さんや矢野顕子さんといったニューミュージック勢に依拠してきました。それがある日突然、彼ら彼女たちがみんなメジャーへ行ってしまうんです。そうなると誰もロフトに出なくなる。それでどうしようもなくなってパンク・バンドに出演させるわけです。僕だって最初は苦手でしたよ。ブタの頭や臓物を客席に投げつけたり、ゲロを撒き散らしたりするバンドなんて(笑)。だけどこっちは死活問題ですからね。そんな頃にちょうど写真家の地引雄一と建築家の清水寛という東京ロッカーズの周辺にいた二人に話を持ちかけたんです。「どうだろう、この8月の夏休みにあんたらで1週間ほどパンク系のお祭りを仕掛けてみないか?」って。8月の夏休みなんて東京に人はいないし、その時期のロフトはいつも赤字だったから、集客なんてどうでも良かったわけです。それでやってもらったのが1979年8月の『DRIVE TO 80's』でした。東京ロッカーズ系のパンクやニューウェイヴ、テクノポップに至るまで気鋭のバンドが全国から集まったんだけど、これが当時のロフトの動員記録を塗り替えるほどの大入りでね。僕はその辺りからパンクの面白さに気づいて、その後、スターリンやじゃがたらのライブを観て、とにかくその凄まじいパワーにぶっ飛んだ。これが本物のロックだ、ニューミュージックなんてもう時代遅れだと思いましたね。それ以降、臓物を投げつけようが局部を出そうが好き勝手にやってもらって構わないということにしました(笑)。そこからロフトはパンクにシフト・チェンジしていくわけです。他のライブハウスはみんな怖がってパンクに手を出さなかったけど、ロフトは違った。それはひとつには、僕がロフトなんて別に潰れたって構わない、どうせいつかは潰れるんだからと考えていたのもあったと思います。その後はARB、アナーキー、ルースターズといった面々が台頭してきて、ヘヴィメタみたいな勢力が関西から出てきて、80年代の初めは面白いバンドがたくさんいてめちゃくちゃ面白かったですよ。その一連の流れを当時の牧さんはどう見ていたのかな? と思うけど。 牧村:面白いなと思っていましたよ。近寄りたいとは思わなかったけど(笑)。悠さん、現場ならではの非常に生々しい話をどうもありがとうございました。 1976年にニューヨークで生まれたパンクが日本に伝わって発展していく一方、その真裏で少数派だけれども、ラフ・トレードのスタンスやラフ・トレードのアーティストに共鳴していた人たちがいたんです。忘れ難いZINEは『英国音楽』です。『英国音楽』というZINEを知ったことで、自分が興味を持たずに飛ばしてきた時代の音楽を勉強しようと思ったんです。それとペニー・アーケードというグループです。当時のパンクの裏側で、スピリチュアルな意味でのパンクをやっていたグループだったと言えます。僕が90年代に携わった音楽は、こういう方たちの活動がベースとなりました。そのペニー・アーケードの曲を聴いてみましょう。 ──ペニー・アーケード「T.V. Personalities」

最初は渋谷系なんて言葉は一切なかった

#2【後半】『ラフ・トレード、そして日本のパンク・ロック、アフター・パンク』
牧村:80年代の後半は『イカ天』に出て『ホコ天』にいる人たちだけがバンド活動をやっていると思われる時代になってしまったんですが、こうしたペニー・アーケードのように洋楽の影響下にあったバンドも地道に活動していたんです。言わばこのペニー・アーケードが活動をしていたことでフォロワーを生みやすくなったんですね。黒ちゃんは80年代の中頃から後半にかけてどんな仕事をしていたんですか。 黒田:その頃は森脇美貴夫とケンカ別れして『DOLL』を離れて、新宿のUKエジソンというレコード屋に入りました。音楽の原稿を書くのも締切に追われるのももうイヤだったし、レコードの制作をやろうと思ったんです。それでUKエジソンという会社でプロダクション兼レーベルをやり始めたんですね。 牧村:どういうアーティストを手掛けていたんですか。 黒田:ガスタンクやケンヂ&ザ・トリップスといったバンドがメインでした。彼らはのちにメジャーへ進出することになるんですけど。あと、ガスタンクのタツというギタリストがのちにジャクスン・ジョーカーというメタル・バンドを結成して、それがジュディ・アンド・マリーに発展していったんです。のちにジュディマリのミニ・アルバムを1枚作って、それは爆発的に売れました。 牧村:なるほど。僕はノン・スタンダードという細野晴臣さんが主宰するレーベル活動の終了後、一度やめたのですが、戻ってきた時にバッファロー・ドーターというバンド、それとペニー・アーケードに影響を受けたと公言していたロリポップ・ソニックというバンドを知りました。 黒田:それがのちに渋谷系と呼ばれる人たちですか? 牧村:いや、最初は渋谷系なんて言葉は一切なかったです。当時の僕は、前の時代に影響を受けて引き継いだような音楽ではなく、新しく始まる音楽に携わりたかったんです。 ──ロリポップ・ソニック「Hello」

スピリチュアルな部分にあるパンクの残した精神性

黒田:ちょっと懐かしくもあり、新しくもありといった音楽ですね。ネオアコの影響が色濃くて。 牧村:そうですね。僕はこのテープを1989年の1月に初めて聴いたんですが、黒ちゃんと同じことを感じました。ロリポップ・ソニックの自主制作カセットは1988年に制作されたもので、当時500円で売れられていました。 黒田:昔はみんなこういうカセットを作っていましたね。 牧村:カセットは1本からコピーできますからね。アナログ盤にせよCDにせよ、マスターを作るのはお金がかかって大変なんですよ。 黒田:確かに、日本のインディー・バンドが最初に作るのはカセットが多かったですね。 牧村:僕は今、そこに戻りたいんですよ。「これがパンク?」と思うかもしれない取っ付きやすさがありながら、その裏側にあるスピリチュアルな部分にパンクの残した精神を引き継いだ若い世代が80年代の終わりから90年代の初頭にかけて出てきたんですね。 黒田:ラフ・トレードもリリースする音楽はもろにパンクという感じじゃなかったし、いろんなことをやってはいたけど、レーベルのスタンスはあくまでもパンクでしたよね。パンクとは見た目とか形のことじゃなく、自分の生き方とかスピリットを指すと思うんです。だから音楽的にどうこうは関係ないし、その人のやる音楽や方法論に自分が共有できるものがあれば、それがパンクだったりする。最初はもちろんファッションとして受け入れられたものだけど、それを認めつつもそれだけじゃないんだよ、と言いたいですね。それくらいパンクの定義は昔と比べて広いもので、明確な答えは出ないと思うんです。 牧村:冒頭で申し上げた通り、今回のテーマは2時間程度で語れることではないので、いつかまた改めて深く掘り下げた話をしたいと思います。今日はここまでにしますが、最後に1曲聴きましょう。先ほど聴いていただいたペニー・アーケードの佐鳥葉子さんがこの『クリア・カット』を持ってきてくださったので、客席にいらっしゃる佐鳥さんにどの曲をかけるか決めていただきましょう。
#2【後半】『ラフ・トレード、そして日本のパンク・ロック、アフター・パンク』
佐鳥:じゃあ、ザ・ジストというマーブル・ジャイアンツのスチュワート・モクサムがやっていたバンドの曲をお願いします。A面の4曲目です。 牧村:いいですね。では最後に、ラフ・トレードの日本編集盤『クリア・カット』からザ・ジストの「This Is Love」を聴いてください。 ──ザ・ジスト「This is Love」 *文中敬称を略させていただきました。