はい、こんにちわんこそば、と。
こないだ5月の中旬に『風とロック』の公開ラジオ収録で広島県呉市に行ったのですよ。
なんで私がその呉での収録にゲストで呼ばれたかと申しますと、広島県出身だからかと思われます。さらに呉は父方の祖父母宅があるということで、小さい頃からよく遊びに行ってました(呉といっても音戸大橋を渡って行く倉橋島というとこですが)。
というわけで、呉にはすごく思い入れがあるんです。今年2月に武道館終わってオフもらってまず行ったのが呉のじいさんばあさんちでしたな。んでそん時にいろいろ話を聞いたんです。自分ちの成り立ちの話やら、太平洋戦争の頃の話まで。
呉という所は入り組んだ瀬戸内海の街で、明治時代から日本海軍の拠点として、そして造船の拠点として発展してきました。向かいの江田島には海軍の士官を養成する海軍兵学校もあり、日本海軍の最重要拠点とも言える軍港です。さまざまな軍艦が造られましたが、一番有名なのは戦艦大和ですね。
そんな明治時代から発展した呉ですが、太平洋戦争も後半になってくると、当然侵攻してきたアメリカからの最重要攻撃目標になりますね。大規模な空襲が昭和20年(1945年)に複数行なわれます。
そして7月後半にも複数回にわたって大空襲を再度受けます。ほぼ燃料もなく、3月の空襲で被害を受けている艦艇多数。どうにか目立たないように陸地や島々に艦を寄せて迷彩を施し、艦橋に網を張り木々を散らしたりしてカモフラージュしてなんとか浮き砲台として抵抗しますが、全然アメリカの攻撃機にバレてしまいます。飛ばす飛行機もない空母はがんがん爆弾を食らって沈みます(と言っても軍港は艦が完全に沈みきるほど水深が深くないので着底という状態になります。深度が浅いので魚雷攻撃ではなく爆弾なんですな)。
このとき呉に残ってる戦艦は、榛名、伊勢、日向の3隻のみで(日本海軍で基本的に軍艦は空母、戦艦、巡洋艦に分類されて駆逐艦や潜水艦等は艦艇に含まれる)、戦艦だけあってサイズがデカい。当然狙われます。て言うか動かない良い目標です。
戦艦日向(1946年5月頃)
日向も7月24日の空襲で艦長以下204名が戦死、26日に大破着底。榛名は3月、6月の空襲の時点で多数の爆弾を受けてますが、7月の空襲でも激しく対空戦闘を仕掛けます。が、多数の爆弾を受けて大破着底。余談ですが、この対空戦闘で榛名は2機のB24を撃墜します。
戦艦伊勢(主砲が空を向いている)
戦艦3隻と多数の艦艇は呉や倉橋島、江田島付近に着底した状態で終戦。
ここでじいさんばあさんに聞いた話に繋がってきます。当時、10代後半だったじいさんばあさん。当時のことを覚えてるんですね。「伊勢は音戸の渡子〈とのこ〉のとこにずっとほったらかしでの~」「原爆のキノコ雲は倉橋からも、はっきり見えたで~」とか当時の話をいろいろ聞かせてくれました。
終戦後も着底した艦艇はどうしようもなくしばらくほったらかしだったようです。この放置された艦艇たちの写真や映像はけっこう残ってるので皆さん見てみてください。なんとも言えん気持ちになります。巨大な鉄クズに成り果てた艦の背後に見える美しい瀬戸内海の島々や穏やかな海。
戦争が終わって1年後の1946年の春が過ぎたあたりから徐々に解体されて、艦艇たちの鉄は溶かされ、戦後復興の一部になったようです。
自分にとっての原風景、呉、倉橋島。今でもたまに帰ると「ここに戦艦や空母、巡洋艦たちがほったらかしで波に洗われてたのか」と想像してしまいます。
いろんな気持ちになれるし、綺麗でなんかロマンチック、でノスタルジーな街、呉に皆さんぜひ行ってみてください!
戦艦榛名
挿絵:西のぼる 協力:新潮社