中国の行政区画では「市」の下部に「県」があるのに対し、日本は「県」が「市」や町村を統括しており、逆となっている。中国メディアの百家号はこのほど、「中国では市が県より大きいのに、なぜ日本では県が市より大きいのか」と問いかける記事を掲載した。
記事はまず、中国と日本の行政区分の名称に関する歴史を振り返った。日本はこれまで、中国の影響を受けた行政区分の名称を採用しており、江戸時代には全国を276の「藩」に分けたが、明治維新後に「廃藩置県」を実行し、「県」という行政単位ができたと紹介した。
そのうえで、日本は大和政権時代に「県」を使用したことがあるものの、その後は廃藩置県までの約1200年の間に、「県」という行政単位を使用していなかったと指摘した。古代日本は中国と密接な交流を重ねており、中国の行政区分では昔から「県」は「省」の下であることを知っていたはずだが、日本は明治時代にあえて「県」を採用したと伝えている。
この理由について記事は、「中国文化が日本に与える影響は、唐の時代以降は徐々に小さくなり、日本は中国から学ぼうという意欲がなくなってしまったからではないか」と推察した。それで、明治政府は行政部門にかつて唐から導入しすでに日本の伝統となっていた「省」を用い、地方の行政区分には「県」を採用したのだろうとしている。
また「市」については、「県」とは逆に中国が日本から導入した名称だと紹介した。日本では明治時代に人口の多い所を「市」と呼ぶようになった。中国にはこれまで「市」という行政区分はなかったが、明治維新後は日本の方が中国より進んだ制度となったので、中華民国時代に中国の伝統的な行政区分名に代わって、「新時代の息吹が感じられる」日本の「市」を採用したのだという。そして、1949年に中華人民共和国の誕生と共に、現在の「省、市、県」という区分が正式に確立したと伝えた。
こうしてみると、日本と中国の行政区分は互いに影響し合って現在の名称になっていると言えるようだ。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)